ラヂオデパートと私

ロックバンド“ラヂオデパート”におけるギタリストとしての津原泰水、その幾何学的な幻視と空耳。

一瞬の永遠

2008-05-19 05:46:51 | マルジナリア
 まったく音楽に関係がないうえ、ひょっとすると文筆家として初めて、率直に私的な話題である。
 書かずにいられない。

 本人もよく認識しているし周囲もあるていど知っているので包み隠さず記す。僕の母はC型肝炎であり、それが肝硬変を経て、癌細胞をはぐくむに至っている。
 各地弁護団によって定義された「薬害肝炎」被害者の定義に当てはまるのだが、だからといって原告団に入れるかといったらそうでもなく、「四千万円貰えるんでしょう」といった風評被害に遭っている。

 きっぱりと書く。政府の云う「一律救済」は、司法試験並みの高倍率を勝ち残れた僅かな人達「だけ」への、一律救済である。だから莫迦みたいな高額を呈示できるのだ。他は関係ないので、これでひとつこの件は忘れてください、と云っている。
 更にきっぱりと書く。いま各地の弁護団がやっているのは、「確実に勝てる原告を集める」という弁護士倫理に反した行為である。レコード会社のオーディションよろしく「ジャンル・年齢・性別は問いません」に近い事を喧伝しておいて、欲しい被害者像は既に定まっている。その像に当てはまらなければ、「じゃ、そういうことで」と手だけを振って振り向いてもくれない。彼らが求めているのは、訴訟に勝てて、政府が頭を垂れざるを得なかった、あの感じの人々だ。見目麗しく、マスコミを通じて世の同情を買いやすい被害者だ。

 フィブリノーゲン(のちにフィブリノゲン)製剤の使用に問題ありと公的に認知されていなかった1967年、それを良薬として投与された僕の母に、糾弾すべき敵は見つからない。医師は目の前の命を救うために投与した。それが売血を原料とした薬剤であり、効果の程は不明で、経験上、何割かが肝炎になると判っていたとしても、投与する義務すら感じていたに違いない。
 売血が原料との点に問題があるという声もあろう。しかしそれは、少なくとも人間の血だった。家畜の血ではない。取り敢えず目の前の危機だけ避けられれば合格、が当時の医学だった。殆ど病院に育てられたような僕には、それが実感できる。

 哀しいのは、併しながら僕の母の病状や苦しみの蓄積が、原告団に入れ勝てた人々の多くより、更に深刻だという事実だ。原因は同じだが、新しい事例なら「敵」が見つかる。長く苦しんだ人はそうではないから、裁判というゲームに勝てない。
 だから現原告団は、「自分達だけ救済される訳にはいかない」と泣かせる事を仰有る。折角の解決を遠ざけたかのような、あの姿勢への世の批判は少なくなかったが、僕は泣いた。肝炎というのは苦しいのだ。敢えて言葉を選ばないが、それはまるで生き腐れていくような、精神的にも肉体的にも本当に苦しい病なのだ。
 もし僕の母の人生を早送りで見せて、この人生か、それとも近々の事故死か、と迫ったなら、多くが後者を選ぶような気がする。それを実感していらっしゃるから、自分達だけでは厭だと仰有った。少なくとも僕はそう理解していますから、どうか宝籤にでも当たったと思って、早いうちに少しでも良い治療を受けてください。嫌味でも皮肉でもない。

 死なない人はいない。誰もが限られた生をいき、それが長い程に背負うものも増える。
 自分はなんの役に立ったのかと自問するようになる。
 自問できる人は幸いである。
 貴方は既に永遠を感じて、そこに生きている。