少年トッパ

『グーグーだって猫である』の感想 ※ネタバレ少しだけあり

お気に入り度 ★★★★★★★☆☆☆

 大島弓子先生への敬意に満ちた作品。そういう意味では素晴らしいのだが、全体的にはまとまりに欠けるし、冗長に感じられる箇所も多い。この映画、おそらく撮影現場はすごく楽しい雰囲気だったのだろう。なので「このシーンも残したい」「ここをカットするのは惜しい」ってことで、長くなってしまったのではないか。
 たとえば、殺陣の練習をしている連中に混じって森三中や上野樹里が暴れるシーンがあるのだが、これは明らかに長すぎ。半分ぐらいに切って、残りはDVDの特典映像にでも入れればいい。あるいは、授賞式の場面。たぶん関係者が出演しているからカメラはゆっくりとパンするのだろうけど、観客にはそんなことは関係ない。商業映画を作り手や関係者の思い出づくりに利用しちゃダメだって。あと、上野樹里が林直次郎を追っかけるシーンや、病院の窓の向こうで「有志」たちが踊る場面も長い。というか、あの上野樹里の激情トークは、いささか唐突で不自然だったような気がする。

 この映画で最も感動的なのは、まだ10代の頃の大島弓子(この映画では小島麻子)が、マンガを描く道具一式を文具店で揃えるところだ。ケント紙やペン先、ペン軸などを手に入れた麻子は、店主に意気込みを問われ、初々しい想いを伝える。その純粋さに思わず泣きそうになってしまった。
 僕は『綿の国星』など数作しか読んでいない薄いファンだけど(『グーグー』の原作も未読)、大島弓子という存在がいかにマンガ界にとって大きいものだったのかは、それなりに理解しているつもりだ。70年代の後半、山岸凉子や萩尾望都、竹宮惠子らと作り上げたムーブメント(実際にはそれぞれが個別に才能を炸裂させていただけかもしれないが)は凄まじかったもんね。かの橋本治や亀和田武がマンガ評論を熱心に書いていた時期だ。
 その大島弓子が、こんな風に生き、こんな風に創作活動を行い、こんな風に苦しんでいたのだということが描かれているわけだから、それだけでこの映画には存在意義がある。でも、やっぱり、ちょっと長いって。

 強さと弱さを絶妙なバランスで見せる小泉今日子の演技は大したもの。はっきり言ってアイドル時代はそれほど好きでもなかった(80年代のアイドルでは浅香唯が一番!)けど、ここ数年の女優としてのキャリアの重ね方には感嘆させられる。この映画で見せる適度な「くたびれ具合」なんて、まったくもって素晴らしい。ただ、ちょっと美人すぎる気はする。それは母親役の松原智恵子も同様。こんなに美しい母娘がいたら近所の男子は大騒ぎだって。
 もちろん、クークーは可愛い。愛らしい。それに関しては、言葉で説明する必要はないよね。
 あと、忘れちゃならないのが、楳図かずお先生。相変わらず自由奔放だよねぇ。まあ、赤塚先生と同じく、世の決まり事の埒外で生きてるような人だもんね。ずっと元気でいてほしいもんです。

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