平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

百済大寺と八角墳

2010年11月04日 | 奈良・飛鳥時代
 ここのところ平城京遷都1300年ということで、大極殿、玉座について触れてきたが、第二次大極殿内に復元された高御座は八角形である。 また、7世紀中ごろから8世紀はじめにかけて造られた天皇陵の墳形も八角形で、八角墳と云われる。 舒明天皇陵、斉明天皇陵、天智陵、文武陵など共通して八角墳が採用されているという。 これは当時の天皇陵にだけ許された墳形で、さきがけとなった舒明天皇陵は崩御の2年後に完成しているが、この規模の古墳が2年で完成することは考えにくく、天皇の生前から造営は開始されていたとなると、舒明天皇自身が八角墳を採用したことになる。 長きに渡って安定した推古、馬子、厩戸皇子の体制が終焉したとき、舒明天皇は新たな形で天皇の権威を確立しようと考えたのかもしれない。 舒明天皇の皇子である中大兄皇子によって進められた大化の改新も新しい権威の確立という流れのなかで生まれた。 蘇我氏と天皇による両頭体制を企てた入鹿に対して、中大兄皇子は天皇権力を絶大なものにしようとしたところに大きな違いがある。 従って騙し討ちともいえる方法で入鹿を殺して蘇我氏を滅ぼしたのである。 

 ところで、この改革は中大兄皇子にとってどうだったのか。 大化以前の仏教界は蘇我氏の強い影響下にあった。 飛鳥寺は最高の格式を持った寺院であり、その建立を発願した蘇我氏は仏教界最大の庇護者である。 蘇我氏の息のかかっていない僧侶などいない。 その蘇我氏を滅ぼしたのであるから仏教界とのつながりを構築していくことは最重要課題であった。  そこで十人の高僧を選んで十師とし、仏教界の指導者に任命し、未完成の寺院造営の援助を表明した。 飛鳥寺の本尊が完成するまでを回顧し、稲目・馬子が果たした功績をたたえるという詔は飛鳥寺にて発せられた。 詔には蘇我氏に対する批判はなにもなく、蘇我氏を逆賊として誅殺した事実とはまったく相反するものでる。 すると新政権は自らの正当性を仏教ではなく、どこにおいたのか。 新しく即位した孝徳天皇、皇極太上天皇、中大兄皇子や群臣らは、飛鳥寺の西の聖なる広場で天命思想に基づく誓約を交わしたという。 つまり、この政変は天の意思によるものであり、将来新政権に背くものは蘇我氏同様に天罰がくだるというものである。 これには政権の首脳となった国学士・僧旻の影響がうかがえる。 

                          八角墳は以下の六ヶ所の陵・古墳で採用されたことが知られている

              第34代 舒明天皇陵 641没                                 第37代斉明天皇陵 661没            

 

             第38代天智天皇陵 671没                         第40代・41代天武・持統天皇陵 703没     

  

                           第42代文武天皇陵 707没                          束明神古墳(草壁皇子墓) 689没

  
コメント    この記事についてブログを書く
« 相川真緒さん | トップ | 平城京・壬生門 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

奈良・飛鳥時代」カテゴリの最新記事