宅録ミュージシャン雑記「月の裏表・総集編」~trifling beetleブログ~

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が書き倒してきた怒涛のブログのバックアップ(笑)

カミュ「最初の人間」について

2013-05-16 11:59:58 | 日記




いわゆるアルジェリアからフランスへの移民であったカミュを思うときに、大好きなサッカープレーヤーのジネディーヌ・ジダンを思い浮かべる。
彼はアルジェリア移民2世である。
ジダンのプレーは、画面にかじりつくように見たものである。
本当に美しく、超人的であった。

蛇足かもしれないが、ジダンは「キャプテン翼」を見て(読んで?)サッカーを始めたというエピソードはサッカー通には有名なものである。


戦後最年少でノーベル文学賞を受賞したカミュは1960年、友人が運転していた車が引き起こした不可解な事故により死去。
享年46歳。
その現場に残された遺留品のなかに、筆跡も生々しい大学ノートがあり、そこにはついに未完に終わった自伝的小説がかきとめてあった――。

『最初の人間』はカミュの他の作品とは一線を画している。
下書き状態であるが故に、逆に、飾り気の無い、カミュの裸の言葉があらわになっているといえようか。

祖国の血統を継がず、父のいない家庭で育った「新しい」最初の人間を描いた当作品は、孤独や疎外を感じる「異邦人」とは異なり、異質性を感じながらも肯定的な面を丹念に描いている。
カミュ色ももちろんあって、個人的には「野性的な太陽」「夏は長すぎる」など、太陽や暑さに対するアンチテーゼのような表現が特に目に付いてニンマリとした。

その他にも珍妙且つ奇怪な表現が多くワクワクした。
ちなみに一番のセクションのタイトルはГ美味しそうな馬糞」である!

ストーリーはいたって静かで、穏やかに進行してゆく。
こういう静けさ加減がとても心地良く感じられた。






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地球が静止する日

2013-05-14 11:49:11 | 日記
クリストファー・ノーランの作品が大好き。
とっかかりは「フォロウィング」。
1998年に製作で全編モノクロ映像。
いわゆるサスペンスものであり、独特の時間軸を入れ替えてストーリーを展開させる技法を使っているところがすごいと感じた。

この作品のツボを言うと、何回見てもその度に受け取り方や感想はコロコロと変わることであろう。
なので複数回見ることをおすすめする。

まあ、デビュー作でこの完成度。
低予算で作られているのにそれを感じさせない驚愕の映像センス。

ちなみに、フォロウィング以外の「メメント」、「インソムニア」、「バッドマン」、「プレステージ」もいい。

もうひとつは「地球が静止する日」。
最初に言うと、これは本格的SF映画ではない。
キアヌ・リーヴスとジェニファー・コネリー共演の凡庸な映画だ。

あらすじーある日、謎の巨大な球体が地球に飛来、アメリカ政府が厳戒態勢を敷く中、宇宙からの使者クラトゥ(キアヌ・リーヴス)がセントラルパークに降り立つ。あらゆる分野の専門家を集めた対策チームが組織され、亡き夫の連れ子ジェイコブと2人暮らしの生物学者ヘレン(ジェニファー・コネリー)も強制的に招集される。やがて軍の施設でクラトゥに対する尋問が試みられるが、クラトゥは特殊な能力で拘束を解くと施設から姿を消してしまう。クラトゥの目的も判らぬまま世界中がパニックとなる中、クラトゥは協力者にヘレンを選び接触を図る。そしてついに、ヘレンはクラトゥから衝撃の事実を告げられるのだったが…。
この映画は、「宇宙人の地球征服」ものではなく、地球環境保護を訴える真面目な作品である。
そして1951年のロバート・ワイズの映画「地球の静止する日」のリメイク版だ。

このオリジナルは冷戦や核戦争というテーマが忍ばせてあった。
そもそも、スペースマン・クラトゥが地球に来た理由は「原子力エネルギーを正しく使うことを地球人に警告すること」であった。

リメイク版はこれに加えて「自然界との対立」というテーマが新たに付加されている。

英題は「The Day the Earth Stood Still」。
つまり、地球環境保護の必然性を認識して、人類が立ち止まった日という意味だ。

「Human」ではない。あえて「The earth」であることから、人類のふるさととしての地球が、人類にとっての存在価値を一時停止した日のことでもある。

その日、危ういところで、地球存続のために人類が亡びるところだったのだ。
しかし幸いにも、一人の女性の熱意によって、地球はその「存在価値」を復活させた、という話。

庵野秀明がこの映画のファンで、テレビ版「新世紀エヴァンゲリオン」に、そのオマージュを使っていることは有名で、第拾壱話のサブタイトルは「The Day Tokyo-3 Stood Still」である。

蛇足だが、1951年版が日本のテレビで流れた時(1971年)の邦題は「SF地球最後の日」である。

また「地球が静止した日」(The Day the Earth Stopped)という、米アサイラム者制作のOVAもある。
これは2008年版のモックバスターであるが、非常にややこしい。





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2000+5

2013-05-12 11:47:05 | 日記
DeNAの中村紀洋内野手が日米通算2000安打をマークした。
四回の第2打席、ヤクルト先発・赤川が投じた137キロをとらえ、2試合連発となる4号ソロを左翼席へ運んだ。
39歳の中村は渋谷高(大阪)から1991年ドラフト4位で近鉄に入団。日本ではオリックス、中日、楽天、横浜・DeNAでプレー。
今季が21シーズン目で、通算1995安打。
2005年に大リーグ・ドジャースで5安打を放っている。



中村紀洋といえば、大阪の渋谷高校の内野手兼投手で甲子園に出たときの事をいの一番に思い出す。
1990年の夏である。
優勝候補は、前年甲子園で大活躍した上宮、1990選抜優勝校・近大附、同選抜ベスト4・北陽。
前年、元木を擁して春は準優勝、夏は、その年準優勝した、エース大越率いる仙台育英に準々決勝で敗退。
が、その時のエース宮田が健在で、他にも後にプロ入りするタレントぞろい。
2年連続は確立1/2と読んでいた。

一方、その年の春の甲子園優勝校・近大附は、エース里田や主砲・犬伏を擁していた。

北陽も春ベスト4で、「アルバトロス」と呼ばれていた奪三振マシーン寺前を擁していた。
選抜以降、寺前は調子を落としていたが、それでも夏には復活するだろうと思われた。

その他、翌年夏には全国優勝する大阪桐蔭、入来や坪井が居たPLもダークホースとして虎視眈々と甲子園を狙っていたのだが、まずこの三校のうちどれかで決まりだと思っていた。

いたのだが…。

北陽もベスト8目前で敗退。
近大附は、準々決勝で伏兵柏原(現東大阪大柏原)に敗れ去った。

それらを尻目に大本命の上宮は順当に決勝へ。
決勝の相手は公立高校の渋谷。
池田市にある無名の学校だ。

楽勝と見られていたが、結局、決勝も大波乱で幕を閉じてしまう。
この試合でホームランを二本かっ飛ばしたのが当時二年生の中村三塁手。
劇的な二打席連発のホームランを打ったあとは、なんとリリーフに立っての胴上げ投手。
二年生中村のワンマンチームであった。

甲子園では逆に、山口の宇部商業に劇的なホームランを打たれてしまい初戦敗退。


卒業後に近鉄へ。
やがて近鉄いてまえ打線の主砲となりアーチストとして開花。
しかしその後は除々に階段を踏み外してゆく。
渡米後はドジャース入団。
しかし、17試合でたったの5安打。
解雇。

出戻り後は中日へ。
あまりぱっとせぬまま、再度戦力外となり浪人生活。
その間、自腹でのバッティングセンター練習が報道されたこともある。

DeNAに入団後は全盛期ほどではないが、いい感じでプレイしている。
今年はいい感じのホームランも出ているし、なんか去年よりも調子がいいんだなと感じていた矢先、このニュースが流れた。

日米通産2000本。
要するに、日本で1995本のヒットを、米ドジャースで5本のヒットを放ったわけである。
あと5本打てば日本で2000本だ。


日米通産2000本のうち、1995本までが日本というのはかなり稀有なケースである。
松井秀やイチローは別としても、松井稼もこんなに極端ではない。


逆に言えば、ドジャースから帰り、中日を退団した時点で選手生命が終わりそうなものを、良くぞ持ち直して1995本まで記録を伸ばしたもんだなと驚嘆しきりである。


Ocean Side

南回帰線

波になりたい

雨のリアライズ


真夏のSequence

もう逢えないかもしれない

SUMMER EYES






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メタ

2013-05-10 11:48:25 | 日記


「メタ……」という言葉を耳にすることが多いです。
「メタ・サーチ」「メタ・ミュージック」「メタ・サイコロジー」などなど。

その中で「メタ・コミュニケーション」というものもあります。
この場合の「メタ」は、「高次」という意味なので、つまりは「メタ(高次)・コミュニケーション」という意味です。

「メタ」という接頭語には、「上から」や「離れて」といった意味があるのですが、つまりメタ・コミュニケーションは、そこで交わされているコミュニケーションを上から、あるいは離れたところから眺めて、気がついたことをその場で話題にすることでもあります。

たとえば今、Aさんという人と対峙して話したとして、自分の心情を

(1)言葉、
(2)言葉以外の動作、表情、しぐさなどで伝えようとします。


この(2)の言葉以外の、伝達方法こそが「メタ(高次)・コミュニケーション」です。

「メタ・コミュニケーション」という言葉は、もともとは、ベイトソンという学者が、統合失調症(分裂病)の患者を観察していて、使い出したものだそうです。
で、メタコミュニケーションについて少し調べたみましたが、これがなかなか難しい。

その中で理解したことがあります。
コミュニケーションをする場合にそれがどのような状況下でコミュニケーションされるかで、持ち得る意味は異なった意味になるということです。

例えば「あんたが大嫌い」という表現は、「本当に嫌い」という場合や、その逆に「好き」という場合、はたまた「大好き」という場合などもあります。
「あんたが大嫌い」というコミュニケーションをするための状況判断としてのコミュニケーションこそが、件のメタコミュニケーションということになります。

つまりコミュニケーションのためのコミュニケーションがメタコミュニケーションだと。

詳しいことは下記のメタコミュニケーションのパラドクスを参照されたい。


http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/paper15.htm


このメタコミュニケーションは、実は非常に大きな意義を持っています。
このことがわからないと、人間の判断というものがとても難しくなってしまうからです。

つまり「私のことを嫌いですか」との質問に、ストレートに「嫌いです」と答えると角が立つ。
だから「嫌いじゃないですよ」と答えたら「それでは好きか」ととられてしまい交際を迫られてしまう…ようなものです。

また軽い冗談で、「あんたってちょっとアホ違うか」と言ったら、あいつは俺をアホと言ったと怒り心頭になることもあろう。
これでは安心してジョークも言えなくなってしまいますよね。

だからこそ、メタコミュニケーションは、人間関係の潤滑油として非常に大切だという理論はとてもよくわかりました。

一般的には、明るい表情で、心の状態をありのままに表現するひとは、それだけでも、心がまっすぐに伸びていることを示すといわれているそうです。





Serge Gainsbourg - Chez Les Ye-Ye - YouTube

【夏の彼方】 佐藤竹善 - YouTube

Chocolat & Akito - EP[扉] MV - YouTube

ロマンティックな狂気は存在するか

2013-05-08 11:50:14 | 日記
春日武彦の「ロマンティックな狂気は存在するか」という本を読んだことがある。

古本屋で偶然見つけてタイトルで選んだのだ。
しかし内容は何回で、1/3程読んで投げ出していた。

今年の三月ころに、活字中毒の禁断症状と暇を持て余したのが理由で、ついつい読破。
かなり、面白かった!
現在絶版だそうだ。


春日武彦は、「患者の悪口を書く精神科医」として名高い人物である。
もう、ボロクソなのだ。
この作風を酷いと捉える方が大多数だと思うが、その裏には、とてつもない痛快感が見え隠れしていることも、あながち否定できない。

さて読んで、まず思ったのは、誤解を恐れずに言えば、「文学作品に出てくる狂人などは真っ赤な嘘、精神病患者にファンタジーを持ってもしょうがない、有り得ない」ということか。

氏はかく語っている。「天才と間違うほど豊かな色彩を見せるきちがいなぞ一人としてお目にかかったことがない」と。

もうこの時点で毒舌マックス。
全開バリバリである。

内容的には「二重拘束」の話が良かった。
そして表現的には、患者の意地の悪い描写がかなり素敵だと思った。

この「意地の超悪い視線」というものが、なかなかセンスに長けたウィットに富んでおり、かなり笑える。

一例を挙げよう。

「痩せてぼさぼさの中年男で、一応紺の背広にネクタイはしているが、よれよれで垢染みて汚らしい。少々吃音気味で、全体にどこか身ごなしがぎくしゃくしている。頬骨は高く、カナツボマナコで、無精髭がちらほらしている。目つきがどうも尋常でない。もし喧嘩でもしたら、限度というものをわきまえずに執拗に攻撃を繰り返しそうなところがある。ことさらどこがオカシイと指摘出来るものでもないのだけれど、電車で隣の席に座られたらあんまり嬉しくないな、と思わせるには十分な異様さを漂わせている」。

ボロクソである。
しかし、かなり正直かつ正確にディティールを抑えているようで、人物像を想像してみることは非常にたやすい。

まぁ、人物像の描写が細微に渡ること、非常にリアルで正確なことと、医師としての技量とが、必ずしも正比例するとは思えない。

そこで、この精神科医、実際の腕はどうなのだろうかという素朴な疑問が湧いてきた。
ただの口の悪い皮肉屋のヤブ医者なのか?

あくまで自分的に…ってことなのだが、この人は思いのほか名医なのではないかと、ふと感じた。
もっとも、具体的な根拠には乏しく、なんとなくの範疇である。

そんな偏見に満ち満ちているかもしれない思い込みを持ち、この本を振り返った時に、こう思うのである、

「きちがいと向き合う時には、不必要な善意など不要なのかもしれない」と。

そのほうがまんまと、最適な位置と角度で、しっかりと向き合えるのではなかろうか。


最後に、たとえば春日武彦が名医だとして、さて読者が患者として、この先生の診察を進んで受け入れることができるのだろうか。
勇気を持てるのか。

おそらく十中八九拒否反応を起こすことであろう。
完治した患者がこの本を読んで、再発の憂き目に会うことも考えられる。

そういう意味で諸刃の剣的な臭いをも感じる。


「毒を持って毒を制す」、「よく効く薬は毒でもある」とはよく言ったものである。





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