学校の訓練もいよいよ最終コーナーを回って、最後のホームストレッチ。あとはゴールに向かってラストスパートだ。
課題が自由制作に移ってからというもの、クラスメイトたちの作業内容はバラバラに散らばっていった。ヤジヤジは一心に粉引きを追求し、相変わらず窯を焚きまくってデータを採っていた。あっこやんは多彩な物体を挽いて表現のバリエーションをひろげていく。代々木くんは不自由な指を操って、若葉家直伝の茶陶を追求していた。
ツカチンもついに吹っ切れたような顔で、見上げるような巨大ツボを挽いていた。ろくろ成形したふたつの大ツボ(片方は底抜け)を、柔らかいうちに口同士合わせて接着し、それをまたろくろ挽きして一体化するという方法だ。人目をひく派手な仕事だったが、周囲には目もくれず、無心に土に向かう。モテようという邪心はやっと捨てたようだ。それもそのはず、ヤツは観念して、ひとりの女の子を彼女にしたのだ。長い放浪の旅を終えた心持ちだったかもしれない。あるいは、彼女のためにがんばる、という新たな邪心によるモチベーションがかもされていただけかもしれないが。いずれにしても、オレは相変わらずヤツに敗北した気分だった。
一方、ストーブから半径2mの地を領土として占有する位高き人々は、陶芸と名のつく一切の行為を放棄し、ティーカップに沈む茶葉の芳香を楽しんでいた。なんと優雅な光景であることか。比してこちとら寒村の貧民。身を立てるには、休みなく動くしかない。時間がない、一分一秒が惜しい、やりたいことが多すぎる、そんな焦燥に駆られて、ひたすらろくろのアクセルを踏みこんだ。
いろんな種類の抹茶碗を挽いて身につけたテクニックで、今度はゴツい水指や背の高い花入を挽いた。直線的なものが挽けるようになったら、次段階では意図的にイレギュラーな操作を加える。どんな形でも自在に挽けるように練習した。不定形を空間の中に落ち着かせるには、それを「ゆがんだ」ものにしてはいけない。「ゆがめた」ものにしなければ。結果ゆがんでしまったものと、主体的にゆがめて挽いたものとは別物なのだ。雲泥の差だ。有機的なフォルムの中の堅固な存在感は、ゆがみをコントロールし、不定形の長所を用いました、という明確な意志によって生まれる。少なくとも、オレの作品はそうであらねばならない。偶然に挽けてしまったものになど、この時期の自分にとっては意味がない。意思によって土を操ることこそ、最終的な目標なのだから。
そのためにはなににもまして、整った形を正確に挽ける基本技術が不可欠だ。学校が指導してくれていたのはこれだったのか、と今になってようやく思いいたる。かえりみれば、学校はべつに整った作品が欲しかったわけではない。そんな製品を二束三文で何百個何千個と売りさばいたところで、訓練生全員分の学資などまかなえるわけがない。それよりも学校は、自由自在を実現する腕前をこそ欲しがった。そんな人物を製陶所に送ったほうが、地域の未来をつくることができる。つまり学校は、ひとを育てて売る「合法的ゼゲン」なのだ。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
課題が自由制作に移ってからというもの、クラスメイトたちの作業内容はバラバラに散らばっていった。ヤジヤジは一心に粉引きを追求し、相変わらず窯を焚きまくってデータを採っていた。あっこやんは多彩な物体を挽いて表現のバリエーションをひろげていく。代々木くんは不自由な指を操って、若葉家直伝の茶陶を追求していた。
ツカチンもついに吹っ切れたような顔で、見上げるような巨大ツボを挽いていた。ろくろ成形したふたつの大ツボ(片方は底抜け)を、柔らかいうちに口同士合わせて接着し、それをまたろくろ挽きして一体化するという方法だ。人目をひく派手な仕事だったが、周囲には目もくれず、無心に土に向かう。モテようという邪心はやっと捨てたようだ。それもそのはず、ヤツは観念して、ひとりの女の子を彼女にしたのだ。長い放浪の旅を終えた心持ちだったかもしれない。あるいは、彼女のためにがんばる、という新たな邪心によるモチベーションがかもされていただけかもしれないが。いずれにしても、オレは相変わらずヤツに敗北した気分だった。
一方、ストーブから半径2mの地を領土として占有する位高き人々は、陶芸と名のつく一切の行為を放棄し、ティーカップに沈む茶葉の芳香を楽しんでいた。なんと優雅な光景であることか。比してこちとら寒村の貧民。身を立てるには、休みなく動くしかない。時間がない、一分一秒が惜しい、やりたいことが多すぎる、そんな焦燥に駆られて、ひたすらろくろのアクセルを踏みこんだ。
いろんな種類の抹茶碗を挽いて身につけたテクニックで、今度はゴツい水指や背の高い花入を挽いた。直線的なものが挽けるようになったら、次段階では意図的にイレギュラーな操作を加える。どんな形でも自在に挽けるように練習した。不定形を空間の中に落ち着かせるには、それを「ゆがんだ」ものにしてはいけない。「ゆがめた」ものにしなければ。結果ゆがんでしまったものと、主体的にゆがめて挽いたものとは別物なのだ。雲泥の差だ。有機的なフォルムの中の堅固な存在感は、ゆがみをコントロールし、不定形の長所を用いました、という明確な意志によって生まれる。少なくとも、オレの作品はそうであらねばならない。偶然に挽けてしまったものになど、この時期の自分にとっては意味がない。意思によって土を操ることこそ、最終的な目標なのだから。
そのためにはなににもまして、整った形を正確に挽ける基本技術が不可欠だ。学校が指導してくれていたのはこれだったのか、と今になってようやく思いいたる。かえりみれば、学校はべつに整った作品が欲しかったわけではない。そんな製品を二束三文で何百個何千個と売りさばいたところで、訓練生全員分の学資などまかなえるわけがない。それよりも学校は、自由自在を実現する腕前をこそ欲しがった。そんな人物を製陶所に送ったほうが、地域の未来をつくることができる。つまり学校は、ひとを育てて売る「合法的ゼゲン」なのだ。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園