尾崎 慎 の 彫刻ライフ

石彫刻家尾崎慎の作品の紹介や、展覧会情報、これまでに起こってきたエピソードや日記など様々な事を綴って行きます。

(自叙伝)スェーデン滞在記   その7  

2010-08-24 21:54:05 | 彫刻家の書く小説(スウェーデン滞在記)
スウェーデンでのクリスマスは決して派手では無いが、静かにその寒さに耐えながら、でもどことなく心が温まるクリスマスだ。
このクリスマスはケネス・ヨハンソン、アグネッタ。スベンスクご夫婦の家に招かれて、素敵な夜を過ごした。
ここに招かれていたのは、小山氏、鈴木氏、ヘンリックにハッセもいた。
家に入るとまずケネスが暖炉に火をくべて、取って置きのワインを開けてくれた。
暖炉の火は一本のマッチで直ぐに火が点くように、細かな枝と、細く割った木、よく乾燥した中くらいの木、そしてメインの木が見事に組み合わされ、見る見るうちに暖炉は煌々と灯された。
そして、アグネッタのお得意の料理はマッシュポテトと鹿の煮込み、とても味わい深く、暖かな家庭料理だった。スウェーデンでは乾杯の時「スコール!」と言うのだが、ここら辺の方言では「スコッポレィ!」と言うらしく、私がこれを真似て言うと「お前の発音はとてもいいなぁ~。」と彼らは何時も褒めてくれた。
ここでもやはりschnappsと陽気な歌声は欠かせない。皆で肩を組みながら歌い過ごすクリスマスはとても印象に残っている。

クリスマスも終わって直ぐに年末になると、今度はウィルミンの故郷である、オランダに行ってここで年を越す事になった。
ウィルミンのお兄さんのヤンさんご夫妻の所でお世話になった。
スウェーデン人とはまた全く雰囲気が違った気質を持つオランダの方たちは陽気は勿論の事、解放感に満ちている感じがした。カウントダウンど同時に街中に鳴り響く爆竹の音と共に、そこにいた人全員で新年のご挨拶の抱擁とキスをするのだが、それは目を塞ぎたくなるほど過激なものだったがそこには笑いが溢れていた。
勿論私もその渦の中に巻き込まれながら、新年を祝った。
彼らの会話の中でとても興味深い話が有ったのだが、ヤンさんは普段ヤンチャと言われているらしいのだが、愛称として、・・・チャは日本でも使われる・・・ちゃんと同じニュアンスで使われる。たとえば僕なら慎ちゃんというような使われ方なのだが、彼らの言うには、これは日本にオランダ人が行った時にこの言い方を伝えたのではないか。と言っていた。これには、何だか自分も妙に納得して聞いていたし、たまに今でもこんな話を日本で話す事がある。オランダ人は日本の事を好きな人が多いと聞かされたのだが、確かに普通に街中を歩いていても、浮世絵などを目にすることは多かった。彼らの言う「日本が好き」と言うのは、今の日本の事を指し示すのではなく、日本が育んできた伝統文化の事を言っているのだと思った。京都や奈良など、特定な場所に行けば納得が行くだろうが、東京などの主要都市に連れて行っても「これが日本か?」と言われそうな気がした。

暖かな雰囲気の中、新しい年を迎え、「お前もこちらに長く住むのだったら、俺たちが恋人の一人も紹介してやるよ。そのためにはもう少し言葉を勉強しろよ。」
オランダ人は普通に5~6ヶ国語を使いこなす。
確かに、こちらに長くいるのだったらそれも有りかもしれない、と頭の中で空想していた。
とにかくヨーロッパは地続きだが、少しでも移動するといっぺんに言葉が通じなくなってしまう。楢葉氏がオランダ人と結婚したのにも納得がいった。
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スウェーデン滞在記   その6

2009-09-30 00:07:25 | 彫刻家の書く小説(スウェーデン滞在記)
ここに住んでいる日本人達は、年に一回のペースで、「日本人会」たるグループ展を開催しているのだが、楢葉氏はこの中に入っておらず、小山氏や、鈴木氏と日本から彼等の近隣の方達を招いて発表している。
私も当然その中に加えて貰えるものだと思っていたのだが、此処に来てから日が浅い事と、この先どうなるのか分からない私にはお声が掛かる事はなかった。
楢葉氏との一件が有ってから、自分の作品を何所かで発表する機会を失ってしまった私は自分だけが蚊帳の外に居る感覚に陥り、この気持ちを何所に向けたらいいのか分からなくなってしまった。
併しこの居た堪れない気持ちも制作を続ける事によって解消された。
制作は自分の想いや感情、周りからの影響や状況など生活に密接する全ての事をその中に託す事が出来る。制作だけが今の自分の事を助け、癒やしてくれた。

ここの工場には様々なアーティストが出入りしていたのがだ、その中でもアメリカ人ののジェームスはなんとも哀れな感じのする男だった。
彼はもともと夢を抱きこのスウェーデンに若い頃来て作家を目指していた。ところがアーティストとしてやって行けず、この工場に転がり込み仕事を貰っていたらしいのだが、働きが悪く解雇されてしまった。その後行く先が無い彼はこの工場にしがみ付き制作活動を続けている。しかしここもタダで貸してくれる訳では無く毎月賃貸料を払わなくてはならない。彼は生活保護を受け生活しているし、そんなお金は無く工場の終る5時過ぎに徐にやって来ては、制作をしていた。
5時過ぎの工場の休憩室には工員達が残した冷めたコーヒーが何時も残っていて、
piss warm(小便のような温かさ)などと文句を言いながら飲んでいた。こうしたスラング語は彼から教わった。
この時間に来てもたまにここの社長と会ってしまうと「早く家賃を払え!」と何時も怒鳴られていた。こんな事が有っても次の日には懲りずにやってくる。
そんな彼を見ているとなんとも哀れな感じに襲われ今の自分の方がまだましかもしれないとも思えた。



年末になり、夜の時間が長くなり、暗い道を車で走っていると森の中にはポツリポツリと灯りが点っている。クリスマスシーズンには各家が自宅前の木に電照で彩るのだ。今でこそ日本のクリスマスシーズンは煌びやかに家の回りを様々な色の照明で飾るのだが、こちらは電照の色も白熱灯一色で、なんだかとても心温まる心地のいい雰囲気を醸し出す。流石北欧という雰囲気で、夜空を見上げるとサンタがトナカイのソリに乗って走り回っているのではないかと思えるほど、素敵な雰囲気であった。
そんな或る日楢葉氏は、スウェーデンの北から、ノルウェーへの旅に連れて行ってくれた。ハムスタードからイェーテボリそしてオスロに入った。そこからさらに北のラップランドの近くまで行き、サーメア人の操るトナカイのソリに乗ったり、北欧のナイフを買ったり、オスロ美術館のムンクを見たりして、休日を楽しんだ。 
そんな帰り道真っ暗な道に車を走らせて、イェーテボリからハムスタードに差し掛かった時、ウィルミンが急に「あれは何?雲じゃ無いわ!ストップ!ストップ!車を止めてちょうだい!」と騒ぎたてながら夜空を指差した。
車を止め私達は外に飛び出し、その不思議な光景に言葉を失っていた。
扇状に揺らめき奇しく光るその光景は今まで一度も目にした事の無い物だった。
暫らくの沈黙の後「オーロラだわ!そうよあれがオーロラよ!」我を取り戻したウィルミンが興奮してはしゃいだ。
「僕はここに移り住んでから18年経つがこんなのを見たのは初めてだよ。君は本当にラッキーだね。」と楢葉氏が呟いた。
後から聞いたのだが、スウェーデンでもハムスタードのような南に位置するような場所では見られることすら無いそうだが、マイナス18℃を下回る時極稀に見られるそうだ。
この事を工場の人達に言うとスウェーデン人である彼等でさえ一度も見た事が無いと言っていた。「一生に一度もんだよ。」

これは最高のクリスマスプレゼントになった。
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スウェーデン滞在記   その.5

2009-09-16 04:44:58 | 彫刻家の書く小説(スウェーデン滞在記)
当時私が借りていた車はスウェーデンを代表する車の一つサーブだったのだが、型が古かったのかハンドルはとても重く、小回りを利かせるのも一苦労という感じだった。
この車で工場まで10分と掛からない距離に有ったのだが、この道中様々な動物に出くわした。
楢葉氏の家は大自然の中といった感じで、隣りの家などただの一件も見えない環境の中にあったので、当然動物達の楽園でも有ったのだ。
この道中毎日のように出会うのがキャニーンと言う地本の人が言っていた野兎だった。日本に住んでいる野兎と殆ど同じ種類のようだった。また名前を忘れてしまったのだが、1m近い大きさの兎もいて、これには驚かされた。
シカも普通によく見掛けたが、この中でもムースという大ヘラジカは凄い迫力が有って、大きさは馬にデッカイ角をのっけた感じで、道に悠然と立ち塞がり、一行に動こうとせず、こちらをゆっくりと睨みつけ、また草を食む。

これらの動物達はしばしば食卓に上る事が有ったのだが、大抵は煮込んだ物だった。
キャニーンは鶏肉のようでとても食べ易く、良かったのだが、デッカイ兎は臭みが強くちょっと食べ難かった。
シカもよく食卓に上がったのだが、これらは近所に住む猟師さんから廻って来たようだ。
この近所でもシカがドーロに出て来て撥ねられるといち早く猟師が駆け付け、内臓から順番に無くなるらしい。この中でもレバーはパティにするには最適らしく、これらもパンなどに付けて食べる。
スウェーデン人の食材は主食がジャガイモで、一見ヘルシーなように感じたのだが、このジャガイモのせいで、スウェーデン人は二十歳を過ぎるとブクブクと肥ってしまうらしい。女の子も二十歳前の子はとても綺麗な子が多い感じがしたが、それ以後の子は皆肥っていたような印象を持ったのはそれを聞いていたせいだろうか?
ここの近くには湖も多くあり、夏になると湖畔で日光浴をして過ごす光景がよく見られたのだが、ここでは女の子も皆トップレスで過ごす。
普段からヌードデッサンなどで、女の体なんて見慣れているはずなのに、ここでは全く自然の中で過ごす日常の光景に置かれた女達の体を見るのは、とても新鮮で、しばしば湖畔に行き見ていた。彼等にとっては日常でも私にとっては全て非日常の日々だった。

私が作った作品も少しずつ溜ってきた或る日、楢葉氏は「君もここで暫らく過ごすのなら作品を発表出来る場所も必要だろう。僕が何所か紹介してあげるよ。」
とても嬉しい一言だった。
それから、氏が行く画廊や美術館には、一緒に私の小品も持ち歩き、画廊主や、美術館の館長さんに作品を見せる機会を与えて頂いた。
楢葉氏はスウェーデンでは名が通った人で、氏の紹介という事も有ってか、どの画廊も美術館も直ぐに私の作品を受け入れてくれて、私の個展の企画まで話しが進んでいってしまう。
ある画廊では私の作品をとても気に入ってくださり、常設してくれる事になり2点ほど置く事になった。
楢葉氏も最初のうちはこうなることを喜んでくれていたのだが、或る日突然「僕はここスウェーデンに来てから発表出来るまで3年も掛かったのに、君はまだ発表出来る段階じゃない!もっとここを知ってから発表しなければならないだろ!」と凄い剣幕で怒り始めた。
とんとん拍子で話しが進んで行く私の個展の話しと、自分がここで苦労して今の地位を築き上げた事のギャップを感じたのだと思う。
僕から見たらこうなって行くのも貴方の力有ってからこそなのに、そこで目くじら立てる事では無いではないか!
この一件が有ってから、一切画廊や美術館への紹介は無くなってしまった。



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スウェーデン滞在記 その4

2009-08-29 10:07:19 | 彫刻家の書く小説(スウェーデン滞在記)
スウェーデン人の方達は皆心が大らかで、とても優い印象を持った。
勿論それには周りにいる日本人の人達のお蔭デでも有ったのだと思うのだが、兎に角親切にして貰った印象しかのこっていない。
北欧というだけで、なんだか暗くて重苦しい印象を抱いていた私だったのだが、スウェーデンの国旗がスカイブルーに黄色の十字が施されているように、彼らも実に陽気で、ちょっぴりシャイだが、以外と日本人の気質に似ているのかもしれないと思った。

夏が来ると彼等はザリガニ祭りたるものを催す。kurafutaと言うのだが、よく日本でもスウェーデン料理専門店でコジャレたお皿にちょっぴり盛り付けた物を目にする事がある。あれはとても高級感が有ってなかなか良いものだが、実際はスウェーデンの郷土料理で、紙の三角帽子を被って、schnappsというスピリッツをクイッと飲乾し、皆で陽気な歌を歌い、夜通し過ごし短い夏を楽しむ。
この日ばかりはザリガニを食べる時チューチュージュルジュルと音をたててもいいらしく、大柄な彼等の姿と豪快なバイキングの姿が重なった。
ザリガニの味は海老とあまり変わらない感じがしたのだが、最初のうち泥臭さがちょっとだけ気になったが、schnappsと陽気な歌声は普段の生活を忘れさせてくれた。


ここに来てから半年以上経つというのに全く自分の作品を作っていない。
この事は当時私にとってとても不安にさせ、ストレスを溜る事となった。このままでは気がおかしくなってしまうのではないかという不安に襲われ、自分を失ってしまうかもしれないとまで思えてしまった。
私はこのストレスを解消するために、毎日寝室で筋トレで解消し、腕立や腹筋をしたりしていたのだが、それでも制作意欲だけは治ることがなかった。
そんな或る日の事、仕事を終わらせた私は破材捨て場に行き適当な大きさの石を拾って来て、自分の作品を作る事にした。
普段帰る時間まで監視されているわけでは無い事がこの日々のに分った。
この半年以上自分の制作が出来なかった私にとって、今迄失い掛けていた自分自身を取り戻せるようで、細胞の一つ一つが活性化するような錯覚さえ覚え、改めて自分が生る在り処を見付けられたようで、時間を忘れて制作できるという歓びを知った。しかし帰る時間も決っているし、長い時間は出来なかった。
一点の作品が出来上がった時、この事を楢葉氏に恐る恐る告げる事にしたのだが、氏は「普段からストレスを溜め込むなら大いに作りなさい。その方が君の為にもいいと思う。」と言って下さった。
それに甘んじて、毎日少しずつ制作を続けて、つい時間を忘れて帰る時間が遅くなると、「君の制作の為にここに置いているのではない!」ときつい口調で叱られた。確かに彼の言う通りだったのだが、この日を境にまた不眠症になり、睡眠剤を常用しなくては寝られなくなってしまった。

                       つづく
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スウェーデン滞在記  その3

2009-08-22 10:32:05 | 彫刻家の書く小説(スウェーデン滞在記)
楢葉氏は18年前この工場近くで行われた石彫シンポジウムに参加して、それ以来スウェーデンの魅力に取り付かれ、そのまま移住してしまったようだ。
当時氏は日本人の奥さんと娘さん二人を連れ移住したようだが、娘さん一人をこちらで交通事故で亡くし、とても辛い日々を送っていらしたようだったのだが、その後その奥様とは離婚し、現在はオランダ人の奥さんと暮している。自分でも「これが本当のダッチワイフだよ。」と言っていた。これは奥さんもおどけながら口を揃えて言っていた。
奥さんの名前はウイルミン。この家族の中に入って生活するわけだが、日常の会話は英語で過すのだが、氏との会話は勿論日本語でやり取りする。となりにウイルミンがいようものなら、とたんに「貴方達は英語を使わなくてはだめでしょ。」としょっちゅう叱られていた。
楢葉氏はウイルミンの故郷のオランダに小さなアパートを持ち、フランスのブルターニュにも家を持っている。
どの家も田舎の家を買ったようで、日本円にして500万円程で手に入れたそうだ。
これを聞くと自分にも可能な金額だと頭を過ぎる事も有ったし、実際小さな家ならオズビーの駅近くで300万円程で売りに出ていた。
いっその事このままスウェーデンに移住してしまうのもいいのかもしれないと思うことすら有った。
スウェーデンでは国全体の人口も少ないし、住むとなるとその時点で税金を納める事になり、受け入れる側は大歓迎らしい。
その代わり税金はとても高いが、将来の保証は万全である。
将来が保証されている代わりに面白い現象も起きる。日本では普通の会社員が定年退職をするのだが、ここではアーティストまで60才を境にリタイアする人がいると聞いた。私が滞在期間中にも実際スウェーデンでもとても有名な彫刻家が居たのだが、60才になってリタイヤした作家がいた。
われわれ日本人にはとても考えられない事である。
お国柄と言えばそんなものなのかもしれないが、小さい頃から芸術家は40、50はハナタレ小僧と聴かされて来た私にとっては、かなりのカルチャーショックだった事は確かである。

滞在期間中ウイルミンの故郷デンボッシュ(確かこんな街の名前だったように記憶しているのだが)に行った事が3回有った。ここはアムステルダムより南に位地して、アムスからでも車で1時間強で着けるとても素敵な街だった。
普段大自然の中で暮している彼等にとって、街に出た時は街の楽しみ方で過す。
オランダはお酒類は豊富だし、食べ物も旨い。しかしドラッグも横行し、アムステルダムに行った時は普通にドラッグを売り歩く人が点々といたり、sexの象徴とも言えるピンクの飾り窓には妖しく胸元や腰をくねらせながら手招きする美女達が立っていた。
ドラッグの常習者はこの街に逃げ込めばまず捕まる事が無い無法地帯とも聞いた。
このドラッグに関しては、近隣の小さな街中に有る公園の中でも普通に常習する輩がいて、公園の片隅には使い古した注射器の破片や注射鈎が落ちていて無暗みに近付かないように言われた。これはエイズ感染の危険性を懸念してらしい。

彼等がこうした街にくる理由は骨休めも有るのだが、営業という重要な仕事も兼ね備えている。
顔見知りの画廊やお客様の家に作品を届けたり、次ぎの展覧会の予定を組んだりで、作家の生の生き方を見る事が出来き自分の活動の為にもいい勉強になった。



                    つづく
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