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 「Around the world 」 感じた事を徒然なるままに・・・

世界各地の徒然、音楽、美術、時空をワープしてぼんやり世界の呟き。思ったこと、感じたことを徒然なるままに。

エストニア1

2014-12-30 00:15:10 | 旅行

只今、札幌にてこれを書いている。

 

「天候状況により、仙台空港への着陸か羽田への引き返しが予想される」

 

そんなアナウンスを何度も耳にして、ようやく札幌・新千歳空港に降り立ったのは、数日前。札幌方面からの電車は雪を乗せた状態で、やはり遅延状態だった。折り返し札幌・小樽方面の空港ライナーは、札幌以降は雪の状態により小樽までは行かないとの状況だった。

しかし、翌日からは快晴で白い雪景色の中の青空は一段と冴えわたり、しみじみと今年一年を振り返っている。バルト3国より帰国してから、目まぐるしい忙しさで今頃ノロノロと旅の記憶をさかのぼっている。

 

 

 

さて、バルトの国々の内、まずエストニアについて紹介したい。

エストニアは丁度フィンランドの向かい側に位置する。日本からの直行便はないので、必ず第3国を経由しての到着となる。首都のタリンは、ヘルシンキと向き合う様な位置(真正面ではないが)にあるので、フィンランドとエストニアを含めるバルトの国々を訪れる計画では、最初にフィンランドを訪れ、その後シリアラインの船でバルト海を南下する行程も第一に考えられる。しかし、これは夏にお勧めしたいコースである。

 

エストニアの首都タリンは、バルト海のフィンランド湾にたたずむ港町だ。雪が降る中の写真なので解りにくいかもしれないが、薄らとフィンランド湾が見えているのがお解り頂けるだろうか?

タリン(Tallin)と言う町の名の由来は、「Taani Linn」で、「デンマーク人の城、街」からそう呼ばれるようになったと伝えられる。と言うのは、11世紀頃から既にエストニア人が住んでおり、この町には建設されていたが、十字軍が活動するようになると、彼らによるバルト地方での活動が活発化され、それに呼応したデンマーク王によって、その砦が占領されたことに由来する。

その砦に造られた城がトームペア城である。トームペアは、石灰岩の層でなる海抜約47メートルの丘だ。上の写真は、トームペアからの眺めである。

 

トームペアの丘は山の手と呼ばれ、支配者や貴族たちが居を構えた。商人や職人たちが暮らした下町からは、せっせとこの坂道であるリュヒケ・ヤルク通りを登らなければならない。ゆるやかなスロープ状の石畳の道もあるが、滑るのが怖いので階段道を上った。それでも滑る。(いくら札幌育ちの私でも、アイスバーンの上を歩くのは怖いよぉ~~~^^)

このピンクの建築物がトームペア城である。ロシアを訪れた事のある人ならば、この建築を見てエカテリーナの支配下に造られたと察しが付くだろう。トームペア城は、エストニア人の砦があった場所に13世紀前半に建設された騎士団の城であるが、支配者が交代するたびに補強改築されてきた。現在の姿は、18世紀後半にエカテリーナ2世により知事官邸の目的として改築されて宮殿のような造りである。

写真で解りにくいが、エストニア国旗(上から青、黒、白の横島)が掲げられている。歴代の支配者の旗が掲げられてきた。現在は、エストニアの国会議事堂としての役目を果たしている。

 

タリンは、2.5Kmの城壁に囲まれていた。しかし、現存するのは1.85Km。三角屋根の塔が並べられた城壁は、タリンの中で最重要な建造物である。

その1.85Kmの内、一部に登り歩いてみた。

タリンに最初の木造、城壁が建設されたのは、13世紀前半とも、あるいは13世紀後半に農民やドイツとの紛争に備え、デンマーク女王(13世紀後半ならばマルガレーテ女王)の命によって着工されたとも、資料によると若干の時代の違いが見受けられる。それ故今の所、私の中でははっきりしていないが、個人のお遊びブログなのでご容赦願いたい。

 

城壁を歩いてみると、中世の街並みの造りが、丁度ドイツの城壁都市と同じような印象を受ける。まるで、ロマンチック街道と古城街道の交差点のローテンブルグの城壁とよく似ていると感じる。(ローテンブルグには、10回以上行っている)

しかし、街の建築物がローテンブルグでは、木組みの造りが特徴的であり、タリンはシンプルな現代的な建物である。

城壁の下では、冬物製品の店が所狭しと並んでいた。

色とりどりのニット製品は見ているだけでも楽しい♪

 

淡い色彩の建築物は、本当にタリンの街で特に今の白い雪景色の中ではピッタリで美しい。

 

 

 

ここは、アレクサンドル・ネフスキー大聖堂。

 

 ロシア皇帝が聖人に捧げたロシア正教会で、1901年にアレクサンドル3世によって建設された。1242年の戦いでドイツ軍を破り後に聖人とされたネフスキー公に捧げられた。アレクサンドル・ネフスキー大聖堂は、正教者の移住する土地では、同名のものを目にする。このブログでは、ブルガリアの首都ソフィア編でも、現地のアレクサンドル・ネフスキー大聖堂を紹介している。ちなみに、ロシアの第2の都市であるサンクトペテルブルグにも同名の寺院があり、その前のメインストリートをネフスキー大通りと呼ぶ。ロシアのサンクトぺテルブルグ編でも、書いただろうか??

現代的なタリンの建築物である手前のクリーム色の建物とは、何となく調和を感じない。アレクサンドル・ネフスキー大聖堂は、エストニアが独立を果たした時には、移転する計画が在ったようだが、実現していない。今もなおロシアの脅威を感じているエストニア人の心情から察すると、気持ちの良い物ではないらしい。

 

中世時代のタリンの建築物は、総てハンザ商業都市リューベックの法律に従って建築された。その特徴は、建物の正面部分が、道路に面するように建てられ、上部には滑車が掛けられるクレーンが設けらた。屋根裏の倉庫に荷物を引き上げるためである。この3つ続きの集合体建物は、1362年に商人の館として建築されたもので、女性的雰囲気?が美しいので「三人姉妹」と呼ばれている。

 

 人通りの少ない裏道から、今度は人通りの多い大きな通りに出てみよう。

 

街はクリスマスの飾りで溢れていた。ショーウインドーを覗く親子さんは、カラフルな冬の装いだった。写真は後ろ姿だが、子供は何処の国でも本当に可愛い♪

こんな淡い色彩の洋服は大好きで、可愛い~♪と見とれてしまった。^^

 

 

 

本日はここまで・・・・・

それではまたお会いしましょう。^^

 Good night!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ただいまぁ~~~♪ ^^

2014-12-11 21:13:50 | 旅行

ただいまぁ~♪

寒さが厳しい北東ヨーロッパから帰国いたしました。

あ~寒かった。でもね?寒さに比例して大自然や街中の姿が美しくて、ダイヤモンドダストのきらめきの美しさとイルミネーションの煌めきの中で、心が酔ってしまいました。

どれ程、ホットワインを楽しんだでしょうか?赤ワインの渋みに甘味と香りが加えられて、濃厚なお味に身も心も温まりました。

ヨーロッパへの往復便の約12時間で、読もうと思い機内に持ち込んだ本を殆ど開くことなく、また、考えつくして答えを出したいと思い用意した自筆のノートも、一度は開いたけれども書き込みする事が無く、あっという間に現地に到着しました。

何をするにも鈍間な私です。考え事をする前に、何を考えるか考える順番付などを考えていて、考える時間を無くしてしまうような鈍間です・・・・(苦笑)

毎回の事ですが、とんでもない数の写真を撮りました。色々な物を目にして自分の感性に訴える物をファインダーで改めて覗いて写真を撮っている時間は、とても素敵な時間でした。そして、いつでもどこででもですが、人と人との出会いの奇跡を感じました。

ノンビリゆっくりと、これからご紹介したいと思います。

 あなたも私も誰でもが、素敵な2014年を終えられます様に・・・・

good night!

 

https://www.youtube.com/watch?v=nYZRxq3jCJo

 

 

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涙のコンチェルト

2014-12-07 05:43:12 | 旅行

皆様こんにちは。

私は今、ワルシャワに居ます。ワルシャワでは、今夜からメイン通りの街中のクリスマスイルミネーションが始まり、凄い人混みです。

 

余りにも美しくて、うっとりです。

アウシュビッツでの歴史的過去とこの美しいイルミネーションの対比に、涙が零れそうになってしまいます。

つくづく、今自分がここに居ることを、神に(さんまの頭でもいいけれど)、周囲の人々に感謝をしたいとの思いが込み上げて来ました。

この旅にでてから、今日まで31キロ歩いたことになります。

まあ、そんなに多い訳ではないですが、毎晩心地よい疲れと充実感を感じています。しかし、いつも、同じことを思います。[少女老いやすく学為りがたし]です。もっともっと色々なことを知りたい。身に付けたい。

一年中海外に出ていた頃の感性が甦り、しかし、その頃からは遥かに衰えた体力に憂いつつ、恐いもの知らずだった自分に今頃気付き、恥ずかしく思うのです。

最近は、日本人男性の良さも再発見しています。随分と大人になりました。ハハハ。。。。^^

 

さて、ホテルの傍にあるコンビニでも覗いてきます。

 

Gooo night !

 

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Labdien!

2014-12-01 05:07:52 | 旅行

ラブディエン!

皆様こんにちは!ラブディエンがどこの国の言葉かお分かりの方はいっらしゃいますか?

私は今、ラトビア共和国におります。

本日は、マイナス14度でした。気候のためでもありますが、南欧等のよう明るさはありません。イタリア等の街角では、日本女性を口説かなければ失礼にあたると言わんばかりにイタリア男性は声を掛けてきますが、ここラトビアは、静かで美しいです。

それは、ロシアやドイツなどの強国に支配されてきたという重たい歴史を背負って来たからでしょう。かつての過ぎし日の出来事ではなく現在も同様の民族問題を抱えて、人々は暮らしています。

ですが、今の時期は市民の憩いの広場では、クリスマス市が開催されており、美しくまた、気象条件の厳しい冬を明るく楽しく過ごそうという人々の心を感じます。その中に身を置き、しばしの間、現地に溶け込んでみました。

 

帰国後に、ゆっくりと写真と共にご紹介をしたいと思います。

 

日本は、只今12月1日の午前5時で、ラトビアは前日の午後10時です。

 

時差ぼけ?いつも惚けているので、時差ぼけは感じません。。。

果たして喜ぶべきか、我が身の怠惰さを嘆くべきか悩んでいます。^^

 

 

それでは、また、お会いしましょう!

GOOO NIGHT !

 

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ウトゥラノ シノタン ロ~♪

2014-09-07 00:00:07 | 旅行

 ウトゥラノ シノタン ロ~♪

アイヌ語で「一緒に遊びましょう~♪」です。^^

新千歳空港では、まるで初めて北海道旅行をした人のように、心弾んで出発ロビーでお買い物をしてしまいます。

 

 アイヌ文様のレターセットやらミニメモやらのセットを購入。^^

 

 

鍛高譚’(たんたかたん)の焼酎は、近所のリカーショップで見ました。紫蘇の香りがとても良く、好きな方が多いですが、私には濃くて一口でギブアップでした。でも、空港で飲みやすそうなソーダ―割を見つけましたよ! ^^

 JR北海道の駅の表示看板のミニチュアでマグネットになったものを見つけました!

「やまとなでしこ」と言うドラマだったでしょうか?その中で、登場人物の医師と魚屋さん(後にボストン大学の数学者)二人が、学生時代のサークル内で、一人の女性を巡って恋のライバルだったという設定がありました。結局は医師の妻になったのですが、サークル内のマドンナが「北海道の愛国(だったか幸福)駅の看板が欲しい」と口にしたところ、数学者は翌日、北海道に飛んで(その設定だと多分帯広空港)、愛国駅(or幸福駅)の看板を持って帰り、マドンナにプレゼントをした。勿論、ドラマですからね?そんなことは、器物破損や窃盗になってしまいます。すると、医師は、完全にマドンナの心が数学者に行ってしまったと焦り、彼女に土下座をしてプロポーズした・・・・。という件が在りました。

「幸福駅」「愛国駅」の切符をお守りに入手する人が沢山いたようです。多分、国鉄時代のお話だと思います。

「銭函」は、札幌と小樽の間の駅で、沈没船からお金の入った金庫が水揚げされたとかなんとかの云われがある駅です。^^

「様似」は日高本線の終着駅。ここから高山植物で有名なアポイ岳に登ります。

そんなこんな、色々な道内の地名看板を見ていると面白くてね・・・つい、5枚も購入してしまいました。^^

 秋葉原のオタクのごとく、つい・・・・北海道限定番のガチャポンに惹きつけられてしまい・・・・100円ではありません。400円しました。4バージョンがあり一つだけトライ!「温泉に浸かっている女性」が欲しかったのですが・・・・・ 私が、こういうガチャポン機の前でウロウロいているのは、思い切り様になっていなかったと思いま~す。^^場違いな人ががうろついている感じ。

 

 ガチャン。ポン~と出てきたのは、AIR DOの模型でした。見苦しい支えではなく、雲がボディの支えになっていました。

 あ~「温泉の女性」が欲しかったなぁ~。後ろ姿が憎いじゃない?そう思って、でも、お顔が気になってガチャポンの販売機の隙間から、お顔を拝見しましたが・・・・駄目でした。温泉に浸かる背中から、つい美人を期待しましたが・・・・ガッカリ。これじゃ、北海道出身女性の評判がガタ落ちよ!・・・と思っても、温泉に浸かっているのは、本州以南の観光客女性と言う設定かもしれないですしね?^^ お叱りを受けるかしら?

次回、新千歳でのお楽しみにしておきます。^^

 

 

 これは、ちなみに私が造ったミニチュア。色々なフィギュアを見ると、自分でも作ってみたくなります。^^

とっても可愛いトマト。近所のスーパーでは入手できなくて、デパートに行かないと買えないので、空港で見つけた時には、重たいと思いつつ購入してしまったわ。^^

アイコちゃん。

 こちらは、凍らせて水に付けるとツルン~と皮がむけるので、シャーベットとして楽しみました。十分甘いけれど、更にお砂糖をかけて。これらの2種とも形が可愛いから、包丁を入れたくないのね。形の美しさも楽しみます。

まるで、初めて北海道旅行をした人のような手土産一杯で、まだまだ、お菓子とかお化粧品とか抱えて機上の人となりました。^^

滑走路が見える・・・・

「長沼ナイキ訴訟問題」のミサイル基地は、この写真では切れていますが右側になります。

あ~素敵な時間を過ごしたなぁ~。

あ~もう、苫小牧上空を抜けてしまう・・・太平洋に入った・・・・

本州上空になると、湿度が高い・・・・

 

 シィ ウヌカァ ラン ロ~・・・・・

(それでは)「またお会いしましょう・・・・」^^

Good Night !

 

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イランカラプテ~♪

2014-09-04 01:21:26 | 旅行

久しぶりのアップです。

 

スカッ!!とした星空を鑑賞したくて、札幌に行ってきました。

どんよりと湿度が高い夜気では星空が曇っていてよく見えません。例え、雲っていて見えなくても、そこに星々が存在しているのは知っていますが、それでも、美しいその姿を眺める事が出来ると、飛び切りロマンチックですものね?^^

 

新千歳に飛ぶ前は、蝉がミンミンと煩く真夏でした。

 

羽田は快晴とは言い難かったですが、まあ夏の空でした。

 

 

飛ぶ前のひと時を、ラウンジでコーヒーを片手にボンヤリ~♪としています。

 

 

新千歳に着くと空気がとても爽やかでした。

札幌~新千歳間の空港ライナー(JR線)から見える風景が美しくって・・・・

札幌市内に入るとこういう風景は見ることが出来ないので、車内で立ったまま窓枠ごと撮影してしまいました。

札幌市白石区はしろいしと読みますが、宮城の白石藩の方が最初に移住されたようでようですね。

滞在中はとても気持ちよく過ごしました。★を眺めたり、花花と戯れたり・・・・

初めて、アウトレットなるものを訪れてみました。アメリカのアウトレットの様な感じを想像していて、あまり好きではないと思っていたのですが、行ってみると・・・・

「あああ~また行きたい!! 」でした。^^ でもぉ~。お金が幾らあっても足りない!という感じで、アウトレットの意味が無くなってしまいますね。心して計画的にお出掛けしなくっちゃ。

アメリカの倉庫のようなアウトレットは何度も経験していますが、普通にというよりもとてもきれいなショッピングセンターでした。^^

急ぐ必要もないので、のんびりJR線に揺られて、初めて「北広島駅」に降り立ち、更にバスに乗り、小旅行のような感じを楽しみました。北広島は、広島の方が最初に移住されて、北の広島と名付けたようですね。こういう、アメリカの様な新大陸としての地名の他に、北海道の地名はアイヌ語由来のものがあり、漢字がとても難しいですが、地名の意味を調べてみるととても面白いです。アイヌ語に少々興味があるのでね、勉強になります。

いやぁ~、必要以上に大きな駅でなんだか、パリのオルセー美術館の様な造りでした。

無駄に広い感じ・・・

 

駅前も広くてスッキリと清潔で、「ああ~北海道!」

 

アウトレットに行ってみると、観光バスの駐車場が広く、店内の掲示看板を見て納得。東南アジアからの外国人のお客様が、観光バスで乗り付けるようですね。さすが、広くてのんびり楽しみましたが、疲れが出てしまい帰路は知人に車で迎えに来てもらいました。^^ ドア~ドアで楽ちん♪

 

もう、何を食べても美味しくって~♪

 

弟子屈ラーメン。てしかがと読みますが道東にある町で、札幌からですと遠いので飛行機で行くのが便利でしょうか?何度か、訪れたことがありますが、こんなところで弟子屈ラーメンが食べられるなんて!? アイヌ語の「テシカ・カ」で、「岩盤の上」の町と言う意味の様ですね。^^

 

デザートも美味しいッ!!!!!

 少し、子豚ちゃんになったかも・・・どどどど、どうしましょう。さらに、これから食欲の秋ですしねぇ~。

帰宅してみると、一度に季節が巡ってしまった感じです。9月に入り、秋が少しずつ深くなりゆくのですね?昨年は、いつまでも暑さ引かずに閉口しましたが、真夏のギラギラ感が短いと何だか物足りない感じで季節が移行してしまった印象です。

でも、秋は大好きな季節なのです。夜が長いから星空を沢山鑑賞できるから・・・・

春も大好きな季節なのです。昼が長くてお花を沢山鑑賞できるから・・・・

でもでも、夏も冬も好きなのです。^^ どの季節もそれぞれに好きです。四季があるから日本は美しいのですものね?

さあ、今年も残り四分の一になってしまいました。

あなたも私も誰もが、素敵な秋の季節を楽しめます様に・・・・

それでは、またお会いしましょう。^^

Good Night!

 

 

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世界遺産「富岡製糸場」

2014-07-22 23:14:05 | 旅行

 

 今日梅雨明けをしたようですね。本格的な夏を待って、海や山に行きたいと思っていましたけれど、待ちきれなくてお出掛けをしてきました。先にアップした碓氷峠に引き続き、世界遺産「富岡製糸工場」をご紹介いたします。

 

 歴史遺跡や世界遺産の研究のために「富岡製糸工場」へ?NO!NO!

TVでシルクパウダー入りのソフトクリームが紹介されているのを見て、そのソフトアイス食べたさに行く事にしました。甘い誘惑に弱い私・・・・

ついでに?工場見学をしてきました。

 明治初期に建設された工場です。赤レンガに赴きを感じますね。

ここで作られるのは何糸でしょうか?「そりゃあ~、繭からだから絹糸でしょう?」って?、違いま~~す。^^

絹糸が製造されるのは、織物工場に行ってからのお話です。製糸工場では、「生糸」が造られます。タンパク質がついたねっとりとした手触りの糸で、タンパク質を落とした糸が「絹糸」になります。

 

上記2枚の写真は、煙突部分が「蒸気釜所」と潰れた部分は「乾燥場」でしたが、今年2月の大雪の際に潰れてしまったそうです。丁度、ソチオリンピックの開催中は、本当に大雪でした。

しかし、文化庁によると建物を文化遺産とするという事ではなく、「製糸技術」そのものを遺産としたので、これらの倒壊は文化遺産指定に何ら問題はなかったようです。

木で骨組みを作り、柱の間を煉瓦で壁を作る「木骨煉瓦造」工法。明治5年建築の「東繭倉庫」で、1階は事務所や作業所で2階に乾燥させた繭を貯蔵していた場所です。

創業当時は、フランス式の繰糸機300釜が設置された、世界最大規模の工場でした。

この長い工場の空間を作っているのは、「トラス構造」という、それまでの日本にはない建築工法で作られました。

こんな感じで女工さんが仕事をしていたのですね?

 

現在は、昭和40年代以降に設置された自動繰糸機が保存されています。

指導者として招かれたフランス人ブリュリナ氏のための住居です。

 

 

 

このシルク入りソフトクリームが食べたかったのよぉ~~~。

 

ソフトクリームを頂いたお店の中に、世界遺産決定を知らせる新聞がタペストリーになって掛けられていました。

 

 

 

 

 シルクタオルに、シルク石鹸に、シルクタンパク質が付着した泡立てネットを購入してきました。

これからお風呂の時間が楽しみです♪ ツルツルの御肌になれるかしら?梅雨明けをして薄着になるから、御肌を磨かなくっちゃ~♪ ^^

本格的な夏を迎えますが、あなたも私も誰でもが夏バテなどをせずに、この時期を乗り越えられます様に・・・・

Good Night!

 

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群馬県「碓氷峠」

2014-07-20 21:39:34 | 旅行

梅雨明けをしたら、山や海に行きたいと思っていたけれど、待ちきれなくてどんよりとした天気の中を、お出かけしてきました。大自然の中を鳥のさえずりや水のせせらぎの音を聞きながら歩くのは、とっても心に沁みます。

 

群馬県の碓氷峠に行って来ました。

碓氷峠の「めがね橋」です。正確には、碓氷峠第三橋梁で国内最大のアーチ橋。

みごとなアーチで、まるでヨーロッパのどこかの橋のようです。

 

これから、峠をハイキングします。♪

少しづつ高くなっていきますが、空気が気持ちよいです。

足元の小さなお花をパチリ♪

昨年の今頃は、カムチャッカの高山植物を沢山撮影したけれど、国内の近間も素敵な所が沢山ありますね。

めがね橋が後方に低く見えてくるようになりました。

ずんずん登ってくると、眼下に道路が見えました。もし、車の運転免許を持っていたら、こんなところをドライブ出来るのねぇ~。今からじゃ、免許取得は無理よねぇ~。多分「無理無理!」と言って、周囲に笑われるのがオチかしら?

山腹に在来線が見えます。電車の中から見ても緑が一杯で素敵でしょうね?

実際に明治時代にはこのトンネルの中を鉄道が走っていたのですねぇ~。

 

トンネルを抜けると、「紫つゆ草」にご対面。綺麗な青色。500色の色鉛筆の中では、どの色名の紫になるかしら?

遠くに(望遠で撮っている)、碓氷湖が見えてきました。お天気がそんなによくないので、鬱蒼とした空気ですが、それでも清々しいです。

湖が見渡せる場所に、ポツンと素敵なコーヒーショップを見つけました。

 

「ヒメジオン」(ハルジオン)を発見。真っ白くて細い花弁がびっしり生えていて、華やかさはないけれど、とっても清楚な感じで可愛いです♪

碓氷湖は、ダムとしてつくられた人造湖なのですね。でも、山の大自然に囲まれているのでまるで、そこに湖が存在するのがとても自然な感じです。

国内外を問わずどこでも感じますが、雑草(といっちゃかわいそうね?)の生命力には脱帽です。いつも雑草からは教えられることばかりです。

温泉も良いですね~♪

ここは、「もみじ」の曲が生まれたところです。

よ~~~く見ると、もみじの葉先が赤く生り掛けているでしょう?未だ梅雨明け前で、本格的な夏は迎えていませんが、もっとも日の高い夏至を過ぎているので、私達人間はつい見逃してしまいあまり感じないですが、自然の草花は日照時間の変化を微妙に感じ取っているのですね?

本当に自然の姿は素晴らしいです。

 

 

斜面に白百合がポツンと・・・・。この野生の山百合は開花すると香りが強いでしょうね?

つぼみで残念。

何やら、木の下に見慣れない白いお花が・・・・

望遠にしてみると・・・・小さな5弁のお花が房になったお花でした。名前を知らないから、図鑑で調べてみましょう。

 

 

 

青い紅葉がレース模様のようです。

 

ダム施設がありました。

これは、「はこべ」ですね?花弁が10枚在ったのですね?知っていました?身長3センチ位です。接写で撮っていますよ。つぼみは小さな産毛が一杯。「私は未だ蕾だから摘んじゃ嫌よ!」とささやかな抵抗をしているようです。花開いたら、こんなに可憐な白いお花なのですねぇ~。

 

先程から見えている「赤い橋」は、「ほほえみ橋」というのですね?

ダムの傍までやって来ました。

 

上から見下ろすとこんな感じ。一寸、下に降りてみましょう。

わぁ~水が滝の様に流れている・・・・

そうそう、関係ないお話ですが、我が国の電力は水力や火力で十分賄えるのですよね?こんな美しい大自然(ダムは人工だけれど)の中を散策していると、原子力廃棄物が大自然の中に捨てられる(埋められる)のを悲しく思います。北海道の幌延とか、これから青森とか・・・

「カタバミ」の小さな黄色い花が元気をくれます。

こんな小さいのを接写で写してみました。私の足が巨人ガリバーの足のようですね?

 

あそこに行ってみます。

 

 

めがね橋から、ず~っと歩いて来た碓氷峠が見えます。

 

望遠にしてみると、木々の△が美しいです。天に向かって上へ上へと伸びている姿は、スッキリとした美しさです。

湖のほとりを散策するのは、ヒンヤリして気持ちがいいです。ロマンチックな場所ですよぉ♪^^

木の下で、chu!なんてね・・・きゃきゃ!

 

青い実を見つけました。

「夏椿」(しゃら)の花ですね?

木の上のお花を望遠で撮ってみました。バラ科らしく、きちんと5枚の花弁が綺麗です。

ウットリとして、山や湖の傍を歩き、野生のお花も観察できました。とっても素敵な時間でしたよ。

 

やっぱり、大自然は素晴らしいです。心が洗われて、自分が周囲に生かされていると感謝の気持ちが溢れてきます。そして、又明日も頑張ろうという前向きな気持ちにもなれます。

 

次回は、世界遺産の「富岡製糸工場」をご紹介いたします・・・・

 

 

 

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頼りないアドヴァイス

2014-07-16 01:17:15 | 旅行

仕事で行くトルコで、ついでに他国に足を延ばしたいので、相談に乗って欲しいという連絡を受けた。

時間がない。予算がない。できれば〇×▽□・・・・ クロアチアかハンガリーかを検討している。どちらが移動しやすいか?などなど・・・・

それで、求められるお応えは出来るかどうかわからないが、その方の行程を見て検討してみると返信をした。

行程をお教えいただければ、あくまでも一個人の旅人として、アドヴァイスにはならないと思いますが、私的な感覚というか感想やお勧めをお知らせできると思います。ですから、的確な旅計画の資料とされるのではなく、旅の前のわくわくしたお楽しみ程度に受け取って頂ければ幸いです。

それで、トルコを足掛かりにハンガリーに行きたいと、大まかなスケジュールが送られてきたので、それらを加味して御返事を差し上げる約束をした。

 

こんにちは。

ご予定を拝読させて頂きました。
 
陸路で移動をご希望とのことですね?私は両国の電車は利用したことが在りませんが、
恐らくはブルガリアとルーマニアの国境越えをしますから、ブカレスト当たりで数時間の停車、インターバルの時間を過ごさなければイケないと思います。結構大変かと思われますので空路をお勧めいたします。ですが、もし陸路でしたら、下記のサイトで予約をして、出発当日、成田もしくは羽田でチケットを受け取れるはずです。イスタンブールはヨーロッパサイドのシュルケジ駅発。ヨーロッパ鉄道最果て駅です。
 
 
空路ですが、体力の消耗を考えた場合に絶対にお勧めです。
何故ならば、LCCが結構飛んでいるので往復で1万円も掛からないと思います。(ただ、9月上旬でしたら繁忙期ですので、もう少し掛かるかもしれませんが、それでも大した金額ではないと思います。)
 
ですが、これは預ける荷物がない場合のお話です。予定ですと、日本からの往復はイスタンブールという事でしたら、空港に荷物を預けて必要最小限のみで移動でしたら楽かと思います。スーツケースを持って移動の場合は、倍位の金額かと思われます。往復2万弱。
 
電車移動で荷物を持ち込み、経由国でインターバルを過ごす場合を考えたら、空路の方が楽かと思われます。もし、電車の荷物が貨車預けならば問題無いと思われますが、3日移動、6日イスタンブール出国では、電車より空路が時間的にも余裕があります。
 
 
イスタンブールについては、是非、アジアサイドに行かれて下さい。それも、船で。ボスポラス海峡を船で渡り、ヨーロッパサイトどアジアサイドの両方を望むのは最高です。ガラタ橋の麓、エミィノヌュからアジアサイドのウシュキュダルヘは、30分に1本船があり、15分程度の乗船です。アジアサイドには、現地の人の市場が広がっていると思います。
時期によりますが、海水には白いクラゲが無数に浮いていて美しいです。
 
また、かつてトルコ政府から日本に呼び名の変更を求められたトルコ風呂ですが、現地ではハマムと言います。妖しいことはないので、数人で行かれては如何でしょう。
ローマ式風呂になり、蒸し風呂であかすりがあり、お風呂の建築が素晴らしいですよ。
日本のあかすりとほとんど同じです。
 
 
現地のお茶は、甘いアップルティーになります。水タバコを楽しみながらアップルティー(チャイ)を楽しむのが、現地の紳士の嗜みです。^^
料理は、イスラム式のシシカバブ―など・・・・
また、ヨーグルトは塩を入れて飲むものです。
 
そして、松脂の蒸留酒でお水を入れると白く濁るお酒が現地の方が仕事を終えて楽しむ一杯です。ラクと言います。ギリシアではウゾと呼びますが・・・・
上品なお酒ではありませんが、お話のネタにどうぞ。
 
また、恐らく夜は、ベリーダンスを楽しまれると思いますが、夜の外出の際にはガラタ橋の夜景を楽しみ、橋のたもとの屋台のお店を冷やかすのも良いかもしれません。
 
日中でしたら、グランバザールがゴチャゴチャしていて、上野のアメ横のような感じの市場になります。ただし、現地の人のための店というよりは、観光客目当ての貴金属や絨毯などのお店が多いです。日本語での客引きもかなり居ると思います。
トルコは親日なので、そんなに嫌な思いはないと思います。
 
 
かつて、イラン、イラク戦争の際、邦人救出に政府専用機を飛ばす飛ばさないときに、日本航空のパイロットの労組が危険なので渋ったというお話があります。しかし、その際、現地邦人を救出してくれたのがトルコ航空だったかと思います。
船が遭難した時に助けてくれた日本へのお返しとか。
 
で、中東領域(空域)を抜けてトルコ領域に入った際、機長から「ようこそトルコへ、中東領域を脱出して、皆様はもう安全です」とアナウンスが入ったとき、機内の邦人は涙して安堵したとか・・・・
 
 
 
アヤ・ソフィアは必ず行かれて下さいね?それと、トプカプ宮殿。博物館の宝飾品が圧巻です。
 
 
ブタペストは、良いホテルでしたら温泉が併設です。
 
必ず行っていただきたいところは、ブタ側(丘)で、ここに王宮やマーチャシー教会、漁夫の砦といった観光スポットが固まっています。この丘はケーブルカーで登りますが、丘側、漁夫の砦からペスト側をドナウ川をはさみながら眺めると、国会議事堂が見えて圧巻です。
 
マーチャシー教会は、ハンガリー王家の公式行事が行われるところ。ここで、バッハの「G線上のアリア」のパイプオルガンの調べを聞いて涙が零れました。
 
ペスト地区に恐らく宿泊されると思いますが、ここでは聖イシュトヴァン大聖堂。目の前はぺスト地区で最もにぎやかなバーツィー通り。レースや刺繍などのお土産が有名です。
 
あと、時間があれば、国立博物館。
リストはハンガリー人です。リスト博物館があります。
 
 
一番御知りになりたい鉄道のお話が詳しくなくて、失礼いたしました。
 
イスタンブールのいたずら書きの一部を張り付けます。
 
 
レマン
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

トルコのイスタンブールは、ボスポラス海峡を挟んで、アジアサイドとヨーロッパサイドに分けられる。ヨーロッパサイドから船で向こう側のアジアサイドに周る時は、ハワイなどの南国の海とは全く趣が違う、海と空の青さを感じる。

 

ボスポラスは牝牛の通った道(イオの通った道)の意味。ギリシアの大神で女好きのゼウスが、美しい娘のイオを見つけた。嫉妬深い妻のヘラは、イオを牝牛に変えて、虻を放ってゼウスに仕返しをした。

この時から牛の耳に虻が入り、気が狂ったように頭を振り、牛は尻尾で虻を追い払うようになった。

牛になったイオは虻に苦しんで逃げ回り、各地を彷徨いアジアとヨーロッパを隔てる海峡を通り、エジプトでようやく元の姿に戻った。エジプトでは、牛がいきなり美女に変身したので、化身の牛をそれ以来、崇めるようになった。

 

 

昼のモスク、アヤソフィアも美しいが、夜の闇に浮かぶモスクの尖塔はエキゾチック。

冬のボスポラス海峡は寒くて、モスクの尖塔が空に向かって突き抜けていく感じ。そして、クラゲがふわふわと沢山泳いでいる。透き通る体が綺麗。

 

トルコでお茶といえば、アップルティ。お酒は、水を入れると白く濁るウイキョウの香りがする蒸留酒のラク。ギリシアでは同じようなお酒でウゾがある。どちらもあまり上品なお酒とは言い難い。

 

夏になると、トルコ石(ターコイズ)のアクセサリーを身に付けたくなる。トルコ石の実際の産地はトルコではなくて、エジプトである。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何故、トルコの方は親日なのかという、本音をトルコ人の友人から直接聞いたことが在る。そう、ラクを飲みながら。その内容は、文章では書き難いので機会があったら口頭でお伝えしようと思う。
 
 
さて、私にここまで手間を取らせたと言って、どうしてくれようかしら?
きゃきゃ!
 
 
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セルビア「ベオグラード」

2014-04-22 19:52:34 | 旅行

セルビアの首都ベオグラードを紹介したい。

 

セルビアはバルカン半島の中心に位置し、東はカルパチア山脈、西はディナル山脈に囲まれている。旧ユーゴスラビア時代では、最も中心的な共和国であった。旧ユーゴ時代の独立国とは、また違う趣と感じた。

 

アドリア海に面したクロアチアなどとは同じ国であったとは思えない、自然風景と気候条件だった。ベオグラードは、山に囲まれた厳冬の寒さで、偉大なチトー大統領を湛える街そのものだった。しかし、一番物価が安かった。セルビアも当然ながらユーロは使えず、通貨はディナールDNで、1DNは約10円。

 

ドナウ川とサヴァ川の交差する場所にベオグラードは位置する。国際的河川が流れる、バルカン半島の交通の要衝として栄えた故に、数々の戦争の舞台になった。ベオグラードのマクドナルドは、旧ユーゴの中で一番最初に作られ、かつての統一国時代には、そのマックに行くと唯一、西側を感じさせる象徴だったそうな。

 

 

 

 

 

 

上記の写真は、ベオグラードの主要な通りの一つであるクロズ・ミッシュ通り(空爆通り)の建物である。主要な通りだけに官公庁の建築物が多く、1999年のNATOによる空爆の際には、この通り沿いの建築物が最も標的にあった。これらの前での写真撮影は、基本的に禁止されている。車窓からあわてて撮ったのでぼけた写真が多く、いくらかマシなのをアップした。

 

 

これは、セルビア正教の聖サヴァ教会。

東方正教会の中では、世界最大規模である。教会の外観は完成しているが、内部は未完で工事中だった。聖サヴァは、中世セルビア王国創始者ステファン・ネマニャの息子の名前で、セルビア正教の創始者である。

 

 

 

これは、セルビア正教大聖堂。バロック風の塔を持つ。

 

 

国会議事堂。

 

 

旧宮殿。現在は市議会所。

 

チトー大統領の墓。

 

 

 

 

 

ここは、カレメクダン公園。ドナウ川とサヴァ川の合流する丘の上に位置し、ベオグラード要塞がある。

 

 

 

 

 

 

軍事博物館。

 

 

 

 

時計塔。

勝利者の記念碑。

 

オスマン朝のダーマト・アリ・パシャの墓。

 

 

 

市街地を少し紹介したい。

 

手仕事の工芸品は目を楽しませてくれる。

 

寒くて・・・コーヒーショップ入口の炎は暖かい感じで誘われる。

 

こんな看板が・・・

 

全体的にはこんな感じで、実は歩行者天国。

 

 

 

と言っても、寒くて・・・・人影もまばら。

 

それでも、芸術家や芸術作品を目にすると、思わず立ち止まってしまう。

サヴァ川とベオグラードの街並みね?

 

今紹介した、ベオグラード要塞のあるカレメクダン公園を見上げた絵ですね。

 

サヴァ川の前に佇む恋人。う~~ん良いですねぇ~。絵画鑑賞は夢の世界。

 

ここは、今、私が居る所ね?

 

 

 

 

おとっと・・・非常に前衛的な絵!!!キュビニズムの様・・・

 

 

旧ユーゴの歴史や文化、宗教などについても、それぞれの共和国で触れたかった。しかし、個人のお遊びブログとして書くには、余りにも膨大になってしまうので、この辺で旧ユーゴの旅日記はお終いにする。

2014年の始まりとしてかの地を訪れたが、スロヴェニア、クロアチア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビアと一通りの旅日記を書くのに、もう4月の後半になってしまった。なにしろ、膨大な写真の数で撮った本人が、それらを眺めるのに時間が掛かってしまう。

 最後に、サッカーファンならばセルビア代表選手の彼の事は解りますね?

様々な民族から成り立つ国でも、サッカーでは多民族が一つになってその国の代表選手として試合に臨む姿に、スポーツ精神を感じます。次回のワールドカップは楽しみですね?

 

最後までお付合いを頂き、ありがとうございました。

 

 

 

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ボスニア・ヘルツェゴヴィナ「サラエヴォ」

2014-04-16 18:14:10 | 旅行

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォを紹介したい。年初めの1月末の旅であり、今は4月になってしまったので、また、両国の気候の違いから、現在の気候とは違和感のある写真を挙げるがご容赦願いたい。

 

サラエヴォと言えば、先ず何が思い浮かぶだろうか?

各人の年代によってそれぞれ違うのかもしれない。冬季オリンピック、民族紛争、サッカーなどなど・・・

 

1984年に冬季オリンピックが開催された。その開催からわずか7年後の1991年に、旧ユーゴスラビアは、独立を唱える各共和国と、それを阻止しようとするセルビア手動連邦軍との間で泥沼の戦争が繰り広げられた。サラエヴォでは、1万人の犠牲者を数えた。

ディトン和平合意から10年以上過ぎた現在でも、サラエヴォの街中では生々しい戦火の傷跡を目にすることが多く、復興が進んだとはいえ戦争は過去のものであるとは思えない。

 

 

 

市街地を歩いていると、あらゆる年代や様式の建築物が立ち並び、多様な民族や宗教、文化が混在する街なのだと知らされる。イスラム教、カトリック教、東方正教会(セルビア正教会)、ユダヤ教の寺院が混在している。

 

この写真を撮ったときは、夕暮れ時であったがイスラム寺院内の時計塔の時計は、イスラム時間を示している。その時間に合わせてコーランが流れる。

 

 

 

国立図書館。オーストリア・ハンガリー帝国時代に市庁舎として建設された。1992年の襲撃で外壁を残して粗全壊したが。2012年に修復工事が行われ、現在も修復中。

 

 

 

博物館。壁がボロボロ。ここは、1878年にボスニア・ヘルツゥエゴヴィナがオーストリアに併合された際に変化した人々の暮らしを伝えている。

 

 

ここは、ラテン橋。第一次世界大戦の切掛けになった「サラエヴォの銃声」の舞台である。1914年6月28日、当時のボスニアを統治していたフランツ・フェルナンド(オーストリア=ハンガリー帝国)皇太子夫妻が、青年ボスニア党のセルビア人ガブリロ・プリンツィブに襲撃された場所である。

 

 

 

ユダヤ人博物館。ユダヤ教のシナゴーグを利用した博物館。ここは第二次世界大戦に関する展示が興味深い。

 

サラエヴォ大学。どこの国でも、これからの母国を初め世界で活躍する学生に期待したいと思いつつ、若さを眩しく感じる。そして、教育現場で指導に当たる教員には、学生以上に自己練磨して頂きたいものである。特に日本の大学教員には期待したいと、思いは日本に飛んだ。

すぐそばには、近代的なおしゃれでヨーロッパらしい街並みが広がる。

この建築はヨーロッパらしい彫刻が施され、小さなホテルで道路に面した階は薬局である。旧ユーゴではキリル文字が使用されている。ギリシア語かロシア語ができると、大体の意味が解り音が採れるだろう。日本だから日本語、日本人というような単一(といっても最近の日本はそうでもないが)な感覚ではなく、あらゆる文化が混在する。世界は広い。その広い世界に飛び出すと、自分の未熟さを感じてしまい、人生学ぶことだらけだと思い知るのだ。「少女老いやすく学成り難し」かな。

 

 

 

ここは、オスマン朝以来の商業の中心地であった、パシチャルシャ。旧市街にある職人街である。赤レンガの古い建築物がならび、中近東の趣が漂う。トルコ文化を垣間見ることのできるお店が多く軒を連ねている。

 

 

とても寒くて、暖を取る為にこの店に入った。

お菓子は余り色彩が感じられないが、甘い香りが漂う。HAPPY♪

ちなみに、ボスニア・ヘルツェゴビナの通貨は、コンペルティビルナ・マルカ(KM)である。ユーロが使えなくて不便。1マルカは大体50円で、お菓子が一切れ75円位。

 

 

 

今回、写真は挙げなかったが、高層ビルがチラホラと立ち並びトラムが走る大通りを、スナイパー通り(狙撃兵通り)と呼ぶ。その通りでは、高層ビルの中に潜んでいたセルビア兵にとって、動くもの総てが、老人や子供、勿論女性も狙撃の対象となった。そして、多くの犠牲者を出した。また、サラエヴォと言えば、冬季オリンピックが開催された土地であるが、その五輪施設の写真は撮っていない。なぜならば、戦争中の犠牲者を当時は、埋葬する場所も墓地に運ぶことも出来ずに、スタジアムを墓地としたからであり、慎むべき場所だからである。

 

宿泊したホテルは、高層で最上階レストランからの見晴らしも良く、旧ユーゴに居る事を忘れさせてくれるような近代的施設であった。

 

旅の疲れと、心に感じる物が在りシャルドネをナイトキャップに休んだ・・・筈だったが、停電になり真っ暗な時間を経験した。折角の「良い」(酔い)が一変に覚めてしまった・・・(涙)

此処はサラエヴォという印象が心に残った。

 

次回は、旧ユーゴの首都であった、現セルビアの首都ベオグラードを紹介したい。

 

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ボスニア・ヘルツェゴヴィナ「モスタル」

2014-03-19 17:26:02 | 旅行

ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルを紹介したい。

ボスニア・ヘルツェゴビナは、アドリア海に面した海岸線は10キロ足らずで港もなく、内陸国と言えるだろう。国の中央部には、ディナル・アルプスが広がり、北部がボスニア地方、南部がヘルツェゴビナ地方に二分される。

 

モスタルの街に入ると、先ずイスラム寺院の一本尖塔が目に入る。しかし、この地はカトリック、セルビア正教、イスラム教の各宗教とそれを信心する民族が混在している。東西の文化の接点の街であり、同じ旧ユーゴ諸国の中でも、先に紹介したアドリア海沿岸のクロアチアとは全く趣が異なる。まるで、トルコに居るような錯覚さえ覚えるのだ。静かな川沿いの街並みは、トルコの文化色が強くお店にもその様子が現れている。

 

静かな旧市街の街並みは、石畳が美しく、数少ないお土産屋さんもトルコの香りが漂う。

 

各宗教の3民族が共存し、愛は宗教を超える。そして、愛は国境を超える。(はい。経験者は語る!です^^)当然、異なった民族同志が結婚するのは珍しくない。それ故にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、それらの家族同志を引き離して同じ土地に国境を引く様な愚行だったと言わざるを得ないだろう。

 

私がゴチャゴチャ書くよりも、写真の方が一目瞭然だろう。

 

1995年まで続いた紛争は、約20万人の死者と約200万人以上の難民・避難民を出した。その悲惨で紛争と言う愚行を決して忘れてはならないと、至る所で「93年を忘れるな!」の文字を目にする。

 

 

ひっそりとした旧市街の中であっても、煙突からは煙が立ち上り、人々の生活の息吹をところどころで感じさせられる。

 

 

モスタルのシンボルである、スターリーモスト橋。モスタルは15,16世紀のオスマン朝時代に発展した街。ネレトヴァ川が中央を流れる。この橋は、ボスニア語で「橋の守り人」と言う意味である。スターリーモストは、オスマン朝時代の1566年に建設された橋台を用いていないアーチ型の石橋。1993年11月に破壊されたが、2004年にユネスコの協力で再建された。

ネトリヴァ川を挟んで、東側(この写真では左側)がムスリム人、西側はクロアチア人と住み分けされている。

 

こちらは、ムスリム人の住む東側。

 

博物館には、旧ユーゴやチトー大統領の資料に溢れていた。

 

これは、コスキ・メフメット・パシナ・ジャミーナ。1618年に建設されたイスラム寺院。

寺院の入口には次のような看板が・・・

動物禁止。音楽禁止。大声禁止。飲酒禁止。これは当たり前。男女の抱擁やキス禁止。肌の露出禁止。

 街のはずれには、墓地があり特徴的な墓石。

 

 

食事をしたレストラン内には、紛争の資料が置かれており。壁にはマザーテレサのパネルが掛かっていた。

 

「銃や砲弾が世界を支配してはいけないのです。世界を支配していいのは愛なのです」という、マザー・テレサの言葉が心に沁みる。

 

この土地では、ラキアというプラムやブドウ、ナシ、アンズ等の蒸留酒が特産品であるが、ボトルにマリア像が付いて「祈り」を意識すると、酔いきれない・・・ですね?甘くて、とっても美味しい~♪

 

ボスニア紛争で実際に使用されていた、薬莢をそのまま使用したボールペン。モスタルの刻みがあり、ここでしか入手できないので入手した。しかし、この後セルビアに入国したまでは良かったが、帰国便でモスクワに発つベオグラードの空港で没収されてしまった。ソチオリンピック前でピリピリしている時期だったので、絞られてしまった・・・・(涙)

 

つい先日、ボスニア紛争やチトー政権について話をしたい、教えてほしい(といっても何も教えるなどできないけれど)という申し出があり迷っている。ワインなどを飲みながら、そんな話などしたくないもの。笑顔で会話が出来ない・・・

アドリア海のドブロヴニクの景色が美しかっただの、シーフードが美味しかった♪の会話なら笑顔で食事もワインも楽しめるけれど、戦争の話ではねぇ~。誘い方が下手なのよねぇ~。ブツブツ・・・。ワインを楽しみたいのか?戦争の話を楽しみたいのか?実は話題など何でもいいのか?あっさり、「食事でも楽しもう~♪」なら良いのに・・・・

 

「あなたに出会った人がみな、最高の気分になれるように、親切と慈しみを込めて人に接しなさい。

あなたの愛が表情や眼差し、微笑み、言葉にあらわれるようにするのです。」

マザー・テレサの言葉が私を惑わせれる。

 

 

さて、次回は同じくボスニア・ヘツツェゴビナの首都サラエボを紹介したい。

 

 

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モンテネグロ「コトル」

2014-03-07 02:43:57 | 旅行

旧ユーゴスラビアの独立国の中で、福島県と同じくらいの小さな面積のモンテネグロ.。その中でも世界遺産に登録されているコトルを紹介したい。

 

あの山の麓まで行く。

 

数日前の雨が山に堕ち、アドリア海に勢いよく噴出している。水音をお聞かせできないのが残念!!圧巻!!

 

コトルはアドリア海から続くコトル湾の一番奥に位置する、背後を険しい断崖に囲まれ前方はアドリア海に面する、城壁に囲まれた三角形の街である。その地形が幸いしたのか、外的に街を破壊されることなく、古い街並みをそのまま現在に留めている。

 

これは、旧市街の城壁に在る3っつの門の中で最大の西門で、当時は海からの訪問者の正面入り口だったことから、別名「海の門」と呼ばれる。現在みられるこの姿は、1555年に建設されたルネサンス様式。

 

コトルの起源は古代ギリシアにまで遡り、15世紀以降はヴェネチアの支配下で軍事都市として発展した。そのために、オスマン帝国の脅威に備えて強固な城壁が整備された。

 

 

旧市街の背後に聳え立つ山々に沿って建設された城壁は、長さ4,5キロに及ぶ。中腹に見えるのは15世紀に建てられた救世聖女教会。

城壁内の小さな旧市街は、路地が入り組み古い教会がいくつも点在する。1979年に世界遺産に登録された。

 

 

聖トリフォン大聖堂。二つの鐘楼を持つカトリック大聖堂で、1166年に創建されたロマネスク様式。1667年の大地震で鐘楼が倒壊し、後に再建されたが北側は未完成のままである。

 

聖ニコラ教会。十字架の形を見て欲しい。この十字架は、スラブ系正教会の特徴で、八端十字架である。これは、セルビア正教の教会。16世紀から続くドミニコ会修道院が19世紀の大火で焼失後、その跡地にこの教会がたてられた。コトルの教会の中では新しい建物になる。

 

 コトルの博物館。

やはりアドリア海に面した街よねぇ~。シーフードのレストランが多い。

外で食事をするの素敵ねぇ~。

 

 

聖ルカ教会。1199年に創設された。1657年までカトリック教会であったが、その後、正教会に寄贈された。

 

 

これは、コトル湾に浮かぶ岩礁のマリア教会。この島は、マリア教会だけが建つ人工の島である。15世紀に漁師が、小さな岩礁で聖母のイコンを発見した。そして、聖なる土地として、その岩礁に十字架を立てた。その後、住民たちが、岩などを沈めて少しずつ埋めて行き、やがてこの島が出来上がったと言う。17世紀にマリア教会が完成。

 

 

山も海も美しく心が洗われる。この地に来られた事を、神様と周囲に感謝しなくっちゃ・・・

山は何故美しいのだろうか?

山の堂々とした存在は、人を寄せ付けない不動の強さと威厳を感じさせるからだろう。広大で静かで毅然とした佇まいには、畏敬の念を抱かされる。大胆不敵な者は、山頂に心を奪われ征服しようと試みる。しかし、山は、空に届こうとする山頂に向かってより狭くなり、より高みを目指す者に対して、意識を高揚させるように難題を持ちかける。

 

だから・・・山は美しいのかしら? 海の美しさは何故?もう少し、暖かくなったら日本の近間の海を見に行きたいなぁ~♪

 

その日のホテルのレストランには、黄色い薔薇が1輪。やっぱり薔薇は綺麗でウットリ・・・

次回は、旧ユーゴの中でも、最も戦火が激しかったボスニア・ヘルツェゴビナを紹介したい。

 

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クロアチア「ドゥブロヴニク」

2014-03-03 11:38:17 | 旅行

「アドリア海の真珠」と形容される、クロアチアのアドリア海最南端に位置する、城壁に囲まれたドゥブロヴニクを紹介したい。

アドリア海の朝日。山の向こうから暗い海に光を指す姿は、希望の象徴の様に感じた。

その前に、旧ユーゴの中でも、一番アドリア海に面したクロアチアであるが、シベニクやスプリットの同じくアドリア海に面した街からこのドゥブロヴニクヘ入るには、一端、ボスニア・ヘルツェゴビナに入国してまたクロアチア領土に入らなければならない。その手前で、山と湖の湖水地方を通り抜ける。

キャンパスに再現したい風景。

この辺一体は、みかんの生産地。

道路脇の直売所。オレンジやレモンが一杯。オレンジというよりも日本のミカンですね。勿論、オレンジもあるけれど。

ビタミンカラーを見ていると元気が貰えそう。果実の他に蜜柑の蜂蜜も売られていた。

ドゥブロヴニクには、前日夜に到着。

 

ドゥブロヴニクは、15~16世紀からラグーサ共和国として、ヴェネチアと並ぶ貿易都市として栄えた。現在も旧市街にはその面影が色濃く残っており、クロアチア切っての観光地である。

ドゥブロヴニクの旧市街は、アドリア海に突出しており城壁に囲まれている。この旧市街は、1979年に世界遺産に登録された、1991年からのクロアチア独立戦争の際には、旧ユーゴスラビア軍の攻撃により旧市街もかなりの攻撃を受け被害を被った。そのため、「危機にさらされている世界遺産リスト」の街に挙げられたが、終戦後に復興が進み、1994年に改めて世界遺産に登録された。

1991年12月6日に、旧ユーゴスラビア軍により発砲が浴びさせられた。その発砲数は、2000発で、旧市街の多くが破壊され多くの市民が犠牲になった。これは、その時の被害を示す地図である。紹介する写真でもお分かり頂けると思うが、レンガ色の屋根が美しい街並みであるが、その中でもひときわ明るく鮮やかな色彩の屋根の建築物は、後に修復されたところになる。

細い路地の商店街の入り口には、当時の破壊された様子と、修復後の様子などの写真が掛けられているところも少なくない。

現在は、こんな風に中世の面影を残しながらも、美しい街となっている。

 

これは、聖ヴラオ教会。ドゥブロヴニクの街の守護聖人を祀る教会である。かつては、ロマネスク様式の教会だったが、1667年の地震とその後の火災による損傷で、1715年にバロック様式で建築された。

 

ここは、旧市街の中心になるルジャ広場に位置する大聖堂である。震災後に再築されたバロック様式で中央にドームを持つ。

大聖堂前のルジャ広場の中央には、1418年につくられた一体の騎士ローランドの像がある。ローランドは、ヨーロッパ都市の自由と独立の象徴とされ伝説の騎士である。この像の右腕のひじから手首までは、51.2cmであるが、この長さが商取引の際に長さの基準として採用された。

広場を囲んで鐘楼もある。

おなじくルジャ広場に立つスポンザ宮殿。1520年ころに建造され、ゴシック様式とルネサンス様式両方を併せ持つ。1667年の震災では倒壊を免れらたために、震災以前の建物の様子を現在に伝える貴重な建築物である。現在は、公文書館として使用されている。

 

大聖堂内の身廊は、天井の高いドームがあり、側廊とはアーチと巨大な柱で仕切られている。

 

主祭壇。ここに飾られている祭壇画は、ティツィアーノの「聖母被昇天」であり、元は近郊の聖ラザルス教会に在ったものであるが、倒壊のためにこちらの大聖堂に移された。

 

 

ルジャ広場から200メートルに渡るメインストリートの、脇を覗くと民家が犇めく細い路地が見られる。観光地であるとともに地元の人々の生活の場であることが伺える。この細い路地に見える長い階段は、宮崎駿監督の映画「魔女の宅急便」で、自転車で階段を駆け下りる(飛ぶ)シーンの舞台とされている。また、「紅の豚」は物語の舞台は193年代のイタリアであるが、アドリア海の景色はドゥブロヴニクが採用されているとか。

 

ドゥブロヴニクの歴史的建造物の中では、上記の大聖堂と並ぶフランシスコ会修道院がある。

全景は大きすぎて狭い路地からは写せないので、入口を紹介。

フランシスコ会修道院は、世界で3番目、クロアチアでは最古の薬局を抱えており、現在でも営業している。

14世紀のロマネスク様式の回廊が美しい。

回廊奥の博物館には、薬草や壺や天秤など薬局で使用されていた古い器具が展示されている。

 

フランシスコ会修道院の直ぐ前には、オノフリオの大噴水がある。この噴水は、12キロ離れた源泉から水を引いており、1438年にイタリアのナポリのオノフリオ・デッラ・カッヴァに造られた。1667年の震災で装飾の多くが破壊されたが、16面レリーフ(浮彫)は、姿をとどめており、現在もその口から水が噴出している。

 

ここは、旧市街へのメインの入り口として使われていたピレ門。現在の姿になったのは1537年である。

ピレ門を守るために造られたボカール要塞は、海に突き出すように建てられている。

ボカール要塞の対岸を守るための、ロヴリイェナツ要塞。海抜37メートルの岩山に建ち、海と陸の双方からも街を守った。

 

また、交易で栄えたドゥブロヴニクは、交易船や商人の出入りが激しく、疫病の蔓延を防ぐために港には検疫所も設けられていた。写真中央やや右寄りの細長い建物が旧検疫所後。

 

ちなみに、検疫は「Quarantine」で、よく各空港で目にしますね?。ラテン語で40日という意味のクアランティーナが語源なのです。これは、ヨーロッパではペスト(黒死病)が恐れられていた為に、汚染地域から入港した船や船乗りはペストの潜伏期間である40日間、隔離拘束されたことによります。^^

 

 

さて・・・・折角だから城壁を登る事にした。^^

城壁入口すぐから旧港を見下ろしたところ。現在は、主要港は市街北西のグルージュ港が担い、旧港は、観光ボートの発着場所となってる。

私は高所恐怖症だけど、大丈夫かしら?それでは、Let's go!!!

ホント、壁。

うわぁ~。綺麗! これは、ドミニコ修道院の尖塔と鐘楼ね。1225年にドミニコ会が修道院を開き、この建造物は14世紀に完成された。ロマネスク、ゴシック、ルネサンスの3様式ミックスであるが、この尖塔はロマネスクですね。

段々高くなってきたぁ~。まだ、大丈夫。^^

 

城壁外の山川の新しい街並みも見えるようになってきた。

完全に旧市街より高い位置にいる。

アドリア海と尖塔が見える角度。あ~美しいなぁ~。^^

わぁぉ~!!青いドームは、聖ヴラオ教会ね、そして、奥が大聖堂のドームね。

山側の城壁は高いけれど、旧市街の方の壁は低くて、少し怖いかなぁ~。

わああ~~。段々高くなってきたよぉ~~~~~。アドリア海に浮かぶ島も見えてきたぁ~!!

これはミンチェタ要塞で、城壁の中で最も高所にある要塞。1319年に建造されたが、15世紀にフレンツェの建築家パルトロメオにより再建された。

城壁の半周コースは間もなく終わり。半周で止めておくか一周するか迷うところ。どうしましょう・・・・

クロアチア万歳~!

やっぱり、折角だから一周する決心を・・・

城壁南面は、海に落ちる絶壁ですよ!このず~~っと向こうがイタリアの長靴半島。結構怖いですぅ~~。

頑張ります!

城壁そのものの下が民家になっているところも。

聖ピーターの砦。城壁各所にある砦には、其々聖人の名前が付けられている。

アドリア海が岩に打ち付けている・・・

はぁ~。一周をした・・・そろそろ、終わりかな。

はい。頑張りました。

城壁の隙間に生えている雑草に「お疲れ様」と声を掛けてもらったぁ~。^^

さて、旧市街に戻ります。

ああ~素敵だったなぁ~。アドリア海と旧市街のレンガ色の街並みが美しかった。

あれ・・・? 猫ちゃん。「こんにちは。私を見ているの?私は日本から来たの。でも、あなたは日本三毛猫ちゃんみたいね?」

ちょっと、興奮から覚めて旧市街のお店を覗く事にしましたヨン。

赤く塗ったハート型のクッキーを親しい人に贈るのは、かつての風習だったようですね。

このお店のオーナーさんは、ポーランドからの移民の方でした。

思わず、咄嗟にポーランド語が口をついて出た。勿論、片言・・・。

かつて、ジュネーブでポーランド人の知人が居て、ある時、一緒にお茶をしたときに彼は、朝日新聞のスクラップを出してきて私に音読を求めた。その時まで、彼が日本語ができるなんて知らなかった・・・

で、それから暫くの後、私がジュネーブからパリにTGVで発つとき、コルナヴァン駅でポーランド語でさようならの挨拶と片言を話したら、「えっ!!??ポーランド語ができるなんて知らなかった・・・」と。

ハハハ・・・御返しよ!^^ 彼と私ではレベルが違うもの。「天声人語」の切り抜きを見せられた時には、余りのレベルの違いに恥を感じてしまい、いじけたくなってしまったのね。それから、あわてて勉強したのよ・・・

な~~んて、今は昔のお話を、そのお店のオーナーさんと話していて一揆に思い出してしまったわ・・・

今、彼はどこかしら?ジュネーブかニューヨークかしら?まさか、東京に?

それとも、転職でもして母国の大学で教鞭を取っているかしら?

 

それにしても、何故?クロアチアのこのお店に、ヴェネチアのカーニバルの仮面が売られているのかしら?オーナーさんの芸術的趣味かしら? 疑問に思ったことは解決をしたくて、つい、聞いてしまった。

「そんな趣味はないけれど・・・何故と言われても・・・イタリア人観光客が多いからさ」とな。そうでした、アドリア海対岸はイタリアでした。しかも、ここはドゥブロヴニクで観光船でやってくるイタリア人は多いのでした。

街の広場には、少しづつ青空市場が立ち始めていた。

次回は、旧ユーゴの独立国の中でも小国のモンテネグロを紹介したい。

 

 

 

 

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クロアチア「トロギールとスプリット」

2014-03-02 02:00:34 | 旅行

クロアチアのアドリア海沿岸の世界遺産の街、トロギールとスプリットを紹介したい。トロギールとスプリットは20数キロ程しか離れていない。トロギールは、周囲を城壁に囲まれた小さな島である。

 

街の起源はギリシア時代にまで遡り、狭い島内に様々な時代の建築物を見る事ができる。中世のままに、時が止まったような錯覚を覚える。

 

その世界を歩いていると、郵便局や銀行などが在り、現在の人々が生きている世界へと引き戻される。

 

橋によって本土とチオヴォ島が結ばれている。

 

本土から橋を渡った直ぐ傍の北門が、旧市街の入り口になる。かつては、旧市街総てが城壁に覆われていたが、今は一部が残るのみである。この北門は17世紀半ばに作られたバロック様式であるが、18世紀に改修された。門の上には、主義聖人である聖イヴァン・ウルスニィ像が立っている。

 

 

1997年に世界遺産に登録された、聖ロヴロ教会。遠目に尖塔をパチリ。旧市街のイヴァナ・パヴラ広場に聳え立つ。3世紀に殉教した聖ローレンスに捧げられた大聖堂である。初期キリスト教会の跡地13~15世紀に掛けて建立された。

 

次にスプリットの街を紹介したい。

スプリットは、クロアチアの首都ザグレブに次ぐ第二の都市で、アドリア海沿岸の最大で古代都市が残る神秘的な街である。1700年前の遺跡が見られる。

 

 

旧市街に残るのは、ローマ皇帝ディオレティアヌス(245~313)が退位後に居住したディオクレアヌス宮殿である。

 

宮殿内にはアーチ型の天井持つ部屋などが残されている。また、様々な時代の建築物が並び、宮殿と一体となって旧市街を作り上げている。これらの史跡群は、1979年に世界遺産に登録された。

 

 

ここは、天井にぽっかりと穴の開いた空間で、皇帝の私邸の玄関口である。

 

地下宮殿にはお土産屋さんが並び、アラバスタ―製のツボなど入手したかったが、重たいので写真に収めて我慢。

 

スプリットに宮殿を築いたディオクレアヌス帝について、少々触れておきたい。ヨーロッパ史に興味がないと聞き逃してしてしまう名前だが、ディオクレアヌスはキリスト教徒からは最も憎まれた皇帝の一人である。

彼は、ローマ時代にダルマチアの州都として栄えたサロナ郊外で、奴隷の子供として生まれた。ローマ軍の中で頭角を現し、284年にローマ皇帝となるが、ローマ帝国を四つに分割をして、自らは、その内の一つで現在のトルコからエジプト一体を統治した。これがいわゆる「四頭政治」である。303年にキリスト教弾圧の勅令を発布してキリスト教徒を迫害して、多くの殉教者を出した。そして、自らの意志で退位した305年以降に、このスプリットで隠居生活を過ごしたのである。

 

 

宮殿の中心に位置する美しい中庭は、列柱に囲まれており、カフェや大聖堂がある。

カフェに飾られたシクラメンが綺麗だったな。大聖堂は、元来はディオクレアヌス帝の為の霊廟として建てられたが、8世紀に大聖堂として造り替えられた。

 

クロアチア美人達・・・・。

これは、10世紀に活躍したグルグール司教で、このブロンズ像の左足親指に触ると御利益がある事で有名。などと・・・そんなことはドウでもよく、ラテン語で書かれた聖書をクロアチア語に初めて翻訳した司教である。

 

こんなお天気で、グルグール司教の金ぴかに磨かれた?(触られた)足の親指より、赤い木の実に雨が滴っているのが綺麗でパチリ。

 

 

旧市街の中心にあるナロドニ広場では、大聖堂の鐘楼を望みながら青空市場が広がる。この日は雨空市場だった。

 

 

クロアチアは蜂蜜とかプロポリスの名産地。蜂蜜は重たいので購入しなかったが、スーパーでプロポリス入り歯磨き粉などを購入してきた。

 

このお店では、1キロ25Kn(クーナ、約450円)のドライプルーンを購入。左から二番目。日本の物と同じ感覚で噛むと、大きな種が入っていてカチンと歯に当たってしまったぁ~。多分、一番左の物との違いは、中に種子が入っていることかな。鉄分が豊富なので貧血防止にね。美味しい~♪

 

 

「ニンニクは要らんかねぇ~、ニンニクだよぉ~~~」

 

花市場が綺麗でウットリ。

花弁の先だけ赤い薔薇は、日本ではなかなかお目に掛かれませんね。

葉牡丹が固まると、こんなに綺麗。

お花を見ると、心が洗われるようですね・・・・綺麗で可愛くって♪

 

城壁を抜けると車が走り抜け、目の前にはアドリア海が広がっていた。

次回は、同じくクロアチアの世界遺産ドゥブロヴニクを紹介したい。

 

 

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