陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その181・背中

2010-07-17 09:02:37 | 日記
 太陽センセーは、いつも全身全霊を自分の信ずる道に注ぎこむ。不借身命、一意専心。そして周りにも、そうあることを求める。だからセンセーが全力で教えてくださることは、こっちも全力で吸収しなければならない。つまり、対決、勝負なのだ。オレは、センセーがオノを振り下ろす姿を見つづけた。
 なぜか、ふと思いだした。あるときろくろで、筒型の挽き方を教わったことがあった。これはただの筒ではなく、型で成形するための筒挽きだ。つまり、あらかじめ石膏でつくっておいた四角柱の型に、ろくろ挽きした筒をすっぽりとかぶせ、外から叩き締めて四角形ののぞき向こう付けにする、という方法だ。前項で紹介した型成形技法の発展形といえる。
 この筒挽きのむずかしい点は、石膏型にぴったり合うサイズの筒をイメージし、その通りに挽かなければならない、という点だ。センセーが実際にろくろでお手本を見せてくださった。唐津仕込みの左回転で、特殊な自作ベラを使って挽く。筒はたちまち立ち上がり、石膏型のサイズぴったりに仕上げられた。センセーは三度だけそれをくり返すと、
「やってみよ」
とこちらにうながす。
「はいっ」
 もう以前のような恥はかけない。ろっくん相手にさんざん左回転で練習してきたのだ。三回も見れば、ヘラの扱いも指の操作も制作プロセスも、完全に解析とフィードバックができる。一発で寸分たがわぬもの(自分なりに)を挽いてご覧に入れた。横からセンセーに見つめられながら挽くのはものすごいプレッシャーだったが、だからこそ異常な集中力が発揮できたのだ。
 オレは何度も何度もそれを挽き、センセーはそのたびにオレの指先を凝視した。ただ、食い入るようにじっと見つめるばかりで、なにも言ってはくださらない。
 いつか火炎さんがこう話してくれたっけ。
「親父が作品をほめてくれるのは、まだまだってときなんだ。仕事をけなされるようになってからが、やっと師弟関係のはじまりだね」
 だけど結局、センセーはオレに、ただの一言も声をかけてはくださらなかった。ほめることもなく、ましてやけなすこともない。認められるには、まだまだ腕前も経験も、なにより見識も足りないのだ。認められるどころか、指導していただくことさえおこがましい立場なのだ。一言もなくて当然だろう。
 オレが太陽センセーから直接ろくろの指導を受けたのは、このときと、夏の夜に蚊柱の中で片口型ぐい呑みを挽いたあのときの二度きりだ。センセーはオレの挽いたものに関して、ついに何一つ評価を下してはくださらなかったが、オレは、全力の視線を手元に投げてもらっただけで十分にうれしかった。そして思う。センセーはいつも、教えるよりも、示してくださっていたのだ。
 オノが丸太を打つこだまはいつまでもつづいた。東の空がしらじらと明けて星を飲みこみはじめても、センセーはまだ丸太を打ちすえていた。意固地で負けず嫌い。それ以上に、彼の美意識が後退を許さないのだ。オレは人生の師の背中を見つづけた。重いオノをヨロヨロと振り上げ、ヨロヨロと叩きつける。見ちゃいられないが、止めることもできない。ただ、見つづけた。
 オノを一千回振り下ろして、ついにあの太く重い丸太が、真ん中からまっぷたつに断ち切られた。切られたというよりも、それは砕き割られた。
「どうじゃっ、みたか。かっかっかっ・・・」
 汗まみれで破顔一笑する。センセーにとっては、当然のことをあたりまえにやり遂げただけなのだ。
 泣きそうになる。センセーがいつも示してくださったのは、この姿勢だった。このひとの造形以上に、このひとの生き様をこそ見習いたい。何者かに打ち勝ったセンセーは誇らしげで、このひとを仰ぐオレもまた、誇らしかった。
 ・・・明けて翌日、センセーは筋肉痛で、寝床から一歩も起きあがれなかった。窯はセンセーの熱を飲みこみ、上々に焚きあがった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園