武田信玄 は1521年に清和源氏の名門である甲斐武田氏の17代目として甲府で生まれた。 武田氏の本拠・躑躅ヶ崎館ではなく 要害山城とも積翆寺とも云われている。 父は信虎、母は大井氏の娘である。 武田信玄が家督を継いだのは父より受け継がれたのではない。 信虎は信玄(晴信)を忌み嫌い、弟の信繁に家督を継がせたいと考えていたた。 信繁は武田家の当主になろうという野心はなく、(兄信玄の部下として忠誠を誓った副将で 戦国の名将真田幸村の本名は信繁。 ) 信玄は父を追放する。 武田家の家臣が当主として選んだのは子の信玄のほうであった。 信玄は元服して初陣で手柄を立てたのであるが、 父と共に攻め立てた城が落ちずに引き上げた後、信玄は殿軍を願い出た。 殿軍は退却の際に大将をかばって敵と戦い、逃げ延びる時間稼ぎを行うのが目的である。 しかし信玄はその目的とは反して、城に籠もった敵を攻め立てて呆気なく落としてしまった。(敵の大将・平賀源心を討ち取ったのは騎馬隊侍大将の馬場信春) 初陣で大勝利を収めた信玄に対して父・信虎は命令違反を咎め、評価しなかった。 これにより自分が当主になることを誓った信玄は父を追放したのである。 このとき信虎の重臣であった板垣信方、甘利虎泰の賛同を得ているから謀略の片鱗をこのときから見せている。 信玄の姉は今川義元に嫁いでいたため、父を今川家に保護してもらおうとし、今川義元はこれに応じたのである。 今川義元も信玄の器量に呼応したのは信玄の姉の賛同もあったと考えられる。 信玄は息子・義信の妻に今川義元の娘を迎え入れている関係でもある。 (これにより、今川、北条、武田の三国同盟が成立) 後に今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られ、後継者として氏真が当主となったが、氏真は戦国史上名高いバカ殿であった。 お互いの政略結婚により均衡を保っていた武田家と今川家の同盟均衡が破れたのはこのときである。 武田信玄は今川領攻めに出たのであるが、これに反対したのが今川の娘を妻にしていた義信である。 そして義信は父に対して反乱を企てた。 義信は捕らえられ東光寺に幽閉されると、後に自刃して果てたとされる。 このときに連座したのが嫡男・義信の傅役であった飯富虎昌である。虎昌は信虎の寵愛をうけたが、武田信玄が信虎を追放したときに板垣、甘利同様、虎昌も信玄を推した。 そして義信の傅役を務めることとなったが、謀反の罪に問われては飯富家も廃絶するしかなかった。 虎昌には弟・三郎兵衛がいて、謀反の企てを告発せよといい含めたことから、三郎兵衛だけは功が認められた。 後に武田信玄の四天王となる山県昌景がその人である。
最初飯富源四郎と名乗った山県昌景は信玄の近習として次々と戦功を挙げ騎馬隊を率いる侍大将に抜擢された。 この精鋭部隊で敵の中核を崩し、次いで足軽隊で包囲殲滅するのが武田軍の必勝法である。 兄・飯富虎昌の謀反を告発することで飯富家は断絶となったが、武田信玄は昌景に絶えていた山県家を継がせたのである。 1572年武田信玄が京への道を確保する際、織田の同盟軍である徳川家康軍を蹴散らしたが、このとき武田信玄側の中核にいたのが山県昌景率いる騎馬隊である。 家康はかろうじて浜松城へ逃げ帰ったが、このとき恐怖のあまり脱糞していたという。 家康はこれを契機に戦略を武田流に変え、軍学・甲州流の祖である小幡勘兵衛を召抱えた。 家康は本能寺の変後、甲斐国に進出して多くの武田遺臣を採用しており、徳川四天王の一人・井伊直政に 赤備え(鎧兜を赤で統一したスタイルで、自分をアピールする必要のあった戦国時代に始めて山県昌景が行った) を受け継がせたというから家康がいかに武田軍および昌景を尊敬していたかがわかる。 昌景と同じ騎馬隊侍大将に馬場信春がいる。 抜群の武勇と勘のよさを持ち、築城術は山本勘助に学び 最後に1575年長篠の戦で討死するまではかすり傷ひとつ負わなかったという。 長篠の戦での大将は武田信玄の後を継いだ勝頼(諏訪御料人の子)であったが重臣たちはその力を信じていない。 それに反発する勝頼と信春らの重臣との間にできた分裂を突いて、攻めてきた織田軍との戦いが長篠の戦である。 勝頼を諌めて退却させ、殿軍を務めた信春はここに倒れたのである。 馬場信春、山県昌景と並んで武田四天王の一人に内藤昌豊がいる。 父・工藤虎豊を先代の信虎に手打ちにされ放浪していたが、武田信玄の父追放によって呼び戻された昌豊は領地を与えられ 内藤家を継いで武田信玄に忠誠を誓った。 川中島の合戦で騎馬隊大将を務め北条氏康との三増峠の戦いでは補給部隊の大将を務めた。勝頼の時代になり長篠の戦で山県昌景に続いて 内藤昌豊も犬死したところでやっと勝頼は退却に従った。 最後の四天王は高坂昌信、といって他の3人と違って百姓生まれで春日源助といった。 父を早くに亡くした源助は遺産相続に負けてたが、そのときに武田信玄の眼に留まって近習となったのであるが、その理由は男色の相手としてである。 しかし武勇にも優れており、上杉謙信との防衛線である海津城の城大将(お目付け役に小幡虎盛といって甲州流軍学の祖・小幡勘兵衛景憲の祖父である )にしていたというから四天王なのである。 現在、武田信玄に関する武功は、「甲陽軍艦」に記載されていることからその詳細が知られているが、これを書いたのが実は高坂昌信であるから、現代への功績は昌信が一番であろう。
武田信玄が冷血(実は人は城、人垣、堀・・・と言っているように決して冷血ではないのであるが。) とされる理由に諏訪氏の滅亡がある。 甲斐国と接する諏訪郡の領主に諏訪頼重がいた。 頼重には武田信玄の妹・禰禰が嫁ぎ、虎王丸を産んでいた。武田信玄はこの諏訪を攻め、油断していた義兄・諏訪頼重はすぐに降伏に追い込まれ、和議が成立したのであるが武田信玄は頼重を切腹させたのである。 頼重がすぐに降伏に追い込まれたのには理由があり、諏訪家の分家である高遠頼継という男が諏訪家を裏切り、武田家の味方をしたのである。 本家に不満を持つ頼継を調略した結果の成果といえるが、このあたりに影響力を持つ諏訪大社については頼継に一切手をつけさせなかったことから、怒った頼継は挙兵して上原城を落とし、諏訪大社を奪い取った。 これに反応した武田信玄は諏訪家の遺児である虎王丸を担いで軍の総大将として頼継を討ち、諏訪大社を含む領地すべてを奪い取るのである。 虎王丸はいつの間にか歴史から消えたが、武田信玄の謀略である可能性は高い。 このとき、頼重の娘で絶世の美女といわれた諏訪御料人は武田信玄の側室になっていた。 諏訪家を継ぐ幼児・虎王丸を餌にされて側室にならざるをえなかった諏訪御料人が悲劇のヒロインになる所以である。 多くの家臣は御料人を側室にすることは反対であったが、軍師・山本勘助が一人異を唱え、諏訪家の血を残して諏訪の民を心服させることが必要と進言したというが、 結果、諏訪家は高遠家とともに滅ぼされている。 理由はもちろん武田信玄と諏訪御料人との間に男子が生まれたからである。名を勝頼といい諏訪家一族として家督を継いでいたが、後に武田家当主となる。 武田信玄次男は生まれつきの盲目で、三男は早世したからである。17歳で勝頼を産み、25歳でなくなった御料人は諏訪湖を望む小坂観音院に墓所があるという。
大井氏や小笠原氏などを破り、この頃連戦を誇った信玄は一気に信濃攻略を目指して葛尾城へ向かった。 ここは村上義清の本拠地であり上田原で一戦を交えて村上勢を蹴散らしたが、深追いをしすぎて村上勢の待ち伏せにあい打ち破られた。 このとき武田信玄が失ったのが板垣信方という若殿・晴信の頃からの重臣である。 板垣とともに信玄を支えた最長老の重臣に甘利虎泰がいる。 もちろん信虎の寵愛を受けて虎の一字を授かった名であるが、やはり上田原の戦いで村上軍に敗れてなくなった。 このとき信濃の豪族・小笠原氏などが村上軍の味方となったのが武田信玄にとっては痛手であった。 これらの敗戦によって信玄の戦略は大きくかわる。 その戦略に功を奏したのが真田幸隆である。 幸隆は武将・真田幸村の祖父にあたり、信濃国佐久郡の豪族海野氏の一族である。 武田信玄の父・信虎は信濃攻略に際して諏訪頼重に娘を娶らせ姻戚関係をつくり佐久へ侵攻し、海野氏、真田氏を没落させた。 真田幸隆は一族を滅ぼした武田信虎は仇であるが、信虎を追放した武田信玄は敵ではない。 山本勘助により武田家へ引き入れられ、謀略に長けた幸隆がさんざん武田信玄を苦しめた村上義清の配下・大須賀久兵衛を調略し、葛尾城に次ぐ一大拠点・砥石城を無血開城させたのである。 これにより徐々に追い詰められた村上義清は、葛尾城までも守ることができなくなり、上杉謙信の下に亡命することとなる。
さて、武田信玄亡き後嫡流で跡を継ぐものは誰もいなかったのは諏訪勝頼にとっては幸いであった。ところが織田信長との長篠の戦で多くの戦力を失った勝頼はほぼ武田家を滅亡させたといっていい。しかし信長は勝頼にとどめはさしていなかったため、国に帰った勝頼は再起を期すことができたのである。その最大の好機が1578年の御館の乱であった。 上杉謙信亡き後家督相続の遺言を残していなかった上杉家は、謙信の甥・景勝と北条氏政の弟・景虎が分裂し家督争いをし、御館の乱に発展したのである。 武田勝頼は断交していた北条家と同盟を結び、氏政の妹を妻とした。 最初の妻の信長の養女は信勝を産んだ後に死んでいた。 これで武田勝頼と上杉景虎は義兄弟となった。 妹を勝頼の嫁にだしていた北条氏政より、弟の景虎の援護を依頼してきたのである。 上杉は強大ではあるが分裂した今となっては勝頼が援護すれば、それで勝敗は決し、武田、上杉、北条の大同盟ができあがる。 はじめは景虎の援護をするつもりであったが、途中で心変わりし武田勝頼は上杉景勝側の援護を行ったのである。 これに激怒した北条氏政は信長、家康とともに武田家に総攻撃をかけて呆気なく倒したのである。 心変わりの原因は劣勢にたたされていた上杉景勝からの賄賂であったという。 金銀の宝庫であった越後で謙信は多大な金を春日山に残していた。 この資金を抑えた上杉景勝はこの金を使って勝頼を味方に引き入れた。 結果、優勢だった景虎は自刃に追い込まれ、弟を失った北条氏政が織田、徳川と連合を組んで襲ってきたのである。 そのとき勝頼は援護を上杉景勝に求めたが何の援護もなく、追い詰められた勝頼は北条夫人と嫡子・信勝とともに天目山で自害し、1582年武田本家は滅亡したのである。尚、天目山ふもとの景徳院には 勝頼と北条夫人、嫡子・信勝の墓がある。
甘利虎泰1498-1548 ⇔上田原 村上義清
板垣信方1489-1548(諏訪郡代)⇔上田原 村上義清
山県昌景1529-1575(長篠戦で戦士) ⇔信長軍
馬場信春1515-1575(長篠戦で戦士)
内藤昌豊1522-1575(長篠戦で戦士)
高坂昌信1527-1578(長篠戦で戦士)
武田信虎1494-1574
┣姉(今川義元室)
┣姉(穴山梅雪母)
┃┗穴山梅雪1541-1582勝頼を裏切り家康につく
┃ ┗勝千代1572-1587(武田家再興を目論む)
┃小笠原長時1514-1583 ⇔府中
┃村上義清1501-1573(葛尾城 ⇔北信)
┃高遠頼継-1552(諏訪氏分家)本家に対して挙兵(⇔伊那郡)
┃禰々1528-1543(信玄妹)
┃ ┣虎王丸-1542 高遠頼継討伐大将
┃諏訪頼重-1542(諏訪領主 ⇔信玄に攻められ)
┃ ┗娘1530-1555(諏訪御料人)
┃ ┃北条氏政妹
┃ ┃ ┣
┃ ┣武田勝頼1546-1582
┃ ┃ ┣信勝1567-1582
┃ ┃信長養女
┣武田信玄1521-1573
┃ ┣義信1538-1567(父に謀反自刃)
┃ ┃ ┣
┃ ┃┏今川義元1519-1560娘
┃ ┃┗今川氏真1538-1615
┃ ┣黄梅院1543-1569(北条氏政室)
┃ ┣海野信親1541-1582(龍宝)
┃ ┃ 真田氏-真田幸隆1513-1574⇔信虎・義清
┃ ┃ 海野氏- ┗昌幸
┃ ┣信之1543-1553 ┗幸村
┃ ┣見性院1545-1622(穴山梅雪室)
┃ ┣真理姫1550-1647(木曾義昌室 母:不明)真竜院
┃ ┣仁科盛信1557-1582(高遠城主)
┃ ┣菊姫1563-1604(上杉景勝室 母:油川夫人)
┃ ┣松姫1561-1616(織田信忠と婚約 母:油川夫人)信松尼
┃┏三条の方(三条公頼娘)1521-1570
┃┣細川晴元室
┃┗如春院(顕如室)
┃
┣武田信繁1525-1561(川中島4戦で戦死)
┃ ┣望月信頼1544-1561
┃ ┣武田信豊1549-1582(母:養周院日藤尼)
┃ ┣望月信永1551-1575
┃ ┗仁科盛信室
┃望月盛昌娘
┣武田信廉1532-1582(画才有)
┃ ┣信澄1560-1576
┃ ┗仁科盛信室
┣松尾信是-1571(母:松尾信賢娘)
┣河窪信実-1575
┣一条信龍1539-1582()
┃ ┗一条信就-1582
┣武田信友-1582(母:内藤氏)
┃
大井の方1497-1552大井氏(⇔本拠地:佐久郡)
豊臣秀吉
1582年6月2日、本能寺の変が起きたとき、秀吉は備中の高松城を総大将として攻撃中であった。 高松城は毛利輝元の家臣・清水宗治の城で周囲を沼で覆われた攻めにくい城であったが、秀吉は水攻めにより兵糧の補給を絶ち、落城させた。 秀吉は毛利の使僧・安国寺恵瓊を通じて毛利側と和平交渉に入り、織田信長には出陣を要請した。 これに呼応して織田信長は明智軍に出陣を要請した。 明智光秀にとっては軍を動かす絶好の口実となり本陣の丹波亀山城から出陣し斎藤利三らの重臣と共に丹波亀山城から京に入り本能寺の奇襲は成功する。 織田信長の嫡男・信忠はこのとき兄・信長を助けようと妙覚寺を出たが本能寺が焼け落ちたことを知らされ二条御所へ入った。 このとき誠仁親王親子を内裏に逃がし、明智光秀に囲まれると切腹した。 また、信忠に付き添っていた織田長益(有楽斎如庵)は信忠の嫡男である三法師を連れて二条御所から脱出している。
この反乱により織田信長が横死したことが毛利元就の耳に入れば、毛利側が強気になり秀吉の和平交渉は潰れてしまう。 光秀は乱後に毛利元就に知らせるべく使者を送ったが、秀吉側に捕まり毛利側よりも先に秀吉側に伝えられた。 これにより織田信長の死という弱点を毛利に知られること無く和平交渉は進められ、即座に退陣することができたのである。 毛利元就は織田信長が明智光秀とともに、秀吉に加勢すべく攻めてくるものと思い込んでいたから、吉川元春、小早川隆景を中心とした毛利は所領の半分を織田家に差し出す条件で講和に応じたのである。 毛利側が織田信長の死を知らされたのは和平の翌日で紀州雑賀衆の海路によるものと思われる。 秀吉は講和を結ぶと直ちに東へ引き返すべく行動した。 毛利家に知られること無く講和を結ぶことができたのは、軍師・黒田官兵衛の手柄であるが、織田信長の嫡男・信忠が光秀により自害させられたことも後になって秀吉に運をもたらす。 結局東方へ戻った秀吉を追わなかったのは知略に優れた小早川隆景の意見であった。
秀吉が播州の姫路城を出発し尼崎に到着した頃、織田家の重臣筆頭・柴田勝家は配下の前田利家らを上杉からの防衛として置き、京の情勢を伺い、徳川家康は三河に逃げ帰り、織田信孝は信行の遺児で明智光秀の娘を娶っていた津田信澄を討伐しようとしていた。 信澄討伐後は秀吉軍と山崎で合流し明智光秀討伐を果たすのである。 実は明智光秀には勝算があったのであるが、大和の筒井順慶と丹波の細川藤孝・忠興(妻は細川ガラシャ)親子は光秀に見方をしなかったために、明智軍はあっけなく壊滅状態となったのである。 これが6月13日の天王山の戦いとも呼ばれる山崎の合戦である。 光秀は夜陰にまぎれて近江の坂本城を目指す途中で、農民に竹で突かれて重症を負い、切腹した。
主君・織田信長の仇を討った秀吉は、これ以降天下統一を推し進めていくのであるが、織田信長・嫡男の信忠なき今は、嫡男の息子・三法師、三男の信孝が織田家の家督争いの渦中にはいる。 秀吉推す三法師が、柴田勝家推す信孝を抑えて家督を継ぐのであるが、これは織田家の重臣により開かれた清洲会議(6月27日)により決定されたのである。 順番からいっても嫡男の息子・三法師が家督を継ぐのは道理であるが、当時3歳であり、実質的には何ら判断ができない三法師を推したのは秀吉の戦略である。 誰もが予想しなかった筋目を通したのである。 清洲会議に出席した重臣は秀吉のほかには柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の三人である。 この中に秀吉、勝家とほぼ同格の滝川一益がはいっていなかったのは秀吉にとっては幸運であった。 関東方面軍司令官として武名が轟いていた滝川は鉄砲と謀略の才を買われて織田信長の家臣となった。 信長が都を目指して滝川は伊勢ルートの攻略を行った。 伊勢の大名である北畠家に信長の次男・信雄を養子にいれて功績を挙げていた。 この滝川は本能寺の変により領地を兵の大半を失う災難にあい、清洲会議には出席していなかった。 滝川一益が会議に出席していたら織田家を保つ最善の策である信孝後継案をもつ勝家に賛同していただろう。 丹羽長秀には賛同するように予め了承をとっていた。 また残る池田恒興は買収されていた。 池田恒興は信長の乳兄弟である。つまり池田恒興の実の母が 信長の乳母であるから、勝家は池田恒興の賛同を確信していたから驚いた。 秀吉の謀略により 信孝を排除することに成功した秀吉は、できの悪い次男・信雄も利用することになる。
清洲会議の後に信孝の薦めで柴田勝家は織田信長の妹・お市を妻に向かえ、越前に引き上げた。 三法師丸を確保し秀吉との勝負は先になると予想した勝家は雪国の越前に帰ったのである。勝家は織田家の北陸方面軍司令官であり上杉家の進入回避も任されていたから、その動向を見張る必要もあった。 しかしこれは失策である。 その後秀吉は信雄を説得して、柴田勝家の養子・勝豊を落とし、岐阜城の信孝を攻めて降伏に追い込むと、三法師を奪い取ったのである。 岐阜城攻略の障害になるのは長浜城で柴田勝家が清洲会議で奪い取った城である。 この長浜城には柴田勝豊という勝家の養子が城主としていたが、秀吉は勝豊を口説いて味方にしていたから、簡単に安土から岐阜城攻略ができたのである。 勝豊は一族の出身ではあるが、勝家と反りがあわなかった。 武勇誉れ高い甥の佐久間盛政を優遇していたため、勝豊は不満を持っていたところを秀吉はつけ込んだのである。 秀吉が信孝を落としたとき、人質として信孝の母・坂氏と娘を拘束し、年の暮れに京へ凱旋している。 秀吉の迅速な動きに業を煮やした柴田勝家は、いよいよ越前の北の庄城を出陣したのであるが、秀吉軍は即座にそれを掴み北上し琵琶湖の北・賤ヶ岳で勝家軍と対峙することとなった。 勝家の出陣に息上がった織田信孝が、再度岐阜城で反秀吉の兵を挙げたとき、人質として確保していた信孝の母と娘は秀吉により磔にされて殺された。 二人は織田信長の妻、孫にあたり、秀吉にとってはもと主君といってよいので、この人質殺害については誰もが予想しなかったことである。 秀吉の猛攻を受けた柴田勝家軍は佐久間盛政を筆頭に総崩れとなり北の庄に逃げ帰ることとなる。 このとき織田信長の重臣であった加賀百万石の前田利家・利長親子も参戦しており、織田勢である柴田勝家側であったが、途中で戦線離脱したから敗戦への影響は大きかった。 そして秀吉軍は追撃の手を緩めず、北の庄城を攻め、勝家・お市夫妻を自害に追い込んだのである。
このとき、挙兵していた岐阜城の織田信孝を織田信雄は取り囲んでいた。 柴田勝家の自害を知った信孝は 「昔より主をうつみの野間なれば報いを待てや羽柴筑前」 という辞世の句を詠んだ。 信孝が自害したこの地は、その昔源義朝は家臣の長田忠致の裏切りによって殺害された地でもあり、裏切った長田忠致は源頼朝により仇を討たれたことを云い、 秀吉への恨みをこめたものである。
さて、織田信雄は羽柴秀吉の戦略にのって弟・信孝を自害に追いやったのであるが、いよいよ秀吉の本心に気がつき、徳川家康と同盟を結んで秀吉との断交に踏み切ることとなる。 理由は秀吉が大阪に巨大な城を築き始めたからである。 そしてこの断交はやがて 「小牧・長久手の戦い」 という徳川家康・織田信雄連合軍と羽柴秀吉の戦いに発展するのである。 徳川家康と織田信雄が連合を組んだということで、秀吉は池田恒興を見方に引き入れた。 この池田恒興は、母が織田信長の乳母であり娘を森蘭丸の兄・森長可に嫁がせており、根っからの織田信長派である。 また清洲会議に出席した織田家の宿老でもある有力者である。 従って家康・信雄側の筆頭であるが、それを秀吉は尾張・三河・美濃の三国をちらつかせて見方に引き入れた。 これは誰もが驚く裏切り事件であった。 欲につられて寝返ったことで織田家の旧臣たちは秀吉の味方をするようになり、秀吉はこうした勢力をバックに大阪城という巨大城を築き始めたのである。
池田恒興は、まず信雄が尾張・清洲城で家康と合流していたため留守の犬山城に目をつけて落城させ、小牧・長久手の戦いの火蓋をきった。 池田恒興の娘婿・森長可(本能寺の変で戦死した森蘭丸の兄)は美濃・金山城を出陣し家康攻撃を狙ったが、奇襲されて逃げ帰った。 この敗北を聞いた秀吉は、池田恒興軍と近江で合流すると、総勢10万で尾張に向かったのである。 実はこの時の総大将は三好秀次で、本営は小牧山の北にある楽田城である。 三好秀次は豊臣秀吉の姉・日秀と三好吉房の嫡男で、池田恒興の娘・若御前を妻としており秀吉の養子となっていた人物である。 奇襲隊が楽田城を出陣すると三河・岡崎城に向かったが、その動きは家康側に見透かされており本隊・三好秀次は家康の先発隊に奇襲される格好になった。 秀次はかろうじて逃げ帰ることができたが、中堅の池田恒興、元助親子は井伊直政隊に、森長可は家康の鉄砲隊にやられ戦死し、1584年長久手の戦いでは秀吉の完敗に終わった。
小牧・長久手の戦いは家康、信雄連合軍の完勝でおわったものの、秀吉の首を討ち取ったわけではない。 しかし誰もが予想しなかったことが起きるのである。 秀吉は伊勢へ戻った信雄に対して講和を求めてきたのである。 調略は秀吉が最も得意とする分野である。 それにのせられた信雄に対して憤りを感じたのはもちろん徳川家康である。 なぜなら織田家という、また、秀吉と戦うという大義名分を失うことになったからである。 そして家康は戦いの矛を収め、それは秀吉の天下を認めることとなった。
武力抗争は終わったものの家康、秀吉お互いに天下取りにかける野望を失ったわけではない。 武力ではとても家康に叶わないと悟った秀吉は、朝廷の座を狙うことで織田家を牛耳る戦法を編み出すのである。 結果からいえば 「関白になる」ということであり実際にそうなったのであるが、これは秀吉にとっては大変なことである。 つまり身分から言ってなれるはずがないのである。 藤原氏の中でも特に選りすぐりの五摂家の一部の公家しか関白にはなれない。 藤原北家の出である藤原忠通は保元の乱で死亡した藤原頼長の兄にあたり、法性寺関白と当時云われていた。 忠通には基実、基房、兼実という息子がいたが基実は近衛家の祖となり、兼実は九条家の祖となった。 また近衛基実の系統から近衛兼平が鷹司家の祖となり、九条兼実の系統から良実が二条家を、実経が一条家の祖となり、これらの近衛、鷹司、九条、二条、一条の五家を特に五摂家とよんでいる。 当時関白は左大臣も兼任していた二条昭実であったが、内大臣・近衛信輔を昇進させ空いたポストに秀吉を迎え入れたのである。 秀吉が昇進するにあたって身分の問題については、近衛信輔の父・前久の猶子になることで解決された。 こうして1585年、秀吉は近衛秀吉となり関白の座に登り、位階も従一位となった。 そしてこの後、藤原氏に匹敵する「豊臣」という姓を正親町天皇から受け賜った。 このとき豊臣氏は一時的に藤原氏を超えたといってもいい。 関白職は本来藤原五摂家に返すのであるが、秀吉は関白を退いて太閤となったときに、養子の秀次に譲っているのである。 しかし血統を重んじる藤原家がそうやすやすと秀吉に乗っ取られることは考えにくい。 実は、豊臣姓の誕生には藤原五摂家から秀吉を排除するための対策であったのかもしれないのである。
1586年、豊臣秀吉が関白になって初めて行ったことは、大阪城から黄金の茶室を京の御所に運び正親町天皇、公家を招待し、春には後に聚楽第と云われる京の新邸を着工させた。 またしばしば家康に、大阪へ来るように促している。 家康の拒否に対して秀吉が提示したのは、異父妹・旭姫を差し出すことであった。 家康が上洛を決意し、大阪城の上座の秀吉に対して深々と頭をさせることになった家康は、秀吉の策略に負けたことを意味するのである。
現在、富山県高岡市では開町400年記念が行われています。 その主役が前田利長、江戸初期の大名で加賀藩祖である前田利家の嫡男として1562年に尾張国荒子城にて生まれました。 母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)、 1581年父利家の旧領越前国府中の一部を与えられた後、1582年の本能寺の変では、当時7歳の織田信長の娘・永姫を前田の本領尾張荒子へ逃がし匿わせます。 自身は織田信雄の軍に加わり、蒲生賢秀と合流し日野城に立て籠もったともいわれ、後に 永姫を正室として迎え、加賀藩の礎を築きます。 信長没後は利家と共に柴田勝家に属し、賤ヶ岳の戦いにも参加しています。 勝家の自殺後は豊臣秀吉に仕え、1585年秀吉により佐々成政が支配していた越中が制圧されると、32万石を与えられます。 父・利家は豊臣政権において五大老として徳川家康に対抗する位置にあり、1599年、父・利家が病没すると、その跡を継ぎ五大老となります。 その翌日に五奉行の石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされることになります。 同年、利長は家康の勧めにより、金沢へ帰国するが、増田長盛等が利長・浅野長政らの異心を家康に密告したことから、家康は加賀征伐を献言します。 利長は交戦を回避するため、実母の芳春院を人質として江戸の家康に差し出し、そして養嗣子利常と珠姫(秀忠娘で後の天徳院)を結婚させることによって難を逃れています。 1600年、家康は会津の上杉景勝討伐の折、利長に出陣命令を出したことから、北陸で大聖寺城や小松城などで西軍に与した諸城を落としています。 関ヶ原の戦いの後には、西軍に与した弟の利政の領地(能登)と加賀国の能美郡・江沼郡・石川郡松任が加領され、加賀・越中・能登と合わせて120万石を支配する加賀藩が成立しています。 その後、富山城に隠居し、1609年には高岡城を築き移っています。 1614年高岡城にて病没後、高岡にて葬むられ利常が菩提寺として瑞龍寺を整備しています。
上杉謙信は1530年越後国守護代(室町幕府から各国ごとに任命される守護)・長尾為景の次男として生まれた。 守護代の任命は守護に任命された大名の権限であり多くの守護は地元の豪族を守護代に任命した。 応仁の乱以降足利将軍が没落して無実となると、名門大名も次々と衰え、地元に強い勢力を持つ守護代が守護を無視して国を支配するようになる。 尾張の織田、越前の朝倉、越後の長尾家はこの代表であり、戦国大名と呼ばれる。 長尾為景は守護である上杉房能を追い落として自刃に追い込んだが、そのために関東管領上杉氏を敵に回すこととなる。 それは上杉房能の実兄・上杉顕定である。 上野国平井城から出陣した顕定は為景を包囲すると、為景は敗走し佐渡へ逃亡する。 越後国を奪ったが、統治が悪かったため為景に戻ってほしいという声が広がり、為景は柿崎氏などの同族の地元豪族をたばねて越後国に攻め込み上杉顕定は、信濃の豪族・高梨政盛(長尾為景の祖父)の軍勢が為景の援軍として率いて来てくれたこともあり追い落とされ戦死した。
長尾為景の後継者は嫡男・長尾晴景である。謙信は後妻・虎御前との子であり、当時7歳の謙信は晴景よりも21歳年下であった。 しかも病弱な兄と優秀な弟、 御家騒動に巻き込まれることを懸念した為景は謙信を城下の林泉寺にいれて僧侶にしようと考えた。 ところが1543年、謙信は兄の命で長尾家の武将として越中の栃尾城にはいった。 いっとき、栃尾勢力と、兄・晴景のいる春日山城勢力が分かれて一触即発の状態となるが、1551年和睦して惨事はさけられた。 これにより謙信は兄・晴景の養子となって長尾家の家督をつぎ、春日山城にはいった。 しかし傀儡の御館様である上杉定実が死ぬと長尾家の一員である長尾政景が従う姿勢を見せず、1551年謙信と政景は争うこととなるが、姉の仙桃院の計らいもあり両者は和睦し、謙信の越後支配は磐石のものとなる。 上杉謙信の軍師に宇佐美定満という琵琶島城主がいた。 長尾政景を暗殺したとされる男である。 76歳の定満は政景を舟遊びに誘ったときに船を沈めて政景を溺死させた。 義の人上杉謙信に忠誠を誓った政景であったが、晩年は景勝を当主として越後の実権を握ろうと謙信暗殺の計画を立てたが、定満はそれを見破った。謀反人である景勝は唯一の後継者であり、その母・仙桃院は上杉謙信の姉である。 家中の乱れを案じた定満は事故死を装って暗殺を企てたという。
上杉謙信が22歳の1552年、関東管領上杉憲政が越後へ亡命してきた。 関東では幕府の総督であった鎌倉公方が御家騒動で古河公方と堀越公方に分裂したことで、弱体化した堀越公方が北条早雲に滅ぼされて伊豆国を奪われた。 北条早雲を祖とする後北条家を継いでいた北条氏康は謙信と同時代に関東全体に勢力を伸ばし始め、危機感を抱いた上杉憲政は、古河公方・足利晴氏、上杉朝定らと組んで、後北条の堀河越後を包囲しようとしたが、奇襲により撃破された。 居城まで落とされた上杉憲政は救いを求めてきたのである。 こうして関東管領を保護下においた上杉謙信は、将軍家を中心とした秩序を回復させたい思いで、13代将軍足利義輝に会い、朝廷より官位も賜る思惑もあったのである。 そして従五位下、弾正大弼の官職をえた。 翌1553年村上義清ら武田信玄に敗れた信濃の諸将が次々と越後に亡命に来る。 信玄に奪われた領地を取り戻そうと謙信にすがってきた。 本来であれば何の得にもならない戦争であるが、謙信は義の人である。 こうして謙信と信玄は川中島の戦いであいまみえることとなる。 また上杉謙信は、戦いが終結していないのに、上杉憲政の北条征伐を頼まれ、関東の反北条の大名に呼びかけ、連合軍を結成して関東の覇者・北条氏康と戦った。 北条軍はいったん東上洲の地をあきらめて退却した。 この時、上杉謙信は仮の本拠地として上洲厩橋城で越年を行い、1561年憲政を奉じた上杉謙信は北条氏康の本拠地・小田原城を攻めたのである。 しかし、小田原城は難攻不落の巨城で、小田原という城郭都市を土塁・空堀で囲んだ壮大なものである。 上杉謙信は結局戦果を挙げることができずに退却をする。 しかし上杉謙信の献身的な奉仕に感動した上杉憲政は上杉の名跡と関東管領の職を謙信に譲りたいと言い出したのである。 関東管領就任式は鎌倉鶴岡八幡宮で行われたという。 ここは相模国、つまり北条氏康の本拠地内であったが氏康を小田原城に封じ込めていたために就任式は行われた。これにより謙信は上杉政虎となる。 1560年の厩橋での戦いで功を挙げた家臣・斎藤朝信は”越後の鍾馗”といわれ無類の戦上手であった。 上杉軍に強固に抵抗したのは下野国の名門・佐野氏で、平将門を討った名将・俵藤太秀郷の築城といわれる唐沢山城の篭り謙信軍の攻撃に耐えるが、朝信はこの戦で活躍したことで知られている。もうひとりの上杉四天王で知られる 直江景綱は厩橋城で越年後小田原城の一気に攻めたときには春日山城の留守居をしていた。戦国の世で留守を任すことができる老臣であった。
式が終わり、越後に戻った後の8月、上杉謙信は大軍を引き連れて4回目の川中島の戦いを行っている。 関東管領に就任した上杉謙信を討ち取るべく、武田信玄は軍師・山本勘助に作戦の立案を命じた。 川中島に城を持たない上杉謙信は妻女山の山頂に陣を敷いていた。 武田軍を本陣と闇に紛れて奇襲する二手に分けたが、上杉謙信はそれを見破り、奇襲される前に山を下りて手薄となっている本陣を突こうと考えた。読みは的中し上杉謙信軍有利のなか、武田信玄の弟・信繁、山本勘助はともに戦死したのである。 勘助を討ち取ったのは為景の代からの家臣で猛将といわれた柿崎景家だといわれている。騎馬隊が交替で波状攻撃を加える車掛戦法で武田軍を壊滅状態に追い込んだのである。 景家が63歳の1575年、敵の大将織田信長と内通した疑いで謙信の手によって討たれている。 ところで、川中島の奇襲作戦から別働隊が戻ってくるまでに信玄を討ち取ることはできず、お互いに多くの犠牲者を出して戦は終結した。 この時上杉謙信は武田信玄に単騎切り込みを行ったという。
後に1559年、謙信は宿敵である一向一揆を和睦を結び、二度目の上洛を果たす。 目的は衰えている足利将軍家の再建であり、13代将軍・義輝は謙信の将軍家への忠節を知り呼び寄せたのである。 ところがその後都の周辺を牛耳っていた大名・松永久秀は義輝を襲って殺した。 直ちに上洛して仇を討ちたいところであるが、武田信玄、北条氏康、今川義元の間で三国同盟が成立し上杉謙信にとっては大きな打撃であった。 しかし桶狭間の合戦で織田信長が今川義元を討ち取ると、武田信玄は今川家を滅ぼして領地を奪い取ってしまった。 三国同盟を破った信玄に怒った北条氏康は息子・氏政に嫁いでいた信玄の娘を離縁した。 三国同盟により関東の拠点を次々と失っていた謙信は、一気に形勢が逆転し、氏康から同盟の申し出をしてきた。 ともに信玄と戦おうという越相同盟が成立する。 上野国の半分を上杉領として認めさせ人質の要求にも北条氏は応じた。 このときの人質が北条氏康の息子・氏秀で、上杉家の養子となり後に上杉景虎となのるのである。 この頃に上杉輝虎改め、上杉謙信と名乗ることとなる。 1571年北条氏康が病死すると跡を継いだ息子の氏政は謙信と手を切り信玄と結ぶことを考え、甲相同盟が成立する。 これにより謙信を牽制することができた信玄は、足利義昭の上洛要請に応えて西上の軍を起こしたのである。 しかし信玄は遠征の途中で病死する。
本来であれば謙信は信玄の死に乗じて武田領に侵攻するところであるが、それをしなかった。 また先に北条氏政が越相同盟を破ったときも、北条氏からの人質である氏秀・上杉景虎を殺すどころか、養子として遇している。 義を重んじる謙信の温情がこの後裏目にでる。 謙信が亡くなった後跡目を争って景虎と景勝(姉の子)により家中が分裂するのである。ところでこの分裂に終止符を打ったのが四天王・直江景綱の娘婿・信綱といわれている。 最初劣勢であった景勝を支持し後に景虎を自刃に追い込んでいる。しかし景虎派の憎しみを集めて殺された。そして景勝の名軍師でしられる直江兼続が跡を継ぎ直江家を守り立てることとなる。 信玄の死によって足利義昭は京を追放され西国の毛利家に亡命し、上杉謙信に書状を送ってきた。 それは信長を討って京を奪回せよ、というものである。 織田信長は一向一揆と対立したため、一向宗の総本山本願寺は 信長を最大の敵とし他の勢力とは和解の姿勢をとった。 これにより上杉謙信上洛の可能性が高まり、信長は岐阜から安土に拠点を移し謙信上洛の阻止をはかった。 こうしたなか、これまで信長方であった能登国の畠山氏が上杉方になりたいとの申し入れをしてきた。 能登国の主城である七尾城争奪で上杉謙信と織田方の柴田勝家が戦い、上杉謙信が勝利を収め、引き上げる途中の織田軍を急襲して撃破した。 手取川の合戦である。
これにより足利義昭は狂喜したが、 上杉謙信が能登での戦いを行っている隙に北条氏政は反北条勢力を駆逐していたため、北条氏政征伐要請が上杉謙信の元へ届いていた。 1578年、上杉謙信は本拠の越後春日山城から関東に攻め入る大号令をだすが、出陣を前にして倒れ、意識を回復することなくこの世を去った。
遠山康光妹
上杉房定1431-1494 ┣氏秀1554-1579(上杉景虎)
┣上杉顕定1454-1510(関東管領) 北条氏康1515-1571
┃ ┣上杉顕実-1515(関東管領) ↑ ┣氏政1538-1590
┃ ┗上杉憲房1467-1525(関東管領)↓瑞渓院 ┣氏直1562-1591
┃ ┗上杉憲政1523-1579(関東管領) 黄梅院1543-1569(信玄長女)
┃ ┗上杉龍若丸-1552(北条氏康の殺害)
┗上杉房能1458-1507(越後守護)
↑ ┗上杉定実1478-1550(養子)
↓
高梨政盛1455-1513
┃┃┗娘
┃┗娘┣長尾晴景1509-1553
┃ ┣長尾為景1489-1543(守護代)
┃長尾能景1459-1506 ┃
┃ ┗娘 ┃
┃ ┣高梨政頼1508-1576 ┃飯山城主
┃ ┃ ┣秀政- ┃
┃ ┃ ┣黒姫 ┃
┃ ┃ ┗娘(真田信綱室)┃
┗高梨澄頼1492-1547 ┃
┏━━━━━━━━━━━━┛
┣仙桃院1524-1609 桂岩院?-1604(四辻公遠娘)
┃ ┣義景(10歳で早世) ┣定勝1604-1645(直江兼続夫妻が養育)
┃ ┣景勝1556-1623 (豊臣5大老の一人)
┃ ┃ ┣-
┃ ┃菊姫1563-1604(武田信玄六女)
┃ ┣娘(上杉景虎室 清円院 1556-1579)
┃ ┣娘(畠山義春室) 武田信玄1521-1573
┃長尾政景1526-1564溺死 ↑
┃房長┛ ↓
┣長尾景虎(上杉謙信)1530-1578
┃ ┃ 宇佐美定満1489-1564 軍師 政景暗殺
┃ ┃ 柿崎景家 1513-1575(車掛り 信長と内通?手討)━晴家-1578(景虎派)
┃ ┃ 斉藤朝信 1527-1592(内政 蓄財 景勝派)
┃ ┃ 直江景綱 1509-1577(宿老筆頭 内政)
┃ ┃ ┃┃
┃ ┃ ┃┃ 樋口兼豊-1602
┃ ┃ ┃┃ ┣直江兼続1560-1619
┃ ┃ ┃┃ ┣大国実頼 ┣直江景明1594-1615
┃ ┃ ┃┃ 藤 ┣於松
┃ ┃ ┃┣お船1557-1637(直江信綱-1581室)
┃ ┃ ┃娘
┃ ┃ 山吉政久娘(-1570正国尼)
┃ ┃ 甘糟景持 -1604(景勝派 川中島戦で殿軍)
┃ ┃ 甘糟景継 1550-1611(景勝派 越後上田衆)
┃ ┃ 村上義清1501-1573(葛尾城主)
┃ ┃ 清円院1556-1579
┃ ┣景勝1556-1623(養子) ┣道満丸1571-1579
┃ ┗景虎1538-1590(養子:北条氏康7男)
青岩院(虎御前)1512-1568
法界寺のある日野は山科の南、親鸞上人縁の地である。 親鸞の父は日野有範で藤原北家の流れをくみ、後醍醐天皇のときに過激な行動で命を落とした公卿を数多く輩出し足利義政の室・日野富子も名を残している。 親鸞の後、浄土真宗は叡山から弾圧を受けて振るわなかったが、室町後期に現れた本願寺八世・蓮如により一気に宗勢は振るった。 この場合の本願寺は京都市東山の大谷にある親鸞の廟である。 大谷にある親鸞の廟である本願寺は再び旧仏教の攻撃をうけ、本拠地になったのが山科本願寺である。 山科本願寺とはいうものの普通の寺ではなく、周囲に塀や土居を配した寺内町であった。 信徒に加え様々な職人が集まり宿舎もでき、阿弥陀堂や御影堂を核とした宗教都市といっていい。 蓮如が近江、北陸、東海などの信徒の協力で山科に堂を建立して寺内町建設に踏み出したのは1478年のことである。 蓮如はこのとき、海老名五郎左衛門から土地の寄進を受け、山科に堂を建立し山科本願寺を建立した。 海老名は後に西宗寺の開祖になったという。 このようにして信徒の強力な結束もあって山科本願寺の城ともいわれたが、やがてこのような信徒の結束が町を失う原因となる。 1499年蓮如が85歳で亡くなったあと、子の実如が山科本願寺のあとを継いだ。が孫の証如のとき1532年に細川晴元、六角定頼、京の法華宗により山科本願寺は完全に焼き払われ、以降大坂の石山本願寺に拠点を移すが、織田信長と石山合戦を続けることとなる。 因みに石山本願寺の跡地に建立されたのが大阪城である。
大阪城梅林園横にある石山本願寺址碑
「とんねるずのみなさんのおかげです」 を見ていましたら、京都を紹介しておりました。 花街のひとつ「祇園東」の舞妓さんとの遊びで訪れていたところが 「左阿弥」 という料亭です。 前回舞妓さんに会いに京都へ行ったときに時間調整で散策した東山近辺で、風情のある料亭を見つけたあの料亭でありました。 思わず調べてみますと 『東山の庵に左阿彌が誕生したのは、元和元年のこと、織田信長の甥である織田頼長により、安養寺の末寺として建てられました。 頼長の父は、茶人の織田有楽斎。頼長も又、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと云います。 江戸時代、安養寺のある東山あたりは、遊興の地として大変なにぎわいでした。中でも左阿彌は、安養寺「円山の六坊」の一つと数えられ、文人墨客の集うところとなり風流の限りが尽くされたと伝えられています。 左阿彌が料亭を始めたのは嘉永二年。 明治維新以降、御前会議に使われたこともありました。 有栖川総督宮や山県有朋参与が止宿され、頼山陽先生や土田麦僊画伯によってこよなく愛されました。 さらに、川端康成や志賀直哉の文豪をお迎えした左阿彌。京都を描いた名作の作家らも、ここで京都の風情を楽しみました。 』 とありました。
晩年の豊臣秀吉は京都に大仏殿を建立することを思い立った。 それまでの大仏といえば言うまでもなく奈良の東大寺の大仏である。 発願者・聖武天皇の陵は東大寺のすぐ北西の佐保山にある。 秀吉も京都の大仏殿建立に際して死後自分が葬られる墓について考えた。 天正13年、秀吉は東福寺に寺領を寄進し、翌年には大仏建立の地を東福寺の近傍に選定した。 大仏殿の普請は天正16年に東福寺の北方にあたる大和大路に面した地で行われ、この地は三十三間堂で知られる蓮華王院をも取り込んだ。 工事は小田原の役などで遅れ、大仏の材料も銅から漆膠へと変更されるなどして一応の完成はみた。 しかし伏見地震で大仏は大破し開眼供養は延期される。 この頃信濃の善光寺如来を京都へ運んでくることが計画されたが、秀吉は病気になり、稲荷の巫女が仏罰だから東国へ戻せということとなり結局善光寺に戻された。 秀吉の死後、晩年の子である秀頼が意思を受け継いで大仏の建立を開始した。 この工事は本来の計画に戻って銅の大仏の鋳造を行った。 完成したのは豊臣家が没落を早めた大阪冬の陣の2年前のことである。 本来であれば大仏建立どころではない豊臣家であるが、これは徳川家康の陰謀とかかわり、近畿各地の寺社の修理を秀頼に行わせ豊臣家が蓄えた富を使わせる意図が徳川家康にあったのである。 銅製の大仏は各所に亀裂ができ、幕府は当時推し進めていた寛永通宝の材料にしたために、大仏は木造になったという。
この大仏殿は現在の法広寺にあり、この寺の大仏は東福寺と同じ釈迦如来である。 秀頼は法広寺に用いる銅鐘銘文の作成を東福寺の文英清韓に依頼した。 清韓は東福寺の227代住持であり韓長老として親しまれていた人物である。 ところが、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が家と康を分断し豊臣を君主とするものだとして徳川家康の怒りにふれ、豊臣家滅亡のきっかけになったとされる。 この言い分は完全に言いがかりであり当時の儒者・林羅山などは御用学者の典型といえる。 困惑した豊臣家は大仏造営奉行を務めていた片桐旦元(浅井長政の臣従)とともに清韓を使者として家康の駿府城に送り、弁明させようとしたが聞き入れられなかったという。 清韓は豊臣家が滅亡したあとも捕縛されている。 豊臣家を断絶させるために東福寺はうまく利用されたが釣鐘そのものは何故か破却されることなく今日も方広寺の鐘楼に下がっていていつでも見ることができる。
秀吉の死後に東福寺が徳川家康から難問をふきかけられた原因はもうひとつある。 それは文英清韓より数代前に住持を務めたのが瑤甫恵瓊だったことである。 安芸出身のこの人物の通称は安国寺恵瓊といい、その能力が秀吉に認められ秀吉直属の家臣となった。関が原の合戦では毛利側として西軍につき、敗れた後石田光成とともに六条河原で斬首され、その首はひそかに建仁寺に葬られた。 東福寺が生み出した禅僧には似つかわしくない武将の側面を持つ恵瓊の人柄は極めて稀に見るものであったようである。
秀吉は阿弥陀ヶ峰に墓を作ることを遺言した。 阿弥陀ヶ峰は東山三十六峰の一つで東福寺の北北東にあたり、広大な墓地である鳥辺山の一画でもある。阿弥陀ヶ峰のすぐ南西には総山があり、もともと葬山であったとみられ、鳥辺山に含まれていた。 総山に接して天皇家の陵墓の多い泉湧寺があるのも鳥辺山である。 泉湧寺は東福寺とも至近の地にあり、泉湧寺の境内や周辺には四条天皇の月の輪陵に始まり、明治天皇の父である孝明天皇の後月輪東山陵にいたるまでの25の天皇陵がある。 阿弥陀ヶ峰は天皇陵の集中する土地に近く九条家の代々の墓のある東福寺にも近いことが秀吉の遺言である阿弥陀ヶ峰の理由と考えられる。 秀吉の死後に造られた墓を含む廟は、今日智積院や妙法院がある地とその背後の広大な土地にあった。 廟は後陽成天皇から「豊国乃大明神」の神号と正一位の神階を与えられ、廟の境内には56基の燈篭があって毎夜油を献じて火をともしていたという。 豊臣家の滅亡後、幕府は豊国大明神の破却を決め豊国社として方広寺の隣接地に移し鎮守にした。 秀吉の墓もなくされ人々が登れないように登山口に廃絶していた新日吉神社を再建した。 今日では阿弥陀ヶ峰には五百段の石段を登ると五輪の石塔があって秀吉の墓としているがこれは本来の墓ではなく全国の有志の寄附によって作られたものである。
豊臣秀吉は、京都を新しい町とするために囲郭を造営した。 京都の周囲を御土居でめぐらせる工事は1590年から計画され約5ヶ月で完成させている。 これは京都所司代の前田玄以(信長、秀吉に仕えた亀山城主)の総括により行われた。 土居の高さは3m、周囲は22kmに及び現在の羅城門跡がある九条通が最南端で、京都駅ももともと土居があったところである。 現在、北野天満宮の境内西側には御土居の跡が残っており、その規模の大きさなどを説明した看板とともに史跡となっています。 京都の町並みを巡る楽しみは、偶然こうした史跡に出会うことにあります。 以下に御土居のさらなる説明です。
秀吉は土居を廻らせたあと、京中に散在していた寺を集め、大名役人とその部下などの関係者の屋敷を配置することにより寺町を造ったのである。そして本願寺としては現在の西本願寺が建設された。現在の寺町(京都御所すぐ東の通り)は鞍馬口にある浄善寺から南は7条にある宗仙寺まで約5kmにわたって100余りの寺がほぼ直線に並んでいる。これらの寺は浄土宗を筆頭にするが、禅宗は洛外にあったため100の中にはない。また浄土真宗である本願寺派の寺もない。 織田信長が敗れた本能寺は現在寺町三条下がる、にあるがもともと下京四条坊門西洞院にあったのである。 この土居のすぐ東は鴨川であるだけに、土居や寺の頑丈な塀が川の氾濫対策として有効であることが理解できる。 この頃、本願寺を京都に戻すことが秀吉から顕如に命じられ、山科本願寺撤収以来京都へ移ることとなった。場所は六条堀川の広大な地で現在の西本願寺のある場所である。 親鸞の廟的な御影堂を移し阿弥陀堂の建設が始まる。 このさなかに蓮如の末裔である顕如が死んだ。 これにより後継の門主をめぐってお家騒動が起こりこれを利用した徳川家康は本願寺を分裂させて東本願寺ができることとなった。 従って本派本願寺を西本願寺というようになる。
寺町は南北に連なっているのに対して、寺内には東西に寺が集まり東の端は相国寺、西は千本釈迦堂の手前で、妙覚寺、妙顕寺、本法寺、報恩寺など法華宗の寺が多い。 これは京都所司代の前田玄以が法華宗の信者であったことに由来する。 1530年頃は京都には法華宗の大寺が散在し京都全域を掌握する勢いであったが、比叡山や近江の六角によって弾圧され寺は焼き払われた。 しかし前田玄以により徐々に復活し寺内に集まったのである。 秀吉が造った土居には七口、実は十箇所の入り口があり、 鞍馬、大原、北白川、粟田、伏見、竹田、鳥羽、西七条、四条大宮、長坂である。 しかしいつしかこの土居は豪商角倉了以が手がけた運河としての高瀬川の掘削によって姿をけしていった。高瀬川は鴨川から水を引いた運河であるから二条から五条にかけて物資の荷卸しのための施設が次々とでき、長州藩邸、加賀藩邸、彦根藩邸、土佐藩邸などが設けられた。 こうして京都の木屋町は運河と共に栄えることとなる。
関白で太政大臣となった秀吉が1586年に築き始め翌年には完成させた城郭風の屋敷が聚楽第で、二条城のすぐ北に位置していた。 完成した直後に秀吉は大阪から聚楽第に移り北野天満宮で完成を記念した大茶会を催している。1588年には後陽成天皇が多数の公卿を従えて聚楽第に行幸したのは有名である。 聚楽第は秀吉の権勢の頂点と示されたが、完成から8年後に豊臣秀次を失脚させた後に自らの手により取り壊してしまった。 聚楽第の本丸は大内裏の主殿寮などの跡地にでき、諸大名の屋敷も建てられ、如水町、福島町の名でその名残が残っている。 屋敷の塀には金箔の瓦で葺かれるほどに豪華絢爛で聚楽第の東、御所より西の中立売通に集中している。 大名屋敷跡からはさまざまな家紋のはいった瓦が出土され、織田家の家紋である五葉木瓜文も見つかり、内大臣・織田信雄の屋敷があったあったことが伺える。
1591年、秀吉が千利休を死に追いやった年である。 関白を辞した秀吉はその座を甥の秀次に譲り太閤となった。秀次は左大臣も兼ねたがそれにふさわしい力量はなかった。それまで左大臣であった教養人で三筆の近衛信尹は職を追われ、秀次は聚楽第を継ぎ、秀吉は隠居屋敷をつくる。 これが伏見城である。 秀次は秀吉の姉と三好吉房の子で、秀吉の養子にもなり、抜擢し続けた。 近江八幡で43万石の大名に取り立て、尾張清洲の大名とし、関白にしたあと聚楽第まで譲ったのである。 ところが秀次の運命を急変させることが起こった。 秀吉の側室淀君が1583年に男子を出産する。後継・秀頼ができた秀吉は秀次が邪魔となり切腹させることになるが、前々から秀次の学問指南役であった東福寺の隆西堂は僧でありながら殉死し、若い近習も数名後を追った。 山内一豊など重臣は殉死せず、秀次の妻子ら三十数名が三条河原で惨殺され、聚楽第も徹底的に破壊されたのである。
後に高瀬川を開削した角倉了以が、三条小橋の東詰に瑞泉寺を建立した。角倉了以の弟がかつて秀次に仕えており、秀次の法名をとって寺を造ったのである。 現在瑞泉寺には秀次の墓碑と多くの妻子の墓が並んでいる。殺された妻子・妾には大名・公卿出身の者もいたが遺族が遺骸をひきとることすら許されなかったという。 破壊された聚楽第は完全に消滅し現在は唐門が大徳寺へ移されたのみである。
法界寺のある日野は山科の南、親鸞上人縁の地である。 親鸞の父は日野有範で藤原北家の流れをくみ、後醍醐天皇のときに過激な行動で命を落とした公卿を数多く輩出し足利義政の室・日野富子も名を残している。 親鸞の後、浄土真宗は叡山から弾圧を受けて振るわなかったが、室町後期に現れた本願寺八世・蓮如により一気に宗勢は振るった。 大谷にある親鸞の廟である本願寺は再び旧仏教の攻撃をうけ、本拠地になったのが山科本願寺である。 蓮如は1478年、海老名五郎左衛門から土地の寄進を受け、山科に堂を建立し山科本願寺を建立した。 海老名は後に西宗寺の開祖になったという。 1499年蓮如が85歳で亡くなったあと、子の実如が山科本願寺のあとを継いだ。が孫の証如のとき1532年に細川晴元、六角定頼、京の法華宗により山科本願寺は完全に焼き払われ、以降大坂の石山本願寺に拠点を移すが、織田信長と石山合戦を続けることとなる。 因みに石山本願寺の跡地に建立されたのが大阪城である。
795年、桓武天皇が 遊猟をし翌年にも3回遊猟し日野は親鸞出生の地だけではなく、平安末期から鎌倉初期に生きた歌人・鴨長明が晩年に方丈の庵を結んだ地でもある。鴨長明は下賀茂神社の摂社河合神社の神官の家にうまれながら晩年には深く仏教に帰依し、日野の住処を構えた。 鴨長明にとって忘れられない日野とは、平重衡の北の方が仮住まいをしていたところである。 一の谷の合戦に破れた重衡は鎌倉へ送られたあと、南都焼き討ちの首謀者として南都の大衆へ引き渡すこととなった。 そのとき北の方に会うことを許されている、 やがて木津の河原で斬られた頸は法界寺の僧が日野へ持ち帰り墓が造られ北の方は菩提を弔う生活を送ったという。 法界寺は日野資業によって1051年頃建立が始められ、日野家に伝わる薬師如来像が薬師堂に納められた。 日野家出身の母を持つ右大臣藤原宗忠は法界寺に帰依しいくつもの仏像を造り堂塔も寄進した。また阿弥陀堂を建立している。 今日阿弥陀堂には阿弥陀如来坐像が安置され宇治平等院鳳凰堂にある阿弥陀如来坐像と同じく定朝作といわれたこともある。
観世流三代・音阿弥1398-1466の墓が京田辺の酬恩庵一休寺にありました。 もちろん初代は観阿弥、二代は世阿弥です。 紅葉に訪れ、思わぬ発見をするのも楽しみの一つです。 因みに現在の観世流当主は観世清和。 そしてその横には六角義賢の墓です。
世阿弥略記
当時の貴族・武家社会には、幽玄(微かに暗い、という仏教概念が美しく柔和な優雅さという実践的な概念に変化) を尊ぶ気風がありました。 世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。 世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。 義満の死後、将軍が足利義持(田楽の増阿弥の冷えに冷えた芸を愛好した)の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』『至花道』(必ず散るからこそ咲いているときが見事である花を喩えた花のある芸を記載した) が著されたのもこのころである。 義持は猿楽よりも田楽好みであったため、次第に恩恵を受けられなくなり、足利義教の代になると弾圧が加えられるようになります。 1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。この時に「初心忘るべからず」「命には終わりあり、能には果てあるべからず」「ただ美しく柔和なる体、これ幽玄の本体なり」の言葉を残しています。 しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用するようになり、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていきます。 義教は兄弟の義嗣と仲が悪く、義嗣に気に入られていた世阿弥を嫌い、また能役者も世阿弥よりも音阿弥を好んでいたので、世阿弥に露骨な迫害を加え始めていくのです。
六角義賢略記
1568年7月、織田信長は越前の朝倉義景のもとにいた足利義昭を美濃に迎えて上洛の途についた。足利義昭を将軍に就けて室町幕府を再興するという名分を掲げてのことである。 尾張、美濃、伊勢の軍を率いて近江の琵琶湖東岸を南下したところで敵対していた六角義賢、義治親子は敗走し観音寺城は明け渡された。 京都に入ると三好三人衆(三好長慶の家臣:三好長逸、三好政康、岩成友通)の山城勝竜寺を落とし、摂津の芥川城、越水城を攻略し三好三人衆を敗走させた。 10月、足利義昭とともに京都に戻ると足利義昭は念願かなって15代将軍となり、従四位下にも叙任された。 織田信長は上洛により幕府と朝廷の復興をめざしたのである。 織田信長はこの9年前に一度上洛している。 桶狭間の戦いの前年で尾張の平定も終わっていない頃のことであるが、奈良等の見物をして13代将軍義輝に面会している。 この頃、細川氏などの管領家は力を失い、三好長慶は独自の政権を目指しており、権力基盤は弱かった。 従って義輝は戦国大名を上洛させて政権を支えてもらおうとしていた。 しかし国元が大事である大名は長くは在京できないことから、将軍は敵対する大名達に和睦を命じ上洛を命じるのであった。 将軍・義輝に会って忠節を誓った長尾景虎(上杉謙信)は関東・信濃への出兵を正当化する名分を必要としており、そこに上洛の真の狙いがあったのである。 守護代の家臣という家柄にすぎない父・信秀の代から急速に力を伸ばしたなり上がりであった織田信長の上洛も、尾張支配を正当化するためのものであった。 こうして戦国大名は常に中央政権との結びつきを怠らなかった。 織田信長は単なる将軍の補佐、室町幕府体制の復興だけではなく独自の天下統一の政権を志し、上洛を実現した最初の大名である。 1570年 織田信長は日乗上人と明智光秀宛にさらに五箇条の条書をだして足利義昭に承諾させた。 天下の支配権は織田信長にあり将軍の意向を伺うことなく自分が成敗権を行使するといっている。 足利義昭の行動はすべて 信長の監督下においた。 こうして織田信長が自己の覇権確立をめざす動きをあらわにすると、反勢力もでてくる。 その一人が越前の朝倉義景である。 信長が4月越前に出兵し敦賀郡の城をおとして木芽峠を越えるところで江北の浅井長政が挟み撃ちにすべく挙兵に踏み切った。 織田信長は湖西から京都に逃げ帰ったが、これを機に江南各地で一揆が起こり六角氏やその旧臣、伊賀・甲賀の侍衆と連携して織田信長軍に立ち向かった。 このため織田信長は浅井長政の小谷城攻めに出陣し家康も同盟軍として合流した。 織田信長軍が横山城を取り囲むと、浅井・朝倉軍は南下してきて姉川の合戦が展開された。 織田信長の勝利とはいえ反織田勢力にとっては勇気を与え、阿波に逃れていた三好三人衆はまもなく行動を開始し、摂津にはいると大阪本願寺の西方・野田・福島の城に立て篭もった。 織田信長は8月、三好三人衆を攻めるために岐阜を出発し、足利義昭も出陣した。 織田信長包囲網にあった大阪本願寺の顕如は9月、浅井長政からの同盟を申し入れに同意し宗門を守るための決意をした。 こうして大坂を中心とした本願寺・一向一揆は11年の長きに渡って織田信長と戦うことになるのである。 本願寺の決意に呼応して浅井・朝倉軍が動き、京都に攻め入ると、織田信長は野田・福島城を諦めて兵を引いた。 京都を経て近江にすすむと比叡山の僧を見方につけるべく、山門領をえさに忠節を促したが、叡山はこれを無視する。
1596年5月秀頼初参内の時は、豊公参朝のなかでも最も盛儀であったと伝えられており、本列はそれを模したものである。 秀頼は羽柴秀吉と茶々との間にうまれた二人目の子で、このとき3歳。 前後に従うのは大名で一日晴れとして規則以外に許されたもので、衣冠の姿も普通のものではなく袴に武家風の太刀といういでたちである。
出雲阿国
出雲阿国、その人はなんとも神秘的で実像がはっきりしない人である。 巫女の象徴である白装束で身を包み、傘で顔を隠す姿がより一層に妄想を掻き立てます。 時代祭りでの扮装は 徳川家の所蔵品等の資料をもとに、京都大学の教授により考証されたもの(時代祭パンフより)だそうです。 この人は平安の女性に比べるとずっと時代は新しく関が原の合戦の頃の人物なのですが、その神秘性から日本神話の時代の女性のような気がします。
出雲阿国を偲ぼうと思えば京都・大徳寺に行けばよろしいかと思います。 大徳寺の塔頭である高桐院は細川家の菩提寺で、武将でもあり千利休の七哲とも云われた細川忠興の開山でもありますが、 ここには細川ガラシャの墓碑のほかに出雲阿国の墓碑もあります。
出雲阿国は歌舞伎の創始者とされる安土桃山時代の女性芸能者で、伝説によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘とされ、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている。 『時慶卿記』によると1600年、京都近衛殿や御所で雲州(出雲)のクニと菊の2人が「ややこ踊り」を演じたという記録があり、ここで出雲のおくにと名乗っていたことがわかる。 その後阿国自身は1607年、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえているが、 1612年に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もあり没年は1613年は、はっきりしない。 当時、名古屋山三郎という武士がおり加賀前田家の家臣・名越因幡守の息子で母は織田信長の姪であったとされる。 織田信長の娘婿である蒲生氏郷に仕え、その後は森蘭丸の弟・森忠政にも仕えた男を夫に持つ阿国は出雲ではなく、大和の歩き巫女という説もある。 歩き巫女は芸能だけではなく、売春も兼ねて諸国をめぐるのが普通であった。 つまり歌舞伎女優も同じなのであるが、徳川幕府は1629年、風紀を乱すという理由から女芸人が舞台に立つことを禁止したのである。 この制約によって結果的には「女形」の文化が発展することになる。 因みに、徳川8代将軍・吉宗の時代には享保の改革として歌舞伎などの演芸そのものを制限したことがある。 これに猛反発した徳川・尾張藩の宗春は尾張諸国で庶民の楽しみである歌舞伎を復興させ、活性化させた。 名古屋が発展して現在に至っているのは宗春の功績によることは周知のことである。
1636年6月、伊勢国神戸藩五万石の大名だった一柳直盛は今までの功績を認められ、伊予国五万八千六百石に加えて播州加東郡一万石をあわせて、六万八千六百石に加増された。が八月に直盛は病で亡くなったために所領は三分割され、それぞれを息子が引き継ぐことになった。次男の直家は加東郡王子村敷地に代官所を置いたが、やがてそれが小野藩の祖となった。 一柳家は明治維新を迎えるまで代々小野藩を盛り立てた。 その小野藩の陣屋があったのがここ神戸電鉄小野駅の近くである。
磐代神社は、小野藩一柳家の氏神として陣屋の構築にともない建社されたものである。旧社殿は、昭和四十年の台風により倒壊し、現社殿は昭和四十一年に再建された。 祭神は、一柳家の祖、伊予国の名族河野家の氏神でもあった大山祇神である。五代藩主末栄は宝暦年間(1751~1763)に一柳家の基礎を築いた一柳直未(磐代明神)とその子松千代(真栄霊神)を祖神として合祀している。 祭日である三月二十九日は羽柴秀吉の家臣として活躍した直未が伊豆山中城合戦で戦死した日にあたり、旧藩時代には藩主自ら祭祀を司り、直未の武功にあやかるべく軍神として尊崇し、軍士出陣のときは必ず参拝して武運長久を祈願したと伝えられている。
河野親清
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河野親経娘┣河野通信-1223
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