教友会通信

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苦難の中学生活

2010年12月13日 16時33分44秒 | Weblog
苦難の中学時代
横山  拓(田野町)
 昭和二十年九月、母子で縁故疎開をしていた舞鶴市の山間地で母が亡くなった。
 戦後の混乱期に四人の子どもを男手ひとつで育てることは到底不可能だった父は故郷の高知へ帰り、戦後を生きて行くことにした。
 舞鶴より満員の汽車に乗って三日がかりで帰郷した。京都駅には多くの浮浪者がいた。乳飲み子の末の妹のミルクを小さなカンテキで沸かした。琴平の宿では私が腹下しをした。最後の夜、やっと安芸市井口(旧井口村)の叔父の家に着いた。安芸駅からリヤカーに乗せられて真っ暗な細い道を辿りながら「この暗闇はどこまで続くのだろう!」と思った。
 田野町に帰り、三学期から小学校六年に編入する。すぐに受験期となる。受験補習の教室の外では、アメリカ兵が自動小銃を持って立哨していた。
「ギブ・ミ・チョコレート」と初めて英語を使った。チョコレートを貰った生徒は主任にひどく叱られた。将校ズボンの若い先生だった。「戦争に負けても日本人の誇りを失うなよ!」というわけだ。先生はやがて教員組合を結成して活動家となった。
 旧制安芸中学校へは自転車で通った。物資のない時代である。私の自転車は二十八インチ・コースタンで、ノーパンクのタイヤを履いていた。雨具はなく雨の日は黒い外套を着て走った。身体は弱かったが、成績は悪くはなかった。進学しなかった近所の悪童どもに「英語を習いゆうろが!英語言うてん!」と絡まれた。発熱して夜遅くまで旧安芸駅のところに蹲って父の迎えを待ったこともあった。
 一年間の通学の無理がたたって私は肋膜炎になり、それ以上自転車通学をするのは不可能となった。制度の変わり目で休学も出来ない。私は新制中学二年に編入し、通院しながら養生することになった。
 「六三制野球ばかりが強くなり」と揶揄された新制中学校である。暇があったら野球をしていた。ソフトボールのいざこざで、「いらんことを言った!」と ナイフを持って半日追っかけられたこともあった。「頭が良すぎるからちょうどにしてやる」と大勢で堆肥用の丸く大きなサイロに突き落とされ、上から小便を浴びせられたこともあった。中学二年の時にいじめがいちばんひどかった。父にも先生にも何も言わなかった。ただ「今に見ておれ!」と思っていた。
 戦後の農家はどこの家庭でも、親戚の一家が海外や県外から引き上げてきて、狭い家に雑居していた。祖父の家でも、私たち一家と叔父の一家が舞鶴から帰ってきて、部屋数が足らず、庭の片隅に以前は防空壕だった木組みを利用してバラックを建て、叔父一家はそこに住んでいた。当然食べるものも少なかった。父と叔父は毎日鍬を持って、先祖の墓地の隣の荒地を開墾しに出かけて行った。木の根や石を掘り起こし、サツマイモを植えた。  
 いつもいも飯ばかりだった。祖母が石臼でそばを引いて蕎麦掻きを作ってくれた。生後八ヶ月だった下の妹のためにヤギを飼った。妹はヤギの乳で育てられた。
 そのうちに 父は四国配電(四国電力の前身)に保線員として雇われる。Kさんと言う同僚と、山を越え谷を渉って海岸段丘上に張り巡らされている高圧電線の保守・監視をするのである。甲浦まで行って、翌日帰ってくる。父のいない夜は淋しかった。
 口減らしということか、弟が隣町の伯父のところへ養子に行った。弟も辛かっただろう。
 3年生になると、いじめは少なくなった。校舎建築で奈半利川原から石を運んだ。「勉強がない」と喜んでいる者もいた。
 答辞を指導してくれた女先生が眩しかった。卒業式の夜、男生徒たちは教室で夜を過ごした。そしてお互いに好きな女生徒の名前を言い合った。こんな風に中学時代を過ごし、地もとに新設された高校に進学した。