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気仙沼を訪れて(最終回)

2011-10-19 18:01:23 | 地震

 市役所のトイレに下水処理場がまだじゅうぶん稼動していないので、という貼り紙があった。

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(市役所のトイレの貼り紙)

 流域下水道というのがある。大きな川の河口に下水処理場を作り、河川にそって作られた下水網で汚水を一括処理するものだ。

 私自身はこの流域下水道一辺倒の流れに抗して、合併処理浄化槽による下水処理の設計のお手伝いをしてきた。 一言で言えば汚水は発生源のすぐ近くで、飲める程度になるまで処理をして河川や土壌に返せば合理的だ。大規模なものを集中して作るより、小規模分散をという思想だ。

 小規模分散であれば街全部の汚水処理ができなくなるような事態はないはずだ。

 が、まだ気仙沼市の下水処理場は稼動していない。

.

 仮設住宅の話も続けよう。

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(浦島小学校の仮設住宅)

 浦島小学校の仮設住宅、阪神の時と同じタイプだ。冬は寒いだろう、なにか考えないといけない。
 阪神大震災のときに西宮市では湿気でナメクジの大量発生ということもあった。

 行政は津波についてなんの準備、教育や広報もしてこなかったのかというとそんなことはない。

 道路の「これより津波浸水想定区域」の看板は4年前の設置だ。写真のような警告看板などもあちこちで見られる。

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(津波警告の看板)

 備えはあった。備えはあったのに、気仙沼市だけで10月18日現在

死者数: 1,027人
行方不明者数: 372人
住宅被災棟数: 14,437棟(8月31日現在)
被災世帯数: 9,500世帯(4月27日現在・推計)

 の被害だ。気仙沼市は人口約7万人、西宮市が48万人だから7分の1ほどか。その西宮市で阪神大震災の死者が1146名。比較すると上の数値の重みが伝わってくる。

 「想定外」などという妙な言葉が幅を利かしているが、誰かがある想定をして線を引いている。想定ラインというのが存在するのだ。

 建築の構造設計でも、限界耐力計算などという計算をするとこの「想定ライン」、たとえばごくまれに起きる地震により建物に作用する水平力、これを決めるのは設計者の仕事だ。

 自分である想定をするのだから「想定外の地震で・・・」などという言い訳は通用しない。

 では津波対策の想定は誰がどのようにしたのか? これを調べるのもこれからの課題だ。

 各地で道路の嵩上げ、流された橋の仮設橋による架替がおこなわれていた。 建築屋としては土木屋がうらやましい。 橋を架ける、土地を嵩上げする、高台に宅地を作る、目の前に仕事の結果が示される。建築屋とはスケールが違う。

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(気仙沼漁港のほとんどの道路は嵩上げがおこなわれていて、車で通行できる)

 いったい建築設計者に何ができるのか?

 この思いがどうしても頭から離れない。人に会っても、カバンの中の老人のためのグループハウスの図面は出せずじまいだった。

 建物について相談していただきたいが、地元の方の仕事のじゃまになってもいけないなどとも思う。

 これもまた私の宿題とするしかない。

 まだまだもっと深く調べて書かなければいけないこともあるだろう。 いや私自身がもっと考えなければいけないことがある。

 が今日はこのへんでカンニンを。

(終わり)


気仙沼を訪れて(3)

2011-10-18 10:48:09 | 地震

 気仙沼から湾の東側、唐桑半島を時間の許す限り進もうと車を走らせた。中心地から30分ほどの浦島地区ではまだ解体作業がおこなわれ瓦礫の運び出しが続いている。

 想像だがこの地域は地盤沈下しており道路の嵩上げ(70cmほど嵩上げされている)をおこなわないと解体用の重機やダンプカーが入ってこれなかったのかもしれない。

 それにしても遅すぎる。

 阪神大震災のとき私のアパートに水道が通じたのが震災3ヵ月後の4月末だった、これも遅かったが。半年たってまだ解体中というのはつらい。

 またこの地域では津波で全壊した家とともに、1階部分の建具はさらわれたが、他の躯体はしっかり残っている家も多い。先の2mの浸水域で、住んでもいい、よくないという線を引くということを立証しているのかもしれない。

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YouTube: 気仙沼
上の動画にあるように少し山側のしっかりした建物は躯体が残っている。1階の建具は流されているが、2階は窓が見える。復興のありかたについてヒントにならないか、他の建築、土木の専門家の見解も聞かせて欲しいところだ。

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(このポストを使える日は来るだろうか)

 気仙沼市の漁港ではない少し高い位置の東浜街道添いはかっぱ寿司などファミレスも営業してにぎわっている。津波の浸水はあったようだが、建物の地震被害も津波被害もそうひどくはなさそうだ。

 ここを通過するだけでは、ふつうの町に見える。もちろん被害を受け復興作業の結果ここまできた街区だ。

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(気仙沼市内、東浜街道添い)

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YouTube: 気仙沼漁港2011.9.28
(上の写真の東浜街道から直線距離で1kmぐらいの漁港地区)

 同じ市内でもある地域は営業中、坂を下るとその地域の家は土台が残っているだけ、この差が日が経つに連れて辛くなるのは想像に難くない。 阪神大震災でもそうだった。当時、武庫川を超えて尼崎にはいると、居酒屋も風呂屋も営業中だった。

 女性がミニスカートでコーヒーを飲んでいる姿に、一瞬違う国に来たかのようなめまいを覚えたものだ。

(続く)

記事の一部は慶応大学気仙沼復興プロジェクトの「気仙沼まちづくり調査報告書」を参考にしました。


気仙沼を訪れて(2)

2011-10-17 16:56:11 | 地震

 先日発表された「気仙沼市震災復興計画(案)」を見てみよう。まず深さが2mを超える地域は「原則居住禁止」を説明する図だ。(クリックで拡大する)

2m

 そして居住高さについてのイメージ図

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 これらには誰も何の反論もない。私には2mの線引きが妥当かどうかについて判断する知識もない。

 津波被害の経験にもとづいた理屈にあった計画だろう。

 この浸水高さ2mでの線引きと、復興の具体案とはズレが生じる。

 被災して家族を失った人たちの気持ちになるとそのズレがわかる。

 移転で変わってしまうであろう地域のコミュニティについて、高台に移転したほうが明るい未来が見えるならいいが、「あんまりいいことなさそうだね」なら、以前の土地で暮らしたい気持ちになる。

 復旧や再建するだけでなく、お年寄りや子どもたちが新たに希望をもてるようなコミュニティづくり、まちづくりの構想のこれからに期待したい。

 今回の気仙沼行きにはもう一つ調べておきたいことがあった。「なぜそこに住んだのか?」という問いだ。
 1949年の地図と現在の被災建物地図を比べると、震災時の浸水域に1949年当時はほとんど建物はない。(慶應義塾大学 SFC 気仙沼復興プロジェクトより)

 戦後、塩田などの低地が埋め立てられ、この地域が職住商一体となった街区になったという。住んでもいい地域だったのか? せめて居住禁止にするという判断や議論はなかったのだろうか?
 このテーマは先送りだ。行政がどういう姿勢だったのかていねいに調べないといけない。

 被災地に行って「ここは住んではいけなかった場所ですか?」と聞く勇気は私にはない。 

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(1949年の地図)

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(被災建物をピンクで示した地図)

・・・続く


気仙沼を訪れて(1)

2011-10-11 16:20:55 | 地震

 阪神共同福祉会理事長、中村大蔵さんの「プロとして現地は行っとかなあかん」の一言が背中を押してくれた。
 「高台移転とはどういうことなのか、それと仮設住宅も見てな、瓦礫の処理も、沿岸部の沈下もやな」 これも中村大蔵さんの言葉だ。私としては被害を受けなかったほうの地域や建物をていねいに見たかった。阪神大震災でもそうだったが、被災地域で被害が少なかった建物から「なぜか」を学ぶことが大事だ。
 石巻在住の兄のアパートに泊めてもらい、気仙沼まで。ちょうど国会では震災についての予算委員会審議がおこなわれており、NHKラジオで聞きながらのドライブだ。

 現地に行ってみないことにはわからないことの一つに土地の「高さ」がある。
 海岸沿いの45号線を車で走ると5分おきくらいに海岸に出ては、また台地に駆け上がる。海岸の建物はほぼ全滅だが、台地の集落にはあまり被害はない。津波について安全-危険の始まりと終わりが何度も写真の標識で示される。この標識は4年ほど前に設置されたとのことだが、かなり明確に津波危険地帯がそこにあることが示されている。大雑把な言い方だが、車で走ると5分に1個所の安全な高台だ。

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 では農漁村の高台移転の場所はあると言えるか、となるとそうではない。私が通過した範囲では南三陸町などは見渡す限り建物の基礎が残っているだけの状態だ。遠くにに少し集落が見えるが国道沿いにはない。

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(南三陸町にて)

 尼崎で開かれた「復興支援尼崎ネットワーク」の集会で話を聞かせていただいた、特別養護老人ホーム春圃苑を訪ねる。仕事のじゃまをしてはいけないと思い、アポ無しで見学の許可をお願いしたら、尼崎で話していただいた菅原さんみずからが案内してくださった。忙しいのに本当にありがとうございました。
 菅原さんの言葉によると、「半年がたって、やっと道が見えてきた。何をすればいいかがわかったので、とにかく前に進んでいる」とのこと。笑顔とともにエネルギーを分けていただいた。
 さて春圃苑だが、現在は定員+20名を受け入れていて、その20人分に相当するユニット型施設の増築が進行中だそうだ。さらに3地区にそれぞれあったデイサービスセンターの一つが流されたのでその再建も進行中だそうだ。
 そんな忙しい中に時間をさいていただいてありがとうございました。「道が見えてきたので、前に進む」お手伝いができればと思う。

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(特別養護老人ホーム 春圃苑)

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(この下右側には遊園地もあったいいところなんですよ)

 「仮設住宅にも差があるんです」という話を聞いた。ダイワハウスが建てた仮設住宅には入れた人はラッキーだそうだ。これは現実を確かめないとと大谷中学校グランドの仮設住宅を訪れた。勇気をだして話しかけたら写真の男性がいろいろ教えてくれた。

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(ダイワハウス製の「いいほうの」仮設住宅)

「確かに他の仮設に比べると、ここは質はいいかもしれないが、この夏は暑かった。通路は風が抜けるが、建物と建物の間が近すぎて風が抜けない」

さらにこの人は本吉地区で被災されて、

「鉄道より海側の人はもう、住みたくないと言ってるけど。われわれ鉄道より山側のもんはほとんど、もう一度家を同じ所に建てたいと思っている」

 「家はなくなって、瓦礫も処分してくれたけど。基礎の解体は自分持ちだって。基礎を解体して撤去しないと、更地にはならない、それに金はかかるし」

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(ダイワハウスでないほう面瀬中学校グランドの仮設住宅)

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(残った基礎、行政は撤去してくれない)

 気仙沼を訪れたのが9月28日、その10日ほど前に市から「気仙沼市震災復興計画(案)」が発表になっていた。津波時の浸水深さ2mで線を引いて、深さが2mを超える地域は「原則居住禁止」、それ以外は条件付きで居住を認めるという内容だ。
 ある方から「気仙沼市はおさかなばかり大事にして、年寄りのことはその次だから・・・」という批判も聞いた。「被災した医療・福祉施設の復旧整備に努め」と復興計画案には記載がある。「復旧整備」ではなく、お年寄りと地域の人々が毎日を暮らす新たなコミュニティづくりが必要な気もする。ほんとうに施設を作りなおす「復旧」でいいのだろうか?

(続く)


3月11日、その時私は・・・

2011-03-12 10:45:02 | 地震

 3月11日地震発生、その時私は新大阪のオートデスク社セミナールームで、Revit ユーザ会のミーティングに参加していた。
 私のとなりの柱がミシッ、ミシッと音をたて、床がゆーら、ゆーらと揺れ始めた。
 後でわかったが、震源地は 800 km も離れていたのにかなりの揺れだった。
 ネットワークがつながっていたので、「仙台震度 7 !」 など情報が次々入る。

家族と Twitter でのツイート

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  • 私 14:50        「地震やまだ揺れてる、新大阪、長周期」

  • 娘@横浜 14:53   「駅ビルにいたからか横浜もめっちゃ揺れた。ほんまに死ぬかと思った!」

  • 長男@埼玉 15:07   「めっちゃ揺れた。研究所ではかなりの人が外に出てた。震度5以上を体験したのは、16年前の神戸以来かも。」

  • 次男@東京: 15:25 「取り急ぎ、無事です。」

  • 私:17:09       「関東在住の3人の子どもたち、石巻在住の兄夫婦の無事を確認。他のみなさんの無事を祈ります。」

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 と、Twitter とメールで家族の無事は確認できた。一番心配したのは石巻にいる兄夫婦だったが、16:57携帯メールで連絡がとれた。
 もちろん、Revit ユーザ会のセミナーは中止。 東京のトリトン24Fではオートデスク社のセミナー中だったそうだ。 何人かは徒歩帰宅、何人かはトリトン泊になったとのこと。

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オートデスク大阪営業所のある新大阪トラストタワーの3階、地震発生でエレベータが停止。
エレベータ前は防火戸で閉鎖。

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防火戸(写真の奥)が閉まってトイレも行けないとの声もあったが、押すと開いた。