夢枕獏という人、はどちらかというと好きな方だ。
NHKの美術系番組でちょこちょこ見る。人柄が穏やかそうで、話し方にも好感が持てる。
……が、作品を読むと、どうしようもない違和感が。
※今のところ、「陰陽師シリーズ」と「シナン」「上弦の月を喰べる獅子」、
と、陰陽師関係のエッセイしか読んだことはない。その上での話。
彼の作品は、読んでいてどうも「薄さ」が気になる。
この薄さでいいのか。と心の片隅で疑問に感じながら読み進む。
薄さが効果的に働いてる部分もあるとは思うんだけどね。
陰陽師における情景描写は(いつもパターンではあるけれど)美しいと思って読んでいる。
ゆるゆるしたリズムが優雅さを醸し出している可能性もあるし、
ほとんど句点ごとに行を変える文体も、まあ、話には合っていると言えないこともない。
でもそれも程度問題。少々やりすぎじゃないのかなー。
会話文なんて、一人が喋って、一人が「ほう」とか「うむ」とか相槌を打つ、ばかりが続いて、
もう、気にし始めるとすごく気になる。水増し感が……。
その分、さくさく読み進められるという長所はあれども。
別に文字が詰まっているのがいい小説とは言わんけど、もうちょっと内容詰められるよね?と言いたくなる。
読点がやたらと多いのも実は気になる。さらに改行も多いわけで。
……邪推にもほどがある、と言われそうだけど、この人原稿枚数を稼ぐ為にこんな文体なのではないだろうか。
形体的な部分で感じる薄さの他に、内容で感じる薄さもある。
陰陽師の“呪”の話は、もうええっちゅうねん。何度書けば気がすむのだ。
“「ゆこう」「ゆこう」そういうことになった。”この辺りも、またかい、と言いたくなるぞ。
あとは”博雅は良い男だな”で赤くなる博雅。……どうもなあ。
話もパターンで台詞もパターンなら、何冊も読む意味がない。
まあ、シリーズ物はある程度のパターンは必要ではあるんだけれども。
「シナン」を読んだ時は、より一層薄さが気になった。
たしかにねー、参考文献は苦労したと思うよ。オスマントルコ時代の建築家、日本語で読める本は
限られていると思う。結構なチャレンジだったと思うし、その中で書いたという意味はある。
おかげでわたしもシナンという人の名前を知ることが出来たわけだし。
が、これを400ページ超えの上下巻で書かずとも良いよなー。材料が足りないのに
鍋一杯作ってしまったスープのような感じ。ここまで長く書くならもう少しケチらず材料を使ってくれ。
で、材料がないなら欲張って大鍋を使わず、小鍋で良いではないか。
陰陽師に関するエッセイ(「平成講釈 安倍晴明伝」だっけかな?)の薄さは
論外だったので無視するとして、今回の「上弦の月を食べる獅子」はそういう意味で、試金石だった。
「陰陽師」にしても「シナン」にしても、一応薄さには理由がないこともない。
が、「上弦の~」は。これは薄くては駄目だろう。何しろあとがきで著者が
「宇宙についての物語である」と大きく出ている作品だ。書くのに十年かけた、作者にとっては
大きな意味を持つ作品である筈。これが薄くては……他は推して知るべし。
で、結果として……これも薄かったのでした。
どこがどう、と指摘は出来ないけれど(出来ないのに書くなという気もするが)、
この人がいかにも思わせぶりに書く内容、どっかからの引き写しにしか感じられなくて。
仏教的な内容にしても、理科的な内容にしても、それらしく見せるために書いたという風に思えてしまう。
自分の中で咀嚼し、自分のものにしている、という力強さが感じられない。
いい小説には独自性と共に普遍性が大事だと思うけれど、この小説は普遍性というより
通り一遍という感じで、どんな微小なものであろうと真実が含まれるものになら必ずあるはずの、
輝きが見えない。
まあね。真実が書かれていることだけが価値じゃないけどね。
多分、夢枕獏の興味の方向は異世界の創造なんだろう。それには成功してるんじゃないかな。
エンタメには色々な畑があり、キャラクターを動かすことに情熱を感じる作家もいれば、
ストーリーをどれだけ波乱万丈に出来るかに賭ける人もいる。
読者をあっと言わせることに力を入れる人もいて……
みんなそれぞれ面白さが違うからね。どれが良くてどれが悪い、とは言えない。
いやしかしそれにしても、最後に出て来る「二番目の問い」にはがっかりしたなあ。
散々思わせぶりに引っ張って、問いがアレかい……。どんなすごい問いなのだろうと期待していたのに。
彼自身が考えに考え抜いた、根源的な問いであって欲しかった。
肝心要の部分なんだから、流用は止めようよ。作中では小理屈をつけて意味ありげに使っているけど、
だいたいあれは本来は単なるナゾナゾですから!
手垢もつきまくってるしね。「ここでコレか~」と脱力した。
宮沢賢治を使ったところは、好きじゃないけれどもぎりぎり可とする。
最初、パスティーシュか!?と思ってとてもヤだったのだが、奥泉光と違って、
この小説では「宮沢賢治」が描かれているから。これを嫌だと言ったら、
伝記小説の類が読めなくってしまいますからね。
あ、もちろん本作は伝記小説ではないけれども。
※※※※※※※※※※※※
散々くさしておいてなんだが、でも作家本人は嫌いじゃない。
なので、今後はエッセイを読んで行こうかと思っている。旅行記とか多いようだし。
そういうのなら、あまり違和感を持たずに読めるんじゃないかな。
小説は……ああ、でも一応「神々の山嶺」は読むつもりでいる。山岳小説としての
好評をどっかで見たので。これが駄目だったら、彼の小説にはもう手を出さないだろうな。
さて、どうなるか。
けっこうきれいな本。コーラン風。
NHKの美術系番組でちょこちょこ見る。人柄が穏やかそうで、話し方にも好感が持てる。
……が、作品を読むと、どうしようもない違和感が。
※今のところ、「陰陽師シリーズ」と「シナン」「上弦の月を喰べる獅子」、
と、陰陽師関係のエッセイしか読んだことはない。その上での話。
彼の作品は、読んでいてどうも「薄さ」が気になる。
この薄さでいいのか。と心の片隅で疑問に感じながら読み進む。
薄さが効果的に働いてる部分もあるとは思うんだけどね。
陰陽師における情景描写は(いつもパターンではあるけれど)美しいと思って読んでいる。
ゆるゆるしたリズムが優雅さを醸し出している可能性もあるし、
ほとんど句点ごとに行を変える文体も、まあ、話には合っていると言えないこともない。
でもそれも程度問題。少々やりすぎじゃないのかなー。
会話文なんて、一人が喋って、一人が「ほう」とか「うむ」とか相槌を打つ、ばかりが続いて、
もう、気にし始めるとすごく気になる。水増し感が……。
その分、さくさく読み進められるという長所はあれども。
別に文字が詰まっているのがいい小説とは言わんけど、もうちょっと内容詰められるよね?と言いたくなる。
読点がやたらと多いのも実は気になる。さらに改行も多いわけで。
……邪推にもほどがある、と言われそうだけど、この人原稿枚数を稼ぐ為にこんな文体なのではないだろうか。
形体的な部分で感じる薄さの他に、内容で感じる薄さもある。
陰陽師の“呪”の話は、もうええっちゅうねん。何度書けば気がすむのだ。
“「ゆこう」「ゆこう」そういうことになった。”この辺りも、またかい、と言いたくなるぞ。
あとは”博雅は良い男だな”で赤くなる博雅。……どうもなあ。
話もパターンで台詞もパターンなら、何冊も読む意味がない。
まあ、シリーズ物はある程度のパターンは必要ではあるんだけれども。
「シナン」を読んだ時は、より一層薄さが気になった。
たしかにねー、参考文献は苦労したと思うよ。オスマントルコ時代の建築家、日本語で読める本は
限られていると思う。結構なチャレンジだったと思うし、その中で書いたという意味はある。
おかげでわたしもシナンという人の名前を知ることが出来たわけだし。
が、これを400ページ超えの上下巻で書かずとも良いよなー。材料が足りないのに
鍋一杯作ってしまったスープのような感じ。ここまで長く書くならもう少しケチらず材料を使ってくれ。
で、材料がないなら欲張って大鍋を使わず、小鍋で良いではないか。
陰陽師に関するエッセイ(「平成講釈 安倍晴明伝」だっけかな?)の薄さは
論外だったので無視するとして、今回の「上弦の月を食べる獅子」はそういう意味で、試金石だった。
「陰陽師」にしても「シナン」にしても、一応薄さには理由がないこともない。
が、「上弦の~」は。これは薄くては駄目だろう。何しろあとがきで著者が
「宇宙についての物語である」と大きく出ている作品だ。書くのに十年かけた、作者にとっては
大きな意味を持つ作品である筈。これが薄くては……他は推して知るべし。
で、結果として……これも薄かったのでした。
どこがどう、と指摘は出来ないけれど(出来ないのに書くなという気もするが)、
この人がいかにも思わせぶりに書く内容、どっかからの引き写しにしか感じられなくて。
仏教的な内容にしても、理科的な内容にしても、それらしく見せるために書いたという風に思えてしまう。
自分の中で咀嚼し、自分のものにしている、という力強さが感じられない。
いい小説には独自性と共に普遍性が大事だと思うけれど、この小説は普遍性というより
通り一遍という感じで、どんな微小なものであろうと真実が含まれるものになら必ずあるはずの、
輝きが見えない。
まあね。真実が書かれていることだけが価値じゃないけどね。
多分、夢枕獏の興味の方向は異世界の創造なんだろう。それには成功してるんじゃないかな。
エンタメには色々な畑があり、キャラクターを動かすことに情熱を感じる作家もいれば、
ストーリーをどれだけ波乱万丈に出来るかに賭ける人もいる。
読者をあっと言わせることに力を入れる人もいて……
みんなそれぞれ面白さが違うからね。どれが良くてどれが悪い、とは言えない。
いやしかしそれにしても、最後に出て来る「二番目の問い」にはがっかりしたなあ。
散々思わせぶりに引っ張って、問いがアレかい……。どんなすごい問いなのだろうと期待していたのに。
彼自身が考えに考え抜いた、根源的な問いであって欲しかった。
肝心要の部分なんだから、流用は止めようよ。作中では小理屈をつけて意味ありげに使っているけど、
だいたいあれは本来は単なるナゾナゾですから!
手垢もつきまくってるしね。「ここでコレか~」と脱力した。
宮沢賢治を使ったところは、好きじゃないけれどもぎりぎり可とする。
最初、パスティーシュか!?と思ってとてもヤだったのだが、奥泉光と違って、
この小説では「宮沢賢治」が描かれているから。これを嫌だと言ったら、
伝記小説の類が読めなくってしまいますからね。
あ、もちろん本作は伝記小説ではないけれども。
※※※※※※※※※※※※
散々くさしておいてなんだが、でも作家本人は嫌いじゃない。
なので、今後はエッセイを読んで行こうかと思っている。旅行記とか多いようだし。
そういうのなら、あまり違和感を持たずに読めるんじゃないかな。
小説は……ああ、でも一応「神々の山嶺」は読むつもりでいる。山岳小説としての
好評をどっかで見たので。これが駄目だったら、彼の小説にはもう手を出さないだろうな。
さて、どうなるか。
けっこうきれいな本。コーラン風。
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