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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

永遠のゼロ・映画を見終えて

2013年12月31日 | 太平洋戦争

 12月中旬に次の記事を書いた。 ★零戦の搭乗員宮部久蔵は終戦間際に特攻志願をして26歳で亡くなった。家族思いの宮部が何故特攻志願をしたのかを孫・健太郎が探るという百田直樹の会心作・永遠のゼロは400万部を突破したそうな。1945年菊水作戦により特攻が開始された4月11日午後二時四十三分鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、ミズーリに対して爆装零戦特攻機1機が低空飛行で右舷甲板に突入した。突入機の右翼は第3副砲塔上にぶつかり、燃料に引火した。艦は表面に損傷を受けたが、速やかに鎮火した。この攻撃の跡は現在もハワイ真珠湾内に記念艦として保存されているミズーリ船体に残っている。突入機の飛行士の遺体の一部が40mm機銃座から回収され、ウィリアム・キャラハン艦長はこの操縦士を、名誉を持って自らの任務を全うしたとして海軍式の水葬で弔うことを決定した。乗組員からは反対もあったが、艦長の命により翌日12日礼砲5発、全員敬礼をして水葬が執り行われた。永遠のゼロで描かれた宮部久蔵はこのときの操縦士ではなかったか、と私は思っている。この操縦士の官姓名は長らく不詳であったが、ミズーリ記念館の調査の結果、鹿屋航空基地を出撃した第五建武隊の石野節雄二等兵曹の機であったと判明した(同じく第五建武隊の石井兼吉二等兵曹の可能性もある)。1945年9月2日、このような逸話をもつミズーリ戦艦で降伏調印式が行われた。戦争終結の調印式に戦艦ミズーリを選ぶところも米軍らしい。アメリカは敵兵をRespectしたり、敵兵情報を記録保管する能力があるが、大本営にはそのような能力はなく、見方を見殺しにし、記録保管どころか抹消しかしない。従って日本にはほとんど記録は残っていないから太平洋戦争のことを語るにはアメリカから資料を借りるしかない。宮部久蔵との回顧録を語ったのは、小山上等兵・元海軍飛行兵曹、影浦介山・ラバウル 元海軍飛行兵曹長 井崎源次郎氏である。ラバウル時代の3人の戦友はもちろん架空の名前であるが、主人公・宮部久蔵は撃墜王・西澤廣義をモデルにした感はある。西澤広義の撃墜数は150機前後などいろいろな説があるが、アメリカではありえない。つまり記録が鮮明に残っているからである。日本においては1943年以降撃墜数を記録として残さなくなったため、ほんとうのところは不明である。★

 宮部久蔵とは誰なのかについて少し手を加えてみる。上記ではミズーリに突っ込んだ英雄・石野節雄二等兵曹ではないかとしたが、これは死に様のみによる推測であり、宮部久蔵の人物像から云うと西澤廣義となる。その理由は1.類まれなる零戦の操縦技術 2.寡黙でありながら実は部下思い 3.特攻隊の成果を見届ける敷島隊直掩機に搭乗した である。しかし西澤廣義は特攻で死んだわけではない。新しい飛行機受領のためマバラカット基地へ輸送機で移動の途中で、ミンドロ島上空にてグラマンF6Fの攻撃を受けて撃墜されて死亡するという無念の死を遂げた。次に考えられる候補は岩本徹三。彼も撃墜王として名高いが、空中戦による撃墜ではなく、空中戦の時には上空で待機をし、敵機が帰還しようとするところを銃撃するという方法を多様したことで有名である。ある意味で正々堂々と戦ったわけではないことから西澤廣義とは明確に区別される。宮部久蔵はほとんど敵機の銃撃を受けなかったことから、上空を偵察するばかりの卑怯者呼ばわりされているところは、岩本徹三によく似ている。ただし岩本徹三は戦後38歳にして病死した。以上のことと、百田直樹氏の小説の書き方、つまり多くのシナリオ事象を書きとめておいて、最後に辻褄の合うように編集してひとつの大作に仕上げるという手法を用いると本人が言っていた。これらを総合すると宮部久蔵とは、西澤広義が岩本徹三の戦術を使い、最後は上官として石野節雄のごとく敵艦に突っ込んだ人物ということになる。つまり永遠のゼロ主役は大戦での英雄のいいとこどりをした人物像となる。まま、このような理屈はともかく映画では不覚にも涙腺が緩みっぱなしの小職であった。

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