ラヂオデパートと私

ロックバンド“ラヂオデパート”におけるギタリストとしての津原泰水、その幾何学的な幻視と空耳。

もうじき完成

2008-07-05 05:02:55 | 録音
 こんな怠慢なブログでも連日訪れてくださる方があるようだ。感謝。
 本業で変な番狂わせがあったせいでこのところペースが乱れ、ウェブ連載にも支障をきたす程だった。ヌートリアスの作業も中断してしまい、メンバーにも申し訳ない事をした。やっと作業が一段落した。

 以前も書いたが、1st CD『きっと食べてね』には、ヌートリアスとしての同曲以外、ミキコアラマータのラヂデパ曲カバー、ラヂオデパートによるミキコ曲カバーが収録される。お互いのファンへの挨拶状といったところ。ミキコは〈雲雀よ雲雀〉を取り上げてくださった。まだ途中経過しか聴いていないが、切ない曲想をよく捉えてくださっている。
 ラヂデパは『ライブアラマータ』に収録されている〈カーブを描く〉を選んだ。コード進行が雄大だし、とにかく歌詞が良い。余りに好きで、いざバンド演奏したらまるきりコピィになってしまい、これはいかんなとコード進行からして解体した。跳ねていたリズムも、ほぼイーヴンに。
 個人的には、ガットギター、12絃ギター、バリトンギター、ラップスチール、そしてマンドリンを重ねた。凡てエレクトリック。ビアンコが生ギターが上手いので、同じ事をやったら見劣りしてしまう。普通のギターが入っていないのが、なんだか自分らしいかなとも。コーラスを相当重ねたが、ビアンコによるミックスでどの程度残存するかは謎。僕の声は殆どミドルの塊なので、重ねるとアナログシンセのようになる。このノウハウは今後も使えそうだ。基本的に左右に二声ずつ、が丁度いいようだ。で、左右でちょっとだけ違うメロディを歌う。

 やたらと音を重ねるのを「誤魔化しだ」と批判なさる向きもあろうけれど、ステレオ再生自体が誤魔化しなのだから、そこにトリックを投入するのは恥ずかしい事でもなんでもないと思っている。生演奏だと伝わる音の大半が、平坦な録音物では消失してしまう。
「俺はいつも心のマンドリンが鳴っているから、それを具体化しただけだ」と嘯いているが、ある意味でこれは妥協の産物なのだ。しかし積極的な妥協である。小説で映像を表現しようとする人は、物凄く損をしていると、一人の小説家として思う。映像で言葉を伝えようとするのも同様。

 ライヴではライヴでしか出せない音。
 録音では録音でしか表現しえない事。
 昔はこんな生意気は云えなかった。演奏力がつき、テクノロジィもそれを後押ししてくれる現状だから、図々しくも云える。若い頃、二十以上の録音トラックを同時に扱えるようになるなんて、夢にも思わなかった。余りに自在なのが誰に対してだか分からんが申し訳なく、アナログでは出来ない継ぎ接ぎのような事はやっていない。この辺、頭が旧い証左だと自覚しているのだが、そうでもしないとどこで完成と見極めればいいのか、見当がつかないのだ。