リトアニアの首都ヴィリニュスを紹介する。
ヴィリニュスは、バルト3国の首都の内で唯一内陸部に開かれた街だ。先に紹介した、エストニアのタリン、ラトビアのリガは、いずれもバルト海に面したドイツハンザ都市の栄華の趣を宿している。しかし、ヴィりニュスは、ドイツ商人の影響を受けずに建設され森の中に開けた街である。

宿泊したホテルの紹介は割愛するが、世界中の著名人が宿泊したリゾートホテルだった。しかし、一歩外に出ると、森の中で静けさを堪能した。これは朝8時過ぎの光景だ。

暫く冷気の中で鼻腔にバルトの森の香りを楽しんでいると、ようやく朝日が森の向こうに登りだした。重たい灰色の空が、オレンジ色になる前のセピア色の朝焼けが美しくカメラで追ってみた。

太陽の輪郭がぼんやりと木々の合間から顔を出す。

リトアニアは、というよりもバルト3国は日本からの直行便がないので非常に遠い国のように感じるが、バルト3国の中でも日本とは関係が深い国である。森の中から姿を魅せる太陽のような、その日本人の存在抜きにはリトアニアを見過ごせないだろう。

リトアニアには13世紀以降、数多くのユダヤ人が住んでいたが第二次世界大戦でナチスドイツによる大量虐殺が起こる。そう、このときに彼等ユダヤ人6千人の命を救ったのは、日本人外交官杉原千畝氏である。
ヴィリニュスの街中にはゆったりとネリス川が流れる。その川岸に、日本のシンドラー事、杉原千畝氏の記念碑がある。

なお、ここヴィリニュスにあるのはこの記念碑だけである。杉原氏が外交官として仕事をした旧日本領事館は、リトアニア第2の都市のカウナスにある。なぜなら、ポーランド支配下に置かれたビリニュスにか代わって、カウナスが当時の首都となっていたからである。
記念碑の周囲にある低木にお気づきになるだろうか?桜の木の植樹も行われたのである。

杉原氏や旧日本領事館については、後のカウナス編で紹介する。しかし、記念碑に書かれた日本文は十分に読めると思うので参考にして頂きたい。


朝一番でネトリ川の散歩を終えると、先程の朝日がすっかり白い光に変わっていた・・・・


ヴィリニュスは、ポーランド・リトアニア公国のリトアニア側の首都として、またロシア支配下ではロシア東北エリアの要衝として栄えた。カトリックを国教としつつもユダヤ人やカメイ人などの異民族も共存し、東西文化が交差した。その為に、バルトの他の2国の首都のように、天高い尖塔を特徴とするゴシック教会は見当たらない。様々な建築様式が町並みに溶け合っている。

ここは、聖ペテロ・パウロ教会。ヴィリニュスを代表する記念碑的教会である。1668年から7年間かけて建設されたが、内装は30年掛けられた。



内部に入ると、圧倒されるほどの漆喰彫刻があり一つとして同じものが無い。聖人、天上の天使や想像上の獣、植物、無生物等々、建築に関わった当時の技術者の想像力を見せつけられる。イタリアから彫刻家ベルディ、ガッリ、バローニー等が呼ばれ数百人もの地元の職人がアシスタントとして、30年もの時間が費やされた。

前ローマ法王パウロ2世も訪問している。



ここは、大聖堂広場である。この大聖堂広場は、リトアニアが西欧に歩み寄った場所である。

大聖堂と鐘楼の前には、クリスマスツリーが飾られていた。この大聖堂は、ギリシア神殿風建築である。、それは13世紀当時のミンダウガス王が、十字軍騎士団の圧力から逃れる為にキリスト教に改宗した際に建てられた。現在の姿は、18世紀に大改築による。現在の鐘楼は、かつて防御塔の跡地に建てられた。
鐘楼の高さは53メートル基礎の部分は、13世紀の城壁がそのまま使用されている。

このレンガ色の敷石は、1989年の「人間の鎖」の記念石である。そこには、「STEBUKULAS」(Sは重なる)と書かれており、意味は「奇跡」である。旧ソ連から独立を願うバルト3国の人々が手に手を取り、ヴィリニュス、タリン、リガのバルトの3都市を結ぶ「人間の鎖」を作った。人々が手を結び立ち上がり、歴史を変えた記念すべき起点の敷石なのだ。この上で時計回りに3回まわりながら願い事をすると叶うと言われている。
斜め2本の影は私の足。「ああ~この地にやってきたなぁ~。Cogito ergo sum. (ラテン語だけど意味は割愛(恥))」と感慨深く旅行者らしく?3回まわってきた。^^


ここは、三つの十字架の丘。16世紀に布教活動に訪れたフランシスコ修道士7人が異教徒の手に掛けられ殉教した。4人が川に流され3人が磔にされた。追悼の為の十字架として17世紀初頭に建てられたが、スターリンによって破壊された。その後1989年に再建された。ここから、ヴィリニュスが一望できるが、下から望遠で撮影した。


ここは、大統領官邸。16世紀にはヴィリニュス司教の住居で、後に18世紀にロシア支配下では、ヴィリニュス総督の住居となった。ロシア皇帝アレクサンドル1世、フランス王涙18世、ナポレオンがここを訪問したと言われている。1997年に現在の姿に改築され、それ以降はリトアニアの大統領官邸となっている。大統領が官邸もしくはヴィリニュスに在居もしくは、在京のときは、大統領の紋章の国旗が掲げられている。

ヴィリニュス大学にやって来た。

16世紀に宗教改革が起こるとそれに対抗してイエスズ会が招かれた。そして1570年にイエスズ会が高等学校を設立、1579年に大学に改編された。帝政ロシア時代には、抵抗運動の本拠地となったので、88年間閉鎖されていた時期もあった。最古の部分には18世紀の天文観測所があり、当時はグリニッジと双璧をなすほどの性能だったと言われている。



大学を後にして、裏通りを歩いてみる。静かな朝だ。

ここは、聖アンナ教会。15世紀末に建てられた後期ゴシック(フランボワイヤン)建築様式の教会である。フランボワイヤンとは火炎の意味で、33種類の異なる赤レンガが使用された正面シンメトリーな尖塔と十字架が美しい。これは当時の姿がそのまま現在にも残されている。
1812年、ロシアに攻め上げてきたナポレオンがこの教会の美しさに魅せられ「我が手に乗せフランスに持ち帰りたい」と呟いたそうな。

バルト3国と言えば、琥珀の有名な産地である。琥珀の美術館を紹介する。



琥珀と言えども、原石の状態ではあまり美しくない。


美しい鼈甲飴色。年配向けの様な・・・・。おいしそう・・・・・
琥珀色は様々で鼈甲飴?以外にも赤や緑や白っぽいものまで様々。


アクセサリーとしては、個人的には余り興味が無い。

こちらの虫入りの方が、興味深い・・・・(苦笑) 太古の歴史を感じる・・・・

日本の皇族の方も訪れたようである。

この博物館に併設の店ではなく、クリスマスマーケットの夜店で白熱灯に輝く、琥珀擬きを購入してきた。(苦笑)

ここは、ゲディミナス城。リトアニア国旗を掲げるゲディミナス塔は、かつての城壁跡である。14世紀、大公ゲディミナスがトラカイからヴィリニュスに遷都した際に、城が築かれた場所である。。19世紀に帝政ロシアによりその大部分が破壊され、現在は監視塔として使われていたゲディミナス塔のみが残っている。
ヴィリニュスには、まだまだ多くの見どころがあり紹介しきれない。旧市街を中心に紹介したが、まだまだ様々な建築様式の教会が混在してる。また、新市街には東ヨーロッパで最も高い326.5メートルのテレビ塔などもある。
また、見どころとは言えないがジュノサイト犠牲者博物館(KGB博物館)などもある。旧ソ連時代のKGB(ソ連国家保安委員会)が入っていた建築物で、リトアニア人はその場所に連れてこられ、拷問を受けたりシベリア送還されたりした。第2次世界大戦のナチス時代には24万人が亡くなり、旧ソ連時代には3万人もの人々が強制収容所へ送られた様子などが展示されている。KGBによる残酷な取り調べが行われた生々しさがそのままの拷問室などが公開されている。建物の壁には、そこで犠牲になった人々の名前が刻まれている。
リトアニアでは、3月26日と6月14日の両日、半旗が掲げられる。第2次世界大戦の際に、反体制派や知識人がシベリア送還されおびただしい数の人々が犠牲になったことを追悼する。

旧市街は、公共交通が殆ど無く静まり返っていて、私たちは歩くしかない。寂しげな小路や裏通りが続く。しかし、大通りは開かれたヨーロッパの香りが漂う。日本でも目にするファーストフードの店も目についた。
次回は、ヴィリニュス近郊の中世の古城を紹介したい。
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追伸。
体調が良くなく暫くPCを開けていなかったのですが(数千通の不要メールが凄い!)、それでは、またお会いしましょう・・・・