京都御苑で観たものの整理をしておきたい。
あの日,京都御所一般公開を見学しに近鉄電車と地下鉄に乗って今出川駅下車した。
京都御所の手前で見たのは“一條邸”。
御所入り口前では,大きな木の瘤“センダンの瘤病”?
御所見学のあと蛤御門へ。
蛤御門で火縄銃の弾痕を見たあと,御所の南西の角で“清水谷家の椋”という大きな樹を見た。
@清水谷家の椋
この大きな椋の木は、このあたりが清水谷という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。
樹令は約300年くらいで御苑内でも数少ない椋の大木です。
1864年の蛤御門の変の時、長州藩士、来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられています。(表示板より)
その後,梨木神社へ行こうと東へ歩いたら,御所を過ぎた辺りで“藤原道長”の“土御門第跡”の札が立っていた。
@つちみかど‐どの【土御門殿】
藤原道長の邸。土御門大路の南、東京極大路の西に位置した。上東門第。京極殿。
*紫式部日記〔1010頃か〕寛弘五年秋「秋のけはひ入立つままに、土御かと殿の有さまいはむ方なくをかし」
梨木神社参拝の後,昼食場所・魚常さんへ行こうと京都御所へ戻ると“有栖川宮邸”。
そこから京都御所の建礼門を南に歩くと小さな山(土盛り)があり、凝華洞跡の表示があった。
@凝華洞跡
凝華洞(別名、御花畑)は京都御所建礼門の南にあった屋敷です。 京都守護職・松平容保は、多忙の為京都守護職屋敷に帰れない時に、宿舎として使用していました。 蛤御門の変(禁門の変)では、病を押してこの凝華洞で指揮を執ったとされています。
最後にえらい立派な庭園“九條邸・拾翠亭”を横切って(見学は午後からにして),先に昼食へ。
あの日,京都御所一般公開を見学しに近鉄電車と地下鉄に乗って今出川駅下車した。
京都御所の手前で見たのは“一條邸”。
御所入り口前では,大きな木の瘤“センダンの瘤病”?
御所見学のあと蛤御門へ。
蛤御門で火縄銃の弾痕を見たあと,御所の南西の角で“清水谷家の椋”という大きな樹を見た。
@清水谷家の椋
この大きな椋の木は、このあたりが清水谷という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。
樹令は約300年くらいで御苑内でも数少ない椋の大木です。
1864年の蛤御門の変の時、長州藩士、来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられています。(表示板より)
その後,梨木神社へ行こうと東へ歩いたら,御所を過ぎた辺りで“藤原道長”の“土御門第跡”の札が立っていた。
@つちみかど‐どの【土御門殿】
藤原道長の邸。土御門大路の南、東京極大路の西に位置した。上東門第。京極殿。
*紫式部日記〔1010頃か〕寛弘五年秋「秋のけはひ入立つままに、土御かと殿の有さまいはむ方なくをかし」
梨木神社参拝の後,昼食場所・魚常さんへ行こうと京都御所へ戻ると“有栖川宮邸”。
そこから京都御所の建礼門を南に歩くと小さな山(土盛り)があり、凝華洞跡の表示があった。
@凝華洞跡
凝華洞(別名、御花畑)は京都御所建礼門の南にあった屋敷です。 京都守護職・松平容保は、多忙の為京都守護職屋敷に帰れない時に、宿舎として使用していました。 蛤御門の変(禁門の変)では、病を押してこの凝華洞で指揮を執ったとされています。
最後にえらい立派な庭園“九條邸・拾翠亭”を横切って(見学は午後からにして),先に昼食へ。
ここはももりさんの庭のようなものなのですね。
蛤御門の弾痕,
門にかなりの数残っていました。
探せないというのが分かりません???
弾痕を見ると,昔の鉄砲って威力がそんなに無かったんやなぁ~って思ってしまいます。