今朝は雨上がりで空気が湿度をたくさん含んでいて
セレナーデ:Ständchenを弾いてみたら、やっぱり、とてもいい感じで鳴った。
音に、奥行き、響き、深み、広がりが含まれる。
同じピアノ、同じ曲、同じ弾き手、同じ場所でも、天気、湿度でこんなに音が違う。
高原や湿地で弾いてみたい。
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こんな風に弾きたい というのができてきた。
こんな風に弾きたくないやり方を 世間で賞賛、絶賛されていて
私はピアノを弾くこと自体、楽しくないと思うようになった。
競争、能力主義、狭量、完璧主義、短絡評価 ヒエラルキー 権威主義 浅い計算 階級制度
こういった考え方が、音楽を学ぶ大学でも吹き荒れていて 芸術家じゃない人達が君臨している。
音楽の世界は、美術の世界よりも、芸術とは程遠い考えで動いている。階級制度になっている。
美術の世界の方が、まだ自由。音楽の世界は不自由。
でも、そうでない、素敵な演奏を体を張って聴かせてくれる勇敢な演奏家によって
ピアノの世界自体を嫌う気持ちから抜け出して、やっぱりピアノが好きだと思っている。
忘れかけていた純粋な気持ちを、一瞬で呼び戻してくれる魔法使いの演奏家が、稀にいる。
この問題は、音楽だけでなく学問の世界でもずっと起こっている。
二流の教授が、学生の独創性を潰している。
本来「学問は、自由という養分が絶対不可欠」: Albert Einstein なのに
それを、損得による忖度で許さない二流五流の「研究者」が、潰している。
自らの創造性を殺すことで生き延びて社会的害悪の伝播を担いながら報酬(薄汚れた報酬)を得てきた人達は、
若い人達が独創性をもつのを許さないで、俄然潰してくる。これは音楽も学問の世界も同じ。建築の世界も同じ。
才能を潰すブラックジョーカーは、先生であることが多い。そしてそういう人達がうようよしている。
そういう二流の先生によって、好きだという純粋な気持ちで取り組んだものが、嫌いなものに変わってしまう。
あるいはさらに悪いことに、その歪んだ世界の中で、純粋な気持ちがへし曲げられて 奇妙な形をしたまま
それに気づかないで同化していくか。
もし、独創性を育ててくれる一流の先生に出会えたら、それは、日本では極めて希有な幸運と言わねばならない。
そういう先生は確率的にあまりいないが、「先生」という肩書を持っていない人達が一流の先生になることがある。
その人の作品や演奏にたまたま出会った子ども、若者、お姉さん、おばちゃんやお年寄りは
競争、能力主義、狭量、完璧主義、短絡評価 ヒエラルキー 権威主義 浅い計算 階級制度
損得による忖度 自己保身 制度への迎合 利に敏い立ち回り 嫉妬心 面白くない気持ち やっかみ
に縛られない、自由な外野にいる。そういう人達の感想にこそ、耳を傾けるべきだ。
そういう外野の人達の方が、「先生」と称される人達よりも本当の先生である。
そういう人達が言った感想が、心からのもので、その作品や演奏に価値を見出すものなら、最大に喜んでいいことだ。