エチオピアエチオピア

代田橋からこんにちは

ウルルン滞在記1(GR)

2008-08-19 21:49:24 | Weblog
8月15日(金)のことです。

今日はアジスから南へ行ったジマという町へ向かう。
アムハラ語の総仕上げとして農家へステイするためだ。今晩はジマに泊まり、農家はそこから更に車で一時間ほど行ったサディ・ロヤという村にある。
ジマまではアジスから車で六時間、長距離バスだと八時間という道のりだ。
早朝5時にドミトリー同室の隊員の目覚まし時計が鳴る。出発は八時だというのに。
準備がまだ気になるのだろうか?
七時半になると隊員9名はいつの間にか集まり、迎えの車もいつの間にか到着。
今回は色々あってランドクルーザー二台をチャーターとなった。本来であれば長距離バスであったので感謝感謝。
一台はJICAカー、もう一台はレンタカー。僕の乗った車の運転手のアマルは英語がほとんど話せない。

始めのうちは隊員五名と運転手、アムハラ語の会話に花が咲く。日本語にしてしまえば「今日は暑いね!、ジマはもっと?」とか、「私はティグバレッドで建築の先生をします。でも今は雨季なので休みなのです。」とか他愛もないのだけれども、カタコトだとなぜかこれが楽しい。
半年前にまだ日本で仕事をしていた頃に、会社にスペイン人が居たときに、皆は彼ととても楽しそうにケラケラ笑ながら喋っていた。彼と英語で会話が出来る僕よりも遥かに楽しそうに。
そういうことだったのか、と今になってわかる。
話を始めて30分もするとアジス市街からはすっかりと抜け、見渡す限りの丘陵と平原が広がる。その中に本当に小さな土壁作りの集落が点在し、人々が農業に従事している。
平原、川、歩行者、牛飼い、ロバ使い、集落、しばらくはその繰り返しが続く。ここはアフリカだったんですね。

僕らは自足100km/hで進んでいるのにたまに「チャイナ~!」との応援が飛ぶ。無論この速さで
「チャイナじゃないよ、ジャパンだよ!」
なんて言い返せるわけも無い。

そうこうしているうちに景色は再び変わり、道は山道に。
とはいっても日本の山道とは訳が違い、ゆったりとした丘陵の中を道が分け入っていく。時計を見ると標高はアジスとほどんど変わらぬ2200m。
11年前に御茶ノ水のアウトドアショップで買ったプロトレック、今もまだよく働いてくれている。

そのうちに道は長い下り坂に差し掛かった。
そしてこの二ヶ月くらいではもちろん最も、そして人生では1番目か2番目かの景色に遭遇した。
そこには見渡す限りの谷が広がっていた。
谷の幅は10km以上あるのだろうか?谷の底にはかすかに道が見え、その脇には小さな町が広がっている。そして谷の向こうまで続く道はまた登っていき、反対側の山の向こうへと消えていく。
「今からあそこへ行くぞ」と運転手の言うとおり、見渡す限りには僕らの進む道が延々と続き、山の向こうへと消える道へと続いている。
同期隊員4人と狂喜し、今アフリカに居ること、そしてエチオピアにいるという喜びをかみしめていた、思いがけず。
心からは言葉にならない言葉が沢山出ようとしていて、そしてそれは全て感嘆としてのみ僕達の口から出るしかなかった。
雨季のエチオピア、谷の底は一面の緑で二ヵ月後には一面に花が咲くという。
本当に凄い、本当に凄い。小説家でもない僕の口から出せる言葉といったらそれくらいしか思いつかなかった。

小さい頃に家族で車でアメリカ横断をした。色々見たし、グランドキャニオンだって見た。しかしこの感動には叶わない。
景色の持つ力の分量の違いではなく僕自身が今は大人であるという事実によるところが大きいのではないか、と今になって実感として思う。頭ではそんな気はしていたのだけれども。

谷底は標高1200m。2400mのアジスから来ると1200mはとても低く感じる。そしてここはとても暑い。谷山からは一気に1000mも下ってきたのだ。
谷底の町の人々は珍しいアジア人を見て手を振る人、唯一知っている英語で「ユーユーユーユー!」と言う子供。総じて皆素直な目をしているが、半数はその後に口に手を当てその後手を出し「1ブル、1ブル(こちらの通貨単位)」と言う。
10歳にもならない女の子までが薪を背負い、道路を、そして坂を登っている。
僕らはと言えば、快適な車の中ではしゃいだり、ゆっくりと寝ていたり・・・

谷を渡り再び2000m程まで登りきり、途中でマントヒヒのようなものを目撃しつつ、気がつくと寝ていて、気がつくとそれまで途上国とは思えないほどに綺麗だった道は荒れ、市街地に入っていた。
ジマに到着した。

ホテルで遅めの昼食を取り、翌日村でお世話になるJICA専門家の方とお会いし、スケジュールを確認。
村ではテント泊なので夜はハイエナやチーターに気をつけろ、とのこと。
やっぱりここはアフリカなんだ、と再確認。

チェックインの後、町をしばしぶらつく。
イスラム教信者の多いこの町には教会は見当たらず、てっぺんに月と星のマークをあしらったモスクが二つほどあった。
町はかなり小さく、短い方では端から端まで10分もあれば歩けてしまう。
人々はアジスとは比べ物にならないくらいにジロジロ見て、そして声をかけてくるが嫌味は無い。素朴で良い印象だ。
丁度オリンピック女子1万mでエチオピアのツルネシが金メダル。この日記をメモするノートを買おうと入ったスック(商店)で中継を目にし、お店の人と硬く握手を交わしてこの瞬間を喜ぶ。こちらの時間で夕方五時、果たして本当に生中継であったのだろうか・・・?

ノートを買って外に出ると「僕にもノートを買ってくれ」と、少年にせがまれる。しかし仕方が無いがキリがないので無視するしかない。
一通り見物してホテルへ帰る道すがら、3~4歳の少年と出遭った。
名前はマンデラと言い、一緒に歩いていた隊員と片手ずつ持って挟み、ぶら下げて遊んであげた。
「マンデラ良いなぁ!」「マンデラ元気かぁ~!?」
と道行く人に声を掛けられる。
ホテルに近づくとマンデラは口に手を当てそして手を差し出し、
「1ブル、だめならサンチーム(こちらのセントみたいなもの)を頂戴」
という。
横に歩いてきた10歳くらいの少年がマンデラに「やめなさい」と言い、マンデラの兄だと言う。
ホテルの入り口まで来たマンデラと少年は警備員に止められ、僕らは部屋に帰った。
そして水しか出ないシャワーを浴び、同期に呼びかけられてテラスで食事。
生ビールを二杯飲み、最後に皆で早口言葉ゲームをし、最後まで言えなかった人が「バスガス爆発」と言いながらコマネチを三回することに。
早々言えてしまったはずの僕は、なぜか負けた人と一緒にコマネチをし、部屋に帰り、寝た。

長々とどうもすみません。

写真は一眼レフでかなり撮ったもののウイルスか何かのせいで全部消えてしまいました。これはGRに残っていた数枚のうちの一枚です。

Photo: View from th window of the car, on the way to Jimma from Addis Abeba.