組合の仲間のその女性を、私は家で「クリスチャンの美人のおばちゃん」と呼んでいます。
おばちゃんって感じじゃなくてお姐様という感じだけど、家族との会話の中で便宜上そう呼んでいるだけです。
彼女は、職場で長年、1人でも闘ってきた人です。彼女の言葉は、胸にじんわりと澱みなく通ってきます。
1人でも闘っている人を、私は信用します。
1人ではなにも闘わずに、上手に調子を合わせてやってきておいて、後から残業代返せ!とか
組合をバックにつけて言い出すような人とは格が違います。私はそういう人はあまり信用していません。
そういうことなら組合を使わずとも、自分で計算して自分で労基に言えばいいとも思います。
給与の計算なら、フラッシュバックとか動悸とか涙とは無縁で事務的にできる計算作業ですから。
1人でも闘ってきた痕跡がなくて、後から急に組織を盾に出てくるのは、私は好かないです。
在職中から1人でも闘ってきた、その美人のおばちゃんの言葉は誠実な重みがあり、心から共感します。
「闘わずに立ち回っていたのに、苦しんで闘った人によって勝ち取った恩恵だけ受けとる人達に対して
釈然としないものがあるけれど、聖書の「地の塩」がなんとか」と話しておられました。
身を削った人あるいはその場から追い出された人の犠牲によって、身を一切削らなかった人達が恩恵だけ受け取る
ことへの不信感は、私もとても共感し、頷いて聴いていました。
ーー あなたがたは地の塩である。 ーー ーー 地の塩、世の光として生きよ ーー
今の私は、この言葉には耳を塞いでおきたい気持ちです。すみません。
「もういや。私は捨石ではない。私は救われなかった」と思うことを赦して欲しい。でないと精神はもっと病んでしまう気がする。
その美人のおばちゃんと私は格が違うし…