人生の階段ー日々の詩に託してー

ある老婆の日々ーー

切れ切れの記憶ー中島飛行機?ー

2016年09月30日 | 日記

一年生で福岡に引っ越した時

確か「中島ヒコーキ」の社宅に

住むことになったと

記憶しているのは

とても不思議なのです

というのは父が勤めだしたのは

長崎の炭鉱事務所だったから。

姉は「それは中島炭鉱」よと

いうのですが

それならなぜ私は

「中島ヒコーキ」という名を

覚えることになったのか

わからないのです。

確かに炭鉱に勤めていた父ですから

飛行機であるはずもありません

幼い私の強い記憶の中では

どうしたって「中島ヒコーキ」なのです

福岡は雑餉隈

そしてとても立派な社宅

いくつも並んでいました

今はヤフー地図で見ると

マンションがびっしりのようです

でも

私にとってはやっぱり

「中島炭鉱」よりは

「中島ヒコーキ」のほうが

懐かしいのです。

戦争の始まった頃で

そろそろ食料が

尽き始め

やがて日本が恐るべき時代に

突入してゆく

その少し前

「嵐の前の静けさ」

の時代のはなしです・・・


再び遠い記憶ー旧制高校生ー

2016年09月29日 | 日記

はるかな昔のことです

当時は国鉄宮津線と言ってました

私は十二歳

兵庫県の豊岡から丹後神野まで

立ったままでいました

目の前の座席に

異様な風体の若者がうずくまって

いました。

弊衣破帽、といっても

今の人にはなんのことやら

わからないでしょうが

旧制高校の学生

ーーそれはもう超エリートーー

が、あえてぼろぼろな姿に

身をやつしている姿のこと。

その若者がじっと車窓にもたれて

うずくまっていたのです。

戦後すぐだったのに

彼は戦争に行かなかったのですね

というか

徴兵されずにすんだのでしょう

分厚い黒のよれよれのマント

さんざん破れた白線三本の帽子は

今の京大の前身かも。

何より私が打たれたのは

彼の深い深い沈黙の姿でした

あれ以来

私はあんなに深い沈黙の姿を

見たことはありません

ーーいえ、一度だけありましたね、

これは明日書きましょうーー

煙を吐き吐き列車は

県境を越え、

丹後は久美浜へ向かいます。

私が降りる駅に来ても

彼はなお窓辺にうずくまったまま

じっとしていました。

十二歳の私は

彼の姿とここで別れなければ

ならないのが

とても辛くて

ほんとはかれの最後の行き着く先まで

見届けたかったのでした。

もしかするとそれは

彼の降りる駅とか実家とか

そんなものではなくて

彼のいかにも孤独な瞑想の

姿の底にあるものが

見たかったのかもしれません。

今の若者たちの世界では

まず見当たらないであろう

戦後日本の

一人の若者の姿でした・・・


近い記憶ー東北大震災ー

2016年09月28日 | 日記

あの大震災が起きたとき

私は神田駅の下

中央通りにいました。

あちこちのビルが揺れていました

コンニャクのようにゆれる建物と

棒が左右に揺れるような

二通りの揺れ方があったのも

印象的でした。

そして七時間後の帰宅・・・

車だったのですが

左右は徒歩で帰宅する人たちの

無言の行列・・・

びっしりと隙間もなく

歩く人々。

印象的だったのは

途中の家に

「トイレお貸しします」の

張り紙がしてあったことでした。

なんという心配りでしょう。

あの数時間もの歩行の途中に

トイレを借りることができるなんて。

素晴らしい!

あの大震災の数多の記憶の中の

これは小さなひとかけら

かもしれないけれど

素敵ではありませんか?

そして今もなお爪痕の癒えぬ

東北の人々の

優しさと努力に

私は尊敬の気持ちを

抱き続けています。

 


きれぎれの記憶ー大阪空襲ー

2016年09月27日 | 日記

そのころ京都は下鴨神社のすぐそば

神社から流れる川沿いの

蓼倉町に住んでいて

ある晩

見たのです。

大阪の空が真っ赤に燃えて

飛行機が落ちてゆく姿を

私たち姉妹と母は

ーー父はジャワにいましたーー

二階のベランダから

じっと見つめていました。

大阪の燃え上がる真っ赤な空を。

ああ、飛行機が落ちてゆく・・・

あの夜の光景は

まぶたに焼き付いていて

あれが13歳の私の「戦争の風景」

だったのだと思います。

ところが問題はその翌日のこと。

朝、窓の外が見えないのです

窓の外は何やら黄色い空気に

びっしり塞がれていて

どんよりとした液体の中に

いるような感じです。

母は驚いて近所に出かけて

情報を集めてきました。

「昨夜の大阪空襲の余波」で

そのときの爆弾やら何やらの

異臭に満ちた空気が京都盆地に

流れ込んだのだと。

真っ赤な空と真っ黄色な空気。

私の中ではただの記憶ですが

シリアや中東では今もそれが

「現実」で

子供達はそのなかに

今も

生きているのですね・・・

 


遠い記憶の断片

2016年09月26日 | 日記

別に意味はないのですが

不意に遥かな昔の

断片的な記憶の風景を

綴ってみたいと思いました、

前後の関連も何もない

のですが

あちこち場所も時間も飛びますので・・・

今日は太宰府神社でのことです。

はるかな昔、

私は小一で母と二人で参りました。

家は雑餉隈でしたから

そんなに遠いところではありません。

神社に参る途中の道の両側に

あの名物の餅が・・・

当時はコンロであぶってて

それはいい匂い。

私はずっとその風景を見ながら

母の横を歩いているのですが

「お餅買って」とは

言わない子供だったのですね

ただただ羨ましそうに

両側を眺め眺め

歩いていました。

そしてついに母は餅を

買うことはなかったのです。

それが後々の記憶に焼き付いてて

ああ、あのお餅、食べたいなあ

なんと所帯持ちになった後も

引きずっていて

念願の神社に詣でてあの餅を

買ったのは

50歳を過ぎて

雑餉隈なんてはるかな場所になってて

私は東京からでした・・・

なぜか今頃

遠い風景が甦るのです

いよいよでしょうか・・・