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 「Around the world 」 感じた事を徒然なるままに・・・

世界各地の徒然、音楽、美術、時空をワープしてぼんやり世界の呟き。思ったこと、感じたことを徒然なるままに。

ポーランド2

2015-03-31 01:51:49 | 旅行

 

オシフィエンチム、アウシュビッツについて。

 

アウシュビッツはドイツ語である。クラウフの街から54キロのオシィエンチム郊外に、強制収容所がある。

写真撮影に関して、禁じられているところは勿論撮影などしないが、禁じられていないところでも、撮影したものは、殆どがブレてしまった。

たとえ人様から見て興味の対象とならない物でも、自分が喜びを持って被写体に向かった時には撮影できるが、そうでないものは、幾ら記録やメモだと自分に言い聞かせても、シャッターを押せない。

左から3番目のBの文字が逆さまであるが、この収容所をつくらせられたものの唯一?の反抗だと言われている。

この文章の意味は「働けば自由になる」である。

第2次世界大戦中に、ナチスドイツ占領下の土地からユダヤ人、ポーランド人、ロマ人、共産主義者や反ナチス主義者、同性愛者などが連行されて、ある者は即、ある者は過酷な重労働の末に・・・・

ガス室で使用された缶。展示には、ガス室行きにはどの様な選別がなされたか、また、どのような人がここへ来たのか、その人々が生きていた証しや、どのような事が行われたのかが展示説明されている。

重たい空気と人の残酷な様、生と死についてなど思いを巡らせると、涙で目の前が曇ってしまい、ただただ亡くなった方の冥福を祈るしかできなかった。

亡くなった方々の、山積みの髪の毛などを見ると、(見ないで通り過ぎようにも一方通行とは言い過ぎだが、流に逆らう事が出来なく)、胸が詰まる。

いちいち説明しなくても、誰しもこの写真を見ると理解するだろう。この写真が総ての量ではない。一部のみの紹介である。

この時代に(第2次世界大戦中だから当然と言えば当然かもしれないが)、このような物を身に付けていた人人の数に驚く。これも、ごく一部の写真。貴重な金属としてドイツ本国に持ち帰り再生したようである。

 

この他にも、いずれも大量の洋服、櫛、眼鏡、トランク(しかも、住所と名前生年月日まで記入されている)等々が、公開されている。そして、収容所について直ぐに彼等の証明写真が撮られており、展示されている。

 

 

オシフィエンチムから2キロ離れた場所には、第2アウシュビッツとよばれるビルケナウがある。ここは、オシイフィィエンチムより広大で、1941年建設開始、1945年にソ連軍により解放されるまで、百数十万人の命が・・・・

 

働くと自由があると思い、電車(汽車)に揺られこの地へ着いたはずだ。この線路は「死の門」と呼ばれる入口に続く鉄道の引き込み線である。

この夜、生と死について随分と考えさせられた。

その夜のホテルロビーに活けてある花(これはアマリリスですね?)に、癒やされた・・・・

 

戦争は愚かな人間の行為である。アウシュビッツを訪れて、改めて日本に生まれた事に感謝したいと思った。そして、平和な国である日本の神話が崩れない事を願うばかりですね?

 

 

 

それでは、またお会いしましょう・・・

 

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ポルトガル2(北スペイン)

2015-03-30 23:10:17 | 旅行

 

 サンティアゴ・デ・コンポステーラを紹介する。サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ポルトガル国境近くの北スペインに位置し、エルサレム、ローマと並ぶキリスト教三大聖地のひとつである。

本来はフランスサイドからピレネー山脈を越えて約800キロの行程でイベリア半島を東から西へ移動する巡礼者の道である。キリスト12仕徒の一人であるサンチャゴ(聖ヤコブ)が、エルサレムでヘロテ・アグリッパ1世により[断首され殉教した後に、彼の遺体を弟子が船に乗せ海をさまよい、この地で彼を埋葬したことが、聖地の起源とされている。9世紀にその墓が発見されたという。そして、12世紀にローマ法王が、この地を聖地として守ことを命とした。

 私達日本人がイメージするスペインとは違い、ポルトガルから北上するとリアス式海岸の様子が伺える。

現在の巡礼スタイルは、自転車や車、馬やロバを使うなど様々であるが、かつて(現在でも)徒歩で聖地を目指していた人々にとって、大聖堂5キロ手前にある「モンテ・デル・ゴソ」(歓喜の丘)は、ここから聖地を望めるとあって、先ず第一の喜びの丘である。

 巡礼者は、杖を握っているが、その先には水筒替わりのひょうたんと巡礼者のシンボルのホタテ貝が結びつけられている。ホタテ貝がシンボルである理由は、貝殻を皿のかわりとして、巡礼のたびすがら食物を恵んでもらっていた必需品だからである。

 珍しく?私も歓喜の巡礼者と同じポーズで大聖堂を指さしてみた。(恥・・・)

 

 歓喜の巡礼者の足元には、可愛らしいデージーが並んで2輪。身長5センチ。^^

 

大聖堂近くでは、こんな杖が土産物として売っていた。

 

 また、街を挟んで反対側の丘からも眺めてみる。

柵も手すりもない小さいが急斜面の丘には、黄色や紫のクロッカスが咲いており、春の息吹を感じた。

人工的に植えたというよりは、春が来て自然に開花したという風情。緑の中に黄色や紫が美しい。

サンティアゴ・デ・コンポステーラの旧市街は、1985年、また、スペイン国内の巡礼者の道は1993年にユネスコの世界遺産に指定された。なお、フランスサイドのサンティアゴ・デ・コンポステーラに至る巡礼者の道は、その一部と道中の主要建築物が、1998年にベット世界遺産登録されている。

 レコンキスタと巡礼路の関係などに付いて、書くべきことは沢山なるが割愛する。

 とても残念であるが、現在は修復中で(といっても必ずや何処かは修復中)、足場とネットが掛けられていた。

私は、ポルトガルから北上して最短距離と時間で行ったきたが、 体力と時間のある人は、巡礼者の道の最後100キロだけでも歩くと(自転車でも、馬でも)、証明書が発行される。

 

 

 旧市街は、ここもスペインなのだという趣があり、散策するには美しい街だった。

 

バルコニーの鉄柵が美しい。

 

ここは、街で一番古い商店街。

そして、街で一番細い路地。この道を通れない人々が沢山見受けられた・・・・^^

 正面のオブラドイ広場入口は工事中なので、反対側入口から入場する。

 

 

 おおっ!巡礼者を一人見つけた!巡礼の記録最古のものは951年で、彼は、それから何人目なのだろうか?巡礼者が最盛期であった12世紀には年間50万人であったという。現在では、年間10万人がピレネーを超えてフランスサイドから巡礼にやって来る。

オブラドイ広場に面する正面入口。この写真では解らないが、バロック様式の建築で、3つのアーチがある。左から、ユダヤ教、キリスト教、異教を意味する。また、資料によっては、天国、地獄、煉獄ともある。

これでは、大きさが解りにくいので人物を入れてスケールとしてみる。

 

 

 正面の入口から鉄柵を通じてオブラドイ広場を眺める。

 

 

 大聖堂の内部は、金色の輝く豪華な祭壇や、巡礼者を清めた香炉などがあるが、殆どの写真はどうしたものがボケてしまったので割愛する。また、どんな願いも叶えるマリア像があり、私も他の巡礼者に倣って後ろから抱きつき、キスをしてきた。アーメン。

オブラドイ広場には向かい側に、「パソ・デ・ラショイ」(自治省)が聳える。

 パソ・デ・ラショイの裏庭。

 

 聖堂側ではパグパイプを演奏する人の姿も・・・・

何世紀にもわたり、人々の信仰を集めてきた石壁には、その隙間のあちらこちらに雑草が茂っている。

 

 

 広場を離れて新市街へ向かうと、人々の現在の姿が息づいていた。

 

 

 

それでは、またお会いしましょう・・・・・

Good night !

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ポーランド1

2015-03-29 18:08:22 | 旅行

 ポーランドを徒然しようと思っていたが、アウシュビッツの重たい思いがのしかかり、中々アップできないでいた。12月の旅で、帰国後は札幌に飛び、忙しさに追われているとあっという間に3月になり、ポルトガルへ行ったきた。

個人的に色々な事が重なり心労で体調も悪かったが、色々な物事に対する気付きと悟りを知る中で、「人間というのは、99パーセントの幸福を差し置いて1パーセントの不満を探すのだ」という究極?の真理を突きつけられた。

この度のポルトガル旅行は、今までの数々の旅とは違い、心の「目から鱗」の旅だった。見たくないものを見せられ、忘れたいことを思い出せされ、隠していたことを暴かれてしまったような、そんな旅だった。旅に出るたびに、自分が一皮づつ向けていくのが実感できる。完全につるりと脱皮できるのはいつだろうか?

 

 

 

 

さて、ポーランドについて紹介したい。

ポーランドの通貨は、Zl(ズィオティ)で補助単位がgLグロッシュである。ガイドブックなどでは1Zl約25円として紹介されているが、実際の所ユーロやドルからの両替を考えると、30円位にして計算するのが良いだろう。

 21015年1月から、EUの一員としてユーロ導入という事であったが、私が滞在した14年12月は、丁度最後のZl利用1か月だった。しかし、今現在くまなくユーロが導入されているのかは、疑問である。

 

 首都のワルシャワから電車でクラクフに向かった。

 クラクフは、1386年から1572年のヤギュオ王朝時代のポーランド王国全盛期に、首都として栄えた。ポーランド国内では珍しく、第二次世界大戦の戦災を殆ど逃れて、中世の街並みがそのまま現在にに引き継がれている。

 ワルシャワからクラクフまで、電車でほぼ3時間の陸路の旅は、車窓に流れる風景が美しかった。

食堂車を覗いてい視る。堅ろうで質素な雰囲気であったが、田園地帯を走りぬく電車には、趣が感じられた。

 クラクフ本駅に到着すると、駅ビルは近代的で美しく、クリスマスイルミネーションが華やかだった。

 

聖マリア聖堂がそびえる中央広場のクリスマスマーケットを訪れた。このとき、既にホット赤ワインを紙コップ半分飲んでいたので、思うように写真が撮れなかった。車窓では緑の田園風景も見られたが、寒い!!

 これは・・・・多分、トウモロコシの皮かな?いや、違っても何かの葉であるのは間違いない。天使が胸の前で手を合わせて祈っている姿が素朴で可愛い。今年の夏は、私も作ってみようと思う。夏になりトウモロコシの旬の時期が楽しみだ。

 

 

焼きチーズを売っている屋台の何と美しい事よ!こんなグリルでバーべキューをワイン片手にショパンのワルツを流しながら楽しんだら、エレガント!

おかみさんはチーズの食べすぎかな?ホットワインに焼きチーズなんて、たまりません!!

翌朝の薄霧の中の聖マリア聖堂。1222年に建設されたゴッシク様式である。

内部には、ヨーロッパで第2の高さの木造彫刻の聖壇がある。

ステンドグラスが細やかで美しい。ちなみに、物語としてのステンドグラスは、下段から上段へ、そして左から右へと時系列の流れとなる。

これは、15世紀に建てられたバルカン砦で、城壁と共に街を守っていた。

ヴァヴェル大聖堂。1320年に建設されたゴシック様式であるが、その後、数世紀にわたりルネサンス様式、バロック様式が加えられている。ワルシャワに首都が移る前には、ここ絵歴代ポーランド王の戴冠式が行われいた。また、大聖堂の地下は、王族の墓所となっている。

薄霧が立ち込めていて、何とも風情があった。

この写真では切れてしまったが、右側の黄色のドームは、ジグムントチャペルで、1519年にジグムント王がイタリアから建築家を呼び寄せて造らせた。1533年に完成した。ポーランドのルネサンス期の建築になる。

 ここは、ヴァヴェル城の旧王宮。ジグムント王が16世紀初頭に建てたゴシック様式とルネサンス様式の複合建築である。内部は、宝物・武具博物館となっており、調度品や家具や武具など多くの写真を撮ってきたが、割愛する。

 

 

 

次に、クラクフから15キロ近郊のヴィエリチカにある世界有数の岩塩採掘所を紹介したい。

 ヴィエリチカ岩塩採掘所は、1250年頃から1950年代までの700年間稼働していた。

炭坑のような感じ。というか、採掘される物が違うだけで、地下で仕事をする危険度は同じ。

採掘の様子が人形や模型を使い紹介されている。この岩塩地下で労働する馬がなぜか地上の馬よりも体力があり健康で寿命が長かった。それを研究して、医療研究がされている。

ぜんそく患者や肺疾患の患者の治療が行われていのを、出発前に偶然にTVで見ていた。

何もかも塩。壁は塩辛い、また、天井から滴り落ちる水滴も塩辛い。塩は海から採れるという概念を根本から覆す、地下の暗さだ。

 

 ポーランドは敬虔なカトリック教徒の国であり、岩塩で作られた宗教像や、コペルニクス、王などの彫刻も見られる。

採掘所の巨大な空間を利用して作られた礼拝堂。岩塩の天井からぶら下がる美しいシャンデリアも岩塩から出来ている。

 オオッ!!岩塩の「キリスト最後の晩餐」!!

コースを巡ると、幾つもの地底湖が見られる。いよいよ鉄格子のエレベーターで地上に出る前の、巨大な地底湖では、ポーランドらしくショパンの「別れの曲」が流れていた。

 

次回は、ポルトガルを紹介したい・・・・

 

それでは、またお会いしましょう。^^

 

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ポルトガル1

2015-03-28 02:23:22 | 旅行

 

 ポルトガルの最初は、リスボン郊外約145キロに位置するトマールを紹介する。

未だ寒い日本を脱出して到着した、リスボンのポルテラ国際空港に降り立った時は、一足早い春の息吹を感じた。

 緑が目にまぶしく艶やかで、目の保養を楽しんだ。

トマールは、ナバオン河畔に広がる街で12世紀にレコンキスタ(国土回復運動)で活躍したテンプル騎士団の本拠地である。

また、4年日度開催されるタブロイロスの祭りでは、女性が頭に花籠を高く積み上げる事で有名である。

 

ここは、テンプル騎士団が建設したポルトガル最大規模のシトー派キリスト修道院である。

 

修道院は街の丘の上に位置して、喉かな街並みが一望できる。小さな雑草の可憐な花や木に芽吹いた花花が、早春の喜びを感じさせてくれた。

 

 

アフォンソ1世が、1147年にリスボン北東のサンタレンをイスラム教徒から奪回した功績として、テンプル騎士団に土地を与えたのが起源である。

その後1312年にテンプル騎士団が禁止され、ディニス1世が創設したキリスト教騎士団に引き継がれ、ポルトガル王室から代々の団長が輩出された。約400年にわたり建築増改築が繰り返されたので、多様な建築様式が見られる。

ここは、「南門」でリスボンのジェロニモス修道院を手掛けたスペイン人建築家ジョアン・デ・カスティーリョにより建造された。プラテスコ(銀細工)様式で装飾されてる。この様式はスペインのサラマンカで生み出された。

 入場してきた門を振り返ってみる。

ムデハル様式からゴシック様式、ルネサンス様式、そしてポルトガルを代表する建築様式のマヌエル様式までの各建築様式が見られる。

ここは、「墓の回廊」で修道士達の墓となっており、15世紀にエンリケ航海王子によって増築された。壁下のアズレージョ(青白のタイル)は、17世紀の改築で加えられた。

アズレージョが美しい。

ここは、「テンプル騎士団聖堂」で16角形の円堂で12世紀後半に造られた。騎士たちは参戦に即行動できるように、この円堂をグルグル騎乗で回りながらミサが行われた。

 ビザンチン風のロマネスク様式である。

ここは、「キリスト騎士団聖堂」で、「テンプル騎士団聖堂」と繋がっており、マヌエル1世が16世紀初頭に建設した。

 

 螺旋階段を上って屋上に出ると、「マヌエル様式の窓」を間近に見られる。

この窓上部は、キリスト教騎士団のマルタ十字架と国の紋章やロープ、鎖、珊瑚などの大航海時代を象徴するモチーフで装飾されている。

ここは修道士達の部屋のある廊下。

修道士の部屋は、階級により造りが違う。上級修道士の部屋は床が木であり、石の部屋より温かみが感じられる。

修道士たちは、この小さな窓から中庭を見て何を思っていたのだろうか?

ここは、「食堂」。勿論食事の時は会話も禁止。

入口には、会話厳禁を意味する彫刻が施されている。

 ここで、パンを焼いていた。来客の際にはお菓子も焼いていたようである。また、貧しい人にもパンが配られた。

世界中で美味しいお菓子などは修道院発祥の物が多い。ポルトガルのいくつかのお菓子もそうであるし、日本だと、函館のトラピスチヌ修道院のバタークッキーやキャンディーがある。

 

ここは、「ミシャの回廊」で、1543年に完成した。

 

 12月のバルトの国々とは、3か月の季節が廻ったとは言え、太陽の輝きが違う・・・・

 

修道士であると同時に騎士団でもあるので、剣が印象的である・・・・

 

 

 

 

ポルトガル最初の、世界遺産でした・・・・。

今夜は暖かく、Dの形をした上弦の月が美しかったですねぇ~。

ポルトガルから重たい思いをして運んできた、ポルト赤ワインに酔いながら、「フィギュアスケート男子」を楽しみました。羽生選手がショートプログラム1位で心が震えました。ソチオリンピックの時は、羽入選手の演技の前に急用で自宅を飛び出さなければいけなかったから・・・そして、その時は大雪でした。

しみじみ、今、春の兆しを感じてポルトワインに酔ってしまいました・・・・ポワ~~~ン♪

桜が間もなく楽しめますね?

あなたも私も誰でもが、美しい桜の下で幸福を感じられます様に・・・・

 

それでは、またお会いしましょう。

 

 

 

 

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ただいまぁ~~~♪

2015-03-25 03:17:49 | 旅行

一昨日の夜遅くに、ポルトガルから帰国しました。

只今深夜が深い時間であり、私の中では24日の夜の感覚なので、正確には二昨日になるかな。

ポルトガルについては、追々と徒然していきたいと思います。

 

ナザレの海岸を沈む夕日を見ながら散歩した時の光景です。とっても、夕日が美しくて、その内油彩画で描きたい光景でした。

 

ベージュの砂色をした海岸には、小さな貝と白い小石が沢山落ちていたので拾ってきました。

でもね?そのあとにポルトガルワインをの飲み過ぎて(150ml)、私元来の天然お馬鹿になってしまい、その拾った肝心の貝殻や小石をお気に入りの袋ごと、そして、同じくお気に入りの紫のバックスキンの手袋を忘れてくる嵌めになってしまったのです・・・・・わ~~ん。(涙)

あ~あ、目指している?クールビューティーの時には、そんな失態など絶対見せないのに、やはりお酒が100ml以上入ると、とたんに酔ってしまい天然お馬鹿が顔を出してしまうようです・・・・(恥)

海岸をお散歩している時の心情を一句。

「荒波に 西日輝く 丸石や 角削られて 美しきなり」


最西のナザレの海岸に、今沈み行く夕日の赤さが目に染みる美しさだ。その美しさとは、裏腹に波は荒く厳しい。しかし、足下の荒海に打ち付けられた小石はどれも丸く滑らかである。小石は削られる度々に傷みがあっただろう。私も小石の様になれるのだろうか。

沈み行く太陽は、また、昇る。暗くなっても見えないだけで、太陽は存在するのだ。黙って、その時間を待つが良い。そうすると、小石は真珠と同じ価値をもつのだ。真珠の気品ある輝きは、貝にどれ程の傷みと涙が在っただろうか。苦しみの涙が何層もの気品ある輝きを放つのだ。

 

今回の旅は、私にとってとても思い出深い時間となりました。

食べて、飲んで、見て、感動して、そして・・・・祈って来た旅でした。

 

このキャンドルの内、一つは私が灯した明り。

2011年のちょうど今頃は、ベルギーとオランダの教会で同じように祈りました。私の個人的な事、そして、震災直後の日本の復興について、等々・・・・

それから丸4年が過ぎました。今回の祈りは、祈りというよりも、様々な事柄に対しての感謝の気持ちを持っての祈りでした。

相変わらず、膨大な数の写真を撮りましたので、追々にアップしていきたいと思います。

 

それでは、またお会いしましょう・・・・^^

Good night!

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行って来ま~す^^

2015-03-13 10:20:01 | 旅行

 

季節の変わり目には、いつも体調を崩しがちになります。

皆様は如何お過ごしでしょうか?

体調が悪くて、暫く整形外科通いが続いています。「何故もっと早く来ない?」と医師に叱られてしまいました。今日も、これから病院に行って来ます。でも、整骨院にでも行った方が良いかしら?

連日ゆっくりと休んでいた日々でした。御蔭様で少し回復致しました。良かった・・・・(涙)

寝ていることが多かった日々でしたが、食事はしっかりと取っています。^^

 

春の気分を味わうのには、散らし寿司ですよね?濃いオレンジ色は、とびっ子(魚卵)です。

 

和風ハンバーグに大根おろしを添えて。思う様に腕が動かなくて、ハンバーグをフライパンから取り出すときに端が欠けて終いました。(苦笑)ハンバーグは、まとめて作り和風ソースや時間と体力のある時には、赤ワインやメイプルシロップを使ってデミグラスソースを作ります。休んでばかりであまり動いていないので、少しでもローカロリーにするのに今回は和風で。

 

カロリーセーブをしてサラダにポタージュスープ・・・・

 

ポーランドについて書こうと思っていましたが、書かない内にチョットだけお出掛けしてきます。^^

まだまだ寒いですが、季節は冬から春への移行ですね?ストールの素材も軽いものにして、これら2色の組み合わせをして春らしさを感じたいと思います。^^

ポルトガルに行って来ます。^^

日本からの直行便が無いので、第三国経由になり移動時間が長くなってしまいますが、ユーラシア大陸の最西で春色のストールを靡かせてきます。^^

直ぐに帰ってきますね?

帰国後にまた写真と共に紹介したいと思います。ですが、その前にポーランドの紹介をします。

行って来ます・・・・・^^

 

それでは、またお会いしましょう。

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リトアニア5

2015-03-02 02:02:11 | 旅行

 先回に引き続き、カウナスを紹介したい。

カウナスは、リトアニア第2の都市で中世の面影を残す。旧市街にはゴシック建築が多く残存する。

 

ホテルの部屋から見える光景。新市街になる。

同じ部屋から夜が更けるのを待って月を写してみた。気分的に日本よりも月に近い様な気がして、静かな夜のしじまを楽しんだ。

これは、大天使聖ミカエル教会。同じホテルの部屋から明け方に望遠撮影した。

1893年に建設された新ビザンチン様式教会。正教会であったが1919年カトリック教会となった。旧ソ連時代には博物館となったが、リトアニア独立後は再度カトリック教会へと返還された。

 

同じくホテルからの望遠撮影であるが、これは復活教会。完成が切望された祖国復活の象徴としての教会で、第一次大戦後の1934年に着工された。しかし、ナチスの倉庫や旧ソ連のラジオ工場として転用された。2004年についに教会として完成された新生リトアニアの象徴である。

カウナスの街の造りは、ネムナス川とネリス川の合流地点の三角形の場所に位置する。

 

二つの川の合流地点に立つカウナス城。13世紀チュートンドイツ騎士団の侵略防衛に建てられた。ネムナス川は、ドイツ騎士団とリトアニアとの国境となっていたために、何度もここで戦闘が行われた。

 

 1363年にドイツ騎士団に破壊され占領されたが、15世紀にヴィダス大公時代に入り再建された。1410年に騎士団に勝利した後は、砦としての役割を終えて居住用として使用された。また、17世紀にロシア戦により破壊された後は、廃墟となったが20世紀に入り、価値が評価され修復が開始された。

現存しているのは、修復された塔と城壁の一部と城郭の名残のみとなっている。

 

これは、旧市庁舎。16世紀建造のゴシック様式とバロック・新古典様式が融合した建築物で、「白鳥」に例えられる。1542年に最初の基石が置かれ、18世紀に現在の姿に再改築された。

旧市庁舎を囲む広場は、中世に市が立った広場で、このときもクリスマス市が夜になると開かれていた。広場中央には白いクリスマスツリーが建てられていた。

このツリーは、エコツリーで白いプラスチックカップから出来ている。中に入ると真っ白!

 小さな形の物でも、沢山揃うと綺麗ですね。

 

ツリーの下の御婆ちゃんとお母さんに微笑んでいる子供が可愛い♪ ここでも紅ほっぺに出会った。

聖ペテロ・パウロ大聖堂。

ヴィダス大公が15世紀初頭に建てた。赤レンガが美しいゴシック教会である。帝政ロシア時代には、リトアニアの大司教の管区となった。現在はリトアニアのカトリック枢機卿がここを本拠としている。

内部は、バロック様式で17世紀の「聖母被昇天」絵画が掲げられた祭壇がある。

 

旧市街の目抜き通りであるヴィルニアウス通りは、街灯が天使の電飾で飾られていた。

カウナスでは、素焼きの天使をいくつか購入してきた。私の各国の天使のコレクションが、また少し増えた・・・・

 

 

撮影した写真は、人様から見るとモチーフにならないような、私だけの感性の様々なものがあり相当量になるが、紹介したのはごく一部で、リトアニア編は以上。

次回は、ポーランドを紹介したい。

それでは、またお会いしましょう。

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リトアニア4

2015-02-27 22:13:25 | 旅行

 

 リトアニアの第2の都市カウナスにやって来た。カウナスに関しては、2回に分けて紹介したい。

 

カウナスは、ポーランド支配下当時にヴィリニュスに代わってリトアニアの首都とされた。カウナスの街中を紹介する前に、ユダヤ人の命を救ったビザが発給された旧日本領事館と、杉原千畝氏について先ず紹介したい。

 

 

現地で資料を入手してきた。そして、今まで知らなかった事などを知ったが、個人のお遊びブログなので、ここでは余り余計な事は書かずに写真のみの紹介とする。

 

 

杉原氏の再現ドラマ?などでは紹介されていないが、日本人の夫人とは再婚で初婚ではロシア人女性と結ばれていたようだ。国家間の問題などにより、ロシア人妻とは彼女を救うために離婚したようである。

 

手が動かなくなるまで・・・ビザを発給し続けた。杉原一家がカウナスを離れる電車が出発する間際まで、電車の中から手を出しユダヤ人の為に書き続けた。

杉原氏はビザを発給した際にユダヤ人に言わせていた言葉がある。しかし、日本の外務省は・・・

後に杉原氏の名誉は回復されたが、それには随分時間が掛かった。杉原氏に救われたユダヤ人が、またその子孫が杉原氏を探し続けたが、外務省から彼等には、「そのような名前の該当者なし」と言う返答で杉原氏の名誉が回復されるのに時間が掛かった。

なぜなら、杉原千畝という発音がユダヤ人には難しく、自分の事を本名ではなく愛称で呼ばせていたので、正確な杉原氏の名前をユダヤ人が知らなかったからである。

こんな素晴らしい方が多くのユダヤ人の命を救ったと思うと、日本人として誇りを感じますね。

 

ここを背に立つと・・・・

こんな光景が目に写る。ここに犇めくように・・・・

 

 

 

それでは、またお会いしましょう・・・・

 

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リトアニア3

2015-02-25 23:19:58 | 旅行

 

リトアニアの首都ヴィリニュスより、30キロほどの距離にあるトラカイを紹介する。

 

 

トラカイは、ヴィリニュスに移る以前の首都であった。30以上の湖と森に囲まれ自然公園として景観が保護されている。

二つの湖に挟まれた島に建設されたトラカイ上は、14世紀後半にチュートン騎士団の侵略からの防衛と祭事目的の為に、キェストゥアティス公及びヴィタウス公により建設された。

ヴィタウス公死後にポーランド支配下に置かれると廃墟となったが、1961年に復興が開始され1987年に現在の姿になった。

 トラカイは、少数民族のカライメ属の故郷でもある。彼等は、15世紀初頭にヴィタウス公によりクリミア半島から傭兵として連行された。トルコ系ギブチャスク部族に属する民族で忠誠心が厚いことが評価されていた。

この本丸は博物館となっている。

 

 トラカイ城本丸の中庭は、各階に通路用としての木製のバルコニーが設けられている。

 

 本丸の博物館は、カライメ属に関して数少ない貴重な資料を現存する。カライメ人の出身地や独特な宗教、貴重な民族衣装や祭祀に関して展示してある。

 

 

 

 

 

カライメ属の宗教は、旧約聖書を基本とした独自の宗教のようである。リトアニア国内のカライメ人270人の内70人がトラカイに居住しているらしい。

 

 湖は凍り始めていた。

湖面の氷の結晶を望遠で撮ってみた。

午後4時前だというのに、陽は西に傾き弱い陽射しが湖に影を作り、澄んだ冬の景色が心に沁みた・・・

 

 

 

 

 

おばあちゃん(だと思う)と手を繋いでいる幼児が微笑ましくて、可愛くって・・・・

ぷっくりした赤いほっぺを抱きしめて頬擦りをしたくなってしまった。この子はロシアからの独立については、未だ何もしらないだろう。しかし、両親や祖父母から歴史を受け継いでいくのだろう。

つくづく、世界中どこでも子供の笑顔を大人は奪ってはいけないなぁ~などと、世界の平和を願いながらこれをアップした・・・・

 

 

 

 

それではまたお会いしましょう・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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リトアニア2

2015-02-24 03:06:21 | 旅行

リトアニアの首都ヴィリニュスを紹介する。

ヴィリニュスは、バルト3国の首都の内で唯一内陸部に開かれた街だ。先に紹介した、エストニアのタリン、ラトビアのリガは、いずれもバルト海に面したドイツハンザ都市の栄華の趣を宿している。しかし、ヴィりニュスは、ドイツ商人の影響を受けずに建設され森の中に開けた街である。

 

宿泊したホテルの紹介は割愛するが、世界中の著名人が宿泊したリゾートホテルだった。しかし、一歩外に出ると、森の中で静けさを堪能した。これは朝8時過ぎの光景だ。

暫く冷気の中で鼻腔にバルトの森の香りを楽しんでいると、ようやく朝日が森の向こうに登りだした。重たい灰色の空が、オレンジ色になる前のセピア色の朝焼けが美しくカメラで追ってみた。

 

太陽の輪郭がぼんやりと木々の合間から顔を出す。

リトアニアは、というよりもバルト3国は日本からの直行便がないので非常に遠い国のように感じるが、バルト3国の中でも日本とは関係が深い国である。森の中から姿を魅せる太陽のような、その日本人の存在抜きにはリトアニアを見過ごせないだろう。

リトアニアには13世紀以降、数多くのユダヤ人が住んでいたが第二次世界大戦でナチスドイツによる大量虐殺が起こる。そう、このときに彼等ユダヤ人6千人の命を救ったのは、日本人外交官杉原千畝氏である。

ヴィリニュスの街中にはゆったりとネリス川が流れる。その川岸に、日本のシンドラー事、杉原千畝氏の記念碑がある。

なお、ここヴィリニュスにあるのはこの記念碑だけである。杉原氏が外交官として仕事をした旧日本領事館は、リトアニア第2の都市のカウナスにある。なぜなら、ポーランド支配下に置かれたビリニュスにか代わって、カウナスが当時の首都となっていたからである。

記念碑の周囲にある低木にお気づきになるだろうか?桜の木の植樹も行われたのである。

 

杉原氏や旧日本領事館については、後のカウナス編で紹介する。しかし、記念碑に書かれた日本文は十分に読めると思うので参考にして頂きたい。

朝一番でネトリ川の散歩を終えると、先程の朝日がすっかり白い光に変わっていた・・・・

 

ヴィリニュスは、ポーランド・リトアニア公国のリトアニア側の首都として、またロシア支配下ではロシア東北エリアの要衝として栄えた。カトリックを国教としつつもユダヤ人やカメイ人などの異民族も共存し、東西文化が交差した。その為に、バルトの他の2国の首都のように、天高い尖塔を特徴とするゴシック教会は見当たらない。様々な建築様式が町並みに溶け合っている。

ここは、聖ペテロ・パウロ教会。ヴィリニュスを代表する記念碑的教会である。1668年から7年間かけて建設されたが、内装は30年掛けられた。

 

内部に入ると、圧倒されるほどの漆喰彫刻があり一つとして同じものが無い。聖人、天上の天使や想像上の獣、植物、無生物等々、建築に関わった当時の技術者の想像力を見せつけられる。イタリアから彫刻家ベルディ、ガッリ、バローニー等が呼ばれ数百人もの地元の職人がアシスタントとして、30年もの時間が費やされた。

前ローマ法王パウロ2世も訪問している。

 

 

ここは、大聖堂広場である。この大聖堂広場は、リトアニアが西欧に歩み寄った場所である。

大聖堂と鐘楼の前には、クリスマスツリーが飾られていた。この大聖堂は、ギリシア神殿風建築である。、それは13世紀当時のミンダウガス王が、十字軍騎士団の圧力から逃れる為にキリスト教に改宗した際に建てられた。現在の姿は、18世紀に大改築による。現在の鐘楼は、かつて防御塔の跡地に建てられた。

鐘楼の高さは53メートル基礎の部分は、13世紀の城壁がそのまま使用されている。

このレンガ色の敷石は、1989年の「人間の鎖」の記念石である。そこには、「STEBUKULAS」(Sは重なる)と書かれており、意味は「奇跡」である。旧ソ連から独立を願うバルト3国の人々が手に手を取り、ヴィリニュス、タリン、リガのバルトの3都市を結ぶ「人間の鎖」を作った。人々が手を結び立ち上がり、歴史を変えた記念すべき起点の敷石なのだ。この上で時計回りに3回まわりながら願い事をすると叶うと言われている。

斜め2本の影は私の足。「ああ~この地にやってきたなぁ~。Cogito ergo sum. (ラテン語だけど意味は割愛(恥))」と感慨深く旅行者らしく?3回まわってきた。^^

 

ここは、三つの十字架の丘。16世紀に布教活動に訪れたフランシスコ修道士7人が異教徒の手に掛けられ殉教した。4人が川に流され3人が磔にされた。追悼の為の十字架として17世紀初頭に建てられたが、スターリンによって破壊された。その後1989年に再建された。ここから、ヴィリニュスが一望できるが、下から望遠で撮影した。

 

 

 ここは、大統領官邸。16世紀にはヴィリニュス司教の住居で、後に18世紀にロシア支配下では、ヴィリニュス総督の住居となった。ロシア皇帝アレクサンドル1世、フランス王涙18世、ナポレオンがここを訪問したと言われている。1997年に現在の姿に改築され、それ以降はリトアニアの大統領官邸となっている。大統領が官邸もしくはヴィリニュスに在居もしくは、在京のときは、大統領の紋章の国旗が掲げられている。

ヴィリニュス大学にやって来た。

16世紀に宗教改革が起こるとそれに対抗してイエスズ会が招かれた。そして1570年にイエスズ会が高等学校を設立、1579年に大学に改編された。帝政ロシア時代には、抵抗運動の本拠地となったので、88年間閉鎖されていた時期もあった。最古の部分には18世紀の天文観測所があり、当時はグリニッジと双璧をなすほどの性能だったと言われている。

 

 

大学を後にして、裏通りを歩いてみる。静かな朝だ。

ここは、聖アンナ教会。15世紀末に建てられた後期ゴシック(フランボワイヤン)建築様式の教会である。フランボワイヤンとは火炎の意味で、33種類の異なる赤レンガが使用された正面シンメトリーな尖塔と十字架が美しい。これは当時の姿がそのまま現在にも残されている。

1812年、ロシアに攻め上げてきたナポレオンがこの教会の美しさに魅せられ「我が手に乗せフランスに持ち帰りたい」と呟いたそうな。

 

バルト3国と言えば、琥珀の有名な産地である。琥珀の美術館を紹介する。

 

 

 

琥珀と言えども、原石の状態ではあまり美しくない。

美しい鼈甲飴色。年配向けの様な・・・・。おいしそう・・・・・

琥珀色は様々で鼈甲飴?以外にも赤や緑や白っぽいものまで様々。

アクセサリーとしては、個人的には余り興味が無い。

こちらの虫入りの方が、興味深い・・・・(苦笑) 太古の歴史を感じる・・・・

日本の皇族の方も訪れたようである。

この博物館に併設の店ではなく、クリスマスマーケットの夜店で白熱灯に輝く、琥珀擬きを購入してきた。(苦笑)

ここは、ゲディミナス城。リトアニア国旗を掲げるゲディミナス塔は、かつての城壁跡である。14世紀、大公ゲディミナスがトラカイからヴィリニュスに遷都した際に、城が築かれた場所である。。19世紀に帝政ロシアによりその大部分が破壊され、現在は監視塔として使われていたゲディミナス塔のみが残っている。

 

ヴィリニュスには、まだまだ多くの見どころがあり紹介しきれない。旧市街を中心に紹介したが、まだまだ様々な建築様式の教会が混在してる。また、新市街には東ヨーロッパで最も高い326.5メートルのテレビ塔などもある。

また、見どころとは言えないがジュノサイト犠牲者博物館(KGB博物館)などもある。旧ソ連時代のKGB(ソ連国家保安委員会)が入っていた建築物で、リトアニア人はその場所に連れてこられ、拷問を受けたりシベリア送還されたりした。第2次世界大戦のナチス時代には24万人が亡くなり、旧ソ連時代には3万人もの人々が強制収容所へ送られた様子などが展示されている。KGBによる残酷な取り調べが行われた生々しさがそのままの拷問室などが公開されている。建物の壁には、そこで犠牲になった人々の名前が刻まれている。

 

リトアニアでは、3月26日と6月14日の両日、半旗が掲げられる。第2次世界大戦の際に、反体制派や知識人がシベリア送還されおびただしい数の人々が犠牲になったことを追悼する。

 

旧市街は、公共交通が殆ど無く静まり返っていて、私たちは歩くしかない。寂しげな小路や裏通りが続く。しかし、大通りは開かれたヨーロッパの香りが漂う。日本でも目にするファーストフードの店も目についた。

 

次回は、ヴィリニュス近郊の中世の古城を紹介したい。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

追伸。

体調が良くなく暫くPCを開けていなかったのですが(数千通の不要メールが凄い!)、それでは、またお会いしましょう・・・・

 

 

 

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リトアニア1

2015-01-24 05:50:35 | 旅行

 

バルト3国の内、最後の国としてリトアニアについて数回に分けて紹介したい。

バルト3国は、日本からの直行便がないので、また、各国が独立したのも20世紀であり、巨大なロシアのバルト海沿岸の小さな共和国の認識で、非常に遠い国のような印象を多くの私達日本人が持つのではないだろうか?

リトアニアは、インド・ヨーロッパ語族に属し、先祖はラトヴィア人と同じ民族だったと言われる。言語はリトアニア語で、現在でも最古の形を残しており古代サンスクリット語に近いとされている。また、ヨーロッパ唯一の異教徒民族であった。1251年にミンダウガス大公がカトリックに改宗し、それまでの宿敵ドイツのリヴォニア騎士団との同盟を交わして、1253年にリトアニア初代の王位につく。

しかし在位10年ほどで暗殺され、それ以降リトアニアは再度自然崇拝の国になる。14世紀に入り、ゲミニナス大公がヴィりニュス建都して、ユダヤ人を招き入れ国力強化を行った。次のヨガイラ大公が1385年ポーランド女王ヤドヴィガと婚姻したことにより、それ以降200年続くリトアニアとポーランドは同君主を戴くヤケヴォ王朝を築き、キリスト教を受容した。これにより、一時的にはハプスブルク家と並ぶほどにまで勢力を拡大したが、1795年にポーランドが分割されロシアの支配下となる。

ロシア革命後、1918年にリトアニアは独立宣言をするが、第二次世界大戦でロシア、ナチスドイツに占領された後、ロシアに併合する。

1990年3月11日、リトアニアが独立宣言をし、翌91年2月4日独立を勝ち取った。

 

リトアニアで最初に紹介するのは、「十字架の丘」である。上記のような、強国に支配されてきたリトアニア人の人々にとって、自由と信仰の思いが溢れるリトアニアの聖地だ。「十字架の丘」は、首都のヴィリニュスから車で3~4時間のシャウレイを起点とする。

周囲は、地平線が360度見えるような場所に、これでもかこれでもか、こでれもか!!!と言うほどの大小無数の十字架で出来た丘が見られる。

 

土地に十字架が建っていると、キリスト者の墓地のような印象を受けるが、墓地ではないので人々が埋葬されているという事はない。

 

小さな十字架はロザーリーの先の2センチ位のものから、大きいものは12メートルの十字架まであり、年々増え続け10万本を超えたといわれる。独立後1993年に、当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世もこの地を訪れ祈りを捧げた。

最初の十字架は、1831年に建てられたという。

 

上記に認めたように、リトアニア・ポーランド連合は、列強によるポーランド分割でロシアに支配された。

1831年にロシアに対し蜂起したが、鎮圧されてしまった。その時に、処刑や流刑され犠牲になった兵士の家族が遺体を埋葬する代わりに十字架を建てたのが始まりだと言われている。

 

十字架の形一つとっても美学研究?になる。リトアニアの十字架は、様々な装飾がされており複雑な形をした物が多い。しかし、世界には基本形となる数種類の十字架があるので、ここで簡単にそれらの代表的な種類について紹介したい。

私達日本人でも比較的なじみの深い形の十字架は、「ラテン式十字架」である。縦長で横木が縦木のやや上部に添えられている。主にカトリックやプロテスタントなどの西方教会で用いられている。

スイスの国旗や赤十字のような、縦木と横木の長さが等しい十字架は、西方教会でも多く用いられているが、正教会で採用されている。これは、「ギリシア式十字架」である。

カタカナの「キ」印に近い形で、さらに斜めに小さな横木が添えられた、「八端十字架」と呼ばれる特殊な形をしている十字架は、「ロシア式十字架」だ。小さな斜めの横木は、キリストの罪状を書いた札と彼の足台を意味する。

ラテン式の縦木と横木が交差する中心部分に小さな輪を重ねたタイプは、「ケルト式十字架」である。キリスト生誕以前から存在していた十字架で、後にケルト・キリスト教のシンボルとなった。

1961年、ロシア(ソ連であるが)は「危険因子」を早めに退治しなければならないと、ブルドーザーで丘の上の十字架をなぎ倒した。しかし、翌年から再度、十字架が立て直された。1975年に再度なぎ倒された。しかし、同様になった。さらに・・・数度、そのような事が繰り返されたが、十字架の増加は勢いが止まらない。

リトアニアの人々にとって、信仰心と独立国家を求める自由への精神は、比例して十字架の増加と言う形で表現されているのだろう。

 

教会建築の荘厳さは、教会側から民衆への流れを感じるが、360度地平線が見える様な大地が、十字架で丘が造られている様は、人々の「思い」がひしひしと伝わり、これこそ荘厳だった。

世界中の(大げさだが)キリスト建築を見てきたが、これほどの荘厳さを感じさせられたのは、これまでになかったかもしれない。胸が詰まってしまった。

 凍てつく大地の十字架の世界は無彩色で、「十字架の丘」を背にした後で、唯一微かな色彩に目を奪われた。針葉樹の常緑の緑でさえ薄らとしていたが、この無彩色に近い茶緑色が生命の息吹を感じさせてくれた。

リトアニア2へ続く・・・・・

それでは、またお会いしましょう・・・・^^

 

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ラトヴィア2

2015-01-15 23:46:48 | 旅行

ルンダーレ宮殿を紹介する。

 

 

ルンダーレ宮殿は、リガから車で約1時間程度のバウスカ近郊に位置する。

ルンダーレ宮殿は、「バルトのヴェルサイユ」とも呼ばれる。それもそのはずで、ルンダーレを制作したのは、エルミタージュを建築したイタリア人建築家・ラストゥレリがヴェルサイユを参考にして設計して、30年かけて建てた宮殿である。

 最初から、ベルサイユを参考にしたという予備知識が織り込み済みで、宮殿眺めるとそのようにも感じるが、外壁の色彩からは寧ろ、ウィーンのシェーンブルン宮殿の印象を受ける。

宮殿の最初の主は、貧乏貴族のE.ビロン公であったが、ロシアの皇位継承権を持つクールランド公国(現在のゼムガレ地方)の伯爵未亡人アンナに寵愛を受け、彼の運命を変えた。アンナが皇帝に即位すると、側近としてロシアに赴き1737年に公爵になった。前年の1736年には、ルンダーレ宮殿の礎石を置く儀式が執り行われていた。しかし、1740年アンナが死去したことにより、建設が中断され、資材はサンクトペテルブルグに運ばれる。このとき、周囲に疎まれていたビロン公は、逮捕され流刑された。しかし、1762年にビロンが復職し、ピョートル3世を廃して、今度はエカテリーナ2世がビロンを保護する。

1764年、ビロンがルンダーレ宮殿建設を再開する。1767年、エカテリーナ2世即位5周年が、このルンダーレ宮殿で行われた。その後、ビロンの死後、息子が引き継ぎ、クールランドがロシアと合併、その後幾多の推移があり、1915年、第一次世界大戦の際には、ドイツ軍が野戦病院と司令部を置いた。

 

 1972年、ルンダーレ宮殿博物館となった。

 

 

内部は、成程ヴェルサイユ宮殿のようだと納得させられる。何度もヴェルサイユを訪れているものならば、内装飾が明らかにヴェルサイユと違うと気が付くだろう。それは、装飾の中にブルボン王朝の紋章である白百合が見え隠れしているのが、ヴェルサイユなのだが、ここにはそれらが見られない。

壁面は、人工大理石と金箔をはった漆喰彫刻で装飾され、天井はフレスコ画で描かれている。

 この部屋は「黄金の間」と呼ばれる。レセプションホールとなっており、最も豪華な部屋である。ヴェルサイユで言うところの「鏡の間」に当たるだろうか?イタリアンバロック式絵画で天井が描かれている。ギリシアの神々や、ビロン公が表現されている。なお、ラトヴィア芸術では、イタリアン絵画は非常に珍しい。バルトの芸術や美学についても触れたいところだが、割愛する。

 ここは、「グランドギャラリー」で、巨大な?廊下。長さ30メートルに及ぶ部屋で、30メートルに渡りずらりと大理石の天使が付いた花台に花が活けられている・・・・と装った壁画が見られる。

 天井画の修復には14年かけられた。

 

壁画は、立体感のある花代と花の絵が描かれているが、絵画の展示ギャラリーとするために、当初は全体が赤色がかった茶色の壁だった。左端に小さく赤い四角がお分かり頂けるだろうか?

 アップにしてみると、いかに顔料が重ねられて修復されたのか伺うことが出来る。修復後を故意に残している。 

 

 ここは「白の間」と呼ばれるダンスホール。他の部屋と違い色が無い分落ち着きを感じさせられるが、反って気品が漂う部屋である。

 18世紀に舞踏会用に造られた部屋であるが、真っ白な壁は女性のドレスの色が映える様にと言う配慮らしい。壁や天井には当時の人々の生活に根付いたレリーフで飾られている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここは、「卵型の磁器の間」。18世紀の貴族階級以上は東洋への憧れが強く、中国や日本の磁器が好まれた。下段が景徳鎮などの菁伯焼きで上部が日本の有田の金襴手のよう。

 

 ここも「磁器の間」薄い水色の壁が時期をより一層美しく引き立てる。

 

沢山の部屋の写真を撮り現地で資料も入手したが、紹介しきれない。

ビロン公の「謁見質」。ここは、シルクの赤色の壁から「赤の書斎」とも呼ばれている。

右端は、青いタイル製のストーブ。

資料はラテン語のようだ。ラトヴィアは公用語はラトヴィア語であるが、ラテン語の特徴が多く残っている。

街中(の看板など)を見ると、古代ラテン語では使用しないが、現代人が読みやすくするため、あるいは、学習しやすくする為の長音(調音)記号が付けられることもあるが、ラトヴィア語では、それが正式についているようである)。

庭園も左右対称のフランス庭園を模している。ヴェルサイユだと「鏡の間」の西側で地平線の向こうに夕日がすっぽりと嵌る設計になっているが、ルンダーレ宮殿は、宮殿の南側に庭園が造られている。

 

 こんな壺がいたるところにあり、私たちが西洋文化に興味を示すように、東洋への憧れが伺える。人は自分にない物を求めるのだろうか?

各部屋には、このような写真パネルがあり、室内の様子が説明されている。

 

ここは「ダイニングルーム」。「クールランドセット」の磁器セットがセッティングされている。「クールランドセット」とは、プロイセン国王のフリードリッヒにより創業された王立磁器製作所である。

 う~~ん、これは金彩のリボンパターンですな。自分でもこういうの絵付けできるなぁ~。(こんなことを書いたらお叱りを受けるかも・・・)^^

右端の青白焼きタイルはストーブ。いくつかの部屋を纏めて暖房するようになっており、向こう側に召使のボイラー室(薪やコークスをくべる部屋)がある。

まだまだ、特徴的な部屋が沢山あり紹介しきれない。

 宮殿の外は、静かで閑散としており冷涼な空気が気持ち良かった。

 

 

 

 外で唯一目に入った自然の明るい色彩・・・・。

 

 

 

 

 

 

それでは、またお会いしましょう。

次回以降は、リトアニアを紹介します。^^

 

 

 

 

 

 

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ラトヴィア1

2015-01-12 22:13:26 | 旅行

バルト3国の内、地理的にもほぼ3国の中心に位置し、ハンザ都市の栄光を宿すバルト最大の町であり経済的にも発展している、ラトヴィアの首都リーガの街について紹介する。

、リーガは、「バルトの貴婦人」と呼ばれる。1201年にドイツ・ブレーメンの僧侶アルベルトがリーガに上陸し、異教徒征服のためにドイツ諸都市のならず者により帯剣騎士団を結成して街を支配した。その後1282年、リーガはハンザ都市同盟に加盟し街は急速に発展する。

16世紀から19世紀にかけては、ポーランド・リトアニア連合、スウェーデン、帝政ロシアに支配者が次々と変わり、帝政ロシア時期には、「ヨーロッパへの窓」として帝政ロシア第三の都市へとまで発展した。

 

姉妹都市ブレーメンから送られた、「ブレーメンの音楽隊」。鼻を撫でると御利益があるそうな・・・・^^

 19世紀後半に、絵画や工芸品の職人の為に建てられたギルド会館。現在は小さなコンサートホールとして使用されている。

これは「猫の家」。建物左の三角屋根の猫に注目していただきたい。

先に紹介した「ギルド会館」の傍に立ち、かつてこの猫は反対向きに伸びをしていた。この家には裕福なラトヴィア人商人が住んでいたが、ドイツ支配によるギルド会に入会拒否された。そこで腹いせに、彼はギルド会館の方へ猫のお尻を向けて屋根で伸びをさせた。

その後、ギルト加入を許可されたため、あるいは、会館が音楽ホールに変わったので猫は、音楽に誘われて向きを変えたと二つの説がある。

 この三つ続きの建物は「三人兄弟」と呼ばれている。右が長兄で15世紀に建てられた。一般住宅としては、リーガで最古でパン屋としての記録がある。この時代は玄関を石ベンチで飾ることが出来た。しかし、窓がないのにお気づきになるだろう。玄関にベンチは置けても「窓税」があり弟たちに比べて窓が極端に小さい。21世紀にたてられた末弟は、土地問題があり痩せていてスッキリしている。^^

リーガの街は、エストニアのタリンと同じように13世紀から18世紀まで、旧市街は城壁で囲まれていた。兵器の近代化と共に城壁は無力化し撤去されて行った。現存する一部は、建物に吸収されている。

 

ここは「火薬庫」で14世紀に建てられ、1650年に再建された。高さ25.5m、外壁の厚さは3m。17~18世紀にロシア軍の攻撃による砲弾が埋め込まれている。現在は「ラトヴィア戦争博物館」となっている。

ここは、1698年に城壁を利用して住宅が建てられた際に付け加えられた、リーガに残存する唯一の城門で「スウェーデン門」。当時、この門のこちら側に住むスウェーデン人兵士がよく利用したのでこの名がつけられた。現在は、ここをくぐると幸せになると言われているカップルの聖地だ。

それには、悲しい伝説がある。

当時のリーガの娘は外国人と会うのを禁じられていた。しかし、恋は古今東西誰にも止められない。或る娘がスウェーデン人兵士と恋に落ちた。そして、この門で落ち合うようになるが、スウェーデン兵を待つ彼女は捕えられ罰として、門の内側に埋め込まれてしまう。それ以来、夜中にこの門を通ると娘の啜り泣き声が聞こえるようになった。

 

 

 「聖ヤコブ教会」。1225年に最初の記録が登場する古い教会である。15世紀に再建され塔は80メートル。この写真では解り難いが塔の三角屋根の中程の突起物は「憐れな罪人の鐘」と呼ばれる。

 

何故なら、市庁舎前で罪人の処刑が行われた際に、この鐘が鳴り市民に告知したからだという。この鐘は2001年のリーガ800年を祝う際に再度取り付けられたが、外された理由と言う言い伝えがある。

この鐘は不貞を働いた夫人が通ると、勝手に鐘が鳴りだした。故に女性達に嫌われ、夫等に圧力をかけ鐘は外されたという。

ここは、「リーガ大聖堂」。1211年に、アルベルト司祭がローマ教皇の命を受けて建設を開始した。何度も増改築がなされて、現在の姿になったのは18世紀の後半である。そのため、各時代の建築様式を反映しており、ロマネスクからバロックに至るまでのスタイルが混在している。

 

 

 

これは「聖ゲオルギ教会」。1204年に帯剣騎士団の城の一部として建てられた、現存するリーガで最古の建物。

13世紀に住民たちにより破壊された。宗教改革以後は、倉庫となったが現在は工芸博物館である。

ここは「ブラックヘッドの会館」。ブラックヘッドとは、未婚の外国人のギルドで、北アフリカのムーア人とされる聖モーリスを守護聖人としている。1334年に建設されたが1941年のドイツ軍の空撃により破壊された。1999年にリガ建都800年の前に再建された。

 

彫金細工からなる青い時計は、月、日、時間と月齢を見ることが出来る。言い伝えによると、この時計を作った職人は、二度と同じものが制作できない様に、目をくり貫かれたという。

時計下の4体の彫刻は、リーガ、ハンブルグ、リューベック、ブレーメンの四つのハンザ都市の紋章とギリシア神話の神々の像である。

この会館前の市庁舎広場は、中世より市場が立ち、祭りや条例の公布、また魔女狩りや罪人の処刑場所ともなっていた。

 

一番最初に紹介した、姉妹都市ブレーメンから送られた「音楽隊の像」の前で、お父さんに肩車してもらい喜んでいる子供が目に飛び込んできた。写真を撮らせて頂いた。様々な歴史を経て、何処の国でもどこの都市でも現在の姿になっているが、それらの歴史を踏まえたうえで、誰しもが未来に向かって明るく楽しく生きたいと思うのではないだろうか?やはり、何処の国でも子供はかわいい。そして、小さな子供から老人まで、誰もが笑顔は素敵である・・・・^^

 

少し広場を離れて、ショッピングセンターに向かった。

一番最初に目に飛び込んできたのは、お花屋さん。花の種類は多くなく、クリスマス向けのものが殆どだだった。何故か日本の菊や(左黄色)、万年竹(右棚)が置いてあった。

とても現代的で綺麗だった。書店で目当ての本を購入してきた。ちなみに、通貨は、エストニアと違いユーロが使えず、通貨単位はLats(Ls)ラッツ。1Lsが200円位だった。

 

 

 

古い建物ばかり紹介したが、リーガは「ユーゲントシュティール建築」の宝庫でもある。フランス式に表現すると、アールヌーボー建築になる。19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパで起きた新しい芸術運動で、花や植物、女性をモチーフとした曲線の装飾美が特徴的である。

リーガ市内は、19世紀末の人口増ラッシュに後押しされて、800棟を超えるユーゲントシュティール建築物がある。

ロマネスク時代からのバロックなどの赤レンガの建築や白いユーゲントシュティールの建築物などが様々に混在して、リーガも素晴らしい街だった。

 

それでは、またお会いしましょう・・・

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エストニア3

2015-01-02 21:20:00 | 旅行

 謹賀新年。

2015年を迎えました。このブログを始めたのが、2011年の年明けでしたので、怠け者の私が飛び石ではありますが4年も続いた事になります。子供の頃、毎年新年には決まって新しい日記を目の前にして、決意?をするのでしたがいつも3日坊主でした。

決意などせずに、気ままに思ったこと感じた事を徒然すると、溢れるほど書きたいことがあり、反って慎んだ方が良いと思う内容の物もあり、セーブしてるので続いているのかもしれません。^^

今年もどうぞよろしくお願い致します。^^

さて、先回に引き続きエストニアについて紹介します。

 

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エストニアは、デンマーク、ドイツ、ロシア、スウェーデンなどの諸外国に長い間繰り返し、支配されてきた。紀元前30年頃にエストニア人の祖先が居住を始めるが、13世紀にデンマーク支配下、16世紀にはドイツの支配下、ロシア、すぐにスウエーデンの支配下になり、18世紀に再びロシアのピョートル大帝に支配される。

1905年にロシア革命をえて1915年に第一次世界大戦勃発後、1918年2月24日にエストニア共和国独立宣言を行った。しかし、すぐにドイツ軍の占領下となる。1920年2月2日にロシア・ロシア平和条約締結されたが、1939年8月23日独ソ不可侵条約締結された。同時に秘密協定が結ばれバルト3国はロシアの支配下となる。

犬猿の仲であるヒトラーとスターリンが手を結んだことになる。その当時のドイツ外相は、モトロフ、ロシア外務大臣はリッペントロップである。両者の名前を採りこの秘密協定は、モロトフ=リッペントロップ秘密協定と呼ばれる。(あ~ヒトラーの『我が闘争』を読まなくてはいけないなぁ~)

1942年ドイツ軍がバルト3国に侵攻と共にロシアが撤退する。しかし、2年後の44年に再度ロシアが占領すると、数万人のエストニア人が亡命。1949年に「人民の敵」とされた一般市民数万人がシベリア流刑。

1991年8月20日、エストニアが独立宣言。2004年EUに加盟。

首都のタリンを歩いていると、独立を回復して20数年過ぎた今は、かつての社会主義時代の暗い面影は感じない。、むしろ、城壁に囲まれた旧市街では、中世ドイツの街並みに似ていると感じる。

 

 

 ここは、タリン郊外の「エストニア野外博物館」。

バルト3国は、伝統文化の保存に熱心な土地ではあるが、ソ連時代の農業集団化政策により、伝統的な農村は破壊されてしまい殆ど残存しない。しかし1957年に開館された野外博物館は、17世紀から1930年代20世紀初頭にかけての、エストニア各地の木造住宅が当時のままで移築されている。

 

 

 

 農家は3つの建物で1軒。母屋と倉庫と動物舎。それに、夏の間だけ使用する小さな台所の小屋もある。

 これは、伝統的なエストニアの住宅の玄関ドア枠である。この厳しい外気温を室内に入れない様に、小さなサイズのドアである。

 夏の間使用する台所小屋。

 夏の間に動物を絞め、冬の間中暖房を兼ねた煙で燻し燻製ハムを制作兼保存したいたようだ。

 

農家の屋根は厚い藁ぶき屋根。

 時代が進むと、サウナも登場している。

木組みの家は、獣毛で隙間が埋められている。

室内も生活用具や家具が整えられており、今でも誰が住んでいるような暖かい息吹を感じる。ストーブが調理用の熱源にされているのは、北国ならでは。ホーローのやかん(というかポットですね)や鍋が乗っている。

 

 古着や(多分)穀物の袋を再利用したパッチワークのベットカバーが素朴。

フムフム。こうやって人々は暮らしていた・・・・

農作業を効率的に進める為に、トイレは外トイレ。

風の力で穀物を行く風車。

以上は、エストニアの古き時代の農家の様子。(と言ってもごくごく一部であるが・・・)

 この建物は、漁師の家である。写真左側が崖とバルト海になる。農家と違い風対策の為か屋根が藁ぶきではない。

農家の家から見ると、敷地も母屋も小さい。崖下が船寄せになっている。

写真右がバルト海。

バルト海は、平均深度が55メートルと浅いので塩分濃度が低い。それ故、フィンランド湾の海水は、氷る。海岸には氷河時代に陸地から運ばれた岩が見られる。

 

 

 ここは1840年代の、ドライブイン兼旅館兼居酒屋。馬でのドライブ?途中に馬を休ませ人々も寛ぎ休んだ所。

中に入ってみると、当時の写真や絵画が見られる。いつの時代も音楽とお酒は人々を慰めたようだ。

祝日には女性も集まり、踊ったり子供が豚を追いかけて遊んでいたり・・・・

ここは、現在でもエストニアの郷土料理が食べられるレストランになっている。

 

園内は非常に広く、夏場は園内を馬車が走り、野外での民族舞踊鑑賞も鑑賞できるようだ。

冬場はそういった観光地的?な華やかさは全くないが、人ごみ?を避け殆ど現地の人々しか目にできないので、防寒対策さえすれば(と言っても凍てつく寒さであるが)心置きなく、研究??できる。

 

以下は、エストニアのお土産について少々紹介したい。

 まるで、箱根土産のような寄木細工の小箱。細かい模様ではなく、パッチワークの代表柄が表現されていてシンプルな美しさだ。秘密仕掛けなどはないようだ。

エストニアの民族衣装を着た人形。夏場に来ると実際に着衣した人々の民族舞踊を鑑賞できる。

これも寄木細工。枝の模様をそのまま輪切りにして居るところが、美しい。

冬が長い土地では、室内で女性が行う手仕事の手工芸品は繊細で美しい。

 

これにホワイトリカーを注ぐと、そのままハーブ酒ができる。あるいはお酢でも良いかもしれない。

 

 

撮影してきた写真のホンの一部であるので、紹介できたのはとても少なく、語りつくせないが

エストニア編は以上。^^

次回は、ラトビアを紹介したい。

 

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エストニア2

2014-12-31 02:54:59 | 旅行

前回に引き続き、エストニアの首都タリンを紹介したい。

 

タリンは城壁に囲まれた中世の香りのする小都市であるが、山の手から街全体を望むと、城壁の外に広がった新市街では、チラホラと高層ビルも見受けられる。

細い路地で街が構成されているので建物が詰まっており赤い瓦に薄らと乗った雪の白さが御とぎの国の中の挿絵の様だった。

城壁の中でひときわ大きい砲塔がある。「太っちょマルガレータ」と呼ばれる、街の最も重要な出入り口を守る砲塔である。1529年建設され、直径24m、壁の厚さは4mもある。砲弾が発射されなくなってからは、倉庫、兵舎、監獄として利用された。当時、囚人の食事を切り盛りする女性が太ったおかみさんで、名前はマルガレータさん。1917年のロシア革命で破壊され廃墟になったが、修復され現在の姿になり、海洋博物館になっている。

ここは、1994年9月27日に沈没したエストニア号の模型がある。この事故は、「現代のタイタニック」と呼ばれる。20年前の比較的最近の事件なので、少々調べてみた。乗員乗客の852人死亡、生存者は137人。同型のフェリーは、世界中で4500隻運航している。タイタニック号では、女性の70パーセント、男性は20パーセントが生存した。しかし、エストニア号では、男性が22パーセントであるのに対し、女性はわずか5,4パーセントであった。このことに関して、「生と死」について、また「騎士道精神」についてなど書きたいことはあるが、割愛する。

 

さて、「太っちょマルガレータ」の前で、お母さんと息子さんが写真を撮っていたので話しかけてみた。友人の作品の写真を撮りに来たという。

この写真では解りにくいが、毛糸で小動物を作っていた。可愛らしい作品だった♪

城壁の中の小路にも、クリスマスのイルミネーションが美しかった。

ここは旧市庁舎。北ヨーロッパで唯一残存するゴシック様式の庁舎で、1322年に記録に登場して、1404年に現在の姿に改築された。

左の65メートルの塔の上には、タリンのシンボル「トーマスおじいさん」がタリンの街を眺め下ろしている。しかし、現在の物はコピーで1530年につくられたおじいさんは市庁舎内に保管されていている。

望遠でおじいさんを撮ってみると、1996年に生まれた若い?おじいさんののよう・・・・カメラって面白い。肉眼では確認できないものを映し出してくれる。^^

市庁舎の外回廊に、クリスマス本来の装飾がしてある。

キリスト生誕の様子である。キリストは、この世に実在した人物であるが、たった一人しか存在しないはずだ。しかし、色々な国でキリストの生誕の様子を見ることが出来る。このブログの南米編でも紹介したが、ペルーのキリスト生誕の様子を今一度、比較の為にアップしておく。

ついでに・・・・

世界各国にキリストの「最後の晩餐」の絵画があるが、そのテーブルに乗っている御馳走が現地の食べ物で興味深い。キリストはイスラエルの民なので、南米産のフルーツとかは口にしたことがないと思うけれど・・・などど、邪推な考えを持って現地で絵画鑑賞するのは私だけか?!!

 

話を戻そう。

旧市庁舎の前は、ラエコヤ広場である。ここは、デンマーク人に占領される以前より、中世から市場が立ち、結婚式などの行事や、時に裁判の場所であり罪人の処刑も行われた。1441年以来、クリスマスツリーが飾られ、クリスマーケットが立つようになった。

未だ、明るいが寒い!凍てつく寒さだった。ファーの帽子を被っていたが、こちらのフエルトやニット製品も可愛らしく耳当て迄付いていて、興味がそそられた。

あの白猫ちゃん帽子が気に入った~♪でも、日本国内では恥ずかしくて被れないかな??^^

色々な店を覗くのが楽しい。おいしそうな香りが漂う。

ストーブの飾り物。面白い!

チーズと蜂蜜のお店。お店の女性のいでたちと帽子が可愛いっ!! クリームチーズに蜂蜜を掛けて頂くのが好きで、ワインと共に時折自宅で楽しんでいる^^ なので、釣られてしまう・・・・

特設ステージも設けられている。体を温めるのに、人々はホットワインを楽しむ。

バルト3国やロシアは琥珀の産地である。クリスマスマーケットの琥珀店は、恐らくは値段からなんちゃって琥珀を楽しむ店だろう。

琥珀擬きの(恐らくポリマー樹脂)可愛い物が一杯。

余りにも寒いので私もホットワインを楽しむことにした。現地では「グロッグ」と呼び、柑橘系の香り、クローブやナツメグ、シナモンなどのスパイスで香りづけしたものもある。

可愛らしい女性だったので、写真を撮らせて頂いた。

レーズンにホワイトチョコをタップリ入れて楽しむ♪

屋台の前には簡易テーブルが置かれているが、殆どの人は歩きながら飲んでいる。酔ってしまうと足元が危ういので、雪の積もったテーブルで大人しく飲むことにした。飲むと酔うと解ってはいるけれど、この寒さでは飲まずにいられない・・・・

全部飲みきったら、かなり体が熱くなってきて廻ってしまった・・・・

 

今日は、ここまで・・・・・

それでは、またお会いしましょう。^^

そうそう、本日は2014年12月31日。

あなたも私も誰でもが、来たるべき新年の幸福を願って、素敵な大晦日の一日を過ごせます様に・・・・

 

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