1948年3月横浜軍事法廷にて九州大学の医師たちが居た。無抵抗のアメリカ人捕虜に対して海水注入、肺の摘出、肝臓切除など、それまでタブーとされていた生体解剖実験を次々と行ったのである。
1945年5月空爆を終えたB29に対して、粕谷欣三一等飛行兵曹がのった迎撃機・紫電改がB29に体当たりし、B29の搭乗員12人は脱出し九州の山中に降り立ったものの3人はリンチにより死亡し、9人は捕虜となった。かつて福岡には西部軍司令部がありアメリカ兵は殺せという罵声の中でアメリカ軍の捕虜は西部に送り込まれたのである。捕虜の取り調べを行ったのは山本福一。事実上軍の支配下にあった九州大学では総長を務めていた百武源吾海軍大将が、医学部に代用血液の開発を急がせた。海藻を原料に開発製造に成功と報道していたが、実際には実用化には程遠い状況であった。
こうした状況の中、捕虜の機長は東京に移送されたが残る捕虜は軍司令部で適宜処分せよという命令が下った。1945年5月17日、九大医学部に運ばれた二人の捕虜は解剖実習室に連れて行かれたという。当時医学部に入ったばかりの学生・東野利夫は解剖実習室に出入りしていた。医師たちの会話などを19才の東野氏は今でも鮮明に記憶している。手術は医学部の権威であった石山教授が指揮し、15人を超える医学部関係者が立ち会った。軍参謀が見守る中、人体実験が行われたのである。それは当時としては最先端の手術ではあるが、死ぬかもしれない。しかし捕虜であるから死んでも構わない。医師たちはやりたい、の悪魔に撮り憑かれているのである。
まずは血管に海水を注入して代用の可否確認であったという。代用血液の開発ができなかった最中、海水を整理的食塩水に代用できないかというのである。次に行ったのは肺の切除である。当時結核が蔓延していたこともあり、片肺での生存可否実験が行われた。このような解剖事件が8人の捕虜に対して行われた。戦後ポツダム宣言に於いて捕虜を虐待したものは厳しく処罰するとうたわれている。医師たちは多数のGHQに囲まれて取り調べをうけ、人体実験の存在を否定していたが次第に全貌は露呈した。かくして九大関係者14人、西部軍関係者11人を逮捕。現在アメリカ公文書館に当時の膨大な取り調べ聴取資料が治められている。鳥巣太郎助教授の聴取では、捕虜の肺から銃弾を取り除くためと聞いていたが肺全体が切り取られていたと・・・。石山教授の手術は新しい手術を方法を試すことにあった・・・。筒井シズ子看護婦長、平尾健一助教授、いずれも石山教授、軍の命令に逆らうことなどは考えられなかったというものであった。ところが、石山福二郎教授は生体実験の事実は決して認めなかったという。すべては捕虜の命を救うものであったと・・・。この取り調べのあと、石山教授は遺書を残して独房で自殺した。遺書には軍への怒りと、弟子たちへの謝罪が記されていたという。
1948年8月、横浜軍事法廷で生体事件の判決が言い渡された。5人に絞首刑、18人には有罪が言い渡されたのである。この事実はアメリカの遺族にはどのように伝えられたのだろうか。B29搭乗員(当時20才)の娘・ジンジャーさんら家族の元に連絡されたのは1950年1月。一方実験を行った鳥巣太郎助教授は死刑判決のあと出所後減刑されて恩赦でひっそりと暮らしたというが、人体実験の事実は何も語らなかったという。この事件が発覚したあと、九州大学は「事件は当事者が勝手に大学の設備を使ってやったことであり、あずかり知らないものである」との見解を発表している。この事件、GHQによる調査で3人の首謀者が挙げられている。西部軍佐藤吉直大佐、西部軍小森卓軍医(空襲で死亡)、石山福二郎九大教授(自殺)。佐藤吉直は死刑判決を受けたが恩赦を受けている。