宅録ミュージシャン雑記「月の裏表・総集編」~trifling beetleブログ~

宅録ミュージシャンtrifling beetle
が書き倒してきた怒涛のブログのバックアップ(笑)

セレブレティーを揶揄 

2013-05-06 11:51:25 | 日記
前略、昨日ネットで流れたニュースです。
「あゆの元カレ、草を食べていた」。

墳飯モノでした。

つまりは浜崎あゆみという歌手が以前交際していた恋人が、売れない時代に、野生の野菜のような植物や野生のハーブなどではなく、正真正銘の雑草を食べて飢えをしのいでいたと。
イマイチ気の利いていない4流ギャグマンガの範疇を通り越して、これは単に、読者に対する比例極まりない暴力だと、そう思いましたw
心底ネ!

こんな馬鹿話がニュースになるマスコミ界って、よっぽど退屈しているのか、頭に虫が湧いているのか、そのどちらかの可能性が極めて高いなと、引きつり笑いをしながら痛感した次第です。





草々「私がクマにキレた理由」(2007)を今更ながらに観ました。
ええ、スカーレット・ヨハンソン観たさですが、なにか?(笑)。

ハリウッド映画には、ナニー(子守)が登場する作品が実に多いという印象があります。
例えば、「ゆりかごを揺らす手」(92)や「ミセス・ダウト」(93)。

この職業の需要はアメリカの大都市では相当あるにちがいないと見ました。
給料の低さが話題となるシーンが出て来たりします。
歴史も古いが、相変わらず低賃金の職種なのですね。

本作でも給料の低さゆえに、黒人やメキシコ系、アジア系の女性たちが就業していることが、当然のごとくに描写されていたりします。

これは、いわゆるコメディ映画なのですが、最後の最後にホロリと。

リーマン・ショック前の、まだまだ金融界に入ることが富裕層へのゴールドパスと認知され、拝金主義全盛期のニューヨークが舞台。
主演はスカーレット・ヨハンソン。
大学を卒業したばかりのヒロイン・アニーは、「楽に見える道こそ地雷だらけ」という親友リネット(アリシア・キーズ)の忠告を無視して、「子供相手の気楽な商売」と勘違いし、ナニーの世界へ。
彼女は、雇い主に「ナニー」と呼ばれ、本名は呼んでもらえません。

雇い主の彼らは、自分自身の子どもを自分たちの手で教育せずに、ナニーとか、コンサルタントとか、カウンセリングとか、何でもかんでも「専門家」を使って金で解決しようとします。

子どもにヨガを教えるのに、専門家を自宅へ呼びますが、子どもは遊んでいて全然ヨガをしようとはしませんが、親もそれを気にしないし、ヨガ教師もそれを気にしません。
そういった無関心なところが本当の問題なのに、それには誰も目を向けようとはしません。

こういったところはすごく皮肉に満ちていますよね。
悲しむのは子どもだけだが、親はその子どもの悲しみにさえ目を向けようとしない。
「アメリカン・ビューティー」の匂いもします。

アッパー・イースト・サイドの人たちはみんなこんな感じではなかろうが、しかしながらこの映画を観ていると、多少なりともこんなところはあると思う。
拝金主義的アメリカ富裕層を痛烈に揶揄していますが、こうしたことは、こうした人たちの間だけではなく大なり小なりどんなレベルの家庭でも見られることだ、といいたいのでしょうか。

最後に、アニーが腹いせに「クマへ独白」します(別に「クマにキレた」のではありません。
ナニーを監視するカメラがクマに仕掛けられていて、解雇の腹いせにいいたい放題を独白したというだけのことです)。
そのビデオを見たセレブな主婦たちは、「家族の愛情って何だろう」と振り返るという内容。

エンディングが印象的で、心地よい余韻を残します。
子どもがビンからスプーンで直接食べようと母親にねだり、母親はそれを受け入れるーこういった姿が本当の家族の姿と示唆しているのでしょうね。
アニーもまた、自分の家族との問題をクリアすることができ、二重ハッピーエンドで終わる映画です。

ところで、”大都会のなかのお伽噺”というのがこの物語のコンセプトで、実際に撮影の多くがニューヨークの街中で行われています。
「ユー・ガッタ・メイル」なんかと同様な設定で、このあたりの「よくあるある的」金太郎飴感も笑えます。

最初にアニーとミセスXが出会うのは、市民の憩いの場セントラルパーク。
二人がランチをするのは、高級デパート、バーグドルフ・グッドマン。
さらには、アメリカ自然史博物館に、メトロポリタン美術館、老舗カフェのレキシントン・キャンディ・ショップなど人気スポットが次々登場し、見ているだけで観光気分が味わえてしまいます。

あと、イギリスの児童文学「メアリー・ポピンズ」の文章が引用されていたりします。
本作の主人公のイメージとメアリー・ポピンズをだぶらせていることは確かですね。
映画では、アニーがメアリー・ポピンズよろしく赤い傘を手に空へ舞い上がっていく所が映し出され、冒頭のユニークな映像とうまく融合していたりします。

スカヨハはやはり可愛いし、何をやらしても妖艶。
が、その外見と裏腹に演技の能力が、実は非常に高いことは、日本ではあまり知られていないのではないかと思います。


あらすじ ニューヨーク、マンハッタン。大学を卒業し将来を模索していたアニー・ブラドック(スカーレット・ヨハンソン)は就職試験に失敗、セントラルパークで途方に暮れる。するとその時、事故に遭いそうになった少年グレイヤーを救ったアニーは、彼の母親でセレブのミセスXに名前を“ナニー”と勘違いされたことから、グレイヤーのナニーとして雇われることに。しかし、自分磨きに忙しいミセスXが息子の面倒を全く見ず、父親のミスターXも家庭を顧みないため、アニーは24時間グレイヤーの世話を託されてしまう。プライベートもないうえ、言うことを聞いてくれないグレイヤーに困り果てるアニー。それでもやがて、両親に構ってもらえないグレイヤーの寂しさを知り、心を通わせていく。また一方、アパートの上階に住むハーバード大のイケメン学生と出会い、恋が芽生えるアニーだが…。>




Humming Parlour from Tokyo - YouTube

生きる目的 

2013-05-03 11:52:32 | 日記
哲学者のオルテガは、その著作「個人と社会―ひとと人びとー」の中でこんなことを書いていたという。

「この世に生を受けた私は何かをしなくてはいけない」。

彼が言うには、人間には周期的に繰り返される三つの契機がある。
すなわちそれは、

1.自己疎外…物の中で難破して、自己を失ったと感じること。
2.自己沈潜(観想的生活、思索的生、思索)…エネルギッシュな努力を重ねて、自己内面に引き篭もり、物について思索し、物を支配しようとすること。
3.行動(行動的生活)…予定計画に従い、世界に働きかけるために、再び世界に没入すること

…だという。

非常に興味深く、食指をそそられる思想だと思った。

テレビを眺めていると、やたら保険に関するコマーシャルが多いことに気付かされる。
先行き不透明な時代、不安は日常を根本から覆っている。
だから確かな保証に餓えているのか。

そうなのだろう。

需要があるから供給がある。
保険が蔓延していることも、今の時代性を正確に投影した、ひとつの尺度か。

まあ、誤解を恐れずに言えば、「長生きすることこそが人生最大のサクセスなのだ」という風潮が、必要以上にはびこっているのではなかろうか。
長寿は素晴らしいことで、命の重さはなにものにも変え難い。
それは正論だと思う。

しかしだ、長生きするために人は生きているのだろうか?
人生の目的が長生きなのだろうかと思う。
しかも、長く生きることに意義や意味、中身がなければ、それはどうなのだろうかなとも思う。
ふと意地悪にも懐疑的になってしまうほど、今現在、この国の人々がもつ「生きることの価値観」のベクトルというものに、どうしようもなく違和感を感じてしまうのだ。

こういう違和感は、時に自己の知らない部分、不明確な部分にしっかりとスポットライトを当ててくれるので、僕としては非常に好意的なものだと、かなりポジティブに捉えている。
己を知る依り代のひとつなのだ。

人が仮に、「何かをするため、しようとするため」に生を受けたのだとすれば、「何かを為さんとすることを目的とした人生」に、「長く生きること」とはあくまでも二次的、三次的、付加的な問題に過ぎないのであり、それ自体にそれほど重要な意義があるとは思わない。

直接的には関係ないというか…。

そもそも「生きること」に「生きることの目的」を置いていないのだ。
時間的観念や「生きるために生きることの呪縛」に、必要以上に縛りつけられることもなく、自分がやりたいこと、やるべきことに邁進する、これは自分にとって「人生の理想型」に他ならない。
あくまで理想ではあるのだが。

そう、生きている間に何かを成してみたいのである。
それは必ずしも成功という、万人に明確な形でなくても一向に構わない。
自己満足の世界で充分だ。

生きてきた意味や意義は人それぞれ。
自己満足でないものが正解であり、正論だという理屈は、たんなる歪なものにしか過ぎないからだ。

生ある間は、自分が今ここにいること(この世に生まれてきたこと)、そして現在進行形で生きていることに、最大限の敬意を払い、喜びをかみしめて、そして自分なりに意味を持たせ続けたいと思うことしきり。







夢のめがね - Songbird [AcousticaJPN] - YouTube

ORIGINAL LOVE 「夜の宙返り」 - YouTube

いきのびる魔法 

2013-05-02 11:53:16 | 日記



今のこの国のトップさんが、なんかのよせがきに書いた言葉の写真を、知人のフェイスブック経由でシェアさせていただきましたが、改めて見てみると、やはりなんか「恥ずかしい」のひとことww。

お尻がムズムズして収まりが非常に悪い。

う~~~ん恥ずかしいわ、ね~、空気読めてませんよねぇ~。
トホホです。


さてさて、今年早々に出版されていた、漫画家・西原理恵子さんの書いた絵本を、ひょんなことから知り合いの家で拝見させてもらう機会に恵まれました。
ものすごくいい感じだと思いました。

いじめを題材にしたものでタイトルは「いきのびる魔法―いじめられている君へ」。
いじめられている子供たちに向けた、愛情あふれるメッセージです。

「仮病を使って学校を休もう」「辛い思いをしてまで学校に行く必要はない」「うそはあなたを守る魔法。人を傷つけなければうそは大切」。
ほんとうに大切なメッセージだと思います。
「嘘をついてでもいじめから逃げよう、16になれば社会に出れる、働ける。自由になれる。自由は有料なのです」と作者は綴る。

素敵です!!

これらを反道徳的なものだ、けしからんと糾弾する方は、いじめを受けた経験がなく、やはりその当事者の抱える生き地獄を理解して、寄り添うことができない、冷酷非情な人だと思います。

こういう言葉は、いじめに悩む子供には、何にも代え難い心強いものとなることしきり。
「いじめを受けて苦しんでいる子供を持つ親」にとっても、だと思います。

いじめから逃げて、そして生き延びて欲しいという、何にも代え難い愛情。
セーフティーネットになるかもしれません。
説教臭く、KY丸出しで、首根っこを抑えて学校に連れ戻そうとする大人や、いじめている相手をとにかく力でへこまそうとする大人の無神経な行いよりもね!


子供の世界は狭いです。
家や学校からはじき出されたら、それは居場所が全くないのと同義。
だからこそ、いじめという生き地獄を脱して、がんばって生き延びるために、こんなちょっとした罪などは、当然、神様も目をつぶって祝福するでしょう。
体罰や虐待を受けている子供たちも同じですよ。

この絵本、何度読んでも胸に響く純粋な文学だと思いました。
併録の「うつくしいのはら」もいいです。


自分がいじめを受けていた頃、親は直接何も言わなかったけれど、でも言葉でなく、形もなく、この西原さんのメッセージと同様のエールをくれていたと思っています。



余談ですが、奥田英朗の「沈黙の町で」はいじめを題材にした小説。
学校内でいじめが形成されていくプロセス丹念に描かれていて読み応えがあります。
まさに過酷なサバイバルの世界。
食うか、食われるかですね。
生々しいというか、自己の体験をどうしてもそこにオーバーラップしてしまいます。
この小説は救いのない展開でエピローグへと向かいますが、しかし大人の世界と子供のそれとのあいだの距離感、乖離感というものが鮮明に描かれていて、それだけでも読む価値はありますね、特に大人たちにはですが…。




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テレビを見ていて地震速報

2013-04-30 12:08:42 | 日記
テレビを見ていて地震速報が入ることが良くある。
殆どテレビを見ない習慣の自分にとっては、「しょっちゅう」といっても決して過言ではない。
それくらいあちらこちらの地面が揺れている印象だ。

箱根なんて、この一月以降1700回も地震が観測されているとか。

3.11以降、本当に増えた気がするのだ。
いつ何時、いろいろな場所で、大地震が連発してもおかしくないのではとさえ思う。
もうすでに何が起こってもおかしくはないし、開き直るかと言う気分だ。
怯えていても、日々が窮屈になるだけやし。
窮屈な毎日は、やはり耐え難い。

そんなことを日に何度か葛藤させながら、日常をやりくりしていることが常になってしまった。

今現在、謳歌している社会の日常なんて、実は蜃気楼か幻のようなものであって、それがそっくりそのまま、明日も存在しているのか否かなど、何の保証もない。
明日サイコロの目がどう出るのかなど、神様のさじ加減ひとつなのだ。

そう考えたら、心がずいぶん軽くなる気がした。

明日家が壊れたなら、明日地面が崩壊したなら、近所の困っている人を援けに行くだろうと思う。
もうそれぐらいしか、できる能はないからだ。
そうなったときに高い志をもてるのだろうか。
自分のためではなく、他人のためだけにだ。

ひとついえることは、やはり、他人を押しのけても生きながらえたいという気分は変わらずに希薄、自分の今もっているエネルギーが切れた時は、その時こそが我が人生の終焉だと腹をくくることに、まったく変わりはないということ。

すでに腹はくくっているも同然だ。
いろいろなものを残してきたし、これからも時間が許す限り残せたらいいなと思う。
取るに足らないものでも、それは生きていた証には変わりがないのだ。
陳腐でもいいし、馬鹿馬鹿しいものでもいいのだ。
醜い部分さえも隠さず曝け出し、できうる限り全てを残す。


大事な儀式である。

ブログはそういうツールだと考えている。



パリス・マッチ DEZART MOON

パリス・マッチ Saturday




鉄をもって鉄を制した女

2013-04-29 12:03:02 | 日記
 
ニュースで知った。
元イギリスの首相であるマーガレット・サッチャー女史が亡くなられたと。

享年87歳。
「鉄の女(Iron Lady)」、「サッチャリズム」を具現化。
「豪腕政治家」。

サッチャーは1975年にイギリス初の女性首相に就任し、その後、歴代最長となる11年半もの間に渡り「長」として君臨。
徹底した合理化と自由化を推進してイギリスの構造改革を断行、経済的衰退からの復活を見事に果たした…とされている。

その根底思想は、米国のレーガリズムと並列で語られることの多い悪名高き「新自由主義」である。

そう、「新しく、自由なもの」だ。

コイズミの蛮行を経験した今だから声を大にしていうのだが、非常に危険な代物なのである。
パンドラの匣といえまいか。

具体的に蛮行、いやもとい断行した政策をかいつまんで言うと、国有企業の民営化然り、規制緩和然り、金融システムの改革然り、所得税率と法人税率の大幅引き下げ然り、そして「当時の地球で一番」、「追随をまったく許さないほど高レベル」といえる、あの社会福祉の削減然り。
それに加えて、付加価値税(消費税)を8%から15%に引き上げたというものもある。

ちょっと待てよ、デジャブか?
どこかで聞いたものばかりだ、2000年以降にである。
そう、まさに、2000年以降、今まで日本がやってきたこと、そしてこれから日本がやろうとしていることと、まったく同じではないのか。

今の日本の政党は、当時のサッチャリズムの模倣であることは火を見るよりも明らかである。
サッチャリズムがお手本なのだ。
そしてイギリスは一般的には、―当然、低所得者層の惨劇をベールで見事に包み隠した上での事であるがー見事に復活したとされる。

2000年以降の滅茶苦茶になったこの国の様はどうなのか?
酷い物である。
そう、富裕層以外の視点から俯瞰したときに、政策が招いた惨劇はリアルに見渡すことができよう。

イギリスも同様な視点で見たときに、日本と大差ないと思う。
あくまで、富裕層から見たときに「見事な復活を遂げた」と括られる事には大いに留意すべきであろう。



サッチャー女子の有名語録がある。

「家庭の問題を理解できる女性なら誰でも、国の問題も理解出来るところの近くにいます。」
「言って欲しいことがあれば男に頼みなさい。やって欲しいことがあれば女に頼みなさい」
「我々は核兵器のない世界ではなく、戦争のない世界を目指すべきです」




とても素晴らしいことであるが、イギリスの労働環境や、世界に誇る福祉制度をまんまとぶっ壊した第一人者としての顔、あるいはアルゼンチンとのフォークランド紛争において、即座に軍隊を送り込みアルゼンチン軍を放逐、フォークランド奪還した指揮官としての顔を思い浮かべたときに、これらはとても微妙な感覚を伴って止まないのは自分だけなのか?









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