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明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手

2011年04月06日 20時01分49秒 | 日記・政治

普代村
 
【音楽流星群】普代村、3000人を救った防潮堤[桜H23/4/4]
 
 
津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある 普代 ( ふだい ) 村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。
 
 村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。
 
 「これがなかったら、みんなの命もなかった」。 太田名部 ( おおたなべ ) 漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。
 
 津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。
 
 村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。
 
 防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市 田老 ( たろう ) 地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。
 
 村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。
 
 今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。
 
 普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。
 
2011年4月3日22時05分  読売新聞)
 
 

岩手県普代村の奇跡 3000人の村の堤防があの津波をはね返した

2011年3月31日 Gendai net
 

これが公共事業だ 死者ゼロ、住宅の被害もなし

 高さは共に15.5メートル。東北一の「防潮堤と水門」が村を救った。岩手・三陸海岸の北部にある普代(ふだい)村。漁業が盛んな人口約3000人の村だが、11日午後3時半すぎ、巨大な津波が襲いかかった。
「高台から見ていましたが、津波がものすごい勢いで港に押し寄せ、漁船や加工工場を一気にのみ込みました。バリバリという激しい音がして、防潮堤に激突。みな祈るように見ていましたが、波は1メートルほど乗り越えただけで、約1000世帯が住む集落までは来ませんでした」(普代村漁協・太田則彦氏)
 津波が来る前に、港に船を見に行った男性が行方不明になっているが、防潮堤の内側にいた人の被害はゼロ。住宅への被害も一切なかった。高さ15.5メートル、全長130メートルの「防潮堤」が、村人の命を救ったのだ。村の北側には、同じ高さの水門(全長200メートル)があるが、こちらも川を勢いよく上ってきた津波をほぼはね返し、小学校を守ったという。
 普代村の隣、田野畑村(人口約4000人)には、高さ8メートルの防潮堤が2つあるが、津波を抑えられず、死者・行方不明者40人、全半壊533戸の被害が出ている。“高さ15.5メートル”の防御力は絶大だが、なぜ普代村に2つも造られたのか?
「防潮堤は1970年に約6000万円(当時)をかけて造った。水門は35億円(同)で、84年に完成しました。普代村は1896年の明治三陸大津波で1010人の死者・行方不明者が出た。1933年の津波でも約600人が死傷しました。戦後、和村幸徳村長が『2度あることは3度あってはいかん』と県にひたすらお願いし、建設の運びとなった。かなりの費用がかかるので、当時は『他のことに使えばいいのに』『ここまでの高さは必要なの?』といった批判もたくさん受けましたよ(苦笑)。きっと今は天国でホッとされているのではないでしょうか」(村役場住民課・三船雄三氏)
 村ではボロボロに壊れた漁港や養殖場の修復作業が進められているが、一方で、堤防に手を合わせたり、故・和村村長の墓に線香を供える人が絶えないという。

 


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