東京や大阪のように
大空襲を受けた都市は別として
古い寺院の前を通ると
その古い床しさに思わず
足を止めてしまいます。
小さな祠一つにも
「年輪を刻み続けた時間」を
感じて足を止めます。
が
寺の裏などにある無縁墓が
山になって積み上げられている
風景を見ると
いつかは自分もその中に
埋もれているのだろうかと
想像して別の意味で足を止めます。
子孫が代々続くという
確信に満ちていた時代には
そして「先祖崇拝」が
どの家にも空気のように
存在していた時代には
墓もあって当然だったことでしょう
けれど子孫が絶えることが
確実な家庭は山ほどあるし
仏教による埋葬がすべてと
思っている家も減っています
海に流してほしい
とか
樹木葬がいいとか
多様化しています。
かくいう私も
墓は無用と遺言しています。
困るのは「骨」です
「遺骨」に霊魂が宿っていて
それを焼き場の人が
持ち帰れ、と
言うのを何度か聞きました、
が
織田信長だったら
「骨はただの骨ぞ」なんて
言いそうで
そうだよね、と
遺骨を墓に埋めるという
伝統を私は子どもたちに
強制するのをやめました。
無縁墓に眠る
無数の骨よ、
じゃない、
墓という「石」たちよ
そこに霊魂は宿っていますか?