ラヂオデパートと私

ロックバンド“ラヂオデパート”におけるギタリストとしての津原泰水、その幾何学的な幻視と空耳。

ある日常

2007-01-16 03:23:08 | マルジナリア
 早朝寝て、昼前に起床。推理短篇を推敲し編輯者に送信。
 大阪の楽器店に在庫を見つけ取り寄せたエンヴェロープ・フォロワーを、自宅のミニアンプで試奏、設定。このエフェクターについては後述する。

 日頃「ちょっと音を出す」といった場合、KUSTOMのTUBE12Aという、プリ部に真空管の入った中国製アンプを愛用している。買った値段は七千五百円くらいだったと記憶しているが、レコーディングに使える程の音を作れる。良い歪みを発する。ですぺらでのライヴでも専らこれを使ってきた。残念ながら生産終了らしい。ただBEHRINGERから近いアンプが出ているとも聞く。
 KUSTOMは本来、オーストラリアのメイカーではなかったか? リッケンバッカーに似た感じの面白いギターを、以前はよく中古楽器店で見掛けた。たしか手に取ったこともあるが、いかにも先カンブリア時代の産物らしい形状のネックが、僕の手には馴染まなかった。

 編輯者と電話。メールの返信と整理。鍋物の残りを温めて食事。文庫解説のための資料読み。入浴しリハーサルに出掛けようとしたら新聞社から電話。郷里のFM局が開局二十五周年につき、なんらかの出演を求めてくださっているという。基本的に承諾。続けてFM局からも電話。会食の約束。
 少し遅れてスタジオ入り。奥野が仕事で欠席でドラムレス。ベースとギター、ボーカルとコーラスの齟齬を確認しやすいといった利点もあるが、本番同様のセットだから、どうしてもバランスが取れない。かといって明日とは違うギターで合わせても意味がない。
 ギターの音が派手過ぎて耳障りなのだが、これがドラムが入ると途端にマスキングされる。ドラムレスの演奏も幾度となく経験してきたが、そういう場合はアコースティックに近い、レンジの広い音のほうが絶対に良い。ピックアップを付けたアコースティックギター、あるいはフルアコ、あるいはコーラスユニットなど通して煌びやかにした音。ところがそこにドラムが入ると、途端に聞えにくくなってしまうのだ。ドラムがいるならレンジの上下はドラムに任せてしまって、ギターはミッドレンジに絞り込んだほうがいい。
 帰途、小山が電話で「駄目?」などと会話している。別ユニットのライヴのメンバーが、のっぴきならない事情で揃わないらしい。エキストラ要員を兼ねたお客として、ギター持参で出向く約束をする。
 電車の中でも資料読み。帰宅後も資料を読みながら、録画しておいた『けものみち』の再放送を観ながら、居眠り。最初の放送は長篇に没頭していた時期で、飛び飛びにしか観ていなかった。冷静に観察すれば物凄いセットなど使っていないのだが、リッチさの表現が優れている。
 次はいよいよ『わるいやつら』か。録画予約はしてある。米倉涼子は婦長かと思いきや看護婦なんだね。それとも両者を兼ねさせる脚本か?

 僕は公的にも私的にも、長らく松本清張を擁護――いや賛美してきた。誤解されがちだが、清張はまず芥川龍之介賞を受賞したほどの美文家であり幻視者であり、そんな人が、ロジカルなミステリ大作をものす程の才能もまた有していたのである。資質は三島由紀夫に極めて近い。真面目な話、原稿をシャッフルしたらけっこう区別がつかないと思うぜ。
 清張えがく神話的ピカレスクロマンは、当時「社会派推理小説」というレッテル付きで、たいへんもてはやされた(僕は当時を知っている。凄く昔の人のように思われがちだが、実は『黒革の手帖』の刊行は1980年。『ブラバン』の舞台たる、まさにその年なのだ)。これらを「社会派小説」と混同して、ろくに読みもせず、的外れな批判をする人達がたまにいる。時事ネタを好んでリアリズムを標榜したのは、例えばこのところ清張同様に再ドラマ化が盛んな山崎豊子である。ちなみにその師匠は井上靖。

 といった、小説家兼バンドマンの日常。おやすみなさい。

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