ブリヂストンA工場で働いて、私が見たもの、私がしたこと、私に起きたことを発信します。

日本の雑居的無秩序性

2019-08-26 | 社会・政治のこと

精神的雑居  丸山眞男の『日本の思想』(1961)

 

日本の思想というのは、学習した知識が雑多にあつめられているだけで、構造化されない

それは思想の雑居や無限抱擁とよばれる。

 

思想的座標軸が欠如した「雑居性」が「日本の思想」の特徴である。


「新たなものが、過去との十全な対決なしに次々と部品として摂取されるため、新たなものの勝利が驚く程早い。」

=新しきは古きにまさるの飛びつきが非常に速い。 矛盾を矛盾として認識しない

 

「私がこの文でしばしば精神的雑居という表現を用いたように、問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならば、そこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。」

 

「むしろちがったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異るものと措定してこれに対面するという心構えの稀薄さ、その意味でもの分りのよさから生まれる安易な接合の「伝統」が、かえって何ものをも伝統化しないという点が大事なのである」

 

「一定の時間的順序で入ってきたいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失なってしまう」

 

:::::::(以下:空っぽの「モラル」に内からのモラルが潰される より::::::::::

 

久野収という人が言った「理性の手段化」という言葉を本で見つけました。

 こんな感じです。本来理性とは、より普遍的に用いられて然るべきところを

ピンセットで恣意的にピックアップしたものだけに理性を吹きかける。

モラハラのことだ と思いました。 ご都合主義とも言えます。何かの目的、意図のために理性を手段化するのです。

 

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この雑居性は、私が「節操がない」「理性の手段化」と言って嫌ってきたものにまさに繋がる、最適な説明だと思います。

モラルをふりかざしたモラハラも、この雑居性、節操のなさ、座標軸の不在が、温床になっています。

 

この雑居性は、西欧諸国では後進性、知性のなさと見られていますが、そうではない、いいことだという、日本人による意見がありますが

私も、この雑居性、無限抱擁は 褒められるものではない後進性だと思いますし、それによる嫌な思いをたくさんしてきました。

 

一言で言えば、やりたい放題社会です。

 

その際限のなさには、閉塞感を感じます。色んなものが無意味になるからです。

思想的座標軸が欠如した「雑居性」を特徴とする日本では あらゆる考えや知識を無限に吸収し駆使しますが

それらのものが構造化されないので、無意味となります。気泡に消えてしまいます。

このどうしようもない空しさを私はずっと感じてきました。

あらゆる考え、思想、知識がネタ化して その場その場でつまみあげて恣意的に利用される。濫用される。

  その人の目的を浅ましく正当化するために…

どこまでも節操なく垂れ流しになる矛盾…。そのことに臆面も、ない。

 

私はこの無法に美点など感じない。耐えられないです。

 

主語を明らかにしない話法も、同じように、その有害性は絶大なものです。

ブリヂストンで私になされた、曖昧さを利用したハラスメント話法です。

自分の言っていることに責任をもつことから予め逃れることを担保しながら、

相手を疑心暗鬼にしたり、精神的打撃だけを確実に与える、非常に卑怯な手口です。

 

主語を言うことなく、主語を入れ替えて話す話法や、定義を明確にせずに話される話法が

まかり通る日本は、非常に知的水準の低い国だと思います。   (一例:自民党改憲案の粗悪な人権感覚

 

なんでもありの 支離滅裂  やりたい放題を可能にし続ける

精神的雑居性・無限抱擁 = 座標軸の不在 = 節操がない


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3章 思想のあり方について

近代市民社会が発達するに従って機能集団が多元的に分化してくる、ということは、これは世界的な傾向であります。(中略)
ただ、日本の特殊性はどこにあるかというと、ヨーロッパですとこういう分化が起こっても、他方においてはそれとは別の次元で人間をつなぐ伝統的な集団や組織というものがあります。たとえば教会、あるいはクラブとかサロンとかいったものが伝統的に大きな力をもっていて、これが異なった職能に従事する人々を横断的に結びつけ、その間のコミュニケーションの通路になっているわけです。ところが、日本ではそういった役割をするものが乏しく、したがって民間の自主的なコミュニケーションのルートがはなはだ貧しい。

こういうふうに各組織体がみんなタコツボ化しますと、その組織体は、それに属するメンバーというものを、まるごと飲み込んでしまう。(中略)

こういうふうになりますと、当然ウチ同士だけで通用するいろんな価値基準なり言葉というものが発生し、そこから集団内部の言葉の隠語化がおこってくる。つまり「アウツ」に対して「インズ」の了解事項が集団の下層に沈殿してきますと、お互いの間同士ではそんなことは当然でいまさら議論の余地がないと思われることが、だんだん多くなってくる。

その組織なら組織の中で通用している言葉なり、外部の状況についてのイメージなりが、組織の外でどれだけ通用するかということについての反省が欠けがちになる。」    「他者感覚の無さ」

 

ブリヂストンの醜態を思いました。 (関連:「怒りを遷さず」


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