私が住んでいる所はちょうど筑後川の中流域で、緑豊かでとても恵まれた立地だと思っていて
家族や建築家のおじちゃんとも話しています。昔は中州に画家が風景画を描きによく来ていたと言います。
この辺りの情景は、西洋画のような不思議な魅力があると私も感じていました。森に囲まれた川です。
物語の着想を与えてくれるスピリットスポットです。 洋館の病院
筑後川沿いの堤防沿いを車で通り、この川の色んな側面を住民として普段から見ています。上流の方も、いいですね。
有明海の近くの大川とかになると、緑が少なくて泥っぽくてうら寂しい感じがします。
「モルダウ」「美しく青きドナウ」「流浪の民」「イムジン河」「河口」など、どこかの川や森を歌う音楽が好きで
聴く時や弾く時にはその風景を思い浮かべます。 保養先での歌の思い出
「河口」は、全5楽章からなる合唱組曲「筑後川」 丸山豊作詞、團伊玖磨作曲 の最終楽章です。
河口 合唱 團伊玖磨 中学校の卒業式でも、筑後地方に限らず全国的に歌われていて、私も歌いました。
以前、英国人やアメリカ人、ノルウェイ人等とピアノを弾き合いっこする機会があって、色んな曲を弾いて遊んでいました。
私は「この曲、なにを表現していると思う?」と言って「河口」を(題名を伏せて)弾いて見せました。
私の生活に密着している筑後川を、ありありと思い浮かべながら。中州とか 森とか 鳥とか 魚たち あめんぼ
きらめき 水路を引いた田園風景、お米 トマト ねぎ キャベツ 鮎 濁流 静寂 有明海へとつながる河口。
すると「祖国」とか「川」と言われました。 ”Your country” ”River” ”Your motherland”
すごく嬉しかったです。どっちも当たっているから。私にとって、この曲は祖国を謳う曲に等しいのです。
好きな音楽は色々とあるけれど、この曲は、私の生活背景そのものなので、自信満々にというか
ふさわしい媒体として弾ける曲です。 自己決定権という罠 そして祖国を歌う歌とは、
そういうものであって欲しくて、そうであったなら、ふさわしい媒体として演奏もできるし歌えるのですが。
私が卒業した小学校の校歌も、歴史と生活に根差した歌詞となっていて、今でも大好きなんです。
家族や建築家のおじちゃんにとっても同じで、我らが歌となっていて、みんなで愛しています。
歌詞は古典的でありながら、擬態語とかもあって大らかで楽しくて、生活民にしっくり馴染むものです。
曲も、古典的でいて飛んだり跳ねたりして、活き活きしています。「浦島太郎」に似ています。
子どもの友達が遊びに来た時にも、私のピアノで校歌をみんなで歌って、楽しかったです。
歌わされている退屈さ、しゃっちょこばった形式、強要された感情とは無縁で、楽しく歌えました。
そういえば、この校歌の歌詞には「●●小学校」という単語は出て来ません。中学校に上がると、
「●●中学校」で締めくくる歌詞の校歌となっていて、小学校校歌のような物語的で大らかな魅力がなくて、
完全に歌わされるものでした。高校の校歌も「●●高等学校」と連呼して、強制された礼讃以外のなにものでもなく
なんの魅力もなかったです。小学校のあの校歌は、そんな廉価な存在とは格違いの、芸術なのだと思います。
だから歌えと言われないのに郷土民たちが大人も子どもたちも口ずさむんです。
私は、「河口」や小学校の校歌を、我こそふさわしい媒体として演奏することができますが、
自分のものではないものへの憧れの気持ちというのも、素晴らしい演奏をつくる強力な秘薬となると思っています。
例えば、そのドイツの歌は、自分の今いる文化や生活背景とは違うけれど、それに自分なりに想像して憧れの気持ちで
演奏することで、甘美で魅力的な音楽になるというものです。So amazing..な「河口」をフランス人が演奏するのです。
多分、私の最初のピアノの先生がそうだったと思うんです。その先生は、おらが田舎村の隣町の住人で
西洋の文化に強い憧憬の気持ちを持っていて、ど田舎の田吾作的なものを見下していて、鼻持ちならない
貴族的意識のある人でしたが、その憧れ由来の演奏はとても官能的でかぐわしいものでした。
彼女の伴奏にかかれば、ソーファーミーレーと、ただ音階を降りていくだけのバイエル練習曲でも、えもいわれず
甘美な音楽となりました。あの感動は忘れられないものです。リアルよりリアリティ という歌がありますね…
話がまとまらずに終わってすみません。