昭子内親王墓
昭子内親王(第三皇女)の父・後水尾天皇と徳川秀忠の時期に、徳川幕府の朝廷支配が完成したというのが通説である。 徳川家康と秀忠は、形式上は朝廷を補佐する形で、天下を支配したが、三代家光の代になると、ほとんど江戸から幕府の命令として天下に号令している。 徳川幕府の支配体制は、家康、秀忠、家光の三代で完成を見るが、朝廷との関係はとくに、秀忠時代の後半に完成したと見られる。 徳川将軍秀忠は、娘「和子」をこの天皇に嫁がせ幕府による皇室管理の強化を図った。 後陽成天皇の第3子にあたる後水尾天皇は、生涯幕府に対する抵抗の姿勢を崩さず、和子の産んだ興子内親王(おきこ)に独断で皇位をゆずり、自らは明正、後光明、後西、霊元と51年に渡る院政を引き、皇室に大きな影響力を及ぼした。 学問を好み、55才で出家してのちも30年を生き天皇としては異例の長寿を全うした。
後水尾天皇は、秀忠の娘和子を皇后に迎えるまでにすでに配偶者がいたが、秀忠は強引に娘を帝に押しつける。 父の後水尾天皇は執拗な徳川幕府の圧迫をそらすため、幕府には告げず独断で徳川の血を引く7歳の興子に譲位した。 ここに
平安以来絶えていた女帝が復活するが、帝は、後水尾天皇の第3子紹仁(つぐひと:後光明天皇)に皇位を譲るまで、14年間天皇の地位にあった。 後水尾上皇は退位して修学院離宮を建立し、書や歌の道に没頭する。母の東福門院(かずこ)は年間20万石に及ぶ化粧代を消費し、「御所染め」をはじめ着物の意匠開発に腐心した。 強烈な個性を持つ両親と、それを取り巻く多くの謀略と確執のうずまく中で、政略の道具として翻弄された続けた娘、興子(明正天皇)は、配偶者もなく子供もなく、74歳で寂しい生涯を閉じた。
後光明天皇は10才年上の異母姉明正天皇から11才で譲位を受ける。 父譲りの「幕府嫌い」は徹底しており、事あるごとに幕府と衝突した。その為22才で崩御したのも幕府による毒殺ではないかとの見方がある。今で言う「硬派」で、「源氏物語」や「伊勢物語」などは「頽廃の文学」であるとして遠ざけた。 しかしながら後水尾天皇は、退位後84歳で崩御するまで、明正天皇、後光明天皇、後西天皇と自分の娘や息子の在位期間を生き抜き、大往生を遂げるのだが、息子である後光明天皇が、幕府と対立しようとしたとき、朝廷と幕府との融和を説き、決して幕府と対立しないように働きかけたとも言われている。
後西天皇は後水尾天皇の第6子で在位10年で弟の識仁(さとひと)親王に譲位した。この天皇の御代に天災・火災が続出し、それを理由に幕府は退位を迫った。
霊元天皇は聡明ゆえに、後水尾天皇にとくに可愛がられた。 深い教養を持ち文学管弦にも通じていたが、その聡明さゆえに幕府の監視は強化された。 当時の朝廷中枢では、朝廷運営について、天皇親政を理想とする霊元天皇と、天皇の意向を受けつつ関白ら臣下の者たちの合議体制によって行うのが基本という近衛基熈らの、二つの相反する考え方が存在していた。上皇となっても霊元帝と近衛基熈は、たびたび衝突し、対幕府についても、自己主張を強引に進める上皇に対し、近衛は幕府との対立を避けて朝廷の繁栄の道を模索していた。全体的には、近衛基熈・家熈父子優位の形で朝廷運営がなされたが、家熈が摂政を辞任し、基熈の娘婿である将軍家宣が死去すると、霊元上皇の意向を受けた朝幕関係が進められた。霊元天皇の在世中に高まった朝儀の再興・充実への機運は、桜町天皇の在世中までは引き継が れたが、桜町上皇の没後、天皇の早世が続くという皇統の危機を迎え、「朝廷復古」に向けて主導権を発揮する者が現れにくい状況となり、朝儀再興の実現は事実上頓挫した。
後水尾天皇皇女・昭子内親王墓は哲学の道の南端の南禅寺の近くにあります。 (撮影:クロウ)
103後土御門天皇
┗104後柏原天皇
┗105後奈良天皇
┗106正親町天皇
┗誠仁親王(陽光太上天皇)
107後陽成天皇┛ 櫛笥隆子(逢春門院)
┣聖興女王 ┣光子内親王
┣清子内親王 ┣良仁親王(111後西天皇)
┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680
┣尊英女王 ┃┃┣興子内親王(109明正天皇)
┣近衛信尋 ┃┃┣昭子内親王
┃ ┃┃┃ ┣近衛基熙(左大臣) ━┓
┃ ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃)┃
┃ ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣) ┃
┃ ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室) ┃
┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王 ┃
┣一条昭良 ┃┃徳川和子(東福門院) ┃
┣貞子内親王 ┃┣紹仁親王(110後光明天皇) ┃
┣庶愛親王 ┃┣守澄法親王 ┃
┣尊蓮女王 ┃園光子(壬生院) ┃幸子女王(承秋門院)
近衛前子(中和門院)┣常子内親王 ━┛┣秋子内親王
┣識仁親王(112霊元天皇) ┃ 讃岐(伊藤一中娘)
園国子(新広義門院)┣栄子 ┣朝仁親王(113東山天皇)┣典仁親王 ━━━┓
┃ 松木宗子(敬法門院)┣直仁親王 ┃
鷹司房子(新上西門院) ┣慶仁親王(114中御門天皇)┃
櫛笥賀子(新崇賢門院) ┃ ┃
┣昭仁親王━┓ ┃
近衛尚子 ┃ ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃
┃姉小路定子(開明門院) 近衛維子(盛化門院) ┃
┃ ┣遐仁親王(116桃園天皇) ┣欣子内親王(光格天皇中宮) ┃
┗昭仁親王(115桜町天皇) ┣英仁親王(118後桃園天皇) ┃
┣智子内親王(117後桜町天皇) 一条富子(恭礼門院) ┃
二条舎子(青綺門院) ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃大中臣祐智女 欣子内親王
┃ ┣美仁親王 ┣温仁親王 鷹司繁子(新皇嘉門院)
┗典仁親王 ┣悦仁親王 ┣安仁親王
┣兼仁親王(119光格天皇) ┣慈悲心院宮 九条夙子(英照皇太后)
大江磐代(蓮上院)┣恵仁親王(120仁孝天皇) ┣122明治天皇
勧修寺婧子┃ ┣恵仁親王(121孝明天皇)
┃正親町雅子(新待賢門院)
┣摩尼珠院宮
鷹司祺子(新朔平門院)
月輪陵・後月輪陵は25陵、5灰塚、9墓の合葬となっていて着色にて系図に示された御方が眠っています。