萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

望見、陽溜―another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-23 23:59:48 | 陽はまた昇るanother,side story

望みたい、見つめて・見せて



望見、陽溜―another,side story「陽はまた昇る」

穏やかな曲が、周太の浅い眠りを覚ます。
ぼんやりとした視界の時刻は23:55、静かに通話ボタンを押した

「いま起きたとこだろ」

きれいな低い声。
浅い眠りの中でも待っていた、その声が嬉しい。周太は微笑んだ。

「…ん。仮眠とってた」

今夜の周太は当番勤務だった。
寝起きの声が恥ずかしい。けれどやっぱり、今夜はこの声を聴きたかった。

「あと4分間は眠っていいから、おやすみ」
「…いや。起きていたい」

寝がえりをうちながら、眠気の吐息がこぼれてしまう。
夢現の意識が、聴き慣れた声まで非現実に感じさせる。
もっとちゃんと、この声を感じたくて、起きていたい。

「周太、今、ひとり?」

電話の声がやさしい。
穏やかさが心地いい、つい睡魔に掴まれそうになる。

「…ん、そうだけど」
「そっか。じゃ、良かった」

なにが良かったのだろう?宮田はたまに、不思議なことを言う。
なんでなのか聴きたいのに、電話の向こうは気配が、静かになった。
待って、もっと声を聴いていたい。周太はそっと唇を開いた。

「…みやた、」
「おう、どうした?」
「でんわ、うれしいから」

電話の向こうで、きっと宮田は微笑んだ。その気配が嬉しい。
こんなふうに、電話をくれることが、うれしい。
あ、また今きっと、宮田が笑った。
そんなふうに感じた耳元に、きれいな低い声が言ってくれた。

「おはよう周太、誕生日おめでとう」

いま日付が変わった。
今日は11月3日、周太の誕生日。だからこの隣は、こうして電話を繋いでくれている。
そんなふうにいつも、自分を充たそうとしてくれる。その想いが嬉しくて、周太は微笑んだ。

「ん、おはよう…そして、ありがとう」

電話で繋いだ隣が笑う。いまきっと、きれいな笑顔が咲いている。

「あと9時間したら、新宿へ迎えに行く」
「ん、迎えに来て」

迎えに来てくれる。
自分の誕生日の為に、迎えに来てもらうこと。周太にとって初めてのこと。
こんなふうに嬉しいなんて、今まで知らない。
嬉しい。微笑んでいく心に、また隣がきれいな声で言ってくれる。

「公園を少し歩こう。それから買物をして、川崎の家へ行こう」
「…ん。ありがとう」

今日、周太の母親と宮田は会う。

警察学校時代の外泊日、一度だけ二人は会っている。
そのときの、自分のアルバムに微笑む、ふたり並んだ姿。
なんだか二人とも、とても、きれいに見えた。

親子の年の差の二人。それなのに、きれいに自然に寄り添っていた。
ほんとうは少し、妬いていたのだと、もう今なら解る。
あの時は、こんなふうになれるなんて、思っていなかった。
今日、二人はどんな話をするのだろう。

「周太、」

ぼんやりとした意識へと、きれいな低い声が、静かに名前を呼んでくれた。
名前をこうして呼んでくれる。それだけでも、嬉しい。
きれいな隣が、電話の向こうで微笑んだ。

「大好きだよ周太、一番大切だよ。だからずっと隣にいさせて」

こんなふうに名前を呼んで、こんなふうに求めてくれる。
どちらも初めてのこと。そしてどちらも幸せで、うれしい。
嬉しくて、素直に周太は頷いた。

「ん。…嬉しい。ずっと隣にいて、もう手放さないで」
「絶対に離さない、だからずっと俺だけの隣でいて」
「…ん、いる」

どうしよう。
こんなふうに求められて、嬉しくて仕方ない。

いつも強く掴まえて、離さないでいてくれる、この隣。
昨日の射撃競技大会でも、不安ごと全て受けとめて、支えてくれた。
だから思ってしまう。きっとずっと、この隣で自分は生きていける。


電話を繋げたまま眠って、AM3:00、周太は目を覚ました。
一緒に当番勤務の若林と交代して、交番表の席に座る。
眺める深更の街は、華やかなネオンも疲れて見えた。

街の気配へと意識を向けながら、当番記録を周太は開いた。
この新宿駅東口交番を訪れた人々と、管轄内で起きた事柄の記録。
道案内を求めるものが多い、駅前という立地条件では当然のことだろう。
夜間にはケンカの仲裁が多い。

周太は外へと目をあげた。
騒がしい光の色が視界へと映りこむ。
東洋の不夜城と言われる繁華街。あの街から流れだす感情が、ケンカの仲裁という業務を作りだす。
卒業配置から1ヶ月。当番勤務の夜間巡回に、もう何度かそんな業務も果たした。

ケンカする本人達を引き離して、交番で事情を聴く。
そんな時いつも、周太は茶を出してやる。先輩の柏木がする真似だった。
けれど茶の一杯で、人の表情は随分と変わる。少しほぐれた雰囲気が、彼らの頑なな口も開かせた。
時間と共感、その二つが人の心を開いてくれる。そんなふうに最近思う。

当番記録のファイルから、13年前のものを選ぶ。
父が射殺された場所は、この東口交番の管轄内。その事件の記録はもちろん、この中に綴られている。

当番勤務の夜、今のように一人きりの時間がある。
そんな時を見計らって、このファイルを周太は開いた。
父の事件と、その前後の記録のほとんどを、既に周太は記憶している。
前後に起きた事柄、訪れた人間。
それらのなかに、父の真実へのヒントが隠されている可能性がある。
記憶されたデータを整理し分析する、そうやって少しでも情報を得たかった。

このファイルを開くのはこれで3度目、今回でほぼ全部の記憶が終わる。
眺めるだけの顔をして、素早く事件と人物を記憶していく。
メモは敢えて取らない、筆記は残されてしまうから。
記憶のファイルだけでも、周太の頭脳には充分だった。

記憶が終わってファイルを棚へ戻した。
ほっと息を吐いて、外を見る。
視線の先で灰色のビルに、あわい紅色の光が射しこんだ。

奥多摩で見た、あの朝。
山の稜線が、暁の光に輝いて、木々の息吹が目覚めだす。
空の彩色が刻々と変わり、明けの明星がかがやく、美しい山の朝。

ビルに射す朝の光に、あの美しい朝が蘇ってしまう。
瞳の底が熱くなりそうで、周太はゆっくり瞬いた。
今日は11月3日、自分の誕生日。
その朝に、父の事件を追いかけて、こんなふうに朝を迎えている。
解って選んだ道、それでもこんなに、虚しさが痛い。

あの朝が、恋しい。
あの朝を抱いてくれた、あの隣が、恋しい。

どうか今すぐに、あの隣に笑って名前を呼んでほしい。
今、自分を覆ってしまう、虚しさも痛みも、全て抱きとめて笑ってほしい。
離さないと、隣にいるよと、きれいに笑って見つめていて。

「みやた、」

ちいさな呟きが唇からこぼれる。
そのすぐに、携帯がポケットで3秒間、振動した。
とりだして開いた携帯の、受信メール。求めていた送信元だった。
短く3秒間の振動。けれどその3秒が周太には幸せだった。

「…どうして、」

どうしていつもこんなふうに。
その「どうして」がいつも、あたたかい。
あたたかさが嬉しくて、微笑んで、そっと受信メールを開いた。

From :宮田
subject:誕生日の朝
File  :【夜明けの奥多摩の空】
本 文 :明日朝の眺めの方がきれい、だから一緒に

きれいな夜明けの空が写っている。
今日、周太の誕生日の奥多摩は、きれいな朝を見せてくれている。
いつかこの朝を毎日見たい、あの朝からずっと、そんなふうに想っていた。
こんなふうに、求める気持ちに気付いて、写真を送ってくれる。
その心遣いが嬉しい、自分に向けられている、あの隣の想いが嬉しい。

きれいだなと眺めて、本文が気になった。
どうして「明日の朝の方が」きれいだと、今、もう解るのだろう?
「だから一緒に」って、何が一緒なのだろう?

明日の朝はたぶん、周太は実家の部屋にいる。
今日は当番明けで非番になる、そして明日は週休。
久しぶりに2日間が自由になる、だから実家で過ごす予定にしている。

誕生日の今日は、母に感謝を伝えて過ごす。
そして明日は家事を手伝って、昼過ぎには新宿へ戻る。

それから。それから今日は、宮田が実家へ来てくれる。
周太の母へ挨拶をして、父の書斎を訪れてくれる。

―俺も週休だからさ、一日一緒にいられるんだ

昨日、そんなふうに、宮田は言ってくれた。
そういえば、一日一緒って、いつまでなのだろう。ふと気になって、周太はメールの文を呟いた。

「明日の朝の眺めの方がきれい、だから一緒に」

宮田は、今日が週休だから、明日は日勤で仕事がある。
けれど、川崎から青梅署まで1時間半。明日朝に発っても、仕事の時間に帰れる距離。

「あ、」

周太の首筋が熱くなっていく。
前にも宮田はこんなふうに、「眺め」を景色以外の意味で遣っていた。
そして明日の朝に一緒なのは、たぶんきっと、そういうこと。

時計は6時前、6時には柏木が交替に降りてくる。
それまでに首筋をどうにかしたい、周太は外へ出た。
都会の埃っぽい中心、それでも南の方から森の風が吹いてくる。
あのベンチの方からそっと、清々しい空気が頬を撫でた。

すこし落着いて戻ると、柏木が笑って迎えてくれた。

「あと2時間で当番勤務は終わる、それでも疲れただろう」

そういって休憩時間を勧めてくれる。
正直、いま休憩時間は嬉しい。この首筋を赤くした本人の、声を早く聴きたい。
周太は心から礼を言って、休憩室で座りこんだ。

扉を閉めて直ぐに、着信履歴から通話ボタンを押す。
コールも待たず通話になって、きれいな低い声と繋がった。

「赤くなって困った?」

可笑しそうな声が、すこし憎らしい。
けれどやっぱり、ほんとうは、声を聴けて嬉しい。

田中を眠りに誘った、奥多摩の氷雨の夜。
あの夜にもう、自分自身にすら隠していた不安と本音を、思い知らされてしまった。
だからもう今は、ただ素直に想って、言葉にできる。
でもやっぱり恥ずかしい。けれど周太は唇を開いた。

「…ん、困った。でも…嬉しい」

電話の向こうで、わずかな一瞬だけ途惑って、すぐに笑ってくれる。
それから静かに言ってくれた。

「明日の朝も一緒にいたい、周太の隣にいたい。本当は今だって一緒に居たかった、だから明日は隣にいさせて」

こんなふうにいつも、ほしい想いも言葉もくれる。
どうしていつもこんなふうに、孤独から浚ってくれるのだろう。
そしていつも気がつくと、幸せへと浚われている。
嬉しくて、周太は微笑んだ。

「…ん。嬉しい、一緒にいて」
「良かった、」

嬉しそうな笑顔が、電話越しに伝わってくる。
こういうのは嬉しい、素直にそう思えてしまう。

けれどすぐに、悪戯そうな気配を含んで、宮田が言った。

「実はさ、周太の母さんから昨夜、電話もらったんだ」
「お母さんから?」

昨日、当番勤務へ入る前に、宮田も一緒に帰ると母へ電話した。
嬉しいなと笑って、けれど、母は特に何も言っていなかった。
なぜ電話したのだろう。考えていると、宮田が教えてくれた。

「ぜひ泊ってね、周太のベッドを準備しておくから。そんなふう言ってくれたよ」

こんなのってちょっとひどい。
なんだか罠にはめられていくみたい。
自分のしらないところで、ふたりでそんな事を決めてしまうなんて。
こんなの、あんまりにも、恥ずかしい。

「…っ」
「…あ、周太もしかして、…怒ってる?」

言葉が出てこない、こんなこと慣れていない。
ちょっとあまりにも、恥ずかしくて、どうしていいのか解らない。
けれど電話の向こう、きっと少し途惑っている。自分を、怒らせたのかと不安がって。
きっと今、きれいな端正な顔が悲しそうになっている。

こんなふうに、自分が誰かの気持ちを支配するなんて、途惑ってしまう。
けれどこういうふうに、自分の気持ちに心を動かしてくれること。嬉しくて、それが嬉しくて、あたたかい。
頬は赤いまま、周太は微笑んだ。

「…恥ずかしいだけ。でも、お願い…母の言う通りにして、」

電話の向こう、息を呑むような気配。
不思議な気配が、なんだかよくわからない。
けれどすぐに、きれいに笑って宮田が言ってくれた。

「9時に迎えに行く。そのまま明日の朝5時まで、ずっと隣にいさせて」
「…ん。迎えに来て、隣にいて」

今は6時、そして3時間したら、あの隣が迎えに来てくれる。

8時になって当番勤務が明けた。
急いで新宿署へ戻って、携行品を保管へ預けて、勤務明けの風呂を済ませる。
自室へ戻って、仕度しておいた鞄をもって廊下へ出た。
外泊許可は昨日もう取り付けたから、そのまま駅へと向かった。
卒配期間の外泊は厳しい。けれど競技大会の為にほぼ無休だった為か、思ったより楽に許可が出た。

昨日の競技大会の結果は、自分の進路を支配するのだろう。
それでも、もう信じている。どんな事になっても、あの隣は自分を離さない。
だから今日もこうして、会う約束が果たされる。

警察官の自分は、約束なんて本当は出来ない。危険に向かう仕事だから。
それ以上に、あの隣は山で生きる警察官、自分以上の危険の中で生きている。

それでも、もう信じている。あの隣との約束は、きっと全部が果たされる。
だから信じてしまう。どんな進路を選ばされても、きっと、あの隣が自分を守ってくれる。
あの強い腕で掴んで、ずっと自分を離さない。

思ったより風が冷たい。
見上げた街路樹の銀杏は、あわく黄葉をみせ始めている。
秋が深くなるなと周太は思った。

待ち合わせの改札へ行く途中で、急に誰かが周太の前に立った。
チャコールグレーのジャケットの胸と、ぶつかりかける。
驚いて見上げた視線の先で、きれいな宮田の笑顔が咲いていた。

「おはよう、」

こんなふうに急に現われるなんて。
心の準備が出来ていない、途惑ってしまう。
一瞬忘れてしまった言葉を、思い出して周太は言った。

「…あ、おはよ」

宮田の視線が、さっと周太を眺めまわす。
今日の服装、どこか、おかしかったのだろうか。
そんな心配をしながら、周太も宮田をそっと眺めた。

濃いチャコールグレーのジャケットから覗く、白いシャツはあわく紫がかって、大人っぽい。
黒紺青のスラックスに併せた、きれいな茶色のベルトや靴がこなれている。
ざっと巻いたマフラーの、深いボルドーに紺と淡いグレーのラインがきれいだった。

スーツでは無いけれど、なんだか改まった雰囲気。
昨日もあったばかり。それなのに、宮田はまた少し、大人びている。
なんだか緊張してしまう、面映ゆさを周太は持て余した。
けれど宮田は微笑んで、マフラーを外した。

「風邪ひくよ、」

自分のマフラーを、周太に巻いてくれる。
悪いよと目で言ったけれど、やさしい笑みで返してくれた。

「後で周太の買ったら、返してもらうから」
「でも、」
「いいから。あ、やっぱり似合う。かわいい周太」

どうしてこう、気恥ずかしくなる言い方するのだろう。
困ってしまう。けれど、気遣いが嬉しい。
いつもこんなふうに、そっと気遣ってくれる。
こういう繊細で、さり気ない優しさが、好きだなと思う。

それから、きれいに笑って、宮田は言ってくれた。

「あらためて、誕生日おめでとう」

そうだった、なんだか緊張して忘れていた。
今日は自分の誕生日で、そのために宮田は来てくれた。
昨日は大会の為に来てくれて、今日もまた来てくれた。

こんなふうに、誰かが来ること。周太には初めての事だった。
そしてその初めてが、この隣だということが嬉しい。
周太は口をほころばせた。

「ありがとう…うれしい」

きれいな笑顔で宮田が笑ってくれる。
きれいな低い声で、静かに周太に告げてくれた。

「周太が嬉しいと、俺も嬉しい」


いつものパン屋でクロワッサンを2個買う。
当番勤務明けで急いだから、周太はまだ、朝食を摂っていなかった。

いつもの公園のベンチに座って、缶コーヒーを開けた。
ベンチにふる木洩日が、陽だまりをつくって温かい。
少し離れたところで一叢、すすきが銀色の穂で揺れている。
熱いコーヒーの香にほっと息を吐きながら、クロワッサンを齧った。

クロワッサンは、以前はあまり食べなかった。
オレンジを使ったデニッシュが多かったかなと思う。
けれど、この隣が食べている顔が、幸せそうだから。
そんなふうに、周太はクロワッサンを好きになった

木々の葉擦れの合間から、そっと鳥の囀りが聞こえてくる。
奥多摩ではもっと、鳥の声が聞こえるのだろう。
昨日も今日もこうして座って、そんなことを考えていられる。
隣の静かで穏やかな空気が、昨日も今日も、嬉しい。

「なんだか、不思議だな」

周太の唇から言葉がこぼれた。
どうしてと、目だけで宮田に聴かれて、周太は続けた。

「昨日もここに一緒に座って、今日も一緒に座っているだろ」
「うん、」
「2日続けては、初めてだなと思って」

外泊日の時はいつも、日曜は昼を一緒に食べると、そのまま寮へ戻っていた。
続けてこうして寛げる、こういうのが毎日続いたら。
そう思いかけて、首筋が熱くなってきた。
困ったなと思っていると、きれいな笑顔で宮田が笑いかけてくれた。

「続けて周太の顔を見られて、俺は嬉しいな」
「…ん、俺も」

自分と同じ事を想ってくれている。
それが嬉しくて、短いけれど、素直に周太は言ってしまった。
きっと今、頬も赤くなっている。

公園を後にして歩きだすと、振り向いた宮田が笑いかけた。

「ちょっとさ、買物つきあってくれる?」
「ん、いいけど」

どこに行くのかなと見ていたら、アウトドア用品店の扉を開けた。
ウェアのコーナーに行くと、宮田は周太の方を少し眺めて、手早く選んでいく。

「これとこれ着て」
「…え、」

なんで自分が着るのだろう。
宮田のウェアを買うと思っていたから、周太は不意をつかれた。

「ほら早く、周太」

笑顔の宮田に、試着室へと押しこまれてカーテンを閉められた。
とりあえずやっぱり、着ないといけないのだろう。
周太は着ていたショートコートを脱いだ。

「着れた?」

カーテンを開けて、ぎこちなく靴を履く。
見上げた宮田の笑顔が、楽しそうに自分を眺めてくれる。
あわいブルーの登山用ジャケットと、緑と茶色を足したような色のカーゴパンツ。
袖の縦ラインの、白と深いボルドーがきれいだった。

この間もそうだった。宮田は周太に、きれいな色の服を選んでくれる。
暗い色ばかり自分では選んでいたから、本当は少し途惑う。
けれど、選んでくれる色は、着てみると意外に似合う気がする。
そしてどれもいつも、着心地が良い。

外へ出ると宮田は、肩から提げた髪袋のひとつを示した。

「誕生日プレゼントだから、」

なんだか嬉しそうに、笑いかけてくれる。
登山用のジャケットとパンツ、それからTシャツ。
この間も服を買ってくれた、あれは電車代の分だけれど。
けれど、いくらなんでも、貰いすぎだと思う。

「そんなにたくさん、悪いから」

遠慮がちに周太は言ったけれど、いいんだと宮田は微笑んだ。

「雲取山に連れていく約束だろ?その為のだから。約束の為だから、遠慮なく受取ってよ」

言いながら宮田は、周太の顔を覗きこんでくれる。
見上げた笑顔が、きれいで穏やかで、やさしい。そしてなんだか頼もしい。
こんなふうに笑いかけられたら、甘えてもいいのかな。そんな気持ちになってしまう。
それにやっぱり嬉しい、どうしよう。そんなふうに思いながら、周太は唇を開いた。

「近々、まとまった休暇がもらえそうなんだ。大会前はあまり休み無かったから、4日くらい貰えるらしい」

聴いていた宮田が、嬉しそうに笑って提案してくれた。

「決まったら教えて。山荘の予約するから」

山荘に泊れる。
もし晴れていたら、星の降る夜が見られるのだろう。

幼い頃の、父と母との幸せな記憶が蘇る。
もう二度と、そういう幸せは自分には無い。そんなふうに思っていた。
けれどきっと、この隣は約束を果たしてくれる。
嬉しくて、周太は微笑んだ。

「ん、うれしい」
「おう。周太が嬉しいと、俺はうれしいよ」

そんなふうに宮田が笑ってくれた。
こんなふうに言われるのは、嬉しい。でもやっぱり恥ずかしい。
首筋が熱くなってくる。マフラー巻いてもらって、良かった。
そんなことを考えていたら、この間も入った店の前にいた。

「ちょと寄らせて、」

周太に笑いかけて、宮田は扉を開けた。前の時と同じ店員が、微笑んで迎えてくれる。
宮田は彼女に笑いかけた。

「こんにちは、マフラーは出ていますか?」
「はい、先日入荷してあります」

2階へと案内してくれて、ごゆっくりどうぞと彼女は声をかけてくれた。
けれど宮田は、すぐに選んで周太に微笑んだ。

「ほら、行くぞ」

宮田は、即決力が秀でている。
こういう時いつも、本当はちょっと感心してしまう。
こうした判断の速さは、警察学校の講義や生活でも感じていた。
そしていつも、宮田の選択は的確だと思う。
こういう判断力の早さは、山岳救助隊には向いているだろう。

そんなふうに考えていたら、いつのまにか会計も済んで、外へ出ていた。
隣が楽しそうに笑いかけて、長い指でそっと周太の顎を持ち上げた。

「ほら、こっち見てよ」

襟元のボルドーのマフラーが外されて、新しいマフラーが巻かれていく。
あわいブルーにボルドー、白から黒の濃淡が、ストライプになっている。
風にゆれてのぞいた裏は、グレーに似ている水色だった。

「よく似合うよ周太、」

笑いかけてくれる、きれいな笑顔が嬉しい。
きれいな色も、嬉しいなと思う。
けれどさっきも、プレゼントだと貰ったばかりで、気が引ける。
困って周太は隣を見あげた。

「…ちょっと貰いすぎだと思う、」
「前も言ったこと、もう一度聴きたいのか?」

言いながら、隣は顔を覗きこんでくる。
きれいな端正な顔には、悪戯な笑みが浮かんでいた。
きっとたぶんまた、恥ずかしい事を言うつもりなのだろう。
それでもやっぱり、申し訳なくて引き下がれない。周太は口を開いた。

「…でも、」
「これ着た周太を連れて歩きたい。そういう俺の我儘きいてよ」

言って言い返された、その笑顔が優しい。
それにいま「わがまま」と言われた。
宮田は自分に、わがままを言ってくれるのだろうか?
訊いてみたい、周太は尋ねた。

「わがまま?」

周太の問いかけに、隣は笑って頷いてくれた。

「そう、俺の我儘」

うれしい、周太は微笑んだ。
いつも自分ばかりが、この隣に我儘を訊いてもらっている。
そんなふうに本当は、すこし後ろめたかった。
だから出来たら自分も、我儘を言ってほしい。そんなふうに思っていた。

やさしい宮田。だから多分、遠慮させない為にこんなふうに言ってくれている。
だけど多分「わがまま」も本音から言ってくれている。
宮田はいつも率直で、心に思ったことしか言わない。
言葉の裏なんて考える必要がない、だからいつも、楽に隣に居られる。
そして宮田の心はいつも、やさしくて暖かい。

そういう全てが嬉しい。周太は微笑んだ。

「ありがとう、」
「こちらこそだよ、」

きれいに笑う、この隣。
こんな時はいつも思ってしまう。ずっと隣にいてほしい。


駅まで戻ると、見覚えのある花屋が目にとまった。
父の亡くなった場所へ手向けた花束を、宮田が抱えてくれた店。
母への花束を作ってもらおうかな、そう思っていたら宮田が立ち止まった。

「ちょっと寄らせて」

周太に笑いかけると、売り子の女性へと宮田は声をかけた。

「こんにちは」

花から顔をあげた彼女は、宮田へと笑いかけた。

「またいらして下さって、ありがとうございます」
「この間は、ありがとう」

きれいに宮田が笑いかけると、嬉しそうに彼女も笑った。
マフラーを買った店でもそうだったけれど、宮田は覚えられやすい。
端正で、きれいな笑顔の宮田。自分だって見惚れてしまう事がある。
美形は得なのかな。
そんなことを考えていたら、周太を宮田が振り向いた。

「お母さんの好きな花はどれ?」
「え、」

どうしてそんな事を、訊いてくれるのだろう。
今、自分も、母への花束に入れる花を考えていた。
なんだか途惑う。けれど今もこうして、宮田は答えを待っている。
すこし考えてから、周太は口を開いた。

「このなかだと、白い秋明菊」
「そうか、」

微笑んで宮田は、売り子へと声をかけた。

「白い秋明菊がひきたつ花束、お願いできますか」
「贈りものですね、どんな方ですか?」

はい、と微笑んで宮田は答えた。

「穏やかで、瞳が美しい人です」

母の事を言っている。
どうしてなぜ、母の花束を求めてくれるのだろう。
でもたぶんきっと、その理由をもう解っている気がする。

秋明菊は、家の庭にも咲いている。
少し寂しげで、けれど凛とした花。母が好む花。
母の面影を、すこし写したような花姿。
だけれど、その花によせられる言葉は、少し悲しい。

父へ手た向けた花束にも、この花が入っていた。
きっと父は喜んだと思う。

まとめられた花束は、あわい色合いがきれいだった。
花束を持った宮田が、こちらを振り向いて笑ってくれる。

「行こうか、」

花束を携えて歩く宮田は、なんだか良い姿だった。
すれ違う人波からも、惹かれるような視線が投げられる。
父の時も思ったけれど、宮田はこういう姿が似合う。

それよりも、やっぱり訊いておきたい。
そっと周太は呟いた。

「どうしていつも、」

言いかけて、言葉が止まってしまう。
解ってもらえる、そのことが嬉しい。
それが瞳の底から熱くなって、言葉も一緒に止めてしまう。
けれど隣は顔を覗きこんで、笑って言ってくれた。

「言っただろ、大切な人のことは何でも知りたい。そして全部受け止めて、大切にしたいから」

どうしていつもこんなふうに、求める言葉をくれるのだろう。
そしていつもこうやって、そっと心に寄り添ってくれる。
嬉しくて、素直に周太は頷いた。

「…ん、」
「おいで、」

宮田が周太の手をとって、コンコースの片隅に佇んだ。
人がたくさんいるのに、不思議とこの場所だけは静かだった。

静かに顔を覗きこんでくれる、宮田の笑顔が嬉しい。
きれいで端正で、やさしい笑顔。自分だけの為に、笑いかけてくれる。
嬉しくて微笑んだ周太の唇に、そっと宮田の唇がふれた。

「俺の大切な隣を生んで育ててくれた。大切な息子を俺に託してくれた。
俺が尊敬するひとが心から愛した、素敵な女性。そんな周太の母さんに、感謝の花束を贈らせて」

きれいに笑って、宮田が言う。
うれしい。嬉しくて幸せで、微笑みの中から周太は見上げた。

「うれしい。…ありがとう」
「おう、」

きれいな笑顔が見つめてくれる。
たくさんの人が、見惚れるこの笑顔。
それなのに、自分だけを見つめてくれている。

こんなふうにずっと自分も、笑いたかった。
この笑顔をずっと、この隣へと向けていたい。そんなふうに願ってしまう。




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祈諾、陽溜―side story「陽はまた昇る」

2011-10-22 22:08:37 | 陽はまた昇るside story
※ラスト1/10念の為R18(露骨な表現はありません)

受けとめて佇んで、守る




祈諾、陽溜―side story「陽はまた昇る」

時計が23:55になって、英二は発信履歴から通話にした。
コール1つで繋がって、微笑んだ。

「いま起きたとこだろ」
「…ん。仮眠とってた」

今夜の周太は当番勤務だった。
少し寝起きの声が懐かしい。たぶん黒目がちの瞳はまだ、焦点が定まりきっていない。

警察学校での警邏当番が思いだされる。
周太と宿直室で進路の話をした、その通りに英二は田舎の駐在所へと配属になった。
英二の勤務する駐在所では、常駐の岩崎がいるため、当番勤務は実質日勤になる。
けれど奥多摩の山に抱かれる青梅署では、遭難者の捜索が夜間にまで及ぶことはある。

この時間が周太の休憩時間で良かった、そして今夜は捜索も無くて良かった。
そんなことを思いながら時計を見て、英二は静かにささやいた。

「あと4分間は眠っていいから、おやすみ」
「…いや。起きていたい」

寝がえりをうつ気配が、電話越しに感じられる。
眠そうな吐息が、なんだか初々しい艶があって心配になった。

「周太、今、ひとり?」
「…ん、そうだけど」

良かったと英二はほっとした。
たぶん今、周太は無防備な顔をしている。そんな姿を他の誰かになんか、見られたくなかった。
こんなふうに、いつも独り占めしたい。
時計は23:58、少しでも眠らせてあげたくて、そっと英二は気配を消した。

「…みやた、」
「 うん、…どうした?」
「でんわ、うれしいから…」

微笑む気配が、嬉しい。こんなふうに、素直な言葉が幸せだ。
そして、見つめていた時計が0:00になった。
きれいに英二は微笑んだ。

「おはよう周太、誕生日おめでとう」
「ん、おはよう…そして、ありがとう」

すこしはっきりした気配が伝わった。たぶん周太は今、微笑んでくれている。
ささやかな事だけれど、英二には嬉しい。

「あと9時間したら、新宿へ迎えに行く」
「ん、迎えに来て」
「公園を少し歩こう。それから買物をして、川崎の家へ行こう」
「…ん。ありがとう」

今日は周太の母親と、久しぶりに英二は会う。
前に会ったのは一度だけ、警察学校時代の外泊日に遊びに行った時。
あの時は、こんなふうになれるなんて、思っていなかった。

―その隣を得難いと思うなら、そこで一瞬を大切に重ねて生きなさい
 大切な一瞬を積み重ねて行ったなら、後悔しない人生になるはずだから

そんなふうに彼女は言って、自分達を受けとめてくれた。
自分の大切な隣と、よく似た黒目がちの瞳が懐かしい。
きっと今日、彼女とは秘密を分け持つ事になる。
そうしてたぶん確認をする、彼女と自分はきっと同志。彼女と自分はたぶん、同じ目的に生きている。

そっと英二は微笑んだ。

「大好きだよ周太、一番大切だよ。だからずっと隣にいさせて」
「ん。…嬉しい。ずっと隣にいて、もう手放さないで」

少しまだ寝惚けたような声が、かわいい。
こんなふうに素直にお願いされて、嬉しくないわけがない。
英二は笑った。

「絶対に離さない、だからずっと俺だけの隣でいて」
「…ん、いる」

それから周太が眠るまで電話を繋いで、穏やかな寝息を聴いてから、英二も眠った。
目覚めるとカーテンがほのかに明るい。
時計はまだ6時前だった。それでも英二は起きて、カーテンを開けた。

奥多摩の稜線が、暁の光に鮮やかに見える。
空の彩色が刻々と変わる、夜明けの時が始まっていた。
明けの明星がかがやく、美しい山の朝。
あの隣はきっと今頃、この空を思いだしているのだろう。

そっと静かに窓を開ける。さわやかな朝の風が、穏やかに部屋へ流れ込んだ。
ガラスの膜が消えて、視界の色彩が現実味をもって美しい。
英二は、掌に握ったままの携帯を、稜線の空へと向けて、シャッターを切った。

画面を確認して保存する。
それからメール添付して、送信ボタンを押した。

たぶんきっと、あの隣は市街地の真中で、交番の席から朝を眺めている。
そうしてきっと、一緒に見た奥多摩の朝を、懐かしく思っているだろう。
今日は11月3日、周太の生まれた日。
せめて、写真と想いだけでも、望む朝を贈ってやりたかった。

ふっと着信ランプが灯る。
たぶんきっと、あの隣が声を聴かせてくれる。たぶんすこし怒って、恥ずかしがって掛けてくる。
頬染めた顔を想いながら、英二はそっと携帯を開いた。


いつもより早めに食堂へ行って、軽めの丼飯でさっと朝食を済ませた。
新宿へ9時の約束だけれど、すこしでも早く、少しでも近くに行きたい。
自室へ戻って、携帯と財布と定期入れをテーラードジャケットのポケットに入れる。

少しだけ考えて、クロゼットを開いて適当に鞄に入れた。
それから、デスクのファイルから用紙を1枚取出した。
紙面にペンを走らせてチェックする。
それを持って立ち上がると、鞄と薄手のマフラーを携えて、廊下へ出た。

まだ朝7時すぎだったけれど、担当窓口は開いていた。

「明日の朝7時半には戻りだね、」
「はい、日勤があるので」
「慌ただしいな。けれど、楽しんでおいで」

そう言って、快く判を押してくれた。
岩崎には今日、川崎へ行く事を告げてある。
国村はたぶん、勘づいているから察してくれるだろう。

所属署によっては、卒配期間の外泊は厳しいとも聞く。
けれど、ここは例外のようだった。藤岡も何度か、外泊申請を出している。
そのかわり、遭難事故の発生時には、駆けつけられる場所にいる限り、非番でも召集を受ける。
山岳救助隊として当然の勤め、そして山ヤとして山ヤ仲間を助ける事は、当然の事だった。

それでもこの紅葉シーズンは、遭難とも言えないようなケースも多い。
道迷い、入山時間の遅延、そういう初歩的ミスが原因になっている。
今日明日と誰も、そういう事が無いといい。そう思いながら、英二は電車に乗り込んだ。

新宿に8時過ぎに着いて、南口に近いコーヒーショップで座った。
紙コップへと淹れてもらったコーヒーに口をつけながら、携帯を眺めてみる。
今までに山で写した、何枚かの写真。
どれもきれいだなと思う。けれど田中の写真にはまだ及ばない。
自分の背中で生涯を終えた、美しい写真を遺していった山ヤ。
彼の視点を少しでも、自分に備えていけたらいい。

そんなことを考えて、ふと英二は思いつくと立ち上がった。
歩きながらコーヒーを飲みきって、近くのコンビニへと入る。
デジカメプリンターの前に立ち、携帯のメモリーをセットした。
一枚を選んで印刷をする。それから封筒を買って、写真を納めて鞄にしまった。

待ち合わせの改札へ行く途中、英二は懐かしい姿を見つけた。
今日もきちんと、英二の贈った服を着てくれている。
ライトグレーのショールカラ―コートに、黒藍のジーンズの脚がきれいだった。
きれいに笑って、周太の前に英二は立った。

「おはよう、」
「…あ、おはよ」

すこし驚いた周太の瞳が、かわいかった。
あわく赤い首筋が、白いアーガイルニットのVネックに、すこし寒そうに見える。
英二はマフラーを外すと、周太に巻いてやった。
悪いよと目で言われて、英二は微笑んだ。

「後で周太の買ったら、返してもらうから」
「でも、」

いいからと笑って、英二は言った。

「あらためて、誕生日おめでとう」

黒目がちの瞳が、面映ゆそうに微笑む。
気恥ずかしげに頬染めて、それでも周太は口をほころばせた。

「ありがとう…うれしい」

どうしようと英二は思った。
どうしていつも、こんなに初々しいのだろう。
公衆の面前だというのに、手が出そうで、困る。
けれど途惑いは、きれいに隠して英二は微笑んだ。

いつものパン屋でクロワッサンを2個買う。
そして、いつもの公園のベンチに座って、缶コーヒーを開けた。
ベンチにふる木洩日が、陽だまりをつくって温かい。
落葉の匂いがときおり、熱いコーヒーの香と、ゆっくりとけあった。

クロワッサンが崩れる音と鳥の囀りが、木々の葉擦れの合間に聞こえる。
静かで穏やかな空気が、ほっと英二を寛がせた。
そっと周太が口を開いた。

「なんだか、不思議だな」

どうしてと、目だけで英二は訊いてみた。
黒目がちの瞳をなごませて、周太が続けた。

「昨日もここに一緒に座って、今日も一緒に座っているだろ」
「うん、」
「2日続けては、初めてだなと思って」

そういえばそうだった。
外泊日の時は、日曜は昼を一緒に食べると、そのまま寮へ戻っている。
なんだかこういうのは、幸せだなと英二は微笑んだ。

「続けて周太の顔を見られて、俺は嬉しいな」
「…ん、俺も」

短く答えた本人の、頬が赤くなっていく。
短いけれど素直な答えが、英二は嬉しかった。

公園を後にして歩く、街路樹の梢がだいぶ色づいていた。
後藤が愛する日原の秋も、もうじき訪れるだろう。
隣を振り向いて、英二は言った。

「ちょっとさ、買物つきあってくれる?」
「ん、いいけど」

目当てのアウトドア用品店の扉を開けた。
ウェアのコーナーに行くと、英二は周太の方を少し眺めて、手早く選んだ。

「これとこれ着て」

途惑っている周太をそのまま、試着室へと押しこんでカーテンを閉めた。
待っている間に、Lサイズのコーナーを眺めてみる。
深いボルドーのベースに、腕に白と黒の縦ラインが入ったデザインが目を引いた。
そろそろかなと、英二はカーテンの向こうに声をかけた。

「着れた?」

ぎこちないふうに靴を履いて、周太が見上げた。
ホリゾンブルーの登山用ジャケットと、カーキ色の登山用カーゴパンツが似合っている。
ジャケットの腕には、白と深いボルドーの縦ラインが入っていた。

登山用Tシャツとまとめて包んでもらう。
大きな紙袋を2つ、肩から提げて外へ出た。
ひとつを示して、英二は笑った。

「誕生日プレゼントだから、」
「そんなにたくさん、悪いから」

いいんだと微笑んで、英二は言った。

「雲取山に連れていく約束だろ?その為のだから」

約束の為だから、遠慮なく受取ってよ。言って英二は、周太の顔を覗きこんだ。
困ったように黒目がちの瞳が、見上げてくれる。
すこしだけ、ためらうように、周太は唇を開いた。

「近々、まとまった休暇がもらえそうなんだ」

大会前にほとんど毎日、周太は休みが無かった。
その為に、まとめて4日ほど休暇を与えられるらしい。
笑って英二は提案した。

「決まったら教えて。山荘の予約するから」
「ん、…うれしい、」

周太の笑顔が、英二は嬉しかった。
そうだと思いだして英二は、この間も入った店へと足を向ける。
扉を開けると、見慣れた店員の微笑みが迎えてくれた。

「こんにちは、マフラーは出ていますか?」

彼女は2階へと案内すると、ごゆっくりどうぞと声をかけてくれた。
さっさと選ぶと、英二は周太をつれて会計へ向かう。
タグを外してもらってから、英二は受け取った。

周太の襟元へと、新しいマフラーを巻き直してやる。
あわいブルーにボルドーと、モノトーンの濃淡。その縦ストライプだった。
裏はきれいなブルーグレーでリバーシブルに使える。

また困ったように周太が見上げた。

「…ちょっと貰いすぎだと思う、」

言われて、英二は悪戯な笑みを浮かべた。
そのまま隣を覗きこんで、楽しそうに言った。

「前も言ったこと、もう一度聴きたいわけ?」
「…でも、」

遠慮がちに見上げる瞳に、きれいに英二は笑った。

「これ着た周太を連れて歩きたい。そういう俺の我儘きいてよ」
「わがまま?」
「そう、俺の我儘」

頷いて英二が笑うと、ようやく周太は頷いてくれた。

「…ん。ありがとう、」

見上げて微笑んでくれた顔が、きれいに明るかった。
こんなふうに「わがまま」と言うと、訊いてもらいやすいようだ。
またひとつ、周太を楽にする方法をみつけられた。それが英二は嬉しい。

駅まで戻ると、小さいけれど彩り豊かな花屋で英二は立ち止った。
こんにちはと声を掛けると、売り子の女性が微笑んで迎えてくれる。

「またいらして下さって、ありがとうございます」
「この間は、ありがとう」

きれいに笑いかけると、嬉しそうに彼女も笑った。
隣を振り向いて、英二は訊いた。

「お母さんの好きな花はどれ?」
「え、」

黒目がちの瞳が大きくなる。
今日はこの顔、何回目かな。
こんなふうに、何度も見せてもらえる。それが嬉しい。

「このなかだと、白い秋明菊」

少し考えるように、周太は教えてくれる。
そうかと微笑んで、英二は売り子へと声をかけた。

「白い秋明菊がひきたつ花束、お願いできますか」
「贈りものですね、どんな方ですか?」

微笑んで英二は答えた。

「穏やかで、瞳が美しいひとです」

黒目がちの瞳が、隣から見上げてくれる。
目を見ただけで何を言いたいのか、もう解る。
けれど、きっと後で、言葉にして伝えてくれるだろう。

「秋明菊ですね、」

売り子が大切そうに取った花は、見覚えがあった。
さわやかな白い花。少し寂しげで、けれど凛とした花。
周太の父親へ手向けた花束にも、入っていた花だった。
あの時の花束にも、入れてもらえてよかった。そっと英二は感謝した。

あわい色調の花束を携えて、英二は隣を振返った。

「行こうか、」

歩きはじめてすぐ、物言いたげな唇が静かにひらいた。

「どうしていつも、」

言いかけて言葉が止まる。
隣の顔を覗きこむと、黒目がちの瞳が漲って、きれいだった。
―どうしていつも、わかる? きっとそう言いたいのだろう。
そっと英二は微笑んだ。

「言っただろ、大切な人のことは何でも知りたい。そして全部受け止めて、大切にしたいから」
「…ん、」

周太の手をとって、コンコースの片隅に立った。
覗きこんだ隣の瞳が、微笑んで見上げてくれる。
幸せに、きれいに微笑んでくれる黒目がちの瞳。あんまりきれいで、息が止まる。

人波のカーテンの影で、英二はそっと唇で唇にふれた。

「俺の大切な隣を生んで育ててくれた。大切な息子を俺に託してくれた。
 尊敬する人が心から愛した、素敵な女性。そんな周太の母さんに、感謝の花束を贈らせて」

きれいに笑って、英二は言った。
黒目がちの瞳が微笑んで、見上げてくれる。

「うれしい。…ありがとう」
「おう、」

英二は嬉しかった。
こんなふうにずっと、笑ってほしかった。
この笑顔を自分に向けてくれた、そのことが本当に幸せだった。


ふるい家は、端正な静けさに佇んでいた。
年経た木肌があたたかな門を開けると、さわやかな木々の風が迎えてくれる。
頬撫でる風に、どこか惹かれる香りを、英二は感じた。
飛び石を逸れて、庭木の繁る方へと足を向ける。
香りに惹きつけられ、その木を英二は見つけた。

見上げる常緑の梢に、白い花が浮かぶように咲いている。
青空を透かすような、繊細な花弁。花芯の黄金があたたかい。
ゆるやかな秋の陽光に、白い花は眩しかった。

「山茶花だよ。これは雪山っていう名前」

隣が笑って教えてくれる。
そしてすこし恥ずかしそうに、周太は言った。

「俺の誕生花なんだ。生まれた時に両親が植えてくれた」

繊細で凛とした佇まいの白い花。
常緑の葉はきっと、冬の寒さにも夏の暑さにも輝くのだろう。
この隣と似合う木だな。そんなふうに思いながら、英二は微笑んだ。

「きれいな木だな、」

ふっと抜ける風に、白い花弁が一枚ずつ舞った。
惹かれる香が、花弁と一緒に降ってくる。
見つめる視線の真中で、黒目がちの瞳が微笑んだ。
やわらかな黒髪に、白い花弁がふれては風に舞っていく。
惹きこまれるように、長い指の掌は隣の頬にふれた。

「好きだ、」

静かに覗きこんで、くちづけた。
こんなふうにずっと、重ねていきたい。白い花の下、そっと英二は祈っていた。

昼前に、仕事から周太の母は帰って来てくれた。
渡された花束に、穏やかで幸せそうな笑顔を見せてくれる。

「秋明菊と、チョコレートコスモスが嬉しいな」

周太の父に手向けた花が、彼女の花束にも入れられていた。
あのひとチョコレートが好きだったのと、教えてくれる。
嬉しそうに見つめながら、彼女は水切りをして花瓶に生けていく。

「花言葉って、知ってるかしら?」

台所に立つ周太の、包丁の音が心地いい。
そんなふうに思いながら、英二は微笑んで答えた。

「あまり詳しくは、無いですけど」

男の子だものねと、楽しそうに周太の母が笑う。
そして微笑んで、そっと内緒話のように教えてくれた。

「チョコレートコスモスの花言葉はね、移り変わらぬ気持ち」
「おふたりに、似合います」

思ったことを英二は口にした。
ありがとうと微笑む彼女は、すこし赤らめた頬が初々しい。年を忘れたような彼女は、きれいだった。

「その白い花、秋明菊の花言葉は何ですか?」

英二の問いに、少しだけ寂しげに、黒目がちの瞳に揺れた。
それでも彼女は、静かに唇を開いた。

「忍耐、」

英二の目の底が熱くなった。
凛とした可憐な白い花は、彼女にとてもよく似合う。けれど、持たされた意味が、悲しかった。
夫を失ってからの彼女の、終わらない痛みと生き方を顕す言葉。そんなふうに思えた。
それでも、きれいに笑って、英二は思った通りに言った。

「そういう姿は、一番きれいです」

きれいな笑顔が、白い彼女の頬を明るませる。
やわらかに瞳を細め、周太の母は微笑んだ。

「ありがとう、」

良かった。英二は心から嬉しかった。
そして、活け終わった花を見ながら、英二は立ち上がって微笑んだ。

「庭の花で、教えてほしい事があるんです」

彼女の黒目がちの瞳が、かすかに頷いた。

「いろいろ、きれいだったでしょう?」

そんなふうに言いながら、周太の母も立ち上がる。
庭を見てくると周太に告げて、二人で庭へ出た。

山茶花の下に立って、見上げながら彼女が教えてくれた。

「困難に打ち勝つ。それが周太の花言葉」

周太が生まれた時に、あのひとが植えたの。
そう言って微笑んだ彼女は、端然として美しかった。

木蔭に据えられた、ふるいけれど頼もしい木のベンチに腰掛ける。
午後にさしかかる陽射が、頬にあたたかい。木漏日の中で、静かに彼女の唇がひらいた。

「これはわたしのひとりごと」

彼女は微笑んで、そっと長いまつげを伏せた。

「25年前、夫はこんな事を言ったの。『肩代わりをしてしまった、すまない』そう言って、涙をひとつ零した」

肩代わり―その言葉の重みが、英二には解る。
静かに隣に座り、彼女の独り言に寄り添った。

「私の愛する人は、秘密を抱えていた。
その任務は家族にも話してはいけない、そういう場所で彼は戦っていた。
任務の為には人の命も断つ、そういう場所に彼はいた。
その事は、あの人が亡くなって、その時初めて知らされた。
けれど本当は、私は気付いていました。彼が何をして、何に苦しんでいたのか」

穏やかな日差しの中で、白い横顔は静かだった。
ゆるやかに流れる時の底で、彼女は語っていく。

「だから思ってしまう。
優しいあの人は、一瞬のためらいに撃たれたのだと。ずっと自分が、そうしてきたように」

黒目がちの瞳が、英二を見つめた。
ここからはあなたへ話す―目だけでそう告げて、周太の母の唇がひらいた。

「息子もきっと同じ道へと引きこまれていくでしょう。
彼の軌跡をたどろうと、息子は同じ道を選んできた、だからきっと同じ任務につかされる」

彼女と英二は同じ事を考えている。
けれど彼女は女性で、警察官ではない。
そんな彼女が男で警察官の自分と、同じように考えざるを得なかった。
その苦しみが切なくて、英二には悲しかった。

「けれど息子は彼よりも、潔癖という強さがある。そして、聡明です。
 だから同じ道にも何か、よりよい方法を見つける事ができるかもしれない。
 そして息子には、あなたが傍にいる」

見つめる黒目がちの瞳が、そっと英二に微笑んだ。

「彼の戦う世界には、私では入りこめなくて、寄り添えなかった。
 けれどあなたになら、息子と同じ男で、同じ警察官のあなたなら。
 息子の世界に入って寄り添って、息子を救う事が、出来るかもしれない」

「はい、」

短く英二は答えた。
きっと彼女の願いは、自分の願いと重なる。そう思ってここに来た。
そしてこれからきっと、彼女は願いを告げてくれるだろう。
真直ぐな英二の視線の先で、周太の母が唇を開いた。

「どうかお願い、息子を信じて救って欲しい。
 何があっても受けとめて、決してあの子を独りにしないで。
 あの子の純粋で潔癖で、優しい繊細な心。それを見つめ続けて欲しい。

 そして我儘を言わせてください、どうか息子より先に死なないで。
 あの子の最期の一瞬を、あなたのきれいな笑顔で包んで、幸福なままに眠らせて。
 そして最後には生まれてきて良かったと、息子が心から微笑んで、幸福な人生だと眠りにつかせてあげて欲しい」

目の前の、黒目がちの瞳がきらめいて、白い頬を涙が伝っていく。
今はただ、彼女の想いを聴いてやりたい。静かに佇んだまま、英二は彼女を見つめた。
ふるえるように彼女の唇が、そっと言葉を零していく。

「あなたにしか出来ない、心開く事が難しい周太、あなたしか、あの子の隣にはいられない。
 私はもう、あなたを信じることしか、出来ません。
 愛するあの人と私の、たった一つの宝物。
 あの子の幸せな笑顔を、取り戻してくれたあなたにしか、あの子を託す事は出来ない」

涙が彼女をおおっていく。
ふるえる声が彼女の唇をゆらして、英二に告げた。

「とても私は身勝手だと、解っています。
 あなたが本来生きるべきだった、普通の幸せを全て奪う事だと解っている。
 けれど誰を泣かせても、私はあの子の幸せを願ってしまう。
 そしてあなたに願ってしまう、どうか願いを叶えて欲しい。そして、そして…」

涙の中に最後の言葉がうずもれてしまう。
長い指を伸ばして、英二は彼女の涙を静かに拭って、微笑んだ。

「俺の願いも、お母さんと同じです」

短く応えて、きれいに英二は笑った。

「俺はとても直情的です、だから自分にも人にも嘘がつけない。
 率直にものを言って、ありのままに生きる事しか出来ません。
 だから卒業式の夜、俺はあなたの息子を離せなかった。そしてそのまま、離せません」

涙の底から、黒目がちの瞳が英二を見つめる。
木洩日が揺れる瞳を見ながら、英二は話した。

「端正で純粋で、きれいな生き方が、眩しい。
 そのままにきれいな、黒目がちな瞳の繊細で強いまなざしが、好きです。
 あの瞳に見つめてもらえるのなら、俺はどんな事でもするでしょう。

 警察官として男として、誇りを持って生きること。
 誰かの為に生きる意味、何かの為に全てを掛けても真剣に立ち向かう事。
 全てを自分に教えてくれたのは、周太です。
 周太と出会えなかったなら、男として警察官として今、生きる事もありませんでした」

穏やかに微笑んで、英二は周太の母に告げていく。

「生きる目的を与えてくれた人。
 きれいな生き方で、どこまでも惹きつけて離さない人。
 静かに受けとめる穏やかで繊細な、居心地のいい隣。
 ほんとうに得難い、どこより大切な、自分だけの居場所。
 それが俺にとっての周太です。
 周太の隣だけが、俺の帰る場所です。もう、他のどこにも、帰るつもりはありません」

山茶花の香の風が、ゆるやかに頬を撫でる。
きもちいいなと思いながら、英二は言葉をつづけた。

「俺は身勝手です。だから絶対に周太から離れません。
 他の誰にも譲らない、俺だけを見つめてほしい。
 こんな独占欲は、醜いのかもしれません。けれどもう、孤独にはしません」

きれいに笑って英二は言った。

「だから許して下さい。ずっと周太の隣で、生きて笑って、見つめ続けさせて下さい」

黒目がちの瞳が泣いた。
けれど明るく瞳はかがやいて、周太の母は微笑んだ。

「私こそ許して。そして、息子をお願いさせて」
「はい、」

きれいな笑顔で英二は頷いた。
嬉しそうな頬笑みが、英二を見つめている。

自分と彼女は同志、英二はそう思う。
きっと同じ目的を抱いている、そう思っていた。
そして今お互いに、告げあって許しあえている。

彼女が尋ねた。

「宮田くんの誕生日はいつ?」
「9月16日です、」

そう、と頷いた彼女の顔が、ふっと明るく輝いて見えた。

「ベロニカ、瑠璃虎の尾の、花の日ね」

青紫色のきれいな花よ。
そう教えてくれてから、きれいに彼女は笑った。

「常に微笑みを持って。そういう言葉の花」

私が好きな花なのと、周太の母が微笑んだ。
それから静かに英二を見つめて、そっと笑いかけてくれた。

「あなたに相応しい、そう思う」

常に微笑みを持って―そうありたい、心から願う。
この先に、何があっても自分は受けとめたい。
どんな辛い事も全て、必ず笑顔に変えていきたい。

「ありがとうございます」

きれいに笑って、英二は応えた。


周太の手料理は温かくて、英二は一番好きだった。
自分の誕生日に、母へと手料理を作る。
そういう周太が、好きだ。

食事が済んで、周太の母が選んできたケーキでお茶をする。
オレンジの香りがいい、あっさりした甘さがおいしかった。

周太はいつも、甘いものはオレンジの香りをよく選ぶ。
周太の母も選んだと言う事は、よっぽど周太の好みなのだろう。
そのうち何かで、こういうものが贈れたらいいな。そんなことを英二は考えていた。

食器を洗う周太を手伝っていると、周太の母が声をかけた。

「じゃ、お母さん出かけるね」
「え、」

黒目がちの瞳が驚いて、楽しげに笑う黒目がちの瞳を見つめている。
そっくりな瞳が違う表情で見つめ合う。それがなんだか、英二は楽しかった。

「職場のお友達とね、温泉に行く約束なのよ」

なんでもないふうに彼女が笑う。
でもと言いかけた周太に、彼女は微笑んだ。

「ずっとこの家で、私は毎晩を過ごしてきたもの。
 お父さんの気配も、周太の事も、一人にしたくなかったから。
 でも、今日は大丈夫だろうから、他の場所の夜を見に行こうと思って」

これも彼女の本音だろう。
夫の殉職からずっと、遺された夫の気配と共に夜を過ごして、彼女は生きてきた。
けれど今日、ようやく少しだけ、彼女も外へ出る。
今まで通りに穏やかだけれど、庭から戻った彼女は明るい。
きれいに笑って、英二は言った。

「明日は仕事です。だから、夜明けまでなら留守番ひきうけます」
「うれしいわ、お願いね」

彼女の荷物を持って、門まで英二は見送った。
荷物を受け取りながら、悪戯っぽく彼女は微笑んだ。

「周太を幸せな夜へ浚っておいて」

さすがに驚いて、英二は彼女の瞳を見た。
黒目がちの瞳は穏やかで、温かい。彼女は微笑んで、そっと口を開いた。

「あの子の幸せな笑顔を見たい。そんな私の我儘を叶えて」

内緒話のようにささやいて、軽やかに出かけて行ってしまった。
ほんとうにこのひとは、油断がならない。英二は可笑しかった。
きっと彼女自身が、夫とそういう夜を幸せに過ごしたのだろう。
それがなんだか、英二には嬉しかった。

「急にどうしたのかな、お母さん」

驚いた瞳のままで、周太は首かしげて見送っている。
この隣にはきっと、母親の行動の真意は気づけないだろう。
そんなところもまた、英二は好きだった。

周太の父の書斎へ、久しぶりに訪れた。
開いた窓から、山茶花の香がふきこんで流れる。
重厚でかすかに甘い、懐かしい香りと重なっていく。

頑丈なオークの書斎机にも、山茶花が清らかに活けられていた。
花の陰から、誠実な笑顔が英二を見つめて微笑みかける。
お久しぶりですと、心から懐かしく英二は笑いかけた。

封筒に納めた写真を、英二は取出した。
青空を梢で抱いた、ブナの巨樹。
携帯で撮ったけれど、思ったよりきれいにプリントが出来ている。
少し眺めてから、そっと白い花の陰へと供えた。

「話してくれたブナの木?」
「ああ、」

覗きこんだ隣に、英二は笑いかけた。
周太にはあえて、メールでは写真をおくっていない。
実際に見せてあげたい、そう思っている。
けれど周太の父には、写真でも見せたい。そう思って今朝プリントをしてきた。

「きれいだね、」

写真を見つめて、そっと周太が微笑んだ。
きっと田中なら、もっと美しい写真で見せてくれただろう。
それでも今の英二の、精一杯の視点から写した。

降りかかる水の全てを抱いて、清水へ生まれ変わらせる、ブナの巨樹。
周太に出会って変わった、自分の生き方。そうして出会えた大切な場所。
それを、周太の父にも見てほしかった。
辛い任務と秘密を負っていても、いつも家族に微笑んでいた男。
尊敬するこの男に、認めてもらえる自分になりたい。そんなふうに英二は思う。

久しぶりの周太の部屋は、相変わらず簡素で清々しかった。
木枠にはめこまれた、昔のガラス窓からの光はやわらかい。
明るい陽射がふるベッドで、ふたり並んで座る。
お互いに持っていた本を読み始めて、ふっと周太は気がついた。

「宮田の本、題名なに?」

訊かれて表紙を見せると、周太が笑った。

「俺のと同じ」

周太は原文だけれど、同じ著者の同じ本だった。
それからお互いの感想を少し話した。
英二がまだ読んでいないところまで、周太が言いかける。
その先はまだ言うなよと、笑った英二に周太は意地悪をした。

「それで登山家はね、チベットの国境で」

構わずに話そうとする、すこし悪戯っぽい瞳が明るい。
その明るさが嬉しくて、英二は隣を抱きしめた。


開いたままのカーテンから、上弦の月が輝く。
上弦の月は「生」を司る。そんなふうに何かで読んだ。
そんなことを想いながら、やわらかな髪越しの月を英二は眺めていた。

抱きしめた腕の中は、穏やかに熱い。
自分の肩へ額をつけて眠る、この隣の顔は穏やかで、きれいだ。
夕方のまだ明るい時間に抱きしめて、そうして今、こんなふうに眠っている。
自分でも、そんなつもりはなかったのに。
けれど黒目がちの瞳の明るさは、あんまりきれいで、惹きこまれた。
そうして、気がついた時にはもう、なめらかな素肌を抱いていた。

いったい今は何時なのだろう。
月の位置は地平線からまだ高い、今日の月の入りは確か23:50頃。
19時半位かなと目だけ動かして、壁の時計を見ると当たっている。
山岳での生活の中、天体の動きにも英二は敏感になった。

かすかな月の明るさに、隣の顔を覗きこむ。
幼げに見える寝顔の、頬には涙の痕がのこされていた。
夜闇に透ける肌には、赤い翳が散らされている。
きれいな頬にそえられた右腕には、赤く花のような痣がうかんでいた。
あの卒業式の夜から、会うたびに唇をよせてきた痣。
さっきもまた、くちづけが強すぎて、痛かったかもしれない。
長い指でそっとふれると、まだ熱が残されていた。

どうしていつもこんなふうに、強く掴んでしまうのだろう。
きれいだと見つめて、惹かれて離せなくなって、気づけばもう抱いている。
自分の腕は強く掴まえて、胸と腕で閉じこめてしまう。

こんなふうに特別な関係を結ぶことは、周太には自分が初めてだった。
自分が初めてで良かったと、心から英二は思う。
こんなふうに自分は独占欲が強い。もしこの隣が、他の誰かに触れられていたら、もっと自分は歯止めが利かない。
他の誰かの痕を消したくて、その名残が消えるまで、ずっと離せなくなるだろう。

穏やかに眠る顔には、初々しい艶がけぶっている。それも全て自分が刻んだ、その全てが英二の喜びだった。
卒業式の夜と今日と。隣にいるのは同じ、けれど、今日はただ幸せが温かい。

これで4度目、まだそれだけ。
それなのに自分はこんなにも、この隣を自分に刻み込んでいる。
そして隣もきっと、自分を刻みこまれている。
この先に何があっても、刻まれたものはもう消えない。そんな確信がもう座っている。

見つめる視界の真中で、長い睫がゆれて、ゆっくり瞠かれた。
焦点がすこし揺れる瞳が、いとおしい。
きれいに笑って、英二は微笑んだ。

「大好きだ、」

ぼんやりと、けれど恥ずかしそうに、隣は微笑んだ。

「…ん、うれしい。お…」

言いかけてまた言いよどむ。
けれどなんて言いたいのか、英二はもう知っている。
言いたい事がもう解る、そういうのは幸せだと思う。
微笑んで英二は言った。

「知ってる、」

明日は5時にはここを発つ。
そうして自分のするべき事を、成し遂げる。
すこしだけ距離は離れる、けれどいつも自分はこの隣にいる。
絶対にもう離れない。

ゆるやかに長い腕に力をこめて、英二は隣を抱きしめた。




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光跡、予兆―side story「陽はまた昇る」

2011-10-21 23:01:58 | 陽はまた昇るside story

トレースの行先、




光跡、予兆―side story「陽はまた昇る」


白妙橋での山岳救助隊訓練は、フリークライミングと救助者を背負ってのザイル下降がメインだった。
天然の岩場でのフリークライミングは、英二は初めてだった。

フリークライミングはボルダリングとリードクライミング、トップロープクライミングに分かれる。
今日はリードクライミングを教わった。

リードクライミングは、2つに分けられる。
あらかじめ開拓者によりボルトが打ち込まれているルートを対象としたルートクライミング。
岩の割れ目、クラックなどにナチュラルプロテクションをセットしながら登るトラッドクライミング。
白妙橋は前者のルートクライミングのエリアとして有名だった。
コンパクトだが、手頃なグレードの揃った良い岩場と言われている。

クリップ。ヌンチャクをボルトに掛け、ロープをセットすること。
レスト。片腕を放して休ませること。
そういう技術に関する駆け引きを、隊長の田村が指導してくれた。

初心者の英二は、ウェストハーネスに加えてチェストハーネスも装着した。

「メインロープの過重はあくまでもウエストハーネス側に掛かるように重点をおく。
チェストは胸前のカラビナの中にメインロープを通すだけで、墜落時に頭からの「反り返り止め」的性格に考えろ」

コツを田村に教わりながら、英二は自分で装着していった。
チェストハーネスは山岳訓練で、周太の救助に向かった時に装着したことがある。
ウェストハーネスは初めてだったが、田村に装着確認をしてもらうと大丈夫と言ってもらえた。

白妙橋の岩場は、日蔭は寒かった。けれど動き出すと、すぐ温かくなる。
国村は身軽に登っていく。簡単そうに見えるけれど、やってみると難しい。
さすがだなと見上げながら、英二も手足を進めて行った。
なんとか登攀しきると、初めてにしては大したものだと田村が笑ってくれた。

「宮田は指が長いな。握力と、背筋力はどの位だ」
「両手とも75kg位です。背筋は185Kgだったと思います」

成年男子平均値は握力が48Kg、背筋力が145Kg位になる。
スポーツ選手の平均背筋力が、野球は183Kg、ラグビーが192Kg。
元来、英二は細身でも筋力はある方だった。
その上に、警察学校時代に周太から教わりながら、筋力トレーニングを積んでいる。
登山経験の不足を、体力強化からも補いたかった。

なるほどと田村が笑って頷いた。

「普通はね、岩場登攀は登りきることは、最初は難しい」

それは英二も調べて知っていた。
だから毎日、出来る限り自主トレーニングを積んでいる。
今日はなんとか登れた、けれどまだ遅いと思う。
救助の現場では、スピードが要求される。

「宮田は筋力もあるが、最初にしては登り方も上手いな。どこかで教わったのか」
「いえ、国村さんを見ながら、真似をしていました」

田村の顔が、少し驚いた表情を浮かべた。
それから微笑んで、言ってくれた。

「見てもなかなか真似できるものではない。宮田は適性があるんだな」
「ありがとうございます」

素直に嬉しい、英二は笑って頭を下げて。

岩場のルートには名前がつけられている。
白妙橋のルート名も面白い。
バースディに乾杯、春の雪、消費税。代表的ルートはジャングルジムという名前だった。
ジャングルジムはムーブが多彩で面白いと教わった。

「最後まで気が抜けない、パワー系ルートだけどね」

軽々と登ってから、からっと国村が笑った。
色白痩身で、文学青年のような風貌の国村だけれど、かなり体力がある。
一呼吸入れようと国村と並んで見下ろすと、川からの風が登攀の熱に心地好かった。
登りきった岩場から眺める日原川は、碧の水が砕けて流れていく。
水がきれいだなと眺めながら、英二は訊いてみた。

「体力つけれるコツとか、教えてよ」

そうだなあと少し考えて、国村が答えた。

「休日は農業やるからじゃない」
「農業?」

意外で聴き返してしまった。

けれど、冷静沈着な印象の強い国村は、話すとからり明るい。
農業青年らしい明朗な気風が、たしかに国村にはある。
同じ年でも高卒の国村は先輩になるが、タメ口でねと気さくに話す。
冷静だけれど底が明るい、そういう国村と話すのは楽しい。

へえと英二が感心すると、国村は笑って教えてくれた。

「うちは狭い畑が多いからさ、ほとんど手作業なんだ。それが結構ハードかな」

山で両親を亡くした国村は、農家の祖父母に育てられている。
青梅署の独身寮で生活しているが、非番や週休の度に実家へと帰り、畑の面倒を見ていた。

「都立の農業高校を卒業してさ、警察学校に俺、入ったんだ」
「国村さん家、何の農家?」
「梅と蕎麦。梅林の春と夏の蕎麦畑はきれいだよ。見に来たらいい」

食用梅は白梅が多いんだと国村は教えてくれた。
休憩の短時間だったけれど、楽しそうに農業のことを話してくれる。
国村の意外な一面が、なんだか英二は嬉しかった。

午後からは御岳駐在所での勤務だった。
初の岩場訓練はさすがに疲れたが、岩崎の妻は昼食に生姜焼きを仕度してくれた。
岩崎から好物だと聞いてくれたらしい、心遣いが嬉しかった。

「ごはんのお替り、いっぱいしなさいね」

笑いながら、いつもよりも山盛の丼飯を渡してくれる。
ありがたく3杯平らげると、岩崎が元気だなと笑ってくれた。
食後の茶を一緒に啜りながら、訓練の報告を岩崎にする。
初の登攀でも登りきったことを訊いて、岩崎が口を開いた。

「宮田、いきなりジャングルジムのルート登ったのか」
「国村さんの真似しながらですけどね」

国村の真似かと、感心したように呟いて岩崎が言った。

「国村の両親はな、国内ではファイナリストに入るクライマーだったんだ」

国村の両親は、地元で農家を営みながら登山を続けていた。
そして国村が中学校に入学した直後、夫婦でペアを組んだ雪山で揃って亡くなっている。
そのことは国村から英二も訊いていたが、両親がファイナリストだった事は初めて聞かされた。

「国村は、幼い頃からその両親と登っている。さすがというか、国村のセンスと技術は抜群なんだ」

練習で登った川苔山、訓練の雲取山と今日の白妙橋。
どの時も、国村は息切れを全くしていなかった。
寮で食事する時と同じ調子で、山でも飄々と笑っている。
岩崎の言葉は納得がいくなと、英二は思った。

「国村本人にも、ファイナリストに入る素質がある。後藤副隊長もそんなことを言っていたよ」
「そんなすごい人と俺、一緒に飯食ってたんですね」

まあなと岩崎は笑って、英二の目を真直ぐ見た。

「宮田は初心者なのに、そういう国村の真似ができる。これは大したもんだぞ」
「そう、でしょうか」

なんだか英二は途惑った。
単に自分は少しだけ要領が良いだけ、そう思っている。
けれど岩崎は楽しそうに笑って、肩を叩いてくれた。

「宮田には適性がある、きっと良い山ヤになれるぞ」

良い山ヤになれる。そう言ってもらえるのは、嬉しかった。
岩崎は英二の直属上司であり、一番身近な山ヤの先輩だった。
岩崎は一番近くから、警察官として山ヤとして、英二の成長を見てくれている。
そういう岩崎に認めてもらえることは、素直に嬉しい。

「ありがとうございます、」

きれいな笑顔で英二は笑った。

いつもの時間に来た秀介の勉強を少し見た。
それからまた、地図と遭難事故の照合メモを作る。
紅葉シーズンに入って、道迷いの件数が増えていた。
今度の国村との練習登山で、道迷いのポイント確認が出来ると良い。

夕方の巡回を終え、帰り支度をしていると、岩崎が声をかけてくれた。
明日非番だなと訊かれて、そうですと英二は答えた。

「明日、術科センターで全国警察大会があるのは知っているか」
「はい、」

明日は、全国警察逮捕術大会と全国警察けん銃射撃大会の2つが開催される。
そして周太は射撃で、センター・ファイア・ピストルの部に出場する。

「俺の同期がな、逮捕術に出場するんだ。宮田の同期も射撃にでるんだったな」
「はい、」
「見学に一緒に行くか?」

意外な申出に、英二は驚いた。
周太がこの大会に出場することが決まって、少し英二は調べた事がある。
その事が気がかりで、当日は傍にいてやりたいと、ずっと考えていた。
けれど卒配の立場では申出難くいなと、ここ数日すこし悩んでいる。
岩崎の申出はありがたい、それでも英二は訊いてみた。

「行ってみたいです。ですが私の立場で行って差支えないでしょうか」

いつものように穏やかに微笑んで、岩崎が教えてくれた。

「機動隊の頃にな、俺は逮捕術の特練だったんだよ。そういう義理で明日は行かなきゃいけない」

第七機動隊所属の山岳救助レンジャー部隊。
御岳駐在所長に就任前、岩崎はそこに所属していたのは聞いている。
けれど特別訓練員だったことは、初めて聞かされた。

「一人で長旅もつまらんからな、道連れがいると嬉しいのだが」

こんなふうに岩崎は、さり気ない配慮が温かい。
ありがたいなと思いながら、ご一緒させて下さいと英二は頭を下げた。


夜の電話で繋いだ隣は、いつもより緊張している。
どことなく声が硬い、そしてすこしだけ壁があることを、英二には感じとれてしまう。
無理もないと、周太の心を思いながら悲しかった。

周太は「射撃の秀でた警察官」として、父親の人生をトレースしようとしている。
父の軌跡を辿ることで、父の汚名を潅ぎ、父の死の真実を知る。
その目的のために、周太は今日まで生きている。

卒業配置から1ヶ月、警察官になって7ヶ月。
その立場では本来、出場できるような大会では無い。
けれど周太は異例の抜擢で、センター・ファイア・ピストルの警視庁正選手になった。

周太は、警察学校以来の射撃実績で、これまで全弾10点的中を通している。
学生時代には全国3位の実績を出した。
抜擢も当然と言えば、そうなのかもしれない。

きっと周太は今まで通りに、明日の大会でも全弾的中するだろう。
けれどその事が、周太の進路を困難へ向けるかもしれない。
射撃の秀でた警察官として認められること。それはSAT狙撃手の候補に上がることを意味する。

SATは採用条件が非常に厳しい。
採用年齢は20代前半までの男性警察官。
体力・知力を併せ持ち、重火器に精通する事。
身長が概ね170cm前後、体重が60kg前後に該当する者。

体力面でいえば、腹筋を連続1000回、1500m走を5分以内で走る水準。
洗練され鍛えられた、均整のとれた闘士型体型。
拳銃、ライフル、ショットガン等、あらゆる銃器を操作する能力。そして射撃の腕前は世界水準に達すること。
冷静沈着で、高い分析能力と判断能力といった、精神面の強靭さと高レベルの知能。
警察官のエリートで構成されるのがSATだった。

どれもが全て、周太には備わっている。
そして周太の父親も、同様だったろう。

狙撃要員として指名を受けている隊員が、小隊内に数名いる。
周太の存在を知って、指名したいと考えたのだろう。
そのために、明日の競技大会出場という異例の措置がとられた。
そんなふうに、英二は考えている。

明日優勝して、卒配期間が終わって、機動隊へ配属になる。
その後にSATへ異動させられる可能性がある。そうなれば、周太は狙撃要員の指名を受けるだろう。
それはきっと、周太の父親と同じ軌跡になっている。

配属時には「宣誓書」にサインする。
自分がSAT隊員であること、SAT隊員の名前など個人情報、SATの訓練内容。
一切の情報を口外しないことを誓う。
この宣誓はSAT離隊後も有効で、警察官を辞めた後でも機密口外は禁じられている。

そして、警察官名簿から個人情報が抹消される。
SAT隊員個人をテロから守り、狙撃して射殺した場合の告訴を防ぐ配慮でもある。
そうして、配属前の上司や同僚、同期の警察官でさえ、誰がSATに異動したのか分からなくる。

こうした秘密主義からSAT隊員の活動には厳しい制約がある。
そのため、訓練時や実戦時は常に、顔を秘匿する為のマスクを被って任にあたる。

こんなふうに、SAT隊員に選ばれたら、自身の存在も隠されていく。
そのうえ、狙撃要員として選ばれることは、より重たい秘密を背負わされる事になる。
たぶん周太の父は、その重たい秘密に生きていた。

SAT指揮官の隊長や班長などの幹部は、30代以上になる。
おそらく周太の父親は、狙撃手からそのまま、幹部になっていた。
そんなふうに、英二は考えている。
けれど何かの理由で新宿を通り、そこで射殺された。

秘密を背負うことは、孤独に生きること。
だから本当は、周太と同じ配属を望みたかった。
どんな場所であっても、ずっと傍にいたい。同じ秘密を背負ってでも、離れないでいてやりたかった。
けれど英二の身長は180cm、不採用になることは明らかだった。
SATはテロリストと渡り合う際に、狭い通路や屋根の低い室内で動く。その為、180cm級の長身では採用されない。

同じSATへの配属は望めない、それを知った時は苦しかった。
それでも、絶対に離れることは出来ない。
たとえ同じ配属では無くても、必ず救ける方法はあるだろう。

諦めることなど出来はしない、そんな自分を英二は知っている。
だから自分は必ず、周太を孤独にしない方法を見つけるだろう。
自分は本当に諦めが悪くて、往生際悪くあがくことを、よく英二は知っていた。

そういう理由からも、英二は山岳救助隊の道を選らんだ。
救急法を学ぶ中で、気付いたことがある。
そのことは、青梅署警察医の吉村から得た知識から、確信が強くなった。
たぶんきっと、狙撃要員に指名された時、そのことが周太を救うだろう。

端正で純粋で、きれいな生き方が、眩しい。
そのままにきれいな、黒目がちな瞳の繊細で強いまなざしが、好きだ。
あの瞳に見つめてもらえるのなら、自分はどんな事でもするだろう。

警察官として男として、誇りを持って生きること。
誰かの為に生きる意味、何かの為に全てを掛けても真剣に立ち向かう事。
全てを自分に教えてくれた、この隣。
周太と出会えなかったなら、山ヤの警察官として生きる事もなかった。

生きる目的を与えてくれた人。
きれいな生き方で、どこまでも惹きつけて離さない人。
静かに受けとめる穏やかで繊細な、居心地のいい隣。
ほんとうに得難い、どこより大切な、自分だけの居場所。

本当は直情的で、率直なままにしか自分は生きられない。
だから身勝手で我儘だとしても、自分は周太を手放さない。
この大会の結末が、どうであっても関係ない。
自分は絶対に、周太を孤独に戻さない。

自分を苦しめると解っている生き方を、放りだせない周太。
周太の涙も母親の涙も、流した分だけ今の周太を縛りつけている。
けれどどうか、我儘を言ってほしい。
救けてと、隣にいたいと、自分に告げて甘えてほしい。

もっと自分を求めてほしい、頼って欲しい。そうしてもっと、自分だけを見つめてほしい。
こんな独占欲は、醜いのかもしれない。
それでも必ず守るから、決して独りにしないから、どうか許して欲しい。
どうか自分の隣から、離れてなんかいかないで。ずっと隣で、生きて笑って、見つめ続けさせてほしい。


青梅署で、岩崎が自家用車で拾ってくれた。
お互いに見慣れないスーツ姿が、なんとなく可笑しい。

久しぶりのスーツを、落着いた雰囲気に、英二は着こなした。
少しでも早く大人の男になりたくて、ネクタイの好みも半年間で変わっている。
宮田はこういうの似合うなと言われて、ちょっと嬉しかった。

車窓からの空は、都心の方は雲がかかって見える。
けれど、奥多摩には眩しい秋の青空が輝いていた。

今頃は周太は、寮を出たのだろうか。
もう1時間ほどで会える、そうしたら奥多摩の空模様を教えたい。

術科センターに着いて、担当窓口での手続きを済ませる。
その後は、このまま岩崎と別れることになった。
特別訓練員時代の仲間との旧交を、岩崎は久しぶりに楽しみにいく。

この後の英二の時間は、周太だけに費やせる。
ロビーの片隅で、英二は携帯の履歴から発信ボタンを押した。
1コールも無いうちに通話が繋がる。

やっぱり周太は待っていた、そんなふうに解るのが、嬉しい。
微笑んで英二は、そっと訊いてみた。

「泣いてた?」
「…ん、心でだけだけど」

素直な言葉が、いとしい。
不安が声に揺れているのが解る。
今すぐ全部受けとめてやりたい、笑って英二は言った。

「じゃあさ、今すぐにロビーへ来てくれない?」
「…っ、」

驚いているのが解る。
それは驚くだろうと思う、けれど今は一瞬の時間も惜しい。
英二は笑って促した。

「早く来てよ、」

そしてロビーにすぐ、懐かしい姿が現われてくれた。
駆け寄って見上げて、周太が呟いてくれる。

「みやた…本当に今、ここにいるのか」
「おう、おはよう」

昨日は初めての岩場訓練で、今日は疲れて寝るかな。
そんなふうに、前は話していた。
急に決まって今日は来られたから、昨夜はあえて内緒にしていた。
驚いて少し大きくなった瞳。この顔が、かわいくて好きで、つい、驚かせようと思って黙っていた。

「御岳駐在の岩崎さんのな、同期の方が逮捕術に出場するから応援にいくけど。って声かけてもらって。
それで俺は、周太の射撃を見にきたよ」

覗きこんだ顔が、まだ不安に耐えている。
きっと射場に立って、銃を構えてしまえば、冷静になれるだろう。
それでも本当は、素顔はいつもこんな顔。
少し、寛がせてやりたい。

「周太、風が気持いいんだ。外で話そう」

すこし奥まったところが調度良さそうだった。
壁に凭れて、周太に笑いかける。

「おいで、」

広げた腕の前に、静かに周太が来てくれた。
前ならきっと、来てくれなかっただろう。
こんなふうに素直になっている。それが嬉しくて、少し痛ましい。
こんなに素直で純粋な隣。
それなのに、立ち向かわねばならない痛みがある事が、余計にこの隣への想いを募らせる。

「俺、ほんとうは怖い」
「うん、」

そっと長い腕を伸ばして、抱きとめる。
かすかにふるえる肩が、少しずつ納まってくれるのが、嬉しかった。

「俺を見て、父を知る人が現われて。そうして真実がひとつ解ることが、怖い」
「うん、」
「それから、…」

言いよどむ気配に解る、周太はきっと迷っている。
自分を待ち構える運命に、英二を巻きこむことを躊躇っている。

けれどそんなことは問題じゃない、ただ自分を求めてくれればいい。
そうして自分の腕に閉じ込めて、幸せに浚い続けるだけ。
たとえどの場所に周太が立たされようと、自分が逃がすわけがない。
どんなに引き離されても関係ない、自分は掴んだものは離さない。

含むように微笑んで、英二は言った。

「SATの狙撃手のことだろ?」

見上げてくれる周太の目が驚いている。
気づかないって思われていたのかな、けれど俺はそんなにお人好しじゃないよ。
いつものように微笑んで、真直ぐに見つめて、英二は告げた。

「俺も同じ警察官だよ、周太。周太の適性がどういう進路を選ばされるか、俺にも解っている」
「…知っていたのか」

きれいに笑って英二は言った。

「大切な人のこと、何でも知りたいだろ?」

それが本音。
自分は直情的だけれど、能力は要領がいい。
それをいくらでも利用して、この隣の為に役立てたい。

この隣の事なら、どんな事でも知っていたい。
自分が一番理解して、一番傍で見つめていたい。
他の誰にもそのことを、譲るつもりなんか少しも無い。

けれどこんなふうに、軽々と告げる事で。
少しでも隣に笑っていてほしい。
いつだって思っている、きれいな笑顔を自分だけに見せてほしい。

「…嬉しい」

周太が笑った。
そして英二の袖を掴んで、真直ぐに見上げてくれた。

「俺を絶対に離さないで」
「うん、」
「ずっと隣にいて」

もちろんそのつもり、けれど求められた。
嬉しい。求めてくれるなら、必ず自分はそうするだろう。
きれいに英二は笑って、静かに唇で唇にふれた。

「絶対に掴まえて離さない。俺は絶対に周太の隣に帰るから」
「…ん、」

必ず隣にいると告げておきたい。
自分がもう解っていて、それでも揺らがないと告げておきたい。
英二は周太に笑いかけた。

「俺も一緒に、周太の父さんの事を知りたい。俺の尊敬する人の姿を、真直ぐ見つめさせてよ」

周太の父の真実、それを知っても彼への尊敬は揺らがなかった。
誠実で穏やかな瞳の男。穏やかで重厚な書斎の主。
その彼の行動には、必ずきっと温かい心が息づいている。
そう自分は信じている。

自分は呆れるほどに直情的で、勘が強くて少し狡い。
だから解ってしまう。そういう男で無ければ、自分は尊敬などしない。
それが解っているから、寄り添って離れるつもりはない。

静かに周太が言った。

「きっと辛い現実が待っている、それでも、」

言いかけた唇に、そっと長い指をあてた。
長い指を操ってこっそりと、準備しておいた、あの飴。
自分が泣いた時、焦りが覆う時、そして目の前の誰かの涙を止める時。
いつも支えてくれた、周太が教えてくれた飴。

今日はきっと周太を支えてくれると、そっと隠して持っていた。
馴染んだ味に、目の前の肩の力が抜かれるのが解る。
きれいな笑顔で、英二は言った。

「言っただろ。どんなに辛い現実と、冷たい真実があったとしても、俺は周太を手放せないから」

それが本音。自分の方こそが手放せない。
何が妨げようとしても関係ない、掴まえたまま離さないだけ。
卒業式の翌朝、自分は母親を泣かせた。それすらも、少しだって後悔が出来ない。
それくらいにもう、この隣に惹かれて求めてしまう。

まあねと、明るく悪戯に英二は笑って見せる。

「それくらいもうさ、俺、周太にベタ惚れだし」
「…はずかしいそこまでいわれると」

こんなときなのに、首筋を赤くしてしまう。
どうしていつもこんなふうに、初々しいのだろう。

いつも通りに純粋な隣。
きっとこれから何が起こっても、この隣は純粋なまま生きるだろう。
それは時に辛いから、自分は何があっても受けとめたい。
どんな辛い事も全て、必ず笑顔に変えていきたい。

きれいに英二は微笑んで言った。

「だから心おきなく優勝してこいな」
「ん、」

そっと壊さないように、英二は周太の肩を押し出した。


射場に入る周太の背中を見つめた。
ホルスターから拳銃を抜くしぐさが、懐かしかった。
警察学校時代は、並んで射撃訓練を受けていた。
シリンダーチェックをして閉じる。その手つきも全て懐かしい。

周太の構え方は、真直ぐに凛と立つ。
その姿勢がきれいで、真似したいと思っていた。
同じように撃てたなら、同じ進路を選べるかもしれない。
そんなふうに思っていた。

けれど身長制限を知って、同じ進路は諦めざるを得なかった。
他の手段を使っても、周太に寄り添う事を考えた。
山岳訓練での周太の滑落事故。それがきっかけで山岳救助隊の存在を知った。
そうして山岳救助隊として生きる事が、寄り添う方法にもなると気付いた。

周太の前にある的が、次々と10点的中を示していく。
今きっと、きれいな黒目がちの瞳は、両目を見開いている。
あの真直ぐな視線の上に、拳銃のサイトを突き出すように構えて、引き金を絞っていく。
周太のノンサイト射撃は、距離に制限がない。
心のままに真直ぐな視線は、決してぶれる事がない。
その視線を追いかける、体の芯も揺るがない。

きっとこのまま、全弾的中していく。
それがもう解っているけれど、英二は目を離さず見つめていた。
周太の背中と、その向こうにある的。
銃弾が一発ずつ、周太の運命を定めていく。
その運命に寄り添うのは自分。それを誰にも譲る気がないから、今も英二は見つめていた。

全弾10点的中、400点の満点スコアで周太は優勝を決めた。
卒業配置から異例の抜擢で出場したけれど、今はもう誰もが納得している。
いつも通りに全弾的中しただけの事。
警察官の世界だろうが関係なく、周太になら出来る。それを英二は解っていた。

表彰される周太の横顔を、見つめている男が2人いる。
切長い目の端で、英二はその男を観察した。

ひとりは刑事らしき50代の男。
この男の眼差しは、懐かしさに痛みと温もりがある。
年恰好から行って、周太の父の同期かもしれない。

もうひとりは目つきが鋭い。
40代半ば位だろうか、けれど憔悴に老けて見える。
前に周太が話してくれたことがある「術科センターで知らない男に話し掛けられた」
多分この男ではないだろうか。
そして多分、この男が周太をこの場へ引きずり出した。
身長170cm位。制服に隠しているのはきっと、闘士型の体型だろう。


手続きを済ませて、射撃場の外へ出た。
見上げた空が青い。
奥多摩の晴天が、新木場の空まで追いかけてくれた。
そんな感じが今、心から嬉しい。

軽く体を伸ばして、ほっと息をつく。
今いるこの場所は、いつもいる場所とは異世界だと感じた。
けれどどちらも同じ、警察官の世界のことだ。

周太を見つめていた、小柄なあの男。
疲れ切った憔悴の風情が、哀れに思えてしまった。
ああいう男でも、山懐に抱かれれば、疲れが癒えるのだろうか。

ふっと穏やかな気配に、英二は振り向いた。
周太が外へ出てくるのが見える。
向き直って、英二は微笑んで佇んだ。


新宿署へ一旦戻った周太を待って、手近なカフェに座った。
通りがかった本屋で、久しぶりに買った一冊を開く。
イギリスの登山家の手記が、日本語訳で綴られている。
彼が歩いた世界の山が、活字の中で瑞々しかった。

穏やかな気配を感じて、英二は顔を上げた。
前髪をおろした周太が、カウンターで途惑っている。
たぶんきっと、何を注文したものか困っているのだろう。
髪をおろして、あんな顔をしていると幼げで、高校生にも周太は見える。
何を選んでくるのだろう、それが楽しみで、わざと黙って見ていた。

「ごめん、待たせた」

ほっとした顔でカップを持って、周太が隣に座ってくれた。
安心した顔もかわいいなと思いながら、英二は微笑んだ。

「もっと早く顔を見たかったけど、かわいいから許す」
「…そういうことこんなとこで言わないでくれない?」

もう、と少し呆れた周太の、首筋がすこし赤い。
着ているシャツが、藤色の細ラインチェックだから、余計に赤いのが際立っている。
ほんとの事だよ。と言いながら英二は、周太が抱えるカップを覗きこんだ。
見た目はカフェラテだけれど、さわやかで甘い香が特徴的だった。

「オレンジの香りがするな」
「ん。オレンジラテ?とか言う名前らしい」

自分で注文して飲んでいる癖に、名前に「?」をつけている。
勉強でも術科でも、正確無比な記憶力を周太は見せつけては、的確にこなしてしまう。
その癖、こんなありふれた事には「?」になっている。
なんだかもう、かわいくて、英二は笑ってしまった。

「…なに笑ってんの」
「周太があんまり、かわいいから、さ」

もういいと目で言いながら、周太はカップに口を付けてしまった。
そのカップを持つ手は、羽織ったニットパーカーの袖から半分だけ出ている。
前に、周太がカーディガンを着た時に、折られていた袖を、英二は伸ばした。
元来が小柄で可愛らしい周太には、そういう着方の方が似合う。
シャツの喉元も、第2ボタンまで外していた。
ちゃんと英二に言われた通りに、今日も着こなしてくれている。
それがなんだか嬉しかった。

いつものラーメン屋に行ったら、煮玉子をサービスしてくれた。
どうやら周太は、ひとりでも来たらしい。
なんとなく恥ずかしそうで、なぜ来たのか英二には解ってしまう。
それでもやっぱり訊いてみたくて、英二は微笑んだ。

「俺と来たこと、思い出しに?」
「…ん、」

短いけれど、素直な返事が嬉しい。
きっと今、うつむけた顔は赤いだろう。
首筋を染めていく赤さが、あわい藤色のシャツに映えて、きれいだった。


いつもの公園のベンチに座ると、空はすっかり晴れていた。
奥多摩は、朝も晴れていたと英二は教えた。

「じゃあ奥多摩の空が、ここにまで来たんだ」

そんなふうに言って、周太は嬉しそうだった。

高い青空が気持ち良い。
豊かな常緑樹の木洩日が、隣の横顔をほの白くうかばせる。
周太は、こういう場所が似合う。

周太は当番勤務が控えているから、ほんの1時間くらいだった。
それでもやっぱり、こんなふうに隣にいられるのは、嬉しい。
それに今日の場合、明日がある。

「周太、明日は非番だよな」
「ん、久しぶりに実家へ帰る」

ちょうどいいなと英二は思った。
そして周太に笑いかけて言った。

「じゃ、一緒に行く」
「…え、」
「周太の母さんに挨拶もしたい。だから一緒させてよ」

こうなってから、まだ挨拶をしていない。
周太の話だと、彼女は肯定してくれている。

周太とよく似た、穏やかな静けさと黒目がちの瞳。
自分が大好きな周太の特徴を、周太に譲ってくれたひと。
そういう周太の母を、英二は好きだった。

そしてたぶん、彼女と英二には、話すべき事がお互いにある。
彼女と英二はおそらく、同志のようなものだ。

隣が恥ずかしそうにしている。
たぶん、母親と英二が何を話すのか気になっている。
それから緊張、特別な存在と親の対面が、気恥ずかしいのだろう。
こういうの慣れてない、そんな呟きが黒目がちの瞳に読めてしまう。

それに明日は、英二にも特別な日だった。
けれどきっと、この隣はすっかり忘れているのだろう。
英二は笑って、隣の顔を覗きこんだ。

「明日さ、周太の誕生日だよ」
「…あ、」

競技大会の事で、すっかり忘れていたのだろう。
今日は11月2日、周太の誕生日の前日だった。

明日は、周太の母に花束を買っていきたい。
自分の大切な隣を、生んで育ててくれたひと。大切な息子を、自分に託してくれたひと。
ひとりの女性として、敬慕のできる素敵なひと。そして自分が敬愛する先輩が、心から愛したひと。
そんな彼女に、感謝の花束を贈らせてほしい。

「ありがとう、俺、忘れていた」

隣が嬉しそうに微笑んだ。
お礼を言われるのは嬉しい、笑顔はもっと嬉しい。
けれど、出来ればもう少しだけ、欲張らせてほしい。

「それだけ?」

言って英二は、そっと唇を重ねた。
さわやかな甘さが、かすかに唇からうつされ、静かに離れた。
隣は恥ずかしそうに頬染めて、けれど微笑みが嬉しそうで、きれいだった。

「明日、新宿で何時に待ち合わせようか。俺も週休だからさ、一日一緒にいられるんだ」

そう言って英二は、きれいに笑った。

今日の射撃競技大会での優勝。
そのことがたぶん、この隣の生き方を、曳きこもうとするだろう。
けれどそんなこと、自分には関係ない。
この隣がどこに立たされようとも、自分は絶対手放さない。

静かに微笑んでから、英二は隣へ笑いかけた。

「周太、明日は何時に当番あがれるんだ」
「たぶん8時かな、」
「じゃあ9時に新宿でいいよな、朝の公園へ行こうよ」
「ん。いいね、嬉しい」

今日こうして会えたのに、また明日も会える。
1ヶ月と少し前の、警察学校時代はそれが普通だった
けれど今は、今日も明日も会えることが、贅沢に思える。
けれどきっといつか、毎日を、この贅沢で充たしたい。

今夜の0時、周太に電話をしよう。
そうして誰より最後に「おやすみ」を言う。
それから誰よりも早く、その日に一番の「おはよう」を言いたい。

今夜0:00、周太の22歳最後の瞬間と、23歳最初の瞬間の時。
最初と最後の両方を、自分のものにしたい。

こんなに自分は独占欲が強い、けれど、どうか許して欲しい。
自分にはただ一つの居場所、そうして唯一のひと。
もう他には求めない、だからどうかずっとこのまま、自分だけの隣でいて。

きれいに笑って、英二は言った。

「今夜0:00に電話するから」





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光明、予兆―another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-20 23:12:44 | 陽はまた昇るanother,side story

雲の上にはいつも、青空




光明、予兆―another,side story「陽はまた昇る」

全国警察けん銃射撃競技大会の当日は、曇りだった。
毎年開催ではない大会だが、47都道府県警と皇宮警察の、射撃に秀でた警察官が参加して行われる。
各都道府県警の定員規模別に1部11チーム、2部16チーム、3部21チームに分かれて競う。
警視庁は1部になる。

競技種目は、センター・ファイア・ピストルの部、制服警察官の部、私服警察官の部の3種目。
1人400点満点で、正選手3人の合計点を団体戦では競う。
そして各種目ごとの出場選手全員で競う、個人競技の成績も出されることになる。
各競技の出場定員は、制服警察官の部86人、私服警察官の部48人、センター・ファイア・ピストルの部48人。

周太はセンター・ファイア・ピストルの部へ警視庁の正選手としてエントリーされた。
本来なら、毎年行われる警視庁の大会で、優秀な成績をおさめた者が出場する。
それにも関わらず、周太は卒配から1ヶ月で出場する。
異例だった。

警察学校での射撃成績と学生時代の全国3位の実績。
それらが上部に報告されて、特別訓練員に選抜されたと聴いている。
警察学校入校以降の成績は、全弾10点的中。訓練でも検定でも、それは同じだった。

警察学校時代に参加した本部特練でも同じ成績だった。
あの時は講師として、警察庁のけん銃特別講習指導員が招かれている。
そのことも、今回の出場に影響があるのかもしれない。

それでも卒配すぐに正選手として出場するのは、異例過ぎると我ながら思う。
大会前の合宿でも、物言いたげな視線をなんどか向けられていた。
けれど合宿が始まると、驚きの視線が向けられるようになった。
合宿でも全弾10点的中を、周太は通している。

初めて銃を手にしたのは、ライフル射撃だったけれど15歳だった。
それから8年目になる。
警察学校から射撃を始めた場合の8年目と、変わらないとも言える。
自分はずっともう、射撃のために体も精神力も鍛えてきた。

卒配時に渡された拳銃訓練カードは、もう随分と押印で埋められている。
特練に選ばれてからも、日勤以外のほとんど毎日を、術科センターへ通った。
今日までに休んだのは、田中の葬儀の当日だけになる。

警察官になったからには、もう、一弾も外す事は出来なかった。
射撃名手だった父の実績を、息子の自分が証明したい。
そう思っていつも、周太は銃口を的へ向けている。

父と同じ「射撃に秀でた警察官」の道を歩む、その目的は2つあった。
目的の一つは、父の汚名を潅ぐこと。
もう一つの目的は、父の死の真実を知ること。
それしか今は、壊されてしまった父の人生を、蘇らせる方法が解らない。

警察官の世界では「殉職」は汚名でもある。
殉職を認める事は死への賛美に繋がる、否定も仕方ないだろう。
けれど解っていても、父の人生を「殉職=汚点」で締めくくられる事は、耐え難かった。

受け入れがたい冷たい現実。背負わされていく「殉職者遺族」の枷。
同情、憐憫、好奇心、侮蔑。どれも大嫌いだった。
重たくて辛くて苦しくて、逃げたかった。
父が殉職した夜からずっと、吐いて苦しんで、泣き続けた。

けれど涙はとうとう涸れ果てた。
そして、もう、この運命から逃げられないと悟った。

重たくて痛くて、自分ひとりで背負うことは、心が壊されそうになる。
けれど、誰かに一緒に背負ってと、助けを求める事は出来なかった。
あまりに痛い、重たく辛い運命は、自分以外の誰にも背負わせたくない。
孤独でも、逃げずにひとり立ち向かうしか無かった。

そうして立ち向かう為に、父の死の真実を知ろうと思った。
真実を知ることで、壊されてしまった、父の人生を描いたパズルを蘇らせる。
そうして父の人生を再現させ、父の死の真実に向き合う。それしか方法が解らない。
この苦しみを越える方法が、そのほかには見つけられない。

遺された蔵書、遺された家、遺された母。そして遺された自分。
それらが自分の手元にのこされた、「父の人生」というパズルのピース。
ばらばらにされたパズルの一部を、残りのピースを探して繋ぎ合せていく。

残りのピースは、自分が知らない父の姿。
優秀な警察官で、射撃のオリンピック代表だった父、その姿を自分は知らない。
それは「射撃の秀でた警察官」という姿だった。
それを知るためには、自分が同じ道を辿るしかないと思った。

父の軌跡を辿ることで、父の汚名を潅ぎ、父の死の真実を知る。
そのために自分は、射撃の秀でた警察官になろうと、今日まで生きている。

だから今、自分はここに立った。
今は壊されたままの、父の人生を描いたパズル。
その残りのピースを探すため、自分はここまで生きてきた。
今日の大会での全弾的中。そうしたらきっと、残りのピースの手がかりが差し出される。

卒業配置から1ヶ月、警察官になって7ヶ月。
こんなにも早く、チャンスが与えられると思っていなかった。
幼い日からの苦しみ、その原因が少しは暴かれる。その期待が嬉しい。

けれど、本当は、怖い。
もう今は、この射撃大会の意味を、きっと解っている。
こうした場で「射撃の秀でた警察官」に選ばれる結末は、たぶんもう気が付いている。
今日、この大会が、この生き方の結末を決めてしまうかもしれない。

術科センター射撃場の奥の扉。あの場所はSATの練習場。
「射撃の秀でた警察官」は、あの場所へ入る事になる。
SATに射撃で選ばれることは、重たい秘密を背負わされる事になるだろう。
たぶんきっと、父はその秘密の中で生きていた。

秘密を背負うことは、孤独に生きること。
今日が終わって、卒配期間が終わって、初任総合科が終わったら、本配属が決まる。
その時に自分はもう、孤独に戻されるかもしれない。

もう本当は、孤独になんか戻れない。
きれいな笑顔の隣から、離れて孤独になることは、自分はもう出来ない。
離されてしまったらきっと、自分は壊れてしまうだろう。

だから怖い。
この大会の結末が、自分を孤独に浚うかもしれない。
そして自分はもう壊されて、二度と立てないかもしれない。
あの隣から引き離されて、生きていたいだなんて、きっと思えない。

それでも自分は今、この場所から逃げられない。
ずっとこのために生きて、この事が自分を生かしてくれたから。
父の軌跡を辿ること、その強い想いだけが支えになって、自分を生かしていた。

自分を生かし続けた、誓いと約束と目的を、今更放りだすなんて出来ない。
あの日からずっと流した涙、この道を選んで流させた母の涙。
全てを放り出すなんて、自分には出来ない。

それでも願ってしまう。
あの隣に、たすけてほしい。
きれいな笑顔、ずっと壊したくないと願っていた。
それなのに願ってしまう。どうかこの場所まで、自分を救けに来てほしい。

自分を苦しめると解っている生き方を、放りだす勇気も無いのは自分。
それなのに、救けを求めるなんて、我儘過ぎると思う。
解っている、そんなことはもう解っている。

それでも、あの強い腕になら、自分を救えるかもしれないと思ってしまう。
そして本当はもう、信じている。
きれいな笑顔の隣から、離さないでいてくれると、本当はもう信じている。

控室の片隅で、窓際から外を見た。
かすんで今は見えないけれど、きっとこの彼方には、奥多摩の山々がある。
あの隣はそこにいる。そして今きっと、きれいな笑顔が咲いている。

周太の瞳の底が熱くなる。
きれいな笑顔に、会いたい。
今この不安を、あの隣に抱きとめてほしいと願ってしまう。

そっと右腕の袖を捲ってみる。
赤い花のような痣が、腕の白い内側に刻まれていた。
田中を見送る為に向かった、奥多摩の麓の町。
山の稜線が見つめる部屋で、宮田が刻んだ赤い痣。
そっと左掌でふれてみる。かすかな熱が残されている、そんな気がしてしまう。

「…みやた、」

ぽつんと呟きがこぼれ、ポケットから振動が伝わった。
ポケットの携帯を取り出すと、着信表示は今聞きたかった名前だった。

「…うそ、」

呟いて、急いで開いて耳に当てた。
きれいな低い声が、いきなり言った。

「泣いてた?」

周太は微笑んだ。
どうしていつも、こうして解るのだろう。
どうしていつもこうやって、欲しい時に欲しい言葉をくれるのだろう。
もう今は、素直な言葉しか告げられない。

「…ん、心でだけだけど」
「じゃあさ、今すぐにロビーへ来てくれない?」

なにを言っているのだろう。
ロビーになにが、あるのだろう。
でも、いま、「来てくれない」って言った。

「早く来てよ、」

電話の向こうに笑顔が解る、周太は控室の扉を開けた。
そしてロビーですぐに、懐かしい姿を見つけた。
駆け寄って見上げて、周太は呟いた。

「みやた…本当に今、ここにいるのか」
「おう、おはよう」

宮田が目の前で笑っている。
昨日は初めての岩場訓練で、今日は疲れて寝ているはず。
うそだろう、と思う。

けれどこんなふうに、きれいに笑うひとを、他には知らない。
きれいに微笑んで、宮田が教えてくれた。

「御岳駐在の岩崎さんのな、同期の方が逮捕術に出場するから応援にいくけど。って声かけてもらって」

それで俺は、周太の射撃を見にきたよ。
そう言って、笑ってくれる。
そうして周太の顔を見て、宮田が風に当たろうと誘ってくれた。

すこし奥まったところで、壁に凭れて笑いかけてくれる。

「おいで、」

腕を広げて、真直ぐ周太を見つめてくれた。
前ならきっと、周太の足は動けなかった。
けれど今はもう素直になっている。周太は自分から、静かに前へ立った。

「俺、ほんとうは怖い」
「うん、」

そっと長い腕を伸ばして、温かな胸で抱きとめてくれる
心がほっとほぐれるのを周太は感じた。

「俺を見て、父を知る人が現われて。そうして真実がひとつ解ることが、怖い」
「うん、」
「それから、…」

言いかけて周太は迷った。
術科センターの奥の扉。その事を宮田に告げてもいいのだろうか。
けれど隣は、ふっと笑って言ってくれた。

「SATの狙撃手のことだろ?」

見上げた周太に、いつものように宮田は微笑んでくれる。
真直ぐに見つめて、宮田が話してくれた。

「俺も同じ警察官だよ、周太。周太の適性がどういう進路を選ばされるか、俺にも解っている」
「…知っていたのか」

きれいに笑って宮田が言った。

「大切な人のこと、何でも知りたいだろ?」

こんなときにまで、なんてこと言うのだろう。
けれどそうやって、笑わせてくれようとしている。
いつもこう、宮田はいつも、こんなふうに優しい。

「…嬉しい」

周太は笑った。
そして宮田の袖を掴んで、真直ぐに見上げた。

「俺を絶対に離さないで」
「うん、」
「ずっと隣にいて」

きれいに宮田が笑ってくれる。
切長い目が、さっと素早く周囲を見回すと、静かに唇が唇にふれた。

「絶対に掴まえて離さない。俺は絶対に周太の隣に帰るから」
「…ん、」

こんなふうに、誰かが必ず隣にいてくれること。
こんなに嬉しいなんて、知らなかった。

そうしてまた笑って、宮田が告げてくれた。

「俺も一緒に、周太の父さんの事を知りたい。俺の尊敬する人の姿を、真直ぐ見つめさせてよ」

宮田はやっぱり気づいている。
周太に確信が寄り添った。
宮田はもう、父の真実に気づいている。それでも寄り添おうとしてくれる。
静かに周太は言った。

「きっと辛い現実が待っている、それでも、」

言いかけた唇に、そっと長い指があてられた。
さわやかな甘さが、口の中にゆっくり溶けていく。いつもの飴だった。
馴染んだ味が、肩の力を抜いてくれる。
そして、きれいな笑顔で、宮田が言ってくれた。

「言っただろ。どんなに辛い現実と、冷たい真実があったとしても、俺は周太を手放せないから」

やっぱりこんなふうに、欲しい心と言葉をくれる。
だからもうきっと、自分は孤独に戻らない。
そんなふうに、信じられる。

まあねと明るく悪戯に宮田が笑って見せる。

「それくらいもうさ、俺、周太にベタ惚れだし」
「…はずかしいそこまでいわれると」

こんなときなのに、こんなふうに言ってくれる。
そして自分の首筋も、こんな時なのに熱くなってくる。
こんなふうに、いつも通りなのは、なんだか安心する。

「だから心おきなく優勝してこいな」
「ん、」

そうしてそっと、宮田が肩を押し出してくれた。


センターファイア・ピストル、CPと略される。
拳銃を片手で持ち、立ったままの姿勢で25m先の標的を狙う。
片手撃ちで鍛え続けた周太には、最適な競技種目だった。

計40発を撃つ。真中に命中すると10点、真中から離れるほど点数は低くなる。
CPでは「速撃ち」で精密と速射の合計得点を競い、「遅撃ち」では精密のみの得点を競う。

射場に入る。
与えられたブースに入り、ホルスターから拳銃を抜く。
シリンダーを開いて、装填された弾の雷管に傷が無いか確認して閉じた。

規定の試射が始まり、いつものようにノンサイト射撃に構えた。
両目で的を捕らえた視線上に、拳銃のサイトを突き出すように構えて、引き金を絞る。
ノンサイト射撃は普通、10mまでの近距離で用いる。
そのため、25m先の標的を狙うCP競技では、普通ノンサイト射撃は使わない。
けれど周太は距離に関係なく、ノンサイト射撃だった。

はじめに遅撃ちから始まった。
遅撃ちは精密射撃ともいい、5分間の制限時間内に5発撃ちを4回。計20発
一発撃つごとに、腕を45度下に向ける。規定通りの動きで、確実に狙って撃っていった。
周太の的は、全弾10点を撃ち抜いていた。

遅撃ちが終わると、後半の速撃ち競技が始まる。
遅撃ちと速撃ちでは、グリップの握り方を変える。周太は軽く持ち直した。
構えも、遅撃ちの時よりも、少しオープンな姿勢に変える。

速撃ちは速射ともいう。3秒間現われる標的を1発ずつ5回撃つ。これを4回行い、計20発。
3秒の間に1発。遅撃ちのように腕を45度下に向けた状態から、構え直す時間は無い。
良い姿勢を保つ。そして的確に撃つために、銃を持ち上げた姿勢を一定に保持する。
そのため、発射の衝撃に片手で耐えられるだけの筋力と、バランスが必要になる。
周太は骨格は華奢だった。けれど、この為に筋力と体幹を鍛え上げてある。
もう今は姿勢も腕も、揺らぐことは無くなっていた。

短時間で撃っていく速射の方が、なんとなく周太は好きだった。
通常は、フロントサイトに意識を集中させるのが、基本になる。
けれど、周太の場合はノンサイト射撃だから、サイトを使う必要がない。
そのために周太は、標的を狙う時間が普通よりも少なかった。

警視庁は1部で団体優勝し、個人の部でも周太は優勝した。
全弾10点的中、400点の満点スコアが周太の結果だった。
卒業配置から異例の抜擢で出場し、異例のままの優勝になった。
いつも通りに全弾的中しただけの事。
それでも警察官の世界で、それが出来る自信は、本当は少し無かった。

表彰される横顔に、視線がささる。
この視線の中に、父を知る人がきっといるのだろう。
多分近いうちに、その人は自分に会いに来る。そう思いながら周太は、表彰台から降りた。

控室に戻って帰り支度をしていると、他の競技者達から話しかけられた。
自分より5歳以上は年上が多い。
競技前には少し冷たい視線も多かった。
けれど結果を出した今はもう、そういう視線は少なくなっている。

「去年まで、全国ピストル射撃大会で入賞していたな」

こんなふうに実績を知る人にも出会った。
競技者達と少し話してから、手続きを済ませて、ロビーを出る。

外に出ると、いつものように宮田が佇んでくれていた。
おつかれさまと微笑んで、穏やかな空気で迎えてくれる。
ほっと肩の力が抜けて、楽になった。

新宿署へ戻って報告を済ませ、一旦携行品を預けてから着替えた。
今日は夕方から当番勤務だけれど、宮田と一緒の時間は私服になりたかった。
いつもの公園へ行く道の、途中のカフェで待ってくれていた。

「昼、何食いたい?」
「ラーメン、」
「またかよ、」

いつものように笑ってくれる。
こういうのはいいなと、素直に思える。

この間も行ったばかりの暖簾をくぐる。
カウンターの向こうから、主人がそっと微笑んでくれた。
ささやかな事かもしれないけれど、こういう温もりは、ほっとする。

昼を済ませて、いつもの公園のベンチに座る。
午前中の曇りは晴れて、高い青空が気持ち良かった。
いつものように、豊かな常緑樹の木洩日が、ゆったりと照らしてくれる。
当番勤務が控えているから、ほんの1時間くらいだった。
それでもやっぱり、こんなふうに隣にいられるのは、嬉しい。

缶コーヒーを飲みながら、明日は非番だよなと宮田に訊かれた。
なんだろうなと思いながら、何気なく答えた。

「ん、久しぶりに実家へ帰る」

笑って、宮田が言ってくれた。

「じゃ一緒に行く」
「…え、」

嬉しいけれど、ちょっと驚いてしまう。
今日こうして会えたのに、また明日も会える。
1ヶ月と少し前の、警察学校時代はそれが普通だった
けれど今は、今日も明日も会えることが、なんだかすごく贅沢に思えてしまう。

「周太の母さんに挨拶もしたい。だから一緒させてよ」
「…ん、」

なんだかとても恥ずかしい。
こうなってから、宮田と母が会うのは初めてになる。
母はなんて、宮田に話すのだろう。
今からなんだか緊張してしまう、こういうの慣れてない。

それにさと隣が笑って、顔を覗きこんでくれた。

「明日さ、周太の誕生日だよ」
「…あ、」

競技大会の事で、すっかり忘れていた。
今日は11月2日、自分の誕生日の前日だった。

明日は母に、花束を買っていかなくてはいけない。
自分の誕生日にはいつも、周太は花を母へ贈っている。
思いださせてもらって、良かった。
周太は微笑んだ。

「ありがとう、俺、忘れていた」
「それだけ?」

そんなふうに宮田は言って、そっと唇を重ねられた。
こんなふうに急にされると、恥ずかしい。
嬉しいけれど、やっぱり恥ずかしい。

「明日、新宿で何時に待ち合わせようか」

俺も週休だから一日一緒にいられるんだ。
隣が笑って言ってくれる。

今日は射撃の競技会で、不安だった。
けれど拳銃を構えてしまうと、冷静な自分がいた。
そんな自分が少しだけ、嫌だった。

それでもこの隣が、笑ってこんなふうに迎えて抱きとめてくれる。
これから何が起きるのか、不安にもなる。
それでもきっと今日のように、きっと抱きとめてもらえる。
そう信じている。





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第9話 願望―P.S:side story「陽はまた昇る」

2011-10-19 23:55:12 | 陽はまた昇るP.S
その日のことを、



第9話 願望―P.S:side story「陽はまた昇る」

カーテンを透した光があたたかい。
いつものように昨夜も湯原の部屋に座り込んで英二は勉強した。
そして今朝も湯原のベッドからカーテンの隙間の明空を見つめている。

静かに隣へと顔を向けてみる。
寝起きのゆるやかな視界に、すこし離れた隣で眠る湯原の寝顔が穏やかだった。
一緒に勉強していても相変わらず湯原は墜落睡眠をする、昨夜も気が付いたら隣で英二の肩に凭れて眠っていた。

湯原の隣は穏やかで静かで無言でいても居心地が良い。
本当は繊細で優しい湯原の隣は警察学校の辛い時も英二を癒して安らがせてくれる。
それが嬉しくて毎日のように、こうして隣に座りこんできた。

そうしてもう今は知っている。
繊細な優しさと豊かな感受性が湯原の孤独を造り出した。
そのことを、こんな日々から気づかされた。

父の殉職

そんな枷が湯原とその母に重たく背負わされている。
憐憫、好奇心、無意識の傲慢さが、他人への不信感になって湯原を孤独にしていった。
そして辛い運命を誰にも分けない為に自分から孤独を選びとっている。
自分が背負わされた痛み苦しみを誰にも背負わせたくないという優しさ。
そんな湯原の優しさが悲しい、そして湯原の端正な孤独が眩しかった。

父の殉職という枷を背負わされても綺麗な湯原の姿勢に憧れた。
大切な人を殺されて、それでも尚、優しさも潔癖も失わずに生きる。
自分にはきっと出来ない端正な強い生き方を湯原はしている。

そしてもう願っている。
湯原の痛みも苦しみも全て自分にも分けて背負わせて欲しい。
そうして湯原の隣に座り続けることを許してほしい。

穏やかで静かで居心地のいい隣、無言でも安らげる豊かな居場所。
それがどんなに得難いものか、たくさんの出会いを経験した自分は痛いほど知っている。
こうして見つけてしまった居場所を手離すなんて出来ない。
湯原の痛みも優しさも知ってしまった今はもう、諦める事も出来ない。

けれどもうじき、この隣も遠くなる、そんな想い気配を消すよう英二は小さく吐息をついた。

今日は9月16日。

いつもなら自分の誕生日で、なんとなく嬉しい日だった。
けれど今朝は今日が来た事が辛い。
9月16日は月末の2週間前、それは卒業式と卒業配置まで2週間を切ったことだった。
自分は奥多摩方面、湯原は新宿方面に希望を出している。そして卒業配置後は所属署に併設の独身寮へ入る。
1ヶ月後にはもう、この隣にはいられない。

希望通りにならない事も多く適性で配置されるともきく。
けれど湯原と自分の適性が全く違う事はこの6ヶ月で解っている。
いずれにしても自分達は違う配置先になるだろう。

「適性か、」

英二は呟いた。
自分が希望する奥多摩は山岳救助の現場になる。
山の経験は少ないが、救助隊員に必要な検定は今のところ高得点合格でクリアできた。
訓練でもこの分野が楽しい。適性あるのかなとは思う。

山を愛して山に生きる人達は、自分達の事を「山ヤ」と言うらしい。
山岳救助隊は「山ヤの警察官」ということになる。
山岳訓練をきっかけに知った山の世界は、厳しいけれど美しかった。
今までいい加減に生きて来た自分だけれど、その現場で真剣に生きてみたいと思った。

そうしたら、少しは湯原の痛みも分けて背負えるように、なれるかもしれない。
そうなれたらいい。

それでも、この隣と離れる事は、さびしい。
隣の寝顔を見つめて、ふと英二は気がついた。
規則正しい寝息がほのかだけれど、さわやかに甘い。

きがつくと湯原は、勉強しながら口に何かいれている事がある。
たぶん飴か何かなのだろう、きれいな香だなといつも思ってきた。
その香が、湯原の吐息に名残りながら、英二の頬を撫でてくる。

ちょと困ったなと英二は思った。
ただでさえ本当は、いつも、ふれてしまいたいと思っている。

けれど警察学校は「男女交際禁止」の禁則がある。
想定されていないけれど、同性でも同じ事だろう。
それ以前に日本では、同性同士の関係は歓迎されていない。

自分でも勘違いではないかとか、疑ってみたこともある。
けれどこの隣は居心地がよくて、座りこんだまま立てないでいる。
苦しい運命にも凛と立つ姿は端正で、きれいで、目を離せなかった。
そういう感覚を、誤魔化せる人間なんて、いるのだろうか。

たくさんの出会いがあって、たくさんの女の子とつきあってきた。
色んなタイプがいて、一生懸命に尽くそうとしてくれたひともいた。
けれど、こんなふうに、「居心地が良い」なんて感じた事がなかった。
そして、こんなふうに、「ずっと見ていたい」と思ったことも無い。

なによりも、その背負う苦しみ痛みまで、一緒に背負わせて欲しいと願ってしまった。

できるだけ楽をして生きようと、素直に自分を出さないで生きて来た。
けれどこの隣には、そんなことは通用しない。
自分も素直になってから、少しずつ心を開いてくれた。
そうして今こんなふうに、無防備に隣で眠ってくれている。

無防備なままに、ずっと掴まえて、ずっとこの隣にいたい。
こんな時、本当はいつも、そう思っている。

厳しい運命にも黙って耐えて。
運命に立ち向かう為なら努力も犠牲も払ってゆるがない。
それでも運命を恨むことも誰かを嫉むこともしないで、ただ真直ぐに生きている。
けれどその素顔は、繊細で穏やかで、人を放りだせない優しさのままでいる。

端正で純粋で、きれいな生き方が眩しい。

そのままにきれいな黒目がちな瞳の繊細で強いまなざしが、好きだ。
どんなときも受けとめてくれる、穏やかで静かな居心地いい得難い居場所。

そして自分に教えてくれた、警察官として男として誇りを持って生きること。
誰かの為に生きる意味、何かの為に全てを掛けても真剣に立ち向かう事。
きっと自分は、この隣に出会えなかったら警察官の道を放り出していた。
山ヤの警察官として生きたいと夢を持つ事もなかった。

生きる目的を与えてくれた人。
きれいな生き方で、どこまでも惹きつけて離さない人。
静かに受けとめる穏やかで繊細な居心地の良い隣。
こういう存在には、もう、きっと会えない。

目の前で静かに眠るひと、かけがえのない得難い隣。
このまま奪ってしまえたらどんなにいいだろう?
けれどそれをすることは、この隣の全てを奪う事になる。

絶対に警察官になりたいという目的も女性と育める普通の幸せも奪ってしまう事になる。
たとえ卒業した後でも、警察官で男同士では生き難い事はもう解りすぎている。

純粋で端正な生き方をする男を、そんなところに引き擦り込めない。
それでも、もう自分はきっと他の誰も求められないだろうと思う。

―こういう存在を知ったら、もう、他のどこにも居場所を探せないな?

うつ伏せになった英二は腕組みに顎を乗せた。
眠る隣の寝顔をそっと眺める。
こちらを向いてくれている、それだけでも嬉しい。
無防備に眠ってくれている、それだけ信頼されているのが嬉しい。
この信頼を壊したくないから出したい手もひっこめていられる。

けれど、今朝の吐息はやけに香りが気になってしまう。
さわやかで甘い、ほっとする香り。これはいったい何だろう?たぶんよく知っているはずだった。

少しだけ傍へと、そっと寄ってみる。
時計は5時、隣はまだ、よく眠ってしまっている。
英二は長い指を伸ばしてやわらかな前髪に絡めさす。
いつもこうしてつい、ふれてしまう。

起きればいつも湯原は、前髪をあげて額をだしてしまう。
そうすると聡明な印象が強くなって、生真面目な顔になる。
強さが全面に出された硬質な雰囲気が、印象を強める。
警察官としてはその方が、都合が良いのかもしれない。

けれど夜になって洗い髪になると、こんなふうに前髪がおろされる。
長めの前髪に透けて、黒目がちの瞳の繊細さが、きれいだと思う。

初めて校門の前で出会った入寮前の日。
英二が「かわいい」と言ったから、湯原は前髪をばっさり切ってしまった。
「顔の事で舐められたくなかった」湯原はそう言った。
それを言われた時、ほんとうはショックだった。
けれどそういう湯原の、男っぽい意地は解るなと思う。
そしてそんな意地っ張りさが、眩しくて、かわいいと思えてしまった。

それから自分が脱走した夜。
元彼女に騙されて、警察学校を辞める覚悟を踏みにじられて、怒りが込上げて。
そういう女に相応しい自分が、悔しくて、不甲斐なさにまた腹が立って。
全ては、要領よく楽して生きようとした自分の、責任だった。
楽をするつもりだったのに、逆だった。とても苦しくて、全部投げ出したくなった。

本当はずっと思っていた。
自分が生まれ、生きている理由を知りたい。誰かの為に、自分は何が出来るのか。
けれどそれを求める事は必要ではないと、周りにずっと言われてきた。
それでも脱走した夜に、痛みと一緒に気づかされてしまった。
自分はきっと本当は、要領よくなんか生きられない。

寂しがりの自分は誰かに傍にいて欲しくて。
けれど誰でもいいわけでは無くて。
それでも「誰か」に出会えない、そんな自分が悔しくて悲しかった。
自分が求めて、自分を求めてくれる、そんな「誰か」はいないのだろうか。

そして脱走した夜に、この隣を見つけてしまった。
涙のとまらない自分を、ぎこちなく抱きしめて、ただ黙って傍にいてくれた。
穏やかで静かな、やさしい時間が流れる場所。
無言でいても居心地のいい隣。
言葉を遣わずにただ佇んで、そっと静かに受けとめる。
そういう温もりがあるのだと、初めて知った。

少し離れたところで今、静かに眠っている隣。
ただ眠っているだけなのに、こうして傍にいるだけで、そっと心が凪いでくる。
いま言葉を掛けてくれる訳じゃない、それなのに充たされてしまう。

朝の光がほのかに、カーテンの隙間から射しこんでくる。
あたたかな明るさの中で、眠る隣の顔が、切ない。
こんなに近くにいるのに、手に入らない。
そして2週間たてば、ずっと遠くへ行ってしまう。

髪に絡めた指を、そっと離した。
これ以上ふれていると、余計に未練が残りそうで、悲しかった。
けれど英二は、また少し傍へと静かに寄り添った。
さっきより近くなった、長い睫がきれいだった。

こんなふうに無防備に、眠ってくれる。
それだけでも今は、幸せだと思える。

見つめている視線の真中で、長い睫がそっと揺れる。
ゆっくり開いた黒目がちの瞳が、こちらを見つめた。
あ、俺の事、見つめてくれる。
それが嬉しくて、きれいに英二は笑った。

「おはよう、」
「…ん、おはよ」

こんなふうにすぐ隣で「おはよう」が言える。
誰よりも早く、その日に一番の「おはよう」が自分のものになる。
それだけでも英二には、幸せだった。

けれど今日は9月16日、
あと2週間で、その幸せも終わってしまう。
それが、かなしい。

湯原がすこし微笑んだ。

「どうした、みやた」

名前を呼んでもらえる、それだけでも嬉しい。
卒業しても、電話で名前を呼んで欲しい。そんな願いをもってしまう。
きれいに笑って、英二は答えた。

「かわいいなと思ってさ」
「…だから早く眼科にいけよ馬鹿」

いつものように、キツいこと言いながら、湯原の瞳が微笑んでくれる。
こんな日常がきっと、2週間後には懐かしくなる。
懐かしくて戻りたいと、きっと何度も思うのだろう。

もう自分はこの隣以外の、どこもきっと求めない。
だから、今、この時だけでも、全てを記憶して刻んでおきたい。
記憶だけで人が生きられるのか、解らないけれど。
それでも、この隣のことはきっと、ずっと懐かしく思いだしたい。

起き上って首を回して、英二は笑った。

「今日の朝飯、なんだろな」
「その前にランニングと掃除だから」

微笑んで湯原が答えてくれる。
こんなふうに、他愛ない会話が嬉しい。
こんなふうにずっと、隣にいられたらいい。



ランニングも掃除も終わって、制服に着替えてから食堂へ行った。
場長の号令で合掌して、いただきますを言う。
そうしたら関根が、ほらと言って、ベーコンを皿に乗せてくれた。

「宮田お前、たしか今日が誕生日だったろ」

よく覚えていたなと、英二は少し驚いた。
快活に笑って、関根が言ってくれた。

「こんなんで悪いけどさ、誕生日のお祝いな」
「おう、ありがとうな」

笑って、ありがたく箸をつけさせてもらった。
関根はこんなふうに、からっと明るい優しさがいい。
そうなのと瀬尾も微笑んで、話しかけてくれた。

「じゃあさ、宮田くん。何か描いて欲しいものとかあるかな」
「お、絵描いてくれんの瀬尾?」
「僕それ位しか、出来ないから」

やさしい笑顔で瀬尾が言ってくれた。
そんな言い方するけれど、瀬尾は本当に絵が上手い。
気持ちが嬉しい、笑って英二は答えた。

「瀬尾ほんと、絵上手いから。嬉しいよ」
「ありがとう、」

嬉しそうに瀬尾が笑ってくれた。
何を描くのか、放課後までに考えておくことになった。

そして昼飯の時、みんながまた皿に惣菜をのせてくれた。
結構な量になったなと箸を運んでいたら、視線が横顔にささっている。
この視線は誰なのか、たぶんきっと、見なくても解っている。
なんで見つめてくれているのか、解らないけれど英二は嬉しかった。

いつもより量が多い夕食も済んで、学習室で瀬尾が鉛筆を持ってくれた。
本当は描いて欲しいものがあるけれど、ちょっと頼み難い。
どうしようかなと考えていると、瀬尾が笑って提案してくれた。

「宮田くん、いつも通りに湯原くんと勉強していいよ」
「え、そう、なのか?」

どういう提案なのだろう。
良く解らないなと思っていると、ほら早くと瀬尾が促してくれる。

「いつも通りでいいから」

振返ると湯原が、黙々と資料を眺めてノートをとっていた。
静かに椅子をひいて、いつものように隣に座る。
そっと隣からノートを覗きこむと、きれいにメモがまとめられていた。
ふっと集中が途切れる気配に、ノートを指さして英二は微笑んだ。

「ここさ、質問させてよ」

黒目がちの瞳が見上げて、微笑んでくれた。

「ん、いいよ」

いつも通りの時間が流れる。
皆がいる学習室だけれど、それでも穏やかで居心地が良い。
ずっとこんなふうに、隣に座っていたいけれど、願っていいのかも解らない。

そろそろ自室へ戻ろうかと、湯原と席を立って資料を片付けた。
学習室を出ようとして、瀬尾が呼びとめてくれる。

「宮田くん、ささやかだけれど、お祝いに」
「お、さんきゅ」

絵は、きちんと画用紙で挟んでくれてあった。
開いてみようとして、部屋で見てと瀬尾が微笑んだ。

「きっとね、宮田くんの一番良い顔だと思うから」

そんなふうに瀬尾に言われて、そのまま持って湯原の部屋へ行った。
いつも通りにベッドに腰掛けて、画用紙を開けてみた。

「あ、」

ボールペンで描かれた絵。
並んで座って話している、自分と隣が描かれていた。
黒目がちの瞳が、やさしい眼差しで描かれている。それが英二には嬉しかった。

「…それ、瀬尾が描いてくれたんだ」

隣から覗きこんで、湯原が呟いた。
英二は笑って答えた。

「湯原がさ、かわいく描けていて良いよな」
「…だからはやく眼科行けって」

いつものように言われて、英二は嬉しかった。
明日は土曜日で外泊日、それも本当は嬉しい。
たぶんいつもどおり、一緒に昼を食べてから、いつものベンチに座る。
いつも同じ過ごし方、だけれどそれが嬉しい。

あと、もう2回で外泊日も終わる。
その次はもう、卒業式が終わって卒業配置も決まっているだろう。
もうじきこの隣から、遠く、離されてしまう。

だからせめて、明日の事もきちんと記憶できたらいい。
微笑んで英二は訊いてみた。

「明日の昼、何食いたい?」
「ラーメン、」
「またかよ」

いつも湯原は同じ事を言う。
本当に好きなのだろうけれど、他に思いつかないのだろう。
なんだかそれも、かわいくて好きだ。
そんなこと考えていたら、湯原が言った。

「明日は、おごるから」
「え、」

どうしてと目で訊いたら、湯原は少し睫を伏せた。
こういう時は、すこし恥ずかしい時なのだと、英二にはもう解る。
どうして?と見つめて目だけで訊いてみると、そっと湯原の唇が開いた。

「…ささやかだけど、お祝いだから」
「すげえうれしい、そういうの」

ありがとうと言って、きれいな笑顔で英二は笑った。
本当はずっと、この隣にそう言ってほしかった。
自分が生まれて来た事を、すこしでも喜んでくれるなら、幸せだと思った。

もうじき卒業式で卒業配置になる。
離れなくてはいけない、解っている、それでもこの隣は居心地が良い。
本当は離れたくなんかない、だから思ってしまう。

どうか唯ひとり、この隣にも自分を求めてほしい。





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懐深、受想―another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-18 20:35:48 | 陽はまた昇るanother,side story
※冒頭1/6と5/6あたり、念の為R18(露骨な表現はありません)

受けとめた想いが、かえていく





懐深、受想―another,side story「陽はまた昇る」

ゆっくり瞳をひらくと、あたたかな胸が頬を受けとめてくれていた。
なんだか視界がまだ定まらない、気怠さが蹲って惹きこまれそうになる。
それでも見あげると、きれいな切長い目が見つめてくれていた。

見上げて見つめられて、嬉しい。
ゆるく身じろぎをして、きれいな白い頬に頬を寄せた。
なめらかな温もりが、ふれる頬に嬉しい。今こうしている瞬間が、嬉しい。

「おはよう、」

きれいな微笑が見つめて、笑いかけてくれた。
嬉しくて、うれしくて、きれいな微笑をずっと見つめていたい。
それなのに、気怠い眠りが惹きこもうとする。
それでも、きれいな微笑みに、今の嬉しい気持ちを伝えたい。
そっと周太は唇を開いた。

「…すき、」

そっと呟いた唇で、目の前の端正な唇にふれて、微笑んだ。
もっと傍にいたい、ふれていたい。
ゆっくりなら動いてくれる腕を伸ばして、きれいな温かい体へ抱きついた。
きれいな白い、けれど逞しい肩が頼もしくて、そのまま額でふれてみる。
なんだか嬉しい。うれしくて、安らげて、穏やかさに包まれてしまう。


次に訪れた目覚めは、すっきりとしていた。
開いた瞳のすぐ前に、きれいな笑顔が待ってくれていた。

「かわいい、」

そう言って微笑んで、そっと唇で唇にふれてくれた。
恥ずかしいけれど嬉しくて、温かくて、素直に言葉もこぼれてくれる。

「きれいな笑顔が、うれしい」

「…うん。俺も、嬉しいな」

すこしだけ途惑って、けれどすぐに笑ってくれた。
なんだかほんとうに、ただ嬉しい。そしてなんだか恥ずかしい。

早くシャワーを浴びて、もうすこし頭をはっきりさせたい。
ベッドから降りようとして、気怠さに掴まれた体が崩れかけて、抱きとめられた。

「ほら、ちゃんと頼ってよ」

そんなふうに笑って、抱きとめてくれた腕が、逞しくなっていた。
前の時よりも痛くない、けれど気怠さが芯に残る体に、力が入らない。
こんなにも、甘やかされたような体が、恥ずかしい。

カーテンから射しこむ明るい光に、隣の身体が顕れる。
一か月前まで毎晩、寮の風呂で見ていた身体と違っていた。
きれいな肩が厚くなっている、背中の動きに無駄がない。
こうして隣で佇んでくれる、この身体がなんだか頼もしい。
我儘も甘えも全部が許してもらえる、そんなふうに思えてしまう。

シャワーを浴びて着替えて、鏡の前に立った。
鏡の中から見つめる瞳が、きれいに幸せそうに微笑んでいる。

これが自分の瞳だなんて。
驚いて、そっと鏡に近寄せてしまう。

これが今の自分の顔、自分の表情、自分の心。
幼い日に銃弾で壊された、幸福だった自分の笑顔。それが今、自分の顔に蘇っている。

どうしよう。どうしたらいいのだろう。
嬉しくて、うれしくて、幸せで。あたたかい。
もうじぶんはきっと、この隣から離れたら、生きてはいけない。
もう本当に、自分は孤独には戻れない。

いま頬を伝う涙のあたたかさ、きれいな笑顔が与えてくれた。
いつも隣に佇んでくれる、きれいな笑顔が、愛しい。


浴室の扉を開けると、あたたかい香ばしい空気が頬を撫でてくれる。
あの日の朝にも感じた、同じ香。
けれど今朝は、なんだかとても幸せな香だと、素直に思えてしまう。
きれいな笑顔が振り向いて、そっと抱きとめて支えてくれた。

「座って待ってて。すぐ戻るから」

そんなふうに言いながら抱え上げて、ソファへ静かに座らせてくれた。
警察学校での山岳訓練、怪我した自分を背負った背中。
あの時は、ザイルが食いこむ肩が痛々しくて、もう降ろしてと言いたかった。
けれど今はもう、こんなふうに軽々と抱き上げられてしまう。

「掌を出して、」

言って笑いかけて、あたたかな掌を重ねてくれた。
そっと掌を離されると、オレンジ色のパッケージがのせられていた。
きれいな切長い目が、すこし悪戯っぽく微笑んだ。

「のど、痛かったらさ。口に入れててよ」

言って、唇で唇にふれて、笑ってくれた。
すっきりと端正な後姿が、浴室の扉へ入っていく。
その背中は着やせしているのだと、さっきでもう知っている
たった1ヶ月なのに、この隣は、ほんとうに頼もしくなってしまった。

でも、このオレンジ色のパッケージ。
心遣いが嬉しい、けれど恥ずかしい。
恥ずかしくて周太は、そっとポケットに仕舞いこんだ。

買ってきてくれたクロワッサンと、淹れておいたコーヒーで簡単な朝食をとる。
そんなこと俺がやるのにと言いながら、宮田は嬉しそうにマグカップを受けとってくれた。

今朝はちゃんと、クロワッサンがおいしいと思える。
自分で淹れたコーヒーも、インスタントだけれど香りが心地いい。
気怠さはまだ座りこんで、なんとなく力が抜かれている。
一か月前のあの朝と、似ていて、けれど違う。

口を動かしながらつい、隣を見てしまう。
相変わらず端正な横顔は、すこしまた、大人の男になっている。
そのせいなのか、なんだか、甘えてもいいのかなと思えてしまう。
そういう想いは、面映ゆくて嬉しくて、あたたかくて幸せだ。

見つめる横顔が振り向いて、唇の端だけあげて、周太に笑いかた。

「そんなに見つめる位、俺、かっこいいかな」

あの朝もこんなこと言われて、ふざけるなと目で怒ってしまった。
けれど今朝はもう、素直な言葉しか言えそうにない。
周太はすこし微笑んで、口を開いた。

「…ん。そう、だな」

言ってやっぱり恥ずかしくて、マグカップに口をつけた。
恥ずかしい。けれどなんだか嬉しくて、幸せで、あたたかい。


田中の葬儀次第が終わる頃、小学1年生位の男の子が、宮田に駆け寄ってきた。
きっとこの子が「もう一人のしゅう」秀介なのだろう。
宮田が片膝ついて迎えて抱きしめる。こういう優しさが、好きだなと思う。

「来てくれて、ありがとう」
「おう、」

すこしだけ微笑んで、秀介は一葉の写真を宮田に渡した。
田中のカメラに遺された写真の、最後の一葉だと秀介が教えてくれた。

「これがね、りんどう」

青い凛とした姿の花が、きらめく水滴の中で咲いていた。
雲間からさす陽光に照らされて、冷たい氷雨にも清らかに咲く、瑞々しい生命。
きれいで、本当にきれいで、美しかった。

花をおおう水滴が、雨の中で撮られた写真だという事を示していた。
きっと彼は、山の氷雨に抱かれても、花の生命と山への想いを写したかったのだろう。
宮田と同じ山ヤだった男の、最期の写真。
故郷の山を愛し愛された男の想いは、この花の姿なのだろうか。

宮田がそっと瞑目した。きっとこうして、流せない涙を心に刻みつけている。
山ヤの警察官として、山ヤの写真家を見送って、その心を抱きとめようとしている。
山ヤは仲間同士を尊重しあうと、父が昔に教えてくれた。
きっと宮田もそうして、彼を尊んで、きれいな笑顔で見送ろうとしている。

「じいちゃん、すごいな。とてもきれいだ。ずっと大切にするよ、ありがとう」

きれいに笑った宮田の言葉に、秀介が笑った。
すこし大人びた幼い顔が、昔の自分と少しだけ重なる。
けれど秀介には今、宮田が笑いかけて抱きとめた。だからこの子はきっと大丈夫。そんなふうに思える。
そっと隣から写真を覗き込んで、静かに周太は言った。

「嬉しそうに咲いて、きれいだね」
「うん、」

秀介が周太を見あげて微笑んでくれた。
そして首かしげて、尋ねられた。

「宮田のお兄ちゃんの友だち?」

友だち、ではない。
この子は真直ぐで、子供だけれど立派な心を持っている。
こういう心には、嘘はつきたくない。
けれど、こんな小さな子に、なんて答えたらいいのだろう。
自分達の繋がりを、なんて言えばいいのだろう。
けれどこの隣は、きれいに笑って言ってくれた。

「俺の一番大切な人だよ」

息が止まりそうになった。
こんなふうに堂々と、きれいに笑って言ってくれる。
自分は恥じることなく、この隣に居てもいいのだと、こんなふうに伝えてくれる。
やっぱり好きだと、思ってしまう。

秀介を見ると納得した顔で「そっか」と呟いてくれる。
そして微笑んで、周太を見あげてくれた。

「お兄ちゃんも、きれいだね。りんどうみたいで僕、好きだな」

じゃあまたねと秀介は席へ戻っていった。

どうしてこんなことを、この子まで言うのだろう。
みやたもそうだけど、お姉さんもそうだった。
みやたの周りってなんだか、こういうひとがおおいのだろうか。

首筋も頬も熱くなる。
葬儀の場だというのに、どうしよう。困ってしまう。

でも、さっきの率直な言葉、本当に嬉しかった。
この隣に今その気持ちを伝えたい、見上げて周太は微笑んで言った。

「一番大切て…ありがとう、」

こんなふうに、素直でいられる事は幸せだ。
そんなふうに思う視線の真中で、きれいに宮田が笑った。

「本当の事を言っただけだろ」

帰ろうとした時、秀介がまた駆け寄ってきた。
宮田に用があるのかと思ったのに、秀介は周太の前に立った。

「はい、」

秀介が周太に差し出したのは、氷雨に咲くりんどうの写真だった。
宮田にあげたのと同じ写真、青い花は同じように輝いている。
すこし途惑って周太は、片膝をついて秀介の目を覗き込んだ。

「大切な写真なのに、俺にまで、いいの?」
「褒めてくれて、嬉しかった。じいちゃんならきっと、あげたよ」

瞳の底になにかがこみあげる。
そのひとに会ってみたかった。
この小さな掌を通して、山の美しさを語りかけてくる、そのひとに会ってみたかった。
秀介が周太に微笑んだ。

「またきてね、こんどは咲いているのを見に来て」

一葉の写真を受けとめて、周太は見つめた。
写しとられた花の姿も、写した人の心も。それを渡してくれる心も、全てがいとしいと思った。
ありがとうと言って周太は、秀介に微笑んだ。

「嬉しいよ、ずっと大切にする」

きれいに周太は微笑んで、手帳にそっと挟んで胸ポケットに納めた。

それから御嶽駅まで、ゆっくり歩いて戻った。
御岳山は、真青に晴れていた。
あわい秋の陽が、奥多摩の流れを碧に輝かせ、水に砕けてはまた輝く。

宮田が1ヶ月間、いつも見ている風景。
一昨日までは、そこにひとりの山ヤがいた。
山と故郷への想いを、宮田に話してくれていた。
きっと穏やかで優しい人だったのだろう。
きっと宮田は、その人の想いを背負って、今、歩いている。

この隣と一緒に歩く、この穏やかな空気がやさしい。
そのことが、こんなにも胸にあたたかい。
山風が前髪をゆらして、そっと撫でて駆けていく。
こんなところで穏やかに、静かに暮らして行けたなら。
この隣と寄り添って、そんなふうに幸せになれたらいい。
そっと周太は唇を開いた。

「こういう所に、生きられたらいいね」
「ああ、」

宮田が微笑んで答えてくれる。
静かで穏やかで、居心地の良い隣。
自分がこうして背負っている、辛い運命。
そんな自分をいつも、あたためて穏やかに、照らしてくれるのは、この隣。
田中の最期に写したりんどう。凍える氷雨に濡れた花を、温めるように陽光が輝かせていた。

この隣はきっと、自分の陽光になってくれる。
だから信じたい。頼って、甘えて、我儘を言って、幸せにしてと笑いかけ続けたい。

御岳からホテルに戻って、着替えた。
宮田がくれた服をおろして持ってきた。
不祝儀の時だから、寒色系かモノトーンがいいのかなと選んだ。
よく解らないけれど。
あわいブルーのストライプのシャツと、きれいな明るいグレーのスラックスを着た。
午後は風が冷たくなりそうだと言われて、濃グレーのカーディガンを羽織る。

着終わったところで隣から、全身を眺められた。
シャツのボタンを2つ目も外されて、カーディガンの袖を直された。

「袖少し長い方が、かわいいから」

そんなものかなと袖口を見る。
チャコールグレーというらしい地色。
襟と揃いで袖にも引かれたラインの、ボルドーとかいう赤紫色がきれいだった。

「でもこれだと、手が半分しか出ないけど」
「それでいいんだって」

可笑しそうに宮田が笑う。
それから長い指が前髪にふれて、微笑んだ。

「周太は前髪で雰囲気、ずいぶん変わるよな」
「ん。そう、かな?」
「あれからずっと、前髪おろしてるんだ?」
「…仕事の時は、あげている」

指摘されると、少し困る。
警察学校の校門で出会った最初の時、いきなり「かわいい」と宮田に言われた。
それが気に障って入校前、必要以上に短く前髪を切った。
似合わないと母にも指摘された、けれど好都合だとその時は思った。
警察学校に入るのに、「かわいい」と言われるのは嫌だった。

けれど外泊日にあの公園で、初めてあのベンチに座った時だった。

―お前、やっぱり前髪あるほうが、似合うよ

そんなふうに言われて、そういうものかと思えた。
それからいつも寮の部屋で、おろしたままの洗い髪は、宮田の長い指を絡ませられた。

昨夜からは、素直に言葉が出る。それでもこの事は、すこし言い難い。
そのうち言えることもあるのかな。
そんな事を考えていると、宮田が顔を覗きこんできた。

「昼飯、何食いたい?」

いつものように訊いてくれる。
少し考えて、周太はいつものように答えた。

「ラーメン」
「またかよ、」

いつものように呆れたように、けれど嬉しそうに笑ってくれた。
そうして先輩に聞いたという店に、連れて行ってくれた。

「ここもおいしいね、」

そう言って笑いかけたら、ぼんやりした宮田がずっと見つめていた。
今朝からなんだか、宮田はおかしい。
おかしいのは前からだけれど。
でもなんだか、見つめてくれる雰囲気が、変わった。

それからホテルへ戻って、気が付いたら昼寝をしていた。
また墜落睡眠をしたらしい。文庫本を持ったまま、宮田の肩に凭れていた。
なんだか警察学校の寮を想いだして、懐かしかった。
けれど見上げた切長い目の、雰囲気がやっぱりどこか違う。
どうしたと、いつもなら訊くけれど。なんだか訊けない。

夕食を買いに駅ビルへ行って、すこしだけ夜の散歩をした。
ビルのデッキから見える奥多摩の、稜線が夜空にあざやかで、きれいだった。
たぶんあの辺りかなと、宮田が指さした。

「あの高い山が、たぶん雲取山。東京の最高峰」
「訓練で登ったところだよな、」

夜空を透かして見える山、雲取山。
東京の最高峰と新宿を、宮田は電話で繋いでくれた。

―足許も暗いせいかな、下からも星が湧いてくるようでさ。宇宙に立ったかんじ

幼い頃に立った山の夜空。懐かしいあの時間と繋ぐように、宮田が電話で話してくれた。
あの山へ自分も登ってみたい。
「いつかきっと」があるのなら、あの山で夜空を見てみたい。

「大会終わったら、あの山に登ろうか」

声に隣を振り返ると、きれいな笑顔で宮田が見つめてくれていた。
どうしていつも、解ってくれるのだろう。

「なんでわかるんだ、」

嬉しくて、きっと声も顔も今、笑っている。
きれいに笑って宮田が答えた。

「なんとなく、」

言われなくても解りあえる、そういうのは幸せだ。
この隣となら、体の距離は遠くても、きっとずっと隣にいられる。
そんなふうに思うほど、この存在が嬉しくて、幸せで、好きだ。

部屋でのんびり夕食をとりながら、他愛ない話をする。
今夜もこのまま泊ってしまいそうな、宮田の様子が気になってしまう。
外出許可だと昨日、言っていた。
外出許可で2晩も外泊したら、まずいのではないだろうか。
気になって、周太は口を開いた。

「そういえば昨日、外出申請に行くって言ったよね」
「まあね、」
「…2晩も外泊して、大丈夫なのか」

そうしたら宮田が悪戯っぽく笑った。

「外出じゃなくて、外泊申請だから」

どういうことだろう。
なんだか話しが違う、途惑ってしまう。
けれど申請許可が、きちんとしていたのは良かった。
そう思っている隣で、切長い目が笑って言った。

「今度は寝顔にも会いたいから。先週、新宿で言っただろ?」

なんてこというのだろう。
確かにそう言っていた、けれど。
けれどそれじゃあまるで、宮田の罠に嵌ったようで。

「…さいしょからそのつもりだったわけ?」

言った途端に頬が熱くなっていく。
それなのに、きれいに宮田は微笑んでみせた。

「いつでも、そのつもりだけど?」

そんな、恥ずかしい。
もう今は素直になんでも言える。
けれどやっぱり、こんなふうに恥ずかしい思いをさせられたら。
すこし怒った声が出てしまう。

「やっぱりみやたはばかなんだ」

すこしキツい言い方したかなと、心配になる
それでも構わないふうに、きれいに笑った宮田が、顔を覗き込んでくる。

「どうせ馬鹿ですけど?」

きっともう顔は赤い。きれいな切長い目は、遠慮なく見つめてくる。
そんなふうに、やさしい目で見つめられたら。
恥ずかしいのに、素直に言葉がこぼれてしまう。
周太の噤んでいた唇が、遠慮がちにそっと開いた。

「…でも…うれしい、」

今たぶん、子供のころと同じ顔で笑っている。
そんなふうに求められた事、なかったから。
こんなふうに見つめられた事なかった。
今ほんとうに、嬉しくて、幸せで、素直に顔が笑ってくれる。

見つめる宮田の目が、なんだかいつもと違う。
見上げた切長い目の、雰囲気がやっぱりどこか違う。
どうしたと、いつもなら訊くけれど、さっきは訊けなかった。
でも今ならもう、素直に訊いてしまえる。

「どうした、みやた?」

訊いて周太は微笑んだ。
その視線の真中で、きれいな切長い目に、涙が浮かんだ。
どうして泣くのだろう。不思議だけれど笑ってほしくて、周太は言った。

「泣き虫みやた、」

笑って指を伸ばして、宮田の目許をふいてやろうとした。
その指を、きれいな長い指がそっと絡め取ってしまう。
そのまま、宮田に抱きしめられた。

その後は、どうなったのだろう。
なんだかよく、わからない。

気がついた時にはもう、素肌を白い肌で包まれていた。
いつのまに、どうしてと、途惑うけれど逃げられない。

ふれられる掌が、昨夜よりも熱い。
唇でふれられていく身体中が、熱い。
見つめてくる瞳が昨夜とも違って、不思議で、熱い。
抜かれていく力、初めて与えられる熱さ。自由を奪われていく、怖い。
「待って」と言いたいのに、零される声は、言葉になってくれない。

けれど、温もりは穏やかで、嬉しくて。
やさしく甘やかされるような感覚に、なんども浚われてしまう。
この強い腕に掴まれたまま、拒むことも、逃げることも、出来ない。

どうしたらいいのか、わからない。
けれどきっとこの腕は、自分をずっと幸せにしてくれる。
もうわからなくても、ただ信じていれば、それでいいのかもしれない。


額にふれた静かな温もりで、目が覚まされた。
ゆっくり開いた視界の中で、きれいな切長い目が笑ってくれた。
けれど少しだけ困ったように、悲しそうで、不思議だった。

パンとコーヒーの簡単な朝食は、温かかった。
今朝もちゃんと、おいしいなと思える。

昨日よりも気怠い。なぜかその分だけ、幸せが温かい。
ずっとこのまま隣に座っていたい。

けれどやるべき事がある。
やるべき事を果たして、そうして強くなりたい。
きれいな笑顔の隣に、胸はって佇めるように、強くなりたい。

7時前、新宿へ向かう電車にスーツ姿で乗った。
扉の向こうへ行く前に、周太は宮田に微笑んだ。

「無事で、また俺のところへ帰ってきて」
「必ず帰るよ、周太の隣だけだから」

別れ際そう言って、きれいな笑顔で宮田は笑ってくれた。
きれいに笑って、唇で唇にふれて、そっと離れた。


術科センターの訓練が終わって、寮へ戻ると昼過ぎだった。
携行品を保管へ預けて、活動服から着替えた。
なんとなく、昨日着たのと同じ服を着た。
それからパン屋へ寄って、公園へ行って、いつものベンチで本を読んだ。

当番勤務を交替してくれた先輩を、食堂で探して礼を述べた。
その後、すれ違った佐藤に、ネクタイ買えたかと微笑んで訊かれた。
それからトレイを受け取ったら、ちょうど深堀がいた。

いつものように一緒に夕食をとりながら、他愛ない話をする。
深堀の勤務する百人町交番は、本当に多国籍な案件が多い。

「道案内を訊いた人がね、3ヶ国語とり混ぜて話すんだよ」
「何語?」
「英語とフランス語と日本語。カナダの人だってさ」

人の好い笑顔で深堀が話してくれる。
きっと深堀に訊いたその人は、無事に目的地へ行けたのだろう。
楽しいなと聞きながら、生姜焼きに箸をつけた。
宮田これ好きだったな。ふとそんなことを思ってしまう。
電話何時にくれるのかなと、考えていたら深堀が言った。

「湯原の外泊って宮田のところ?」

箸から生姜焼きを落としてしまった。
けれど落ちた先が丼飯で、よかったなと周太は微笑んだ。
けれどなぜ深堀は、そんなこと言うのだろう。
なんて答えようかと思っていたら、深堀が笑ってくれた。

「湯原は宮田といると良い顔になるから、一緒に呑んだのかなと思って」
「…ん。そうだよ」

確かに一緒に呑んできた。その通りだなと思って、正直に周太は頷いた。
けれど「良い顔になる」なんて。
恥ずかしいけれど、嬉しい。
でもそれを今、素直に顔に出す事は、さすがに難しい。


風呂も済んだ自室のデスクで、手帳を開いてみた。
秀介が渡してくれた、りんどうの写真。
淡いデスクライトに照らされても、瑞々しい凛とした姿は、きれいだった。
太陽の下で、いつか見てみたい。

そんなふうに眺めていると、宮田が電話を繋いでくれた。
あの後に、雲取山へ行ったと言われて、驚いた。

「疲れとか、体は大丈夫なのか」
「逆だよ。周太のお蔭で元気の補給できたから」

そんなこと、さらっと言わないで欲しい。
言葉が出てこなくなって、熱くなる頬を持て余してしまう。
けれど電話の向こうの気配は、微笑んでくれた。

「連れて行きたい場所と、今日は出会えたよ」
「どんなところ?」
「後藤副隊長が、教えてくれた場所なんだ」

ゆっくり宮田が話してくれた。
尾根に抱かれた小さな草地に佇む、一本のブナの巨樹。

「掌で幹にふれると、表皮の奥には温もりが感じられる。
 耳を幹へとつけると、かすかだけれど、水の音が聴こえたよ」

「すごいね、」

聞いていて、そっとため息が出る。
宮田が今いる場所は、本当に、きれいだ。
田中の葬儀で見かけた人達も、きれいな瞳をしていた。
田中がうらやましいと、周太は憧れてしまった。
ああいう所で生きて、大切な場所に抱かれて眠りにつけるなら。

そっと宮田が話してくれる。

「ブナは、山の水を抱く木なんだ」

ブナに抱かれた水が、伏流水となって山清水になる
誰に知られず、ただ水を抱いて、たくさんの生命に寄り添って佇んでいる。

「ブナはさ、どんな水も抱いて清水へ湧かせる。俺もそんなふうに、出会う人を笑顔にできたらいい」

本当に、そんなふうに生きられたらいい。
でもきっと、宮田になら出来るだろう。
静かに周太は言った。

「宮田はもう、俺を笑顔にしているから。だからきっと、そんなふうに生きられる」
「そうか、」

ありがとうと宮田が笑ってくれる。
このきれいな笑顔が、嬉しい。どうかずっと隣にいてほしい。

そうだと言って、宮田が続けた。

「藤岡がさ、俺と周太は、なんか似合うって言うんだよ」
「…そう?」

似合うとか嬉しいと、素直に思ってしまう。
でもそんなふうに言われるのは恥ずかしい。
そんなことを思っていると、宮田が笑って言った。

「なんかさ、教場のみんなそう思っているってさ」

あっというまに首筋が熱くなる。
どうしてそういうことをみんなしていうのだろう。

恥ずかしい、けれどやっぱり嬉しい。
きれいな笑顔の、この隣。似合うって言われるのは、幸せだと思う。
どうかずっと隣で、笑っていてほしい。
そうしていつか。
もし「いつか」があるのなら、この隣が生きる美しい場所で、生きていきたい。







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山懐、水廻―side story「陽はまた昇る」

2011-10-18 00:56:55 | 陽はまた昇るside story

享受して廻る





山懐、水廻―side story「陽はまた昇る」


翌朝は、英二は寝不足だった。けれど落着いて、疲れもない。
一晩中ずっと、腕の中の寝顔を見つめていた。
やわらかな鼓動とふれる温もりを、ずっと素肌ごと抱きしめていた。

今日の周太は非番だが、特練の為に早く出る予定だった。だから昨夜は、ゆっくり休ませるつもりだった。
けれど、気付いた時には、肌で肌にふれていた。

快活で明るくて繊細な、幼い頃の周太の笑顔―ずっとあんなふうに笑ってほしかった。
アルバムを見たあの時からずっと、あんな笑顔を見つめて、抱きしめたいと願っていた。

昨夜の笑顔は、想っていた以上に嬉しかった。
あんな顔されて、あんなふうに素直な言葉をかけられて、諦められなくなった。
疲れさせると意識の片隅で思いながら、止められなかった。

どうか許して欲しい。
懐にとじこめた寝顔を、そっと見つめる。
見つめる寝顔は、涙の痕があるけれど幸せそうで、幸福な疲れのなかで安らかだった。

もうじき離れなくてはいけない、けれど心はもう絶対に離さない。
そんなふうに思いながら、眠る額に静かに唇でふれた。

簡素な朝食の後、周太は新宿へ向かう電車に乗った。
10時頃までには術科センターへ行かなくてはいけない。

「無事で、また俺のところへ帰ってきて」

別れ際そう言って笑ってくれた。
必ず帰ると約束して、笑ってくれた唇に唇でふれて、離れた。


寮の自室へ戻ると、時計は7時過ぎだった。
昨夜は眠っていないが、頭は冴えて疲れも無い。
昨日の昼寝と、二晩を共にした隣のおかげだなと思った。

登山服に英二は着替えた。
いつもセットしてあるザックに、途中で買ってきた握飯と、水を補充した水筒を入れる。
雲取山の日原林道から野陣尾根を歩いてみたかった。

奥多摩交番へ8時半に到着した。
電車内で記入してきた登山計画書を提出すると、訓練で一緒だった畠中が受け付けてくれた。
野陣尾根経由で小雲取山まで往復するコースにしてある。急峻なコースがトレーニングに良いだろうと選んだ。
本当は頂上まで登りたいが、寝不足気味の無理を避けることにした。

「宮田くん、初単独?」
「はい、」

コースチェックをして、大丈夫だろうと畠中は笑った。
ちょうど来ていた後藤副隊長が、唐松谷から野陣尾根にはブナの原生林があると教えてくれた。
あの辺りは急斜面でキツイが、ブナはいいぞと笑って言った。

「ブナは山の水を抱いて立つ木なんだ。ブナに抱かれた水が、伏流水となって山清水になる」

木篇に無いと書くのは、建材として不向きだからと英二も聴いた事があった。
けれどブナは、水を抱いて立っている。

「水がないと、山は枯れる。そして人も枯れるだろう?」

そんなふうに後藤が笑った。
おい地図を出せと言われて広げると、ある一点を指さしてくれた。

気をつけて帰って来いと送り出されて、奥多摩駅から東日原までバスに乗った。
本当は登山口まで歩きたかったが、スタートが少し遅い。往路だけでも時間を切り上げた。
30分程乗ってバスを降り、日原集落の水場ですこし給水した。
軟らかな水が、喉にやさしい。この水を抱いているブナに、会ってみたいと英二は思った。

小川谷橋の分岐を左折して、延々と続く林道を進む。アスファルトの道はすぐに砂利道に変わった。
閑散とした林道を時折、釣り客らしき車が往来する。
「林業関係車以外侵入禁止」とあるけれど、実際は道に駐車スペースと入漁券案内の看板もある。
こんなのんびりしたところが、ここはいい。看板を眺めながら英二は微笑んだ。

この道沿いは東京の水源の森だと、訓練の時に後藤が教えてくれた。
原生林をコアにした広葉樹の森には「巨木探訪コース」の案内板も立てられている。
実家のある世田谷にも、ここの水が届く。新宿にいる周太の元にも届くのだろう。
2時間ほど前には一緒にいたのに、もうあの隣が恋しかった。

天祖山側から流れ込む小さな沢の、水音が涼しい。
訓練の時より深まった葉色の林道は、錦繍の時を迎える仕度を感じさせた。

―11月の中旬にはまさに、錦繍の紅葉になるよ
 あざやかな赤や黄色と常緑樹の濃緑の、コントラストがほんとうに美しい
 目の覚めるような、秋なんだ

ここを愛する後藤が言う通りの、光景になるのだろう。
それをあの隣に見せてあげたい。そうして昨日と今朝のように笑ってほしい。

唐松谷林道分岐点に10時半に着いた。一般のペースより30分ほど早い。
けれどこれも、今の歩きやすい気象条件でのペースに過ぎない。これから迎える雪山では、足取りがはるかに落ちる。
御岳山での夜、もし自分がもう少し早く、田中を発見できていたら。
もっと上手く山を歩けるようになりたい。そう思いながら野陣尾根へと入っていった。

急な道を時にはジグザグに、時にはまっすぐ登って行く。
斜度が緩くなる場所はほとんど無く、予想通りに厳しい。
急な標高の変化に、訓練の時は呼吸があがり苦しかった。
あれから一週間だが、だいぶ楽になっている。
毎日の御岳山巡回が自分を強くしてくれている、それが足許から解る。
その御岳山で背負った、あの山ヤの生涯の終わりを、今もきっと背負って歩いている。

林の中をひたすら道が続く。梢からふる陽光が、踏みしめていく道に明滅して輝いていた。
踏み跡が分かりにくい場所には赤テープがある。それらが外れていないか、確認しながら英二は歩いた。
雪山になれば、もっと道は判り難くなる。こういう目印が、山を登る人の安全を守ってくれる。

時々に蜘蛛の巣をみつけ、そっと避けて通る。
日々ここで営んでいる、そういう存在の邪魔をしたくなかった。
田中の写真に見た山の生命の輝きは、教えられなければ英二には気付けない。そういう姿も多かった。
この蜘蛛の巣もきっと、田中のファインダーなら美しい輝きを見せるのだろう。

今はまだ難しいけれど、そういう美しさを田中のように、自分も見つけていきたい。
背中で送った生命の重みと尊さを、田中の眼差しを自分も備えることで覚えていたい。
美しい人生の最後を背負わせてもらった、その責任と感謝を、そんなふうに示していけたらいい。
そんなふうに思いながら、英二は歩いた。

小雲取山頂に着いたのは正午だった。標高1,937m、急に見晴らしが良くなる。
富士山が美しかった。
あわく青く佇む姿が優雅で、秋の穏やかな空気にすこし霞んで見えた。

さっさと握飯を水で飲みこんで、チェーンでベルトと繋いだ携帯を取り出す。
孤峰へとファインダーを向けて、一枚撮った。
富士山と周太を似ていると、訓練の日に思った。単独峰として凛として聳える姿が、孤独にも端正な姿と重なった。

けれど今はもう、周太には自分が寄り添っている。
この二晩で、周太の表情は変わった。

帰路も往路と同じ道を辿る。登りと下りの感覚の差を確認してみたかった。
岩崎から聴き、御岳山でも感じるように、眺める視界の印象が違う。
試してみて良かったと英二は微笑んだ。

野陣尾根の下部、唐松谷分岐近くへと14時前に着いた。
足が山に慣れて往路より大分早い、膝の運びも良くなった。持久力もこの1カ月で随分ついたかなと思う。
英二は地図を取出した。後藤が指さしたポイントが、この近くにある。
一見判らないような細い作業道が、原生林の奥へ伸びている。そこへと英二は踏み込んだ。

視界がひらいて、あわい緑の空間がそこにあった。
急斜面の尾根道近くなのに、8畳ほどの平らな草地になっている。
切株が3つ、倒木が1幹横たわっている。どれからも芽が生え、生きていると示してくれる。

草地の真ん中に、一本の巨樹が佇んでいた。
青い空へとゆるやかに伸ばした梢が、あわい黄金に煙っている。
ブナの木だった。

「きれいだ、」

見上げて、想った言葉が零れた。こんな立派な木を、英二は初めて見た。

見上げる額に頬に肩に、あわい黄金の木洩日が降りかかる。
森閑とした穏やかな香と、時折聞こえる鹿の声が、静かだった。

そっと掌で幹にふれると、ひんやりとした表皮の感触の、奥には温もりが感じらる。
静かに耳を幹へとつけてみる。瞑目すると、かすかな水の流れる音を感じた。

―ブナは山の水を抱いて立つ木なんだ。ブナに抱かれた水が、伏流水となって山清水になる
 水がないと、山は枯れる。そして人も枯れるだろう?

後藤の言葉がゆっくりと思いだされる。

英二は水筒を取出して、一口飲んで、ブナを見あげた。
この水はさっき、日原の集落で汲んだ水が混じっている。
この水は、きっと、このブナが抱いていた水だと思えた。

そんな想いにそっと畏敬の念が湧く。

ふと足許に水気を感じて、根元を見た。
先日の氷雨がまだ、枯葉に積って残っている。
田中の最期をみとった氷雨。けれどその氷雨すらもブナに抱かれて、伏流水になって清水として湧く。
その水を誰かが飲んで生きていく。今、自分が飲んだように。

見上げる梢は、あわい黄金が青空に輝いていた。
ブナの生きている輝きが、太陽に光る葉にあざやかに翻って見える。
田中なら、どんな写真に撮って見せてくれたのだろう。

あわく苔の緑がいろどる幹が、ブナの経年を示している。
そっと英二がふれると、苔はさらりと地面に落ちた。
このブナはずっとこうして、誰に知られることも無く佇んで、水を抱いてきたのだろう。
誰に知られることもなく、ただ水を抱いて、たくさんの生命に寄り添って立っている。
穏やかに静かに、そっと多くに佇んで、生きている。

自分もこのブナのように、そっと佇んで、笑顔で受けとめたい。
そんなふうに素直に、英二は思えた。

山ヤの警察官として生き始めた、この1カ月。
いくつかの死と生に出会った。その度にいつも思うことがある。

―必ずいつも最後には、笑顔で受けとめていきたい―

どんな生も死も、そこにある想いを、笑顔で受けとめられたらいい。
そうして、あの隣をも、ずっと幸せな笑顔でいさせてあげたい。

もっと強くなって、どんな辛いことも必ず、笑顔に変えてしまいたい。
どんな水も抱いて、清水へと湧かせるブナ。そんなふうに、何もかも笑顔にできたらいい。
そんなふうに生きられたらいい。

英二の眼の底に生まれた熱が、頬伝って山の土へと落ちた。


奥多摩交番に16時半前に戻り、明るいうちに下山報告が出来た。
後藤がまた湯呑を2つ並べて、電車の時間まで飲んで行けと笑ってくれた。
温かい茶が、ほっと肩の息を抜いてくれる。

「気に入ったかい?」

目を細めて後藤が訊いてくれる。
はいと答えて、きれいに英二は笑った。

「あそこはね、かみさんとの場所だったんだ」

懐かしそうに後藤が微笑んだ。
だった―言葉の最期が英二の胸をかすかに引っ掻く。
けれど後藤は明るい表情のままで、教えてくれた。

「少し胸が弱かったんだ。3年になるかな、いい顔のままで見送ってやれた」

「きっと、素敵な女性ですね」

きれいに英二は微笑んだ。
そりゃあいい女だったと、嬉しそうに後藤は笑って言った。

「思い出話に、つきあってくれるかい」

そう言って2階の休憩室へと上げてくれた。
俺も勤務明けだといいながら、ウィスキーのグラスを2つ並べる。
ついでくれた酒は、ミズナラの香りがした。

「転地療養で奥多摩に来た彼女と、そこの橋で出会ったんだ。藤の花の季節だった」

高卒で警察官になり、山岳経験の豊富だった後藤は、奥多摩交番へ配属になった。
その巡回中に出会い、ふたりは結婚した。
それから30年、楽しかったよ。そう言って笑って、後藤はグラスを啜った。

「あのブナはな、かみさんを最初に山へ連れていった時、見つけたんだ。それからたまに、ふたりであそこで座ったよ」

明るいけれど、どこか透明さを含ませながら、後藤は話してくれた。

「けれどもう俺は行かない。だから誰かに座って欲しかった」

娘は山へ行かないからと笑ってくれた。
今は娘夫婦と孫と、後藤は暮らしている。今の幸せが明るい表情に見えて、英二はなんだか安心した。
でもなぜと、英二は訊いてみた。

「でも、なぜ、私に教えてくれたのですか」

そうだなと微笑んで、後藤は口を開いた。

「救助隊員に必要なことは、なんだと思う?」

質問で返されて、すこしだけ英二は途惑った。
けれど自分は、ただ率直に応える事しか出来ない。少し考えて答えた。

「田中さんが亡くなった夜の御岳山で、私は一度だけ心が折れそうになりました」
「うむ、」

後藤の目が少し細くなった。
真剣に聴いてくれている、その気配が嬉しいと思いながら英二は続けた。

「焦りに足許を崩されかけて、自分の経験不足を思い知りました。
 経験のない自分がここへ配属希望を出してしまった、その重みに心が折れかけました」

「どうやって焦りを立て直せた?」

静かに後藤が訊いてくれた。
ちょっと笑って、英二は胸ポケットからオレンジ色のパッケージを取出した。
それを見て後藤が微笑んだ。

「雲取山でも見たね、この飴」
「はい、同じものです」

―さっき、子供の口に飴いれてやったろう。あれはどうしてだい?
―自分が泣いていた時、ああして涙を止めてもらったんです

先週の雲取山の訓練の後、今日のように交番で茶を啜りながら話した。
後藤の目を真直ぐ見て、英二は話した。

「焦りが苦しい。その時に思いだせて、この飴を口に含みました。その時この飴を好きな人の笑顔を想いだせました」
「ふん、」
「その笑顔にまた会いたい、そう思った時に落着けました」

英二をまっすぐ見たまま、後藤が訊いた。

「それは宮田君の、大切な人かい?」
「はい、」

きれいな笑顔で英二は答えた。
そうかと後藤は嬉しそうに笑って、言ってくれた。

「大切な人がいる奴は救助隊員には向いている。
その人に会いたくって必ず生還しようとする、その生きたいという救助隊員の気持が、遭難者をも救うんだ」

きっと後藤も、亡くなった妻に会いたくていつも、生きていたのだろう。
今はその妻が遺した娘と、その家族の為に生きている。
そういう後藤の生き方は、いいなと英二は思った。
穏やかに微笑んで後藤が言った。

「大切な人がいる。そういう奴に、あのブナを譲りたかったんだ」

大切にしてくれよと言って、後藤はウィスキーを啜った。
嬉しいと素直に思う。
きれいな笑顔で、英二は笑った。

「ありがとうございます。ずっと、大切にします」

やっぱりこのひと好きだな。
英二はそういう後藤が、自分を認めてくれることが嬉しかった。
すこしでも早く、少しでも近く、この背中に追いつけたらいい。そんなふうに思いながら、青梅署の寮へ戻った。

寮に戻って風呂に入って、少し転寝すると夕飯の時間だった。
だいぶ腹が減っている。食堂のおばさんから大盛の丼飯を受け取っていると、国村と藤岡がやってきた。
三人一緒に座って、話しながら食事を始めた。

「白妙橋の岩場の訓練、明後日だよな」
「岩場は初なんだ、俺」

いつものように、箸を動かしながらの会話が楽しい。
高卒の国村は、生まれ年を言いあうと英二や藤岡と同じ年だった。
「遠慮されて話すの、疲れるからね」そんなふうに言って、タメぐちでと提案された。

青梅署は山の経験者が原則は配属される為、少し年上が多い。
同じ年頃の同僚は、今まで国村にはいなかった。
「二人が来てくれて楽しいよ」そんなことを言ってくれる。

角煮を箸で切りながら国村が教えてくれた。

「明後日はね、救助者を背負ってのザイル下降とかやるよ」

ザイル下降は警察学校の山岳訓練を思い出させる。あの時に周太を背負って、崖を登った。
あの事がきっかけで、自分は今ここにいる。
いまごろは向こうも夕飯かなと考えていると、藤岡がふうんと顔を見てくる。

「宮田なんかいいことあった?」
「そうだな、」

英二が微笑むと、へえと藤岡が感心したような顔になった。

「宮田、なんか良い笑顔だなあ」
「惚れそう?」

笑って英二が返すと、あははと明るく藤岡は笑った。からっとした雰囲気が藤岡はいい。
いいことなんかありすぎると、英二は思う。

この奥多摩まで周太が会いに来てくれた。「宮田の大切なひとを、一緒に見送らせて」そういって来てくれた。
抱きしめて黙って泣かせてくれて、その後は抱きしめさせてくれた。
一緒に目覚めて、葬儀に参列して食事した。

昨夜は何度も抱きしめた。抱きしめた分だけ幸せで、いとしさが募った。
そして約束をした。警察官の自分達に約束は難しい、それでもあの隣とは約束する。
全部叶えて幸せにしたいと願う。

今度会う時、周太はどの服を着てくるのかな。
海苔の袋を破きながら考えていると、藤岡が口を開いた。

「湯原と一緒だった?」

ばりんと破けた袋から海苔が飛び散る。
前に座っていた藤岡の丼飯が海苔ご飯になった。それを見て国村が笑う。

「…うわ、ごめん藤岡」

海苔ご飯も好きだけどさと藤岡は笑ってくれた。
藤岡はこんなふうに鋭い。こんなふうに意表を突かれて、水を2度ほど噴かされた。
海苔を片付けながら、何と答えようかなと考えていると、藤岡が笑った。

「さっき風呂の前でさ、宮田と会ったろ。なんか湯原の匂いがしたんだよな」

勘違いだったら悪いなと、藤岡は海苔ご飯を口に入れた。
そういえばさっき、今日は非番だという藤岡と浴場の前で会った。
けれどなぜ藤岡が周太の香を知っているのだろう、英二は訊いてみた。

「なんで藤岡、湯原の匂いとか知ってんの」
「逮捕術の時にさ、何度か組んでるから」

あいつ強いよなと藤岡が笑った。
周太は強いから、柔道経験者の藤岡と組むことも多かった。
それで知っているのかと納得して、ちょっと英二は安心した。
どんな匂いだと感じたのだろう、英二が訊いてみると少し考えて、藤岡が言った。

「穏やかでさ、ちょっと爽やかな感じかな」

こんなふうに藤岡が言うのは意外だった。
体育会系な男なのに繊細な表現をする。人って意外な面があるなと英二はちょっと可笑しかった。
とりあえず、藤岡の問いに答えないと悪いだろう。

「湯原、元気だったよ」

そうかあと藤岡は、漬物を口に放り込んで、何気なく言った。

「宮田はさ、湯原といると良い顔になるんだよな」

またあやうく水を噴きかけた。水を飲みこんだ後で良かったなと思いながら、英二は訊いた。

「そうかな、」

うんと頷いて藤岡がさらっと言った。

「たぶん、教場のみんなそう思ってるよ」

皆そんなふうに見ていたのかと、ちょっと英二は驚いた。
けれど、なんでもない事だという顔で、藤岡が続けた。

「なんか似合うんだよな、宮田と湯原は」
「そう?」

似合うとか嬉しい、素直に英二は思った。
けれど教場の皆から、そんなふうに思われていたのは驚く。けれどまあ、悪くない。
確かにいつも一緒にいたし、自分は周太ばかり見ていた。そう思われても仕方ないなと思う。
けれどこれを知ったら、あの隣は真っ赤になるだろう。

食事に口を動かしながら聴いていた国村が、箸を置いて口を開いた。

「雲取山の電話、」

一言だけ言って、唇の端を少しあげて笑った。
雲取山訓練の夜、山荘で電話の繋がる場所を国村が教えてくれた。
休憩の度に携帯確認していた英二を見て、電話やメールしたい人いるのだろうと声をかけた。
そのとき訊かれてしまった。

 ―どんなひとか訊いていい?
 ―瞳がきれいで、すぐ赤くなる位に純情で、笑顔が最高にかわいい。誰より大切で好きな人です

たぶん国村の事だから勘付いたのだろう。
黙ったままで英二は、きれいに笑って国村を見た。国村も目を和ませて言った。

「そういうの良いよね」

俺そろそろ電話の時間だから。
そう言って国村は、また明日と席を立って行った。

藤岡が首かしげながら、英二に尋ねた。

「雲取山って携帯、繋がらなかったよな」
「まあね、」

それだけ言って英二は微笑んだ。


もう一度風呂に行って、今度はゆっくり浴槽に浸かった。
予定外の登山の疲れを、きちんと抜いておきたかった。
ふと見た自分の肩が一カ月前よりも厚い。まだ一カ月なのに、随分と逞しくなっている。
いい一か月だったなと、英二は微笑んだ。

部屋のライトを消すと、カーテンを開けた。
ふるような星空が山の稜線まで降りてくる。
この星空を昨夜と一昨夜、あの隣で見られて幸せだった。

あのブナの木を、あの隣に見せてあげたい。
そんなことを考えながら、携帯電話の発信ボタンを押した。





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山懐、受想―side story「陽はまた昇る」

2011-10-17 21:30:06 | 陽はまた昇るside story
※念の為中盤(2/4~3/4)R18(露骨な表現はありません)
受けとめて、抱きしめて、




山懐、受想―side story「陽はまた昇る」

「宮田、」

懐かしい声を聴いた。

幻を自分は聴いているのだろうか。
会いたい想いが、こんなふうに声を造り出すのだろうか。
ゆっくりと上げた視線の先に、懐かしい姿がブラックスーツを纏って立っている。
黒目がちの瞳が、穏やかで繊細で、強い。

「…周太?」

呼び声に微笑んで、静かに隣に立って、見上げてくれる。

「明日、田中さんの葬式に俺も参列させて」

どうしてなぜ今、ここに周太がいるのだろう。
あいたい想いがつくってしまった、幻じゃないかと思う。
けれどこの、ブラックスーツ姿の男は、穏やかで爽やかな懐かしい香に佇んでいる。
どうして自分が、この隣を見間違えるだろう。

けれどどうして、周太は明日だって警察官としての任務がある。
明日は当番勤務で、午前中は自主トレーニングだってあるはずだ。
どちらも、警察官として生きることを選んだ周太の、目的に必要なこと。
それなのにどうして、警察官の生き方を捨てられない男が、ここにこうして居るのだろう。

すこし周太は微笑んで言った。

「宮田の大切なひとを、俺にも見送らせて欲しい」

昨夜の電話、繋げてくれた。
昨夜の御岳山で、英二が背負った重みを、受けとめて一晩を過ごしてくれた。
そして今こうして、背負ったものを分け持とうと、来てくれた。

警察官として生きることより、英二の痛みを選んで、こうしてここに来てくれた。
その想いが、あたたかい。嬉しくて、きれいな笑顔で英二は笑った。

「ありがとう、」
「ん、」

黒目がちの瞳が微笑んだ。
ああこんなときでも、この隣の笑顔が嬉しい。
突然だったけれど、こうして会えれば嬉しくて、この一瞬が全てだと思ってしまう。

「周太、宿は?」
「駅の北口すぐ、かな」

メモを見せてと受け取ると、青梅署と同じ方だった。
ホテルのフロントで、チェックイン手続きを代りに済ませてやる。
外泊は卒業式の夜が初めてだった周太には、こういう事が不慣れだった。
カードキーを周太に手渡すと、英二はいったん青梅署に戻った。
担当窓口に行って、申請書を書く。

「外泊だね、今日、明日」

担当者が確認してくれる。場所がすぐそこだねと笑われて、同期が来ているんですと、正直に英二は答えた。
自室に戻ってブラックスーツのジャケットを脱ぐと、さっと風呂を済ませて着替えた。
脱いだばかりの黒いスーツと、新しい白ワイシャツとブラックタイ。その他も納めたケースを持つと廊下に出た。
出た所で、藤岡とばったり会ってしまった。
今からの行く先が少し気まずいなと思っていると、藤岡が少し沈痛な顔で言った。

「昨夜の事、聞いたよ」

藤岡も通夜に行ってきたのだろう、黒いスーツ姿だった。
やっぱり藤岡はいい奴だ、そんなことを思いながら英二は微笑んだ。

「山ヤが山で死ぬだけだ、それが山ヤの本望だ。田中さんは、そう言ってくれたよ」
「そうか、」

いい言葉だなと藤岡は笑ってくれた。
藤岡も同じ山ヤ仲間なのだなと、なんだか英二は嬉しかった。

ホテルのフロントで、周太の部屋番号を告げて、自分の分の料金支払を済ませた。
ついさっき、周太のチェックインに立ち会ったから、直ぐに対応してもらえた。
フロントとの会話で、さりげなく自分も泊る事を告げたから、担当も待っていた様子だった。
けれど周太はこんなこと、知らないし気付きもしないだろう。
我ながら要領がいいなと、少し可笑しかった。

扉が開かれると、ライトを落とした部屋の窓から、星がふるように輝いていた。
窓がすこし開いている。ぼんやり風に当たって眺めていたのだろう。
微笑んだ周太の頬にそっとふれると、少し冷たかった。

「山の傍に来たな、って、なんか嬉しいんだ」

いつもの白いシャツ姿が、いとしいと思った。
自分がおくった白いシャツ、約束通り着てくれている。
あの夜と重なって、英二の心が不思議な鼓動を一泊打った。
あたたかい緊張が面映ゆくて、手を動かしたくなって、紙袋をサイドテーブルに置いた
クラブサンドと缶ビールをサイドテーブルに並べて、英二は隣を振返った。

「一緒に食って、」
「ん、」

微笑んで隣に座ってくれた。
その微笑がきれいで、嬉しくて、英二の心が凪いでいく。
やっぱりこの隣は、穏やかで静かで居心地がいい。好きだと思ってしまう。
ソファに並んで座って食べながら、ゆっくり英二は話した。

昨夜亡くなった、山を美しく愛したひとりの山ヤ。
愛する場所で静かに生きて、静かにその場所の土へ還っていく。
生命の輝きを写し続けた彼の、生きることへの尊崇を、もっと聴いてみたかった。
そういう生き方をした人間に、周太も会わせてやりたかった。

すこしビールを啜って、きれいに英二は微笑んだ。

「山ヤが山で死ぬだけだ、それが山ヤの本望だ。そんなふうに言っていたそうだ」

静かに聴いていた周太の唇がそっと開いた。

「大切な場所に抱きとめられて、そんなふうに終われたら、幸せだと思う」

御岳を愛し、愛されていた、ひとりの山ヤ。
その美しい生き方の終わる瞬間を、自分は背負わせてもらった。
その重みと尊さが、眼の底に熱を生む。
ふるえそうになる唇を、英二は開いた。

「あの時、背負っていた背が、がくんと軽くなった。
命には重みがある事が、あの瞬間に、教えられた。あの重みを、俺は、ずっと、覚えていたい」

―泣いてはいけない。警察官の自分は、遺族の前で泣いてはいけない。
そう思って昨日も今日も耐えて来た。
そうして、田中も彼の遺族も、笑顔で受けとめていたかった。
警察官の山ヤとしての誇りをもって、山ヤの仲間を抱きとめていたかった。

でも今は、周太の隣に英二はいる。
ただひとりの周太の隣として、座っている。
この隣の穏やかな静けさに、ひとりの人間として心がほどかれて、泣きたくなる。

ぎこちない腕が、そっと英二の頭を抱きしめた。

「泣けよ、みやた」

白いシャツの胸をまた、ハンカチ代わりに差し出してくれる。
背中に掌を回して、強く抱きしめる。その小柄な背中が、いとしい。
頬に額にふれる温もりが、穏やかで静かで、いとおしい。
涙に透ける布越しの、肌の感触が、いとおしい。

ぽつりと髪におちかかる雫が、この隣の心を伝えてくれる。
この隣が、好きだ。ここだけが自分の居場所、そう思えて離れられない。

しばらく泣いて周太を見あげた。伝えておきたい事がある。
きれいに微笑んで、英二はそっと口を開いた。

「秀介を抱きしめて泣かせた時、俺は想った。幼い周太も、抱きしめて、泣かせてやりたかった」

甘えて、頼って、我儘を言ってほしい。
その唇も、こころも、そっと開いて自分を見つめて欲しい。
どうかお願い、自分だけを見つめて、自分だけの隣になって欲しい。

周太の唇が、静かに開かれた。

「お願い、今…」

言おうとする言葉は、もう解る。
そっと唇で唇にふれて、続けようとした言葉を、そのまま飲みこんだ。
隣の心を全て飲みこんで、自分のものにしてしまいたい。
英二は微笑んで、隣に言った。

「俺が抱きしめている。だから今、俺の胸で泣いてよ」

真直ぐ黒目がちの瞳がみつめてくれる。
きれいに英二は笑った。

「13年、遅くなってごめん。でも俺は隣に来た、だから泣いて甘えてよ」

どうかお願い、心を開いて欲しい。
全部を自分に受けとめさせて、ほどいた心ごと抱きしめさせて。
そんなふうに祈りながら、きれいな笑顔で英二は言った。

「俺を頼って、甘えて」

周太をそっと静かに抱きしめていく。
抱きとめる温もり、やわらかな鼓動、頬ふれる髪のやわらかさ。
全てが嬉しくて、あたたかくて穏やかで、幸せに充たされてしまう。

胸元にあたたかな感触が沁みてくる。
このきれいな隣は、涙を零してくれている。
そうしてずっと、この胸で、全てを受け止めさせて欲しい。

どうか孤独になんて戻らないで、もうどこにも逃げないで。
このまま全て浚って、無理やりでも掴まえてしまいたい。

どこかいつも遠慮がちな、この隣。
けれど今のこの時なら。
いつも言えないだろう我儘も、今ならきっと言えるはず。
どうか全部すべてを告げて、自分を求めていると告げて欲しい。

涙を瞳に溜めたままで、隣は英二を真直ぐ見あげた。

「…このシャツ、卸したてなんだ」

きれいな黒目がちの瞳が、英二を見つめている。
恥ずかしい、怖い、不安、そんな気持ちが伝わってくる。
けれどどうか、言葉にして今は聴かせて欲しい。
いつもなら解っているよと言うけれど、今は、その唇から告げて欲しい。
自分を求めてくれていると告げて、その心開いて、自ら望んで掴まえられに来て。

英二の願いが伝わるように、周太の唇が開かれる。

「約束通り…シャツ着て、会いにきた…だから、」

きれいに微笑んで、英二は見つめていた。
解っている、けれど、言葉にして聴かせてよ―そんなふうに語りかけて、見つめていた。
小さいけれど確かな声で、この隣は言った。

「このままどうか浚って…幸せを俺に刻みつけて」

きれいな笑顔が英二に咲いた。
嬉しい、うれしい、幸せに充たされてしまう。
この隣から初めて自分を求めてくれる。
こんなふうに隣から、求めて欲しいとずっと思っていた。

本当は、きっと疲れている隣を、少しでも休ませてやりたかった。
昨夜は繋いだ電話で、きっとほとんど眠っていないだろう。
明日は葬式の参列、明日の為にも眠らせてやろうと思っていた。

けれどこんなふうに、ずっと待っていた時を差し出されてしまったら。
どうしたら諦めることが出来るのだろう。

そっと静かに抱きしめて、抱き上げ運んで、やわらかくベッドへと沈みこんだ。
髪にふれてかきあげて、生際の小さな傷に唇でふれた。

「俺がつけた傷、」

自分がつけた、最初の刻印。
この隣への想いに気づいたのは、この傷をつけてしまった後だった。

真直ぐ見おろして見つめられて、瞳の底まで曝される。
吐息がふれる唇へ、穏やかに言葉を伝えていく。

「ずっと浚って幸せの中に、俺が周太を閉じ込めるから」

受けとめる黒目がちの瞳が、繊細で強くて、穏やかで、きれいだった。
もう孤独になんて戻さない。
もう離さない、ずっと掴んで手放さない。
英二が見つめている唇が、そっと静かに呟いてくれる。

「もう手放さないで…無理矢理でも掴まえていて、」

言葉と一緒に涙が零れる。
ずっとひとりで閉じ込めていた、何もかもを崩して、零して、英二に与えてくれる。

甘えて頼って我儘いって、ずっと隣で笑ってほしい。

この隣に全てをかけて、幸せにしたい。
きっと自分は、この隣でしか生きられない。

この隣のために自分は、きっと今ここにいる。そんなふうにずっと思っていた。
警察官として山ヤとして男として、生きる誇りも意味も、全てこの隣がいたから見つけられた。

ようやく今、開き始めた心が、いとおしい。
どうか素直に、言葉を零して、とめないで。

周太の唇が静かに動いた。

「俺のこと…絶対にひとりにしないって約束、」

言いかけた唇に唇でまたふれて、言いかけた言葉を受けとる。
そっと微笑んで、きれいな笑顔で英二は言った。

「約束する、絶対に俺は周太をひとりにしない。だからお願い、ずっと隣にいさせてよ」
「ほんとうに…?」
「ほんとだよ、」

ちいさな呟きも全て、笑顔で包んでしまいたい。
そうして幸せへと浚って閉じ込めて、もう離したくない。
きれいな笑顔で英二は笑って、静かに周太に告げた。

「ほんとうだよ周太、絶対に約束を俺は守るよ。
警察官で山ヤだけれど、危険の中に生きているけれど、俺は絶対に死なない」

死なない警察官に俺はなりたい、それは周太が望むこと。
だから自分もきっと必ずそうなっていく。
自分は死なない警察官でいる。

この隣の為に生きていく、それは絶対に孤独にしない約束。
だから自分は絶対に、この隣より先には死なない。

もしも先に死ぬとしたら。この隣の命と幸せの為に引換えに、自分を差し出す時だけしかない。
けれどきっとそれだって、自分は往生際悪くあがいて、この隣で生きる手段を探すだろう。
生きて笑って、この隣の幸せを、ずっと見つめていたい。

そっと周太の髪を撫で、英二は微笑んで言った。

「きのう御岳山で、本当は俺は、心が折れかけた。けれどその時、周太を想いだした。
また会いたい、だから絶対に無事に帰ろうと思った。そして気がつかされた、俺はもう、周太を遺しては死ねない」

死ねないという呟きと一緒に、唇をそっと重ねてふれる。
ゆっくり離して吐息でふれて、きれいに笑って英二は告げた。

「いちばん大切で、大好きなんだ」

必ず周太のところへ俺は帰る
必ず絶対に、周太をひとりになんかさせない
無理矢理でも掴まえて、絶対に離れたりしない
どんなに逃げて孤独へ戻ろうとしても、俺は絶対に周太を逃がさない
どんなに辛い現実と、冷たい真実があったとしても、俺は周太を手放せない
だからお願い、ずっと隣にいさせて

白いシャツを絡め取りながら、身体中に唇でふれながら、言葉を告げて想いを刻む。
右腕の赤い痣に、また唇をよせてしまう。
痛いかもしれない位に、強く吸って深く刻んで、あざやかな赤色が現われる。
きっとこの色を、これから先ずっとここへ、自分は刻んでしまうだろう。
他の誰にも見せつけていたい、この色は自分だけのものだという印。
そんな独占欲は醜いかもしれない。けれど許して欲しい、自分の居場所はこの隣だけだから。

もうこの隣は自分だけのもの。
他の誰にも譲らない、この隣だけが自分の居場所。
もう他に、還りたい場所なんて、どこにもない。

熱い唇をすこしだけ肌から離して、黒目がちの瞳を見つめる。
そっと微笑んで心を告げた。

「俺だけを見つめていて。俺の隣でだけいて、絶対に離さないまま、幸せに浚い続けるから」

黒目がちの瞳が、見つめかえしてくれる。
見つめて見つめられる、それがこんなに嬉しい。
そっと黒目がちの瞳がゆれて、とまらない言葉をまた零してくれた。

「隣にいさせて…離さないで浚っていて」

そっと告げられた呟きを、こわさないよう唇で受けとめる。
こんなに幸せで、穏やかで、充たされている。

静かに離した唇に、ゆるやかに長い睫がひらいて、瞳が見つめてくれる。
潔癖で穏やかで、凛として美しい、繊細な強い瞳。
初めて出会った時からずっと、本当は惹かれていた。

なにがあっても浚って掴まえて、もうずっと離さない。
どうかこのまま、ずっと隣にいてほしい。
こころもからだも全てかけて、この隣を幸せにしたい。

いとしさが身体中にふれる。抱きしめてほどいて、想いを刻みつけてしまいたい。
ふれる唇が、熱くて蕩けて、感覚がゆるやかな甘えを伝えていく。
いとしい心も体も全て、熱い温もりで穏やかに、幸せへと浚って抱きとめたい。

卒業式のあの夜は、もうこれで逢えないと思っていた。
それでも繋がりが欲しくて、痛みでもいいから繋がりたくて、抱きしめて奪ってしまった。
ずっと端正に生きていた、きれいな隣を引き擦り込んだ、罪悪感が痛かった。
それでも、半年間の想いに答えてくれた、この隣の全てが、いとおしくて嬉しかった。

今は、この隣から求めてくれた。
求められた心が嬉しくて、尚更もう離せないと掴んでしまう。
こうしてまた抱きとめている今、初めての感情と感覚が、また自分を強くする。
今はただ感覚を刻みつけて、この幸せは現実のものだと、この隣に教えてしまいたい。

ときおり響くかすかな声が、いとおしい。
自分がいま刻みつけていく熱と感覚に、ただ浚われていく純粋な体が、いとおしい。
自分だけを見つめてくれる瞳と、自分の声だけを聴いている心。いとしくて、もう離せない。

こぼれる涙にきれい微笑んで眠る隣を、抱きしめて見つめる。
ただ幸せで、嬉しくて、もう離せない。

自分の懐に深く、幸せと一緒にとじこめた、きれいで穏やかな寝顔を見つめて、英二は夜を過ごした。



あたたかな暁の光が、そっとカーテンから光の梯子を見せる。
抱きしめる穏やかな香と温もりに、かすかなまどろみが、時折に訪れる。
それでもこの時が惜しくて、英二は眠れなかった。
腕と胸でとじこめた、寝顔が幸福に明るい。きれいで穏やかで、嬉しくて、静かに英二は見つめていた。

そろそろ目を開けてくれるのかな。
そんなふうに見つめていると、長い睫がかすかに揺れて、ゆっくり瞳がひらいた。
まだ焦点の定まりきらない、黒目がちの瞳が英二を見あげてくれる。

卒業式の翌朝は「おはよう」と「起きる」と「痛い」それから「だから早く眼科行けよ馬鹿」だった。
今朝は何て言ってくれるのだろう。
見つめていると、ゆるく身じろいで、きれいな頬で頬寄せてくれた。
すこし予想外の行動が嬉しくて、すぐ隣の顔へと笑いかけた。

「おはよう、」

英二のきれいな微笑に、まだ眠そうな黒目がちの瞳が、嬉しそうに微笑んだ。

「…すき、」

そっと呟いた唇が、英二の唇にふれて、離れた。
そのまま崩れるように抱きついて、英二の肩に額をくっつけると、やわらかな髪で埋めてしまう。
そのまま寝息が、英二の顔のすぐ横で穏やかになった。

こういうのはちょっと反則だろうと思う。
あんまりかわいくて、どうしたらいいのか解らない。

元々、墜落睡眠をする癖が周太にはある。
だからこんなふうに、寝惚けても仕方ないのかなと思う。
けれどこんな状況で、こんなことされたら、どうしたらいいのだろう。
恋愛経験は売る程あるけれど、こんなことには慣れていない。

「…ん、」

でも、隣は幸せそうに眠っている。あんまり幸せそうで、それが嬉しい。
こうして抱きしめて眠っていられる。その首筋や肩や腕に、自分が刻んだ痕が、あざやかに目に映る。
これは、ごくありふれた幸せなのかもしれない。けれど自分にとっては、これが全てで、いとおしい。


買ってきたクロワッサンと備えつけのコーヒーで簡単な朝食をとる。
ぼんやりと座る隣は、それでもちゃんと口は動かしてくれている。

気怠げな様子が、一か月前のあの朝と似ていて、けれど違っている。
時折こちらを見る瞳が、恥ずかしそうだけれど幸せそうで、面映ゆい。
こんなふうに幸せそうな顔を、英二は初めて見つめた。

あんまり見つめてくるから、英二はちょっと意地悪したくなった。
唇の端だけあげて、周太に笑いかけて言った。

「そんなに見つめる位、俺、かっこいいかな」

あの朝は目だけで、ふざけるなと怒られた。
今朝はなんて言うのだろう。
幾分ぼんやりとしたまま、周太はすこし微笑んだ。

「…ん。そう、だな」

恥ずかしそうに微笑んで、マグカップのコーヒーを啜った。
その姿が、初々しくて清らかで、きれいだった。

ちょっと待ってくれと英二は思った、こんなの心の準備が出来ていない。
たった一晩で、どうしてこうも、隣は変わってしまったのだろう。
たった一晩で、あまりに素直で、あまりにも、きれいになっている。

こんなに甘えてくれる姿、今日だとは予想していなかった。
でも本当は、そうなったらいいなと、ずっと思っていた。
嬉しくて、幸せだと思えてしまう。

けれど、これが周太の素顔だったのだと思うと、胸が痛んだ。
今まで一体、どれだけの無理をしてきたのだろう。
今までに無理強いをされた心が、英二には悲しかった。
けれど今こんなふうに、素直でいてくれる事が嬉しい。


田中の葬儀次第が終わる頃、秀介が英二を見つけて、駆け寄ってきた。
片膝ついて迎えて、また抱きしめる。けれどもう秀介は泣いていなかった。
来てくれてありがとうと言って、英二に一葉の写真を渡してくれた。
田中のカメラに遺された写真の、最後の一葉だと秀介が教えてくれた。

「これがね、りんどう」

青い凛とした姿の花が、きらめく水滴の中で咲いていた。
雲間からさす陽光に照らされて、冷たい氷雨にも清らかに咲く、瑞々しい生命。
きれいで、本当にきれいで、美しかった。

花をおおう水滴が、あの驟雨のさなかに撮られた写真だという事を示していた。
山の氷雨に抱かれながら、花の生命と山への想いを写しとる。
これが田中の最期の写真。
御岳を愛し愛された男の、愛する故郷の最後の記憶は、きっとこの花の姿なのだろう。

英二はそっと瞑目した。目の底が熱い、けれど今は泣いてはいけない。
山ヤの警察官として、山ヤの写真家を見送って、その心を抱きとめたかった。
山ヤは仲間同士を尊重し合い助け合う。今はこうして田中を、仲間として先輩として尊びたかった。
ゆっくり瞠いて、きれいに英二は笑った。

「じいちゃん、すごいな。とてもきれいだ。ずっと大切にするよ、ありがとう」

秀介が笑った。すこし大人びた幼い顔が、切なくて眩しかった。
そっと隣から写真を覗き込んで、周太が静かに言った。

「嬉しそうに咲いて、きれいだね」
「うん、」

秀介が周太を見あげて微笑んだ。
そして首かしげて、尋ねた。

「宮田のお兄ちゃんの友だち?」

一瞬、黒目がちの瞳が大きくなって、途惑う気配が揺れた。
きれいに笑って英二は言った。

「俺の一番大切な人だよ」

そっかと微笑んで、周太を見あげ、秀介が言った。

「お兄ちゃんも、きれいだね。りんどうみたいで僕、好きだな」

じゃあまたねと秀介は席へ戻っていった。
きっと隣の首筋は真っ赤だろう。立ち上がって振向くと、頬も赤くして佇んでいた。
それでも見上げる黒目がちの瞳は、幸せそうに微笑んで言ってくれた。

「一番大切て…ありがとう、」

こんなふうに、素直でいてくれる事は幸せだ。
そんなふうに思いながら、きれいに英二は笑った。

「本当の事を言っただけだろ」

帰ろうとした時、秀介がまた駆け寄ってきた。
はい、といって周太に差し出したのは、英二が貰ったのと同じ、氷雨に咲くりんどうの写真だった。
すこし途惑って周太は、片膝をついて秀介の目を覗き込んだ。

「大切な写真なのに、俺にまで、いいの?」
「褒めてくれて、嬉しかった。じいちゃんならきっと、あげたよ」

微笑んで秀介は、またきてねと周太に言った。
一葉の写真を受けとめて、いとしそうに周太は見つめた。
ありがとうと言って周太は、秀介に微笑んだ。

「嬉しいよ、ずっと大切にする」

きれいに周太は微笑んで、手帳にそっと挟んで胸ポケットに納めた。
それから御嶽駅まで、ゆっくり歩いて戻った。
御岳山は、真青に晴れていた。
あわい秋の陽が、奥多摩の流れを碧に輝かせ、水に砕けてはまた輝く。

いつもの御岳の、1ヶ月間見慣れた風景。
けれどそこにはもう、ひとりの山ヤが消えていた。
時折に駐在所を訪れて、御岳への想いを話してくれた、あの穏やかな山ヤが懐かしい。
穏やかに吹く山風に、寂寥感が募らされてしまう。

けれどこうして、隣が一緒に歩いてくれる。
そのことが、こんなにも胸にあたたかい。
穏やかな山風は、やわらかな前髪をゆらして、きれいな瞳を透かし見せてくれる。
見つめる英二の視線の真中で、静かに周太が言った。

「こういう所に、生きられたらいいね」
「ああ、」

静かで穏やかで、居心地の良い隣。
田中の最期に写したりんどう。冷たい氷雨にも清らかで、かすかな陽光にも輝いて咲く、生命の姿。
辛い運命にも強く凛と立ち、きれいに生きるこの隣と、その姿が似ていると英二は思う。
こういうところで暮らして生きる、この隣には似合うような気がする。

御岳から戻って、着替えて、遅めの昼食を摂りにいく。
またラーメンだった。
どうして毎回とも思うけれど、この隣が喜んでくれるなら、それでいい。

「ここもおいしいね、」

そう言って笑う顔が、なんだか眩しい。
昨夜の前と今とで、随分と雰囲気が変わった。
幸せそうな瞳はきれいで、目が離せなくなる。なんだか調子が狂うけれど、こういうのは悪くない。

それからホテルへ戻って、少し昼寝をした。
文庫本を読んだまま、眠りに落ちた周太を肩に凭れさせ、英二も眠った。
なんだか警察学校の寮を想いだして、懐かしかった。

夕食を買いに駅ビルへ行って、すこしだけ夜の散歩をした。
ビルのデッキから見える奥多摩の、稜線が夜空にあざやかに見える。
たぶんあの辺りかなと、英二は指さした。

「あの高い山が、たぶん雲取山。東京の最高峰」
「訓練で登ったところだよな、」

きれいな黒目がちの瞳が、夜空を透かして山を見つめた。
その横顔がきれいで、何を考えているのか解ると思った。
微笑んで英二は言った。

「大会終わったら、あの山に登ろうか」
「なんでわかるんだ、」

いつものように不思議そうで嬉しそうな声で、隣が微笑んでくれる。
きれいに笑って英二は答えた。

「なんとなく、」

黒目がちの瞳が、笑う。
言われなくても解りあえる、そういうのは幸せだ。
この隣となら、体の距離は遠くても、きっとずっと隣にいられる。
そんなふうに思うほど、この存在が嬉しくて、幸せで、いとしい。

部屋でのんびり夕食をとりながら、他愛ない話をする。
ふと周太が尋ねた。

「そういえば昨日、外出申請に行くって言ったよね」
「まあね、」
「…2晩も外泊して、大丈夫なのか」

心配そうに言われて、その気持ちが英二は嬉しかった。
ちょっと意地悪しようかなとも思ったけれど、口を利いてくれなくなっても困る。
正直に英二は言った。

「外出じゃなくて、外泊申請だから」

黒目がちの瞳が、驚いたように大きくなる。
この顔かわいくて好きだなと思いながら、つい英二は意地悪したくなった。

「今度は寝顔にも会いたいから。先週、新宿で言っただろ?」
「…さいしょからそのつもりだったわけ?」

頬がきれいに赤くなっていく。言い方もなんだか、かわいい。
きれいに英二は微笑んでみせた。

「いつでも、そのつもりだけど?」

黒目がちの瞳が、恥ずかしいと言っている。
素直になっても、やっぱり初々しいのはそのままで、嬉しくなる。
すこし怒ったような声で周太が言った。

「やっぱりみやたはばかなんだ」
「どうせ馬鹿ですけど?」

きれいに笑ってみせて、英二は隣の顔を覗き込んだ。
真っ赤な顔で、きれいな黒目がちの瞳が見つめ返す。
噤んでいた唇が、遠慮がちにそっと動いた。

「…でも…うれしい、」

恥ずかしそうに笑った顔が、幸せそうで明るくて、きれいだった。
明るくて繊細な笑顔は、アルバムで見た幼い周太の笑顔と同じで、そして不思議な艶があった。

英二はすこし困った。
こんな顔でそんなこと言われたら。こっちこそ嬉しくて、おかしくなる。
昨夜を越えたからだと思う。周太の表情に、初々しい艶が生まれてしまって眩しい。
けれど本人は無防備で無自覚で、すこし心配にもなる。
ぼんやり見つめていると、周太が微笑んで訊いてきた。

「どうした、みやた?」

笑ってくれる黒目がちの瞳が、幸せに明るい。
ずっとずっと、英二が見たかった笑顔が、いま目の前で咲いている。
嬉しい。嬉しくて、英二の目の底が熱くなっていく。
かわいくて、嬉しくて、英二は隣を思い切り抱きしめた。





(to be continued)

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懐深、命重―another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-16 19:55:10 | 陽はまた昇るanother,side story
※後半1/5念の為R18(露骨な表現はありません)

さらわれてとじこめられて




懐深、命重―another,side story「陽はまた昇る」

今日は週休だけれど、午前中は術科センターへ向かう。
大会まであと1週間を切った。

朝の食堂で、トレイを持って席を探す視界に、見覚えのある顔が写った。
―射撃の特練だからって調子に乗るな
あの時の男だった。周太が特練選抜されたために、特別訓練員から外された先輩。
面倒だなと遠くの席へ行こうとして、周太は足をとめた。

昨日は関根が電話をくれた。
またあの女の人に会ったんだよと、楽しそうに話してくれた。
関根はこんなふうに親しくしてくれるけど、最初はそうじゃなかった。
元ヤンキーだという関根は騒々しくて、特に苦手だと思っていた。

最初の外泊日の時、周太は外出だけで寮へ戻った。
外泊禁止処分になった宮田を、なんだか放っておけなかった。
書店だけと出かけた周太に、関根は話しかけてくれた。

―女子寮侵入の証拠探し。湯原のお蔭で俺も疑いが晴らせた
 俺はさ、諦めただろ。でも宮田と湯原はやり遂げた、すげえって思ってさ

話してみると関根は、思ったよりずっと真面目な男だった。
夜間大学で機械工学を学びながら働いて、寡婦になった母を助けて生きていた。
同じ学部出身で同じ母子家庭。共通点が気安く、互いを気楽にしてくれた。
周太が寮へ戻ると知った関根は、一緒に飯食って戻ろうと笑って、本当に寮へ帰った。
あれから仲良くなって、卒業後も連絡をくれる。

宮田もそうだった。
元彼女に騙されて脱走して、その後で周太のところへ事情を話しに来てくれた。
それから時折は訪れて、そしていつも隣に座るようになって、大切な存在になった。

人は話してみなくては解らない。
周太は踵を返して、例の先輩の前の席へと立った。

「おはようございます、こちらよろしいですか?」

笑いかけると、驚いた様な眼でこちらを見た。
驚くだろうなと、我ながら思う。
けれど、かまわないふうで座ると、周太は言った。

「射撃大会の雰囲気とか解らなくて、不安なんです。よろしかったら教えて下さいませんか?」

御迷惑でなければと笑いかけると、すこし微笑んで彼は口を開いた。

「ああ、俺でよかったら」

彼は佐藤だと名乗って、食事しながら話そうと促してくれた。
真面目で几帳面な性格らしく、佐藤は要点を掴んだ説明が上手い。
解りやすいなと思いながら話を聴いていると、深堀が声をかけてくれた。

「僕にも聞かせて頂けますか?」

軽やかに佐藤へ頭を下げると、深堀も話の輪に加わってくれる。
深堀の人の良い笑顔が、場を和ませて楽しい食事になった。
トレイを片付ける時、佐藤が照れくさそうに笑った。

「湯原。この間は、悪かったな」

こんなふうに謝ってもらえるのは、嬉しいなと素直に思える。
周太は黙って微笑んだ。
すまなかったと頭を軽く下げながら、じゃあまたと佐藤は笑ってくれた。

「また何でも、解らない事があったら訊いてくれ」

こういうのはいいなと、素直に思える。
人は話してみないと解らないと、宮田が教えてくれた。
そのお蔭でまた、周りの笑顔を見ることが出来た。
こんなふうに、いつのまにか宮田に助けられている。

この事を、宮田に聴いて欲しいなと思う。
今、会えたらいいのに。

術科センターから新宿へ戻ると、13時だった。
携行品を保管に戻して、私服に着替えて外へでる。

着替える時に、少し迷って、新しい服を出してみた。
きれいな淡い色彩の服、細身のジーパンやスラックスの落着いた色。
どれも宮田が選んで、着てほしいと言ってくれた。どれも似合うよと微笑んで。
でも、なんだか卸してしまうのが、もったい無い。
けれど選んでくれた時の、服にふれた掌の気配が、今なら残っている。
そんな気がして、周太は袖を通した。

まだまにあうかなと、あのラーメン屋へ行ってみる。
まだ出ていた暖簾をくぐると、穏やかな湯気が迎えてくれた。
この間のカウンター席に座って、この間と同じ注文をする。
隣には、きれいな笑顔が佇んでいるような、そんな気がしてしまう。

きっとこういう事が、増えていく。
会えない事は寂しい、けれど離れていても、追いかけたい面影があることは幸せだと思う。
今もこんなふうに、一緒にいる時間と記憶を、確認できるのが嬉しい。

一緒に居てくれるひとの存在の、記憶も気配もあたたかい。
孤独の冷たさから、こんなふうに、いつも宮田が救ってくれる。

でも本当は、今だって隣に、いたい。
箸を持った右腕の、袖をすこし捲ってある。ほんのわずかに覗く赤い色が、温かく、切ない。
体を包んでいる服を、選んだ掌がなつかしい。
会いたくて切なくなる。けれどこんなふうに、残してくれた気配が、面映ゆいけれど嬉しい。

いつものベンチに座って、クロワッサンを齧りながら本を読んだ。
夕暮れになる少し前に、立って寮へ戻る。
今日は何時に電話をくれるのだろう。そう思いながら振向いたベンチが、陽射に照らされていた。
なんだかきれいだなと思って、携帯で撮ってみる。
確認した画面には、小春日和の陽射のなかで二人分の席が温かだった。


食堂のテレビをたまに見ながら、深堀とのんびり夕食を摂った。
天気のニュースが終わった時、ふと深堀が言った。

「湯原、やっぱり宮田に似てきたかな」

急にどうしたのだろう。こんなふうに宮田の名前を急に出されると、本当は困る。
さっきもずっと宮田の事を考えていた、それを見透かされたようで恥ずかしい。
けれど顔には出さないで、そうかなと周太は答えた。
すると深堀は、そうだよと微笑んだ。

「佐藤さんに、ちゃんと笑顔で話しかけていた」
「…あ、」

嫌みを前に言われた事を、深堀は知っていたのだろうか。
酢の物をつつきながら、深堀が微笑んだ。

「あの先輩さ、特練を外された悔しいって、よく言っていたんだよ」

だから厭味の一つも言ったろうと思っていた。
そう言って深堀は、にっこり周太に笑いかけてくれた。

「彼のプライド傷つけないでさ、格好良かったよ湯原」

そんなふうに言われると、なんだか恥ずかしい。
周太が黙って味噌汁を啜ると、それでねと深堀が続けた。

「ああいうふうにさ、笑顔で相手を受けとめるのって、宮田らしいなと思ったんだ」

味噌汁を呑みこんだ後で良かったと、周太は思った。
恥ずかしくて困る。けれど、きれいな笑顔の隣に似ていると言われるのは、嬉しい。
いつも穏やかに微笑んで、やさしいきれいな笑顔で佇んでくれる、あの隣。
いつも嬉しくて、気がつくと自分も笑顔になってしまう。
あんなふうに自分が少しでもなれたら、あの隣をもっと笑顔に出来るのだろうか。

風呂を済ませて部屋に戻った。
白いシャツの袖を捲ると、湯上りの熱さには丁度いい。
今日撮った写真をみようと、携帯のメモリーを呼び出してみる。
携帯を持った右腕の、捲った袖口から赤い色が視界に入った。
恥ずかしくて袖で隠そうとして、でも手を止めてしまった。

左掌が、そっと痣にふれてみる。
なんとなく熱の気配が残されている。
熱を刻んでくれた、きれいな笑顔が懐かしかった。

メールしてみようかな。
呼びだしたベンチの画像を添付にして、メール作成の画面で考えこんだ。

 To  :宮田
 subject:今日
 File  :【小春日和の陽射のベンチ】
 本 文 :二人分の席があたたかい

見た景色の感想、それだけ。
いつもながら、こんなのでいいのかなと思う。

でも、なぜか解らないけれど、いつも宮田は大喜びしてくれる。
そしてなんだか、恥ずかしい思いをさせられる。
けれどまあ、あの隣が笑ってくれるならいいか。
そんなふうに思いながら、送信ボタンを押した。

教本とノートを開いた。
久しぶりに鑑識と検死の復習をしたかった。どちらも今の現場では扱うことは少ない。
知識は使わないと錆つく、せめて机上だけでも忘れないようにしたかった。
暫らく集中して、ふっと時計を見ると22時前だった。

いつも21時ごろ、宮田は電話をくれる。
周太が当番勤務の時はメールをくれて、都合のよい時にかけてと言ってくれる。
けれど今日の周太は週休だと、宮田は知っている。
なにかあったのだろうか。

夕食の後に見た、天気ニュース。
奥多摩地域は、今日午後から夕方まで、氷雨が降ったと言っていた。

冷たい雨にうたれ低体温症を発症すると、人間は動けなくなる。
山でそうした状況に陥って、遭難することもある。

周太の手が教本から離れた。

宮田は細やかな分、慎重なところがある。そういう慎重さが、山では生命を守る。
周太にもいつも細やかに接してくれる。慎重だからこそ、ずっと想いも隠してくれていた。
宮田なら大丈夫だろう、きっと何かで忙しいだけ。

山へ登ろうと約束してくれた。
選んでくれた服を着た周太を、連れて行くと約束した。
あの山岳訓練で、初心者のくせに宮田は約束通り、助けにきてくれた。
宮田はどんな約束も破らない、だからきっと大丈夫。

大丈夫、きっと大丈夫、だいじょうぶ。
そう言って自分を納得させたい。

けれど父が亡くなった夜も、
父は帰って本を読んでくれる約束を、守ってくれると信じていた。

警察官の自分達は、約束なんか本当は出来ない。危険に身を晒す仕事だから。
そして宮田は山にいる。山には人波なんてない、援けを簡単に呼べない。
ひとり遭難する、そんな不運だって山では珍しくない。

もう、ペンも手から離れてしまった。
眺める教本からも、何も頭に入ってこない。

宮田、みやた、今どこにいるんだ
どうかお願い、声を聴かせてほしい 大丈夫だと、笑って欲しい

いつもどこかで諦めて、自分は孤独に戻されると思ってしまう。
けれど本当はもう、信じはじめている。きっと宮田が自分を孤独にしない。

きっと宮田は自分の事を、掴まえて離してくれない。
だからお願い、今も掴まえて欲しい。大丈夫だと、きれいな笑顔で笑って欲しい。
きっと自分は、もう、孤独には戻れない。戻りたくない、隣にいてほしい。
お願い、今すぐ、声を聴かせてほしい。

見つめた携帯を、掌にとった。
唇から名前が、ぽつんと零れた。

「みやた、」

ふっと着信ランプが灯った。
穏やかな曲が流れる前に、周太は通話ボタンを押した。

「はい、」
「泣いてた?」

気づいたら頬が濡れていた。
自分でも、気づかないでいた。
なのにどうして、宮田には解るのだろう。
やわらかな気配がして、宮田が言った。

「メールさ、すげえ嬉しかった」

微笑んでいるのが解る、喜んでくれるのが、解る。
どうしよう、どうしたらいいのだろう。
今、こんなに、あなたの無事が嬉しい。声を聴けている、今が、いとしい。

「二人分、が良いよ」
「そう?」
「俺がいないと駄目、って感じが良かった」

どうしてこんなこというんだろう。
いつもなら、そんなふうに、恥ずかしくなる。
けれど今日は、素直に思ってしまう、言ってしまう。

「…ん。いないと、だめ」

言って首筋が熱くなる。
でも仕方ない、あんなに不安になった後だから、全部素直に伝えたくなる。
ふっと笑って宮田が言ってくれた。

「俺も、駄目だな」

ぽつんと言った宮田の、気配がゆれた。

泣いている?

そっと耳をあて直して、感じられる。
かすかに混じる嗚咽と、呑みこんで流されない涙の気配。

宮田の周りの誰かに、何かがあった。きっと、最も悲しい事が起きた。
それで今夜、宮田の電話は遅くなっている。

悲しみを分けてほしい、自分も一緒に背負わせて欲しい。
そっと周太は唇を開いた。

「誰か、亡くなったのか」
「…ああ、」

ゆっくりと宮田は、話してくれた。

前に話してくれた、もうひとりの「しゅう」
その祖父が、尊敬する山ヤの一人だったこと。
けれど今夜、山の冷たい雨に亡くなってしまったこと。
もっと、もっと話を聴きたかった、大切な人だったこと。

「俺の、背中で、息をひきとったんだ」

押し出すような声で言って、また涙を呑んだ気配が伝わる。
きっと、きれいな切長い目は漲って、それでも零さずにいる。

「がくん、て、背中が軽くなって、それから、」

また涙が呑みこまれて、宮田の心に刻まれる。
その痛みも尊さも、自分には全部、解ってしまう。

傍に今すぐ、行ってやりたい。隣に座って、見つめていたい。
抱きしめて、好きなだけ泣かせてやりたい。

そしてほんとうは、今すぐ、あいたいのは、自分のほう。

けれど今すぐ出来ることなんて、これしか自分は知らない。
そっと微笑んで、周太は言った。

「電話、繋げたままでいて」
「…ありがとう、」

寝息が聴こえるまで、周太はベッドで起きていた。
明方すこしまどろんで、目が覚める。
繋げた向こうからは、懐かしい安らかな寝息が聞こえていた。


活動服に着替えて、廊下に出る。
食堂を見回すと、東口駅前交番で一緒に勤務する先輩を見つけた。
その先輩が通夜に出席するために、勤務を交代したことがある。

「明日の当番勤務なのですが、葬式があって、」

周太が言いかけると、直ぐに察して交代してくれた。
明後日は非番だから、明日と明後日の2日間は休暇がとれる。

明日の特練は自主トレーニングだから、キャンセルすればいい。
けれど明後日は、術科センターの訓練に参加しなくてはいけない。
そのまた翌日は、射撃大会にむけた直前練習になる。

外泊申請の担当窓口に行って、許可を申請する。
許可を取付けてから、河辺駅のビジネスホテルに今夜と明日夜を予約する。
電車の時刻を調べてメモをして、鞄に2日分の着替と文庫本をまとめ置く。
それから周太は出勤した。

定時にあがると、寮でブラックスーツに着替えて、鞄を持って出た。
黒いネクタイを、佐藤に教わった店で買ってから、改札を通る。
この間は見送ったホームから、今日は自分が乗車した。

窓際に立って、夜の車窓を眺めてみる。
あふれるネオンの街から、ゆるやかな川や山のシルエットへと景色が変わる。
こんな景色を眺めているんだと、同じ景色を見られる事が嬉しかった。

改札を出て時計を見る。
たぶん、そろそろ、宮田もこの改札を通る。
そう思って上げた視線の先に、懐かしい姿が映った。

「宮田、」

ゆっくりと宮田の顔が上げられて、切長い目が周太を見つけた。
端正な顔は少しだけ憔悴して、またすこし大人の男の顔になっていた。

「…周太?」

きれいな低い声が名前を呼んでくれる。
静かに隣に立って、周太は見上げた。

「明日、田中さんの葬式に俺も参列させて」

切長い目が少し大きくなる。
きっと今、いろいろと驚いている。
すこし周太は微笑んで言った。

「宮田の大切なひとを、俺にも見送らせて欲しい」

宮田が尊敬する人を、自分も見つめたかった。
夜の御岳山で、宮田が背負った重みを、周太にも分けて欲しかった。

きれいな笑顔で宮田が笑ってくれた。

「ありがとう、」

外出申請をとってくるからと、宮田はいったん青梅署に戻った。
チェックインを済ませ、周太はスーツのジャケットを脱いだ。
部屋のライトを落として、窓から外を眺める。
夜空が星をふらせていた。山の稜線がすこし明るんだ青に、きれいなラインをひいている。
ああ山の傍に来たんだと、ほっと心が明るんだ。

さっとシャワーを浴びて、いつもの白いシャツ姿になった。
また窓から山を眺める。さっきより深くなった夜の色は、紺青が透明できれいだった。
ぼんやり見つめていると、ブラックスーツから着替えた宮田が、部屋の扉をノックしてくれた。
クラブサンドと缶ビールをサイドテーブルに並べてくれて、一緒に食ってと笑ってくれた。

「山への気持ちを撮っている。そう言って見せてくれる写真は、美しかったよ。
 写真に納められた草花に、生命の輝きが、どれにも感じられた。
 このひとは山を愛している。どの写真を見ても、そんなふうに思えた」

隣に座って食べながら、ゆっくり宮田が話してくれる。
昨夜亡くなった、山を美しく愛したひとりの山ヤ。
本当に自分も、会ってみたかったと周太は思った。
美しい写真を撮れる心を語って欲しかった。彼の「山への気持ち」を教えて欲しかった。

すこしビールを啜って、きれいに宮田が微笑んだ。

「山ヤが山で死ぬだけだ、それが山ヤの本望だ。そんなふうに言っていたそうだ」

いい言葉だなと、素直に感じた。
きっとそのひとは、本当に山を愛して、幸せに逝った。そう思えた。
そっと周太は唇を開いた。

「大切な場所に抱きしめられて、そんなふうに終われたら、幸せだと思う」

隣の気配が揺れた。
見上げた端正な唇が、かすかにふるえながら開いた。

「あの時、背負っていた背が、がくんと軽くなった。
命には重みがある事が、あの瞬間に、教えられた。あの重みを、俺は、ずっと、覚えていたい」

きれいな低い声が、言葉を噛み締める。
きれいな切長い目は、漲っても零さずにいる。

―泣いてはいけない。警察官の自分は、遺族の前で泣いてはいけない。
きっとそう思って宮田は、昨日も今日も耐えて来た。
そうしてきっと、亡くなった山ヤも彼の遺族も、きれいな笑顔で宮田が受けとめた。

でも今は、周太の隣に宮田はいる。
ただひとりの周太の隣として、座っている。
泣かせてやりたい。ひとりの人間として、ただ、泣かせてやりたい。
そっと、周太は宮田の頭を抱きしめた。

「泣けよ、みやた」

背中に長い指の掌が、静かに回されて、強く抱きしめられた。
微かな嗚咽が、周太の胸をふるわせ始める。
きれいな髪の頭を抱いて、周太の瞳からも涙が零れた。


しばらく泣いて、きれいな切長い目が、周太を見あげた。
きれいに微笑んで、宮田がそっと話してくれた。

「秀介を抱きしめて泣かせた時、俺は想った。
 幼い周太も、抱きしめて、泣かせてやりたかった」

どうしていつもこうなのだろう。
どうしていつも、こうして欲しい言葉と心を、くれるのだろう。
こんなふうにされたら、もう、ひとりでなんていられない。

甘えても、頼っても、我儘を言っても、許されるのだろうか。
そんなふうに想ってしまう。
そうして唇が、こころが、そっと開かれてしまう。

周太の唇が、静かに開かれた。

「お願い、今…」

きれいな端正な唇が、そっと周太の唇にふれる。
続けようとした言葉を、そのまま隣が飲みこんで、静かに言ってくれた。

「俺が抱きしめている。だから今、俺の胸で泣いてよ」

真直ぐ周太の瞳をみつめて、きれいに宮田が笑ってくれる。

「13年、遅くなってごめん。でも俺は隣に来た、だから泣いて甘えてよ」

どうしていつも、解ってくれるのだろう。
嬉しくて、うれしくて、心が全部ほどかれてしまう。

きれいな笑顔で宮田が言った。

「俺を頼って、甘えて」

きれいな笑顔が周太を、そっと静かに抱きしめていく。
抱きとめられる温もり、やわらかな鼓動、髪にふれる吐息。
全てが嬉しくて、あたたかくて穏やかで、幸せに充たされてしまう。

周太の心の深みから、熱がこみあげて、瞳で涙になって解かれた。
零れた涙は、宮田の胸に沁みて温められていく。
こんなにも、受けとめられる事が幸せだと、周太は初めて知った。

もう孤独になんて戻れない、もう手放さないでほしい。
どうかこのまま自分を全て浚って、無理やりでも掴まえていて。

いつも言えない我儘も、今ならきっと言えてしまう。
涙を瞳に溜めたまま、周太は隣を真直ぐ見あげた。

「…このシャツ、卸したてなんだ」

きれいな切長い目が、周太を見つめている。
恥ずかしい、怖い、不安が胸を迫上げる― けれど周太は言葉をつづけた。

「約束通り…シャツ着て、会いにきた…だから、」

きれいな切長い目が、きれいに微笑んで見つめてくれる。
―解っている、けれど、言葉にして聴かせてよ
そんなふうに語りかけてくる。

小さいけれど確かな声で、周太は言った。

「このままどうか浚って…幸せを俺に刻みつけて」

きれいな笑顔が咲いてくれる。
そっと静かに抱きしめて、やわらかくベッドへと沈められた。
長い指が髪にふれてかきあげて、生際の小さな傷へと唇が降る。

「俺がつけた傷、」

やさしい呟きが聴こえる。
真直ぐ見おろされて見つめられて、瞳の底まで曝される。
吐息がふれる唇から、穏やかに言葉がおりてくる。

「ずっと浚って幸せの中に、俺が周太を閉じ込めるから」

言葉と心をくれる瞳は穏やかで、やさしくて、きれいだった。
どうしていつもこんなふうに、欲しい言葉と心をくれる?
どうして何もかも解ってくれて、いつのまにか心がほどかれる?

こんなふうにされたらもう、孤独になんて戻れない。
もうきっと離れられない、離れて立っているなんて出来ない。

ほどかれてしまった唇で、周太はそっと呟いた。

「もう手放さないで…無理矢理でも掴まえていて、」

言葉と一緒に涙が零れる。
ずっとひとりで閉じ込めていた、何もかもが崩されて、零れて浚われてしまう。

ほんとうは怖い、不安が苦しい。
昨夜の天気のニュース。氷雨と聞いて、こころが凍った。
かかってこない電話に、心は壊されかけていた。

甘えて頼って我儘いって、それでもしも居なくなってしまったら。
約束を遺したまま殺された、父のように消えてしまったら。
そうなったら自分は、きっともう、壊れて、立てなくなる。

この隣に全てをかけて、幸せになってしまったら。
きっと自分は、この隣でしか生きられなくなる。
それでもし、この隣に置いて行かれたら、もう、どうしていいのか、解らない。
こんな恐怖は伝えられない、伝えたら嫌われるかもしれない。
不安だと言ってしまって、そんな不安は重たいと、放りだされたら。それが怖い、身動き出来ない。

けれど今は、素直に言葉が零れてとまらない。
周太の唇が静かに動いた。

「俺のこと…絶対にひとりにしないって約束、」

言いかけて、やさしい唇がまたふれて、言いかけた言葉を受けとめてくれる。
そしてそっと微笑んで、きれいな笑顔が言った。

「約束する、絶対に俺は周太をひとりにしない。だからお願い、ずっと隣にいさせてよ」
「ほんとうに…?」

ちいさな周太の呟きを、やさしい笑顔が包んでしまう。

「ほんとだよ、」

きれいな笑顔が、静かに周太に告げてくれる。

「ほんとうだよ周太、絶対に約束を俺は守るよ。
 警察官で山ヤだけれど、危険の中に生きているけれど、俺は絶対に死なない」

死なない警察官に俺はなりたい。
そう言ったのは周太だった。けれどこの隣もまた、同じことを言ってくれる。
そっと髪を撫でながら、微笑みかけながら言ってくれる。

「きのう御岳山で、本当は俺は、心が折れかけた。
 けれどその時、周太を想いだした。
 また会いたい、だから絶対に無事に帰ろうと思った。
 そして気がつかされた、俺はもう、周太を遺しては絶対に死ねない」

死ねないという呟きと一緒に、唇がそっと重ねられた。

「いちばん大切で、大好きなんだ」

きれいな笑顔が笑いかけてくる。
どうしたらもう、この笑顔から離れられるだろう?
そんなことは無理なのだと、見つめた分だけ思い知らされてしまう。

必ず周太のところへ俺は帰る
必ず絶対に、周太をひとりになんかさせない
無理矢理でも掴まえて、絶対に離れたりしない
どんなに逃げて孤独へ戻ろうとしても、俺は絶対に周太を逃がさない
どんなに辛い現実と、冷たい真実があったとしても、俺は周太を手放せない
だからお願い、ずっと隣にいさせて

白いシャツを絡め取りながら、身体中に唇でふれながら、言葉を告げて想いを刻む。
右腕の赤い痣が、あざやかにまた深く刻まれる。
熱い唇がすこしだけ、肌から離れて、そっと微笑んで言葉を言った。

「俺だけを見つめていて、俺の隣だけにいて。絶対に離さないまま、幸せに浚い続けるから」

うれしい。嬉しくて、あたたかくて、ほどかれた心がとけていく。
こんなに幸せで、穏やかで、充たされている。
受けとめられて見つめられる、それがこんなに嬉しい。

「隣にいさせて…離さないで浚っていて」

そっと告げた周太の呟きを、きれいな唇が受けとめる。
きれいな笑顔。その美しさにふさわしい、普通の幸せも全て、捨てて求めてくれる。
きれいな笑顔で浚って掴まえて、いつもずっと離してくれない。

どうかこのまま、ずっと隣にいてほしい。
こころもからだも全てかけて、この隣で幸せになりたい。

長い指が身体中にふれる、抱きしめてほどいて、刻みつける。
ふれられる唇が、熱くて蕩けて、感覚がゆるやかな甘えを伝えていく。
心も体も、熱い温もりが穏やかに浚ってしまう。

卒業式のあの夜は、怖くて痛くて、不安だった。
なにが起きるのか解らなくて、それでも温もりが嬉しくて止めないでほしくて。
そして夜が明けたら声も体も、心までも変えられていた。

あの時に既に変えられている、今の自分の心と体。
こうしてまた、されている今、初めての感情と感覚がゆるやかにおきあがる。
こうされている自分の幸せが、現実のものだと、刻まれていく感覚に教えられてしまう。

ときおり響くかすかな声は、自分のものなのだろうか。
力が入らないままで、熱と感覚に浚われていく体は、自分のもの?
きれいな笑顔と瞳と、きれいな低い声。それしか届かない心は、自分のこころ?

なにももうわからない。
けれどただ幸せで、こぼれる涙の中きれいに微笑んで、周太はその夜を眠った。






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山懐、命重―side story「陽はまた昇る」

2011-10-15 23:59:59 | 陽はまた昇るside story

重さを抱いて




山懐、命重―side story「陽はまた昇る」

いつものように、朝の巡回へと自転車で駐在所を出た。
御岳山もコースに入っている。季節柄、登山道の確認が欠かせない。
紅葉シーズンが近づいて、観光客や登山客が最近増えて来た。
登山道も整備され、東京から1~2時間。近場と言う距離感から、不用意に山へ入ってしまう者が多い。

「あまりにモラルの低い登山客が多いよ」と後藤を始め救助隊員の皆が言う。
秋になると必ず「奥多摩に登ったが夜になっても戻らない、遭難したのではないか」
こんな捜索依頼が何件かあるらしい。
そのために、急な召集に備えて救助服姿での巡回になった。

御嶽駅へ向かう地元の人たちが、挨拶を向けてくれる。
自転車で坂を漕ぎながら、英二も笑顔を返した。
「おはようございます」
本当は自転車でこの坂で、挨拶を返すのは結構きつい。

いつものようにケーブルカーの滝本駅に自転車を置かせてもらって、御岳山道に入った。
山道を登って展望食堂、ビジターセンター、ロックガーデンと全体を巡回していく。
御岳は土の道とアスファルトが入り混じったコースになる。
登山靴でのアスファルトは少し歩きにくい。それでもこの感触にも足が馴れて来た。

訓練で登った雲取山と御岳山では、雰囲気がだいぶ違う。
雲取は登山と植林の山であるのに対し、御岳は観光地化が進んでいる。
本来が神社のある、ご神体の山だからと岩崎が教えてくれた。山はこんなふうに、信仰の対象にもなる。

こうして観光地化されている山は、安易な装備が原因になる事故が多くなる。
転落による重傷者もあるが、ハイカーの疲労も多い。
御岳山でも、そんな理由の遭難事故が起きている。
奥多摩は東京の山と言う安心感から、安易に入山する者が後を絶たない。

卒配から1カ月を迎える。
この奥多摩の現実が実感されるのに伴って、よく自分が配属されたと英二は思う。

登山初心者が対応できる場所では無い。
それでも、遠野教官と後藤副隊長は自分をここへ配属してくれた。
早く応えられるようになりたい。そんなふうに思って、いつも歩く。

ロックガーデンに入ると、英二はヘルメットをかぶった。
落石注意の場所だった。けれどここは軽装備のハイカーが多い。
もう少し日が高くなれば、そうした人が増えるだろう。せめて靴だけは、きちんとして欲しいと思う。

あわい緑の濃淡がやさしい。
岩場を覆う苔が、渓流の水気を湛えて、朝の光に静かだった。
澄明な空気に、青々とした苔の香と水の飛沫が瑞々しい。

やわらかな陽射を浴びて、そっと森が息をついている。
朝を告げあう野鳥の囀りと、自分の足音が谷間に谺していく。
水音が心地いい。ここの朝が英二は好きだ。

入口の七代の滝から綾広の滝まで1.5kmほどを歩いていく。
七代の滝は落差50m、大小七段の滝が連なって、冷気がいつも心地いい。
冬になれば滑落は怖いが、冬の滝の姿が英二には楽しみだった。

けれどやはり救助隊員としては、冬期の遭難事故は警戒してしまう。
雲取山で国村が話してくれた、北斜面での遭難事故。
経験と知識の不足が招く事故が、奥多摩は多すぎる。
自身も経験と知識が不足している。せめて雪までには知識だけでも、成長できたらいい。

ときおり青い花が咲いている。
新宿で、湯原の父へ贈った花束にも、入ってた花だと思う。

なんという名前だったろう、周太なら知っているかもしれない。
昨夜も電話した。けれどもう朝から時折、あの隣の事ばかり考えている。


御岳駐在所に戻ると、岩崎が大岳山の巡回から戻っていた。
御岳山の状況を報告すると、大岳山の話を岩崎がしてくれた。
地図を広げて、位置関係を示してくれる。
御岳山は標高929m、その南西に位置する大岳山は標高1,266.5m。
そこから鋸山、御前山へと登山ルートが続く。

「鋸山は1,109m、御前山は1,405m。アップダウンのあるコースになる」

きつそうなコースだなと地図を読む。
地図からの地形把握とルート確認は、登山前の予備知識として大切だった。
岩崎の指先が、鋸山から奥多摩交番がある氷川へと下るルートを示した。
ここは人気のコースだと教えられた。

「この鋸尾根には天聖山の岩場がある、滑落事故が起きやすい」

滑落事故、ここへ来て何度と聴いた言葉だろう。
軽装備で山に入り、登山靴もはいていない。そういう遭難者もここでは多い。
英二の顔を見、そっと岩崎が言った。

「どのような遭難でも、遭難死はいつも悲しい。遺された家族の痛みは辛いよ」

自分はまだ遭難死には出会っていない、けれど吉村医師に出会った。
遭難した息子、その痛みの中で吉村は警察医になった。
息子の遭難死という現実に向き合う為に、警察医になった吉村。
父親の殉職に向き合う為に警察官になった湯原と、吉村は似ている。

天寿を全うできない死は、周りの者の心に傷を遺す。
あの縊死女性の妹は、覚悟していただろう。それでも静かな表情の底には悲しい傷があった。
自分は山ヤの警察官として、そうした傷に向き合わなくてはいけない。
そうして向き合う中で、周太の傷を分けて持つ事も、出来るのかもしれない。


岩崎の妻が用意してくれた早めの昼食を摂ってから、英二は交番表で登山計画のファイルを開いた。
今日提出されたものを再度チェックしてから、過去の記録を見てみる。
御岳山から鋸尾根へと抜けるルートも多い。
どのルートが遭難の発生頻度が高いのか、確認してみたかった。

地図と照合しながら見ていると、視界の端にランドセルが映った。

「こんにちは、宮田のお兄ちゃん」
「お、秀介か。今日は早いな」

笑いかけると、お邪魔しますと言って嬉しそうに入ってきた。
先生達の会議で授業が午前で終わり、給食を食べて来たと教えてくれる。
話しながら秀介は、ランドセルを開き始めた。英二は笑った。

「また算数だろ」
「あとね、理科も見てくれない?」

科目数がこうやって増やされるかもしれない。
そんなことを考えていると、岩崎が奥から来てくれた。

「お、塾の時間か」

そんなふうに笑って、教えてやってくれと促してくれる。
こういうところが岩崎はいいな、と思う。

奥多摩地域の駐在所には気さくな空気がある。
ここではどの駐在員も山ヤだ。山ヤの寡黙で明るい気さくな空気は、いいなと思える。

けれど、どの駐在所でもいつも、遭難事故と自殺者見分がある。
自然豊かなゆったりした空気と、人の生死を見つめる厳しさが、ここには併存していた。
そういう緊張感と穏やかさ、どちらも自分には必要だと思える。

いつものように交番前の土手に腰掛けると、秀介がノートとプリントを広げ始めた。

「今日の理科はね、近所の草花についてなんだ」
「それは俺じゃよく解らないよ。秀介の方がよく知っているだろ」

英二は笑った。
まだ御岳に来てようやく1カ月の英二に、地元ネタの質問をする秀介が可笑しかった。
そうかあと秀介は首を傾げて、考えこんでから言った。

「どれでもいいらしいんだ、御岳に生えている草なら」
「じいちゃんに聞いたらどうだ」

ああそうかと秀介が笑った。

「なんかね、最近は大岳山の入口がどうとか言ってた」

秀介の祖父は農家で、御岳の草木をよく知っている。
カメラを持っては山へ行って、草花の写真を撮っていた。
それが美しいと評判のアマチュア写真家だった。
この間も駐在所へ来て、茶を啜りながら御岳山の植物について話してくれた。

「御岳もなかなか、良いでしょう」

そう英二に言って、嬉しそうに御岳の植物の写真を見せてくれた。
受け取って目を奪われ、英二は微笑んだ。

「本当に、きれいです」

几帳面にファイル整理された写真は、美しかった。
写真に納められた草花たちに、生命の輝きが写っているように感じられる。
このひとは山を愛している、そんなふうに思えた。

英二を見ながら田中は、照れくさそうに微笑んだ。

「下手の横好きだよ。けれどね、山への気持ちを撮っている」

一度ゆっくり遊びにおいでと誘ってくれた笑顔が、気さくで温かかった。
この人も山ヤなのだなと、なんだか英二は嬉しくなった。
ゆっくり話してみたいなと考えていたら、秀介が算数のドリルを差し出した。

「じゃあこれ教えて」

見ると『3年生用』になっている。秀介はまだ1年生だった。
ページをめくってみると、何箇所かもう解いてある。
チェックすると正解だった。

「これ自分で解いたのか、秀介?」
「うん、」

にこにこ笑って、ここが解らなかったと指さしてきた。
秀介は聡明な性質らしい。
もうひとりの「しゅう」とこんな所も似ている。なんだか嬉しくて英二は微笑んだ。

30分ほど勉強した秀介が帰った後、地図と登山計画書の照合を続けた。
ノートにメモしながら、遭難の起りやすいポイントを確認していく。
捜索の時に参考になるといい、そうして一刻でも早く発見して救助できたらいい。
英二は山の経験が少ない分、知識だけでも詰め込みたかった。

ふっと意識がひかれて、静かにふってくる音に目をあげた。
入口から見えた外は、田園と森を驟雨が白く染めていく。
雨音に奥から出て来た岩崎が、夕方の巡回はレインスーツでいけよと声をかけてくれた。

「秋雨は冷たいからな、体温が奪われると危険だ」

警察学校の入校式前、雨中でのランニング。
あのとき、雨に打たれて発症した低体温が原因で、瀬尾は倒れた。

入口から、冷ややかな空気が流れ込んでくる。
濡れた体に風があたれば、体温が奪わる危険が増してしまう。風に岩崎がすこし眉を顰めた。

「こういう雨は、遭難が起きやすい」

急な雨に、雨具の準備が間に合わない事がある。
若い瀬尾でも倒れた、中高年ハイカーには尚更危険だろう。
軽装備での入山者が多い御岳の登山道が気になった。
ロックガーデンは苔も滑りやすく、滑落と落石が不安になる。

英二はファイルやノートを片付けながら、岩崎に訊いた。

「すみません、夕方の巡回に今から出てもよろしいでしょうか?御岳の登山道が気になります」

今から出れば、日暮れ前には登山道を一巡りして戻ってこられる。
午後からの入山者はまず少ないが、もしいた場合は注意と装備確認もしたい。
そうだなと岩崎は頷いてくれた。

「おう、頼むよ。俺も大岳へ行ってくる」

救助服にレインスーツを着込む。
英二は、ザックに何個かカイロとタオルを入れて、レインカバーを掛けた。

雨中を自転車で出て、ふっと秀介が気になった。
おそらく降雨前には帰宅しただろう、けれど巡回の途路に立ち寄ってみた。

秀介はちゃんと帰っていた。

「ばあちゃんの干芋、おいしいよ」

かわいい掌で、おやつの干し芋を渡してくれた。
ありがとうと受取って、遠慮なく口に入れる。あたたかい甘みが懐かしい。

「うまいな、」

微笑むと、そうでしょと秀介が嬉しそうに笑った。
玄関先で御馳走になる、秀介の母親が淹れてくれた茶が温かい。
ここは、こういうところがいい。都会で育った英二には、こんな温もりが嬉しい。

ごちそうさまでしたと湯呑を返した時、そういえばと彼女が言った。

「じいさま、まだ帰ってこないのよね」

時計は15時を過ぎている。
秀介の祖父には、早めの昼食の後に御岳山へ登る日課がある。
そして写真を撮って14時には帰宅する。
1時間も予定を過ぎるのは、几帳面な性格の田中らしくない行動だった。

そして雨が降り出した時刻が気になる、秀介の帰った後だから13時位だったろうか。
不安が胸を掠めたが、英二は笑って言った。

「御岳山で見かけたら、待っているとお伝えします」

よろしくねという彼女の笑顔を背に、田中の家を出ると無線を使った。
繋げた岩崎に報告をする。

「じいさんは心臓の持病がある、それが心配だ」

心臓病患者が、この冷たい雨にうたれたら。
早く探したほうがいい、そう判断して英二は無線に訊いた。

「巡回コースを変更して、このまま御岳山道へ向かっていいでしょうか」
「おう、頼む。俺も大岳から御岳へ回ろう」

念のため田村隊長か後藤副隊長にも連絡しておけと言って岩崎は無線を切った。
そのまま後藤に繋ぐと直ぐに出てくれた。

「俺も巡回が終わったら、そちらへ行くよ」

もし見つかったら連絡をくれと言ってくれる。
ありがたいなと思いながら、英二は御岳山へと向かった。

登山道を歩きはじめる。時計は15時半を指していた。
この時期の日没は17時、あと1時間半で暗くなる。
雨はまだ止んでいない、雲の低い山道は暗くなり始めていた。
念のため、ヘッドランプを点ける。光線が登山者に位置を教えることにもなるだろう。

雨水を含み始めた足許を慎重に運びながら、急いで道を辿り始めた。
レインスーツの体は温かいが、頬をふれる風が冷たい。気温が下がっていく。
登山経験の豊富な田中だから大丈夫だろうとも思う、けれど山では万が一が怖い。

焦りそうな心を宥めるように、英二は辺りを見回した。
黄葉の透明な梢から、冷たい雫が額を打つ。
その感触が予想以上に冷たい、冷静になろうと思えた。

英二の無線が受信になった、取ると今日は非番の国村からだった。
地元出身の国村は元々田中の家と親しい。直接連絡が来たと言って英二に訊いた。

「田中のじいさんのアルバム、最近見たかい?」
「おととい、見せてもらいました」
「その一番新しい写真は、何が写っていた?」

国村の意図が解った。
最近よく田中が行っていた場所、そこが捜索ポイントになる。
そういう推測を国村は言っている。
さっき秀介が話してくれた事を英二は思い出した。

―なんかね、最近は大岳山の入口がどうとか言ってた

捜索のヒントになるだろう。
英二の言葉を聴いた国村も、そこを見るといいと頷いた。

「自分も今から出るよ」

言って国村は無線を切った。
大岳なら今まさに岩崎が歩いている。
両方から向かえば、どちらかが田中に出会えるだろう。

七代の滝まで着いた時、日が暮れかけ始めていた。
雨は止んだが空気は秋冷に佇んでいる。
ここまで登山客と一組すれ違ったが、装備を整えた夫婦だった。
さり気なく他のハイカーを見なかったか訊いたが、自分達だけだと答えていた。

「御岳神社から七代の滝を廻って雨になったので、そこから戻りました」

ふたりは七代の滝より奥、大岳方面には行っていない。
田中は七代の滝より奥に居る可能性が高い。

途中、御岳駐在で留守番をしている岩崎の妻へと連絡をしたが、無線の向こうでも心配そうだった。
田中はまだ帰宅していない。

木の根道を歩き始めた時、不意に足が滑りかけて英二はバランスを戻した。
雨に苔が滑りやすくなっている。
ほっと肩で息をついて、焦りを宥めるが上手くいかない。

親しい山ヤが今まさに危険にあるかもしれない、その焦りが足許を崩そうとする。
山の経験不足が焦りのコントロールを妨げる、それが英二は悔しかった。
経験のない自分がここへ配属された、その重みが一挙に胸を迫り上げてくる。
悔しいー自分への焦りが掌で胸を押さえさせた。

その掌を固い感触が迎えてくれた。
グローブを外して胸ポケットを探ると、オレンジ色のパッケージを取出す。
このあいだの雲取山訓練で、下山の時に背負った負傷の少年。
彼に含ませた飴の香を思い出し、心が和んだ。

一粒取出して、英二は口に放り込んだ。
転がす甘さと香に心が凪いでくる。この飴を好きな、あの大切な隣の微笑が懐かしい。

周太に会いたい。
ここで焦って、事故に遭ったら会えなくなる。
あの隣を、孤独に置いていくのは、絶対に嫌だ。

そんな想いが、英二を冷静に引き戻していく。

見上げた梢の向こうで空は、雨雲が少しずつ流れて残照が輝き始めた。
足許はまだ見える。
英二は鉄梯子を、足裏で掴むように登り始めた。

天狗岩で赤い色彩が目に飛び込んだ。ザックの色が、薄暮に鮮やかに見える。
そっと静かに急いで歩み寄った。
岩根に蹲るように田中が呻いていた。

胸を押さえる様にうつ伏せた田中が、足音に顔を上げた。
意識はしっかりしている、英二は傍らに片膝をついた。

「田中さん!」

抱き起こした呼びかけに、苦しげに田中が微笑んだ。

「…写真にね、熱中しすぎ、てね」

抱き起こした体が、濡れている。あの冷たい雨に打たれたのだろう。

「レインスーツ…着る間もなく、この、しんぞうが、」

急な体温低下に心臓が悲鳴を上げたのだろう。
とにかく体温を保つほうがいい。英二はカイロを取出した。
田中の脇下、手首と貼っていく。血流を正常に動かし体温を上げさせたかった。

「薬は飲まれましたか」
「…ああ、」

返事に頷いて、英二は無線のスイッチを入れた。
岩崎、後藤、国村へと連絡していく。

田中の体力は時間の勝負になる、このまま背負って下山する事になった。
この10月下旬、夜間の冷込みは0度を下回る。
夜間ビバークになっては、その冷込みが田中にとって危険だった。

ザイルを取出し、田中を固定するように背へ乗せる。
発作を起こしかけた田中が、急に意識を失っても落ちないようにする必要があった。

老齢でもがっしりした体躯の田中は、重い。
けれど湯原を背負った、警察学校時代の山岳訓練に比べれば、ずっと楽だった。
あの時よりも自分は強い、その事が英二の足取りを着実にしてくれる。

「田中さん、ケーブルカー駅までもう少しですから」
「…ああ、」

話しかけながら下山していく。
こうした呼びかけが、遭難者への励ましとなって生命を救うと、岩崎が教えてくれた。

「田中さん、今日はどんな写真撮ったんですか」
「…りん、どう」

花の名前らしいが、英二には解らなかった。
それでも肩越しに微笑んで、英二は話しかけた。

「今度見せて下さい」
「…おう、」

少し田中が微笑み返してくれた。背中越しに伝わる拍動が、不規則でも伝わってくる。
きっと助かる、そう信じて英二は歩いていった。
とにかく、アスファルトの道へ出たい。
足許の安定が背中への安定にもなるだろう、田中を少しでも楽にしてやりたい。

「み、やたくん」

田中が呼びかけた時、アスファルトの参道から御岳山駅が見えた。
すこしほっとして、英二は肩越しに振向いた。

「秀介を、いつも、ありがとう」
「こちらこそ、いつも楽しいですから」

きれいに笑って英二は答えた。本当に秀介は楽しい。
利発さと笑顔で、自分の大切なひとを思い出させてくれる。
そして最初に秀介を助けた事が、ここ奥多摩で警察官として生きていく自信の起点になった。

「秀介を…頼んでいいかい」

黄昏の光の中で、田中の表情がふっと透明になった。
まさか、と心を掠める。けれど英二は微笑んで答えた。

「私こそ秀介くんに助けられています。彼の手助けが出来るなら、嬉しいです」

きれいな笑顔で田中が笑った。

「みやたくん、あり、がとう…秀介に、元気で、笑え…と」

顔のすぐ横で、田中の瞼がおりていく。

「…ありがとう、と、かぞくに…」

がくんと、英二の背中が軽くなった。


御岳山駅の駅員も駆けつけて、心肺蘇生法を行った。
心臓マッサージを行い、タオルを口に当て息を吹き込む。
心臓マッサージを15回、人工呼吸2回を繰り返す。
国村も到着して2人で繰り返した。
しばらくすると、唸るように息を吹き返すが、間もなく止まる。
3回ほど蘇生した、けれどやがて吹きこむ息も、田中の喉を振るわせるだけとなった。

「…俺に、背負わせてくれるかな」

国村が背負ってケーブルカーに乗り、下山した。
消防の救急車が来て、青梅署へと搬送される。
検案所で吉村医師が待ってくれていた。

「おだやかな心不全でした」

田中の顔を拭いながら、吉村は微笑んだ。
田中の家族が青梅署へと到着し、検案所へと案内されるのを英二は眺めていた。
秀介も母親に手をひかれて入室していく。

―御岳もなかなか、良いでしょう
 下手の横好きだよ。けれどね、山への気持ちを撮っている
 一度ゆっくり遊びにおいで

田中の言葉は、あたたかかった。
駐在所で茶を飲みながら、見せてもらった写真達は、どれも美しかった。

本当に、ゆっくり話してみたかった。
ベテランの山ヤの、美しい写真を撮れる心を語って欲しかった。
彼の「山への気持ち」を教えて欲しかった。

目の底が熱くなる、けれど今は泣いてはいけない。
警察官の自分は、遺族の前で泣いてはいけない。

―大切な人の命を奪われ、打ちひしがれた遺族の前に立たなければならない
 そこでは自分達の迷いや悩みなど一切出す事は出来ないんだ
 強くなれ

遠野教官に言われた言葉は、後藤にも岩崎にも言われた。そして吉村医師にも。
警察官として今、強くならなくてはいけない。

検案所の扉が開いて、田中の家族達が現われた。
廊下に佇む英二に、そっと頭を下げてくれる。英二も静かに頭を下げた。

「宮田のお兄ちゃん、」

秀介が英二に駆け寄った。
静かに片膝ついて、英二は秀介の顔を覗き込んだ。

「じいちゃんにね、理科の宿題…聞けなかった…」

秀介の瞳から涙が零れる。
そっと英二は小さな頭を抱きしめた。秀介、と呼びかけて英二は言った。

「元気で笑え。じいちゃんな、そう言ったよ」
「…僕に?」

そうだと呟いて、英二は秀介の顔を見た。

「りんどう、って秀介は知っているか?」
「…りんどう、花の名前だよ?」

涙をこぼしながら、秀介が答えた。
そうかと静かに微笑んで、英二は教えた。

「きっとな、じいちゃんのカメラに写っているよ」

秀介がすこしだけ、英二に微笑んだ。

「…宿題の答えになるかな?」

ああと頷いて、きれいな笑顔で英二は答えて、秀介を抱きしめた。


寮に戻って風呂を済ませると、22時だった。
携帯にメール受信のランプが光っている。
そうだといいと思って開くと、嬉しい差出人名だった。

声を聴きたい、今、あいたい。
英二は発信履歴の番号に、通話ボタンを押した。


翌日の夕方、田中の通夜が行われた。
参列する英二を見つけて、秀介が駆け寄ってくる。
片膝をついて迎えて、英二は秀介を抱きとめた。

「りんどう、写ってた」

そう言って秀介は泣いた。

―どのような遭難でも、遭難死はいつも悲しい。遺された家族の痛みは辛いよ

岩崎の言葉の通りだと思う。こんなふうに、知人ですら辛い。
幼い日の湯原の、父が殉職した夜の痛みを想った。
いま秀介を抱きしめて泣かせている、こんなふうに周太も抱きしめて、泣かせてやりたかった。

ひとしきり泣いて、秀介は顔を上げた。
さっきより少しだけ大人びた顔で、秀介は口を開いた。

「医者になるのは難しい?」

そうだなと英二が微笑むと、秀介が話しだした。

「きのう、吉村先生が言ったんだ。
 おじいさんはとても良い顔をしている。
 とても良い人生を生きた、幸せな顔だ。幸せな人生が幸せな死になるんだ。
 だから大丈夫、おじいさんは今、きっと、幸せでいるよ。こんなふうに言ってくれた。」

吉村らしいと、英二は微笑んだ。そういう吉村は素晴らしいと素直に思える。
秀介が少し笑って、言った。

「僕、嬉しかった。だから僕、吉村先生みたいになりたい」
「そうか、」

涙をこぼしながら、秀介が笑った。

「そうしたら、宮田のお兄ちゃんの事も診てあげる」
「うん、頼むよ」

きれいな笑顔で英二は笑った。
小さな掌が英二の背中を掴んで、細い泣き声が夕空へ響いた。


田中家の門前で、国村が静かに言った。

「山ヤが山で死ぬだけだ、それが山ヤの本望だ」

すこし笑って、国村が英二を見た。

「俺のね、両親が山で死んだ時、田中のじいさんがさ、そう言ってくれたんだ」
「…ご両親が」

国村の家族を聴くのは、初めてだった。そうと頷いて国村は続けた。

「俺の両親は山ヤだった。そして俺も山ヤになったよ」

軽く笑って国村が言った。

「田中のじいさん、結構いい事を言うだろ?」

じゃあ手伝いに戻るよと、国村は田中の家へと戻っていった。

―山ヤが山で死ぬだけだ、それが山ヤの本望だ

いいなと素直に英二は思った。静かに英二は、田中の家へと頭を下げた。


御嶽駅へ向かう道、何人かの喪服姿をすれ違った。田中の家へと向かうのだろう。
救助隊副隊長の後藤とも目礼を交わした。後藤の後ろ姿は、寂しげだった。
御岳に生まれて育って、御岳を愛した、ひとりの山ヤ。
普通の農家の老人だった。けれど彼は御岳を愛し、愛されていた。

もっと話したかった。
そんな想いを抱いて、英二は電車に乗った。

あの時、背負っていた背が、がくんと軽くなった。
命には重みがある事が、あの瞬間に教えられた。覚えていたいと英二は思った。



青梅署最寄の河辺駅へと電車がついた。
改札を出る。

「宮田、」

懐かしい声に、英二は顔をあげた。





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