上手…とは言い切れない絵ですが、元絵がありますね、これは。絵の題が思い出せません。
探したんですけれど、みつからなくて。なにしろ「絵の題」を覚えないという悪いクセがあるものですから、
「神奈川沖波裏」ぐらい有名でないと、ダメなんですぅ、すみません。
とりあえず、この絵は「窓の外の富士山を桶に入れた水鏡に写して、子供と一緒にのぞきこんでいる図」。
母親の優しさと親子の仲の良さが見て取れる絵ですね。
あの「フォー・クル」で有名になった「北山修氏」、その後精神科医になられて、いろいろ本も出しておられますが、
その中に面白い本があります。といっても私は読んだわけではなく書評や、抜粋文をよんだだけなのですが…。
彼は、浮世絵の中から「親子」の絵だけを抜き出して研究したのだそうです。
その本がこちら。
共視論 (講談社選書メチエ) | |
クリエーター情報なし | |
講談社 |
共視というのは、北山氏の「造語」だそうです。
氏は膨大な浮世絵の親子図を調べた結果、ある構図に気がついたと。
それは浮世絵の親子は、必ず「同じ物、あるいは同じ方」を見ている、
この「水鏡」の絵もそうですね。二人で水面に映る富士山を見ています。
外国の絵画のなかの母子像(代表的なものといえば、マリアとキリスト)は、
別のものを見ていたりという構図の割合の方が多いのだそうです。
そんなこと考えたこともありませんでしたが、何枚中何%の比率…なんて
すごく細かくお調べになられたようです。心理学というのも大変なものですね。
この絵のように、親が見るものを子供が見る、あるいは親と一緒に同じ方向を見る、
それで子供は経験を共有し、また親が伝えたいことや教えたいことを学んでいく、というような説明なのですが、
なにしろ「心理学」ですから、私なんぞのようになーんの悩みもなく、ホゲホゲと暮らしているものには、
さっぱりわからない領域です。ただ、障害児ということで言うと、息子つながりで「発達障害」というものを持つ
子供たちをいろいろ見てきました。親どころか人と眼を合わさない、という子供たちもたくさんいました。
コミュニケーションが最初からとれない…むずかしいそうです。
「発達心理学」の中では、二人が同じ物を見ることを「ジョイント・アテンション」というのだそうです。
まだ知識も経験も浅い幼児が、親や友達、周囲の人が見ているものを自分もおなじように見ることで、
自分以外の人間の意思や心理を読み取るとか、言葉を覚えるとか、
そういうことが発達にとって大切なことなのだそうです。なんとなく「なるほどなぁ」と、
わかったかわからないか、自分でもハッキリはしませんが、意味深いことなのだとは感じました。
さて、ムズカシイお話はこれくらいにして、私はこの絵柄を見て
「男物じゅばんにしては、母親と子供なんて珍しいなぁ。もしかしたら子煩悩なのか、
それとも自分と母親の思い出というか、母親を思ってのことなのかなぁ」とか、そんな風に思ったのです。
とりあえず、この持ち主がマザコンだったかどうかはこちらに置いといて??
この絵のずっと下の方にはこんなものが描いてあります。こちらは「水鏡」ではなく、本物の「鏡」ですね。
彫り物がしてある感じですが、あまりはっきりしません。龍のようです。
ではここからは「鏡」のお話。
太古の昔、最初の鏡は世界中どこであっても「水鏡」しかなかったわけですが、
動物には(水)鏡を見て、そこ映るものが「自分」であることを認識できるものとできないものがいるそうです。
それによって動物の知能がはかられるいう話を聞いたことがあります。
テレビで見たんでしたか、やはり人間に近いチンパンジーなどは、鏡を鏡として利用でき、
ワンちゃんネコさんも「自分だ」とわかるそうですが、昔飼ってたウチのニャンコは、
鏡に向かってものすごく威嚇してた気がするんですけどねぇ。
で、この水鏡の次は石。鏡は光の反射によって、ものが写って見えるわけですから、
表面が滑らかで平らでなければなりませんが、自然界の中では、早々都合よく滑らかなで平なモノは、
みつかりません。それを見つけたのは「石器」の時代。つまり「黒曜石」ですね。
あれは黒くつややかで、しかも割るとなめらかで平らな面が現れます。やがて「磨く」という技術も生まれます。
そのあとが「銅器」、つまり「岩や石の中にはいろんなものが混じっていて、それを熱によって取り出すと、
別のものにできる」という知識や技術が生まれたわけです。
おおざっぱにいうと「石(黒曜石)」「金属」そのあとは、その金属を使って「表面鏡(表面にメッキする)」
「裏面鏡(ガラスの裏面に蒸着する)」…です。
鏡は、最初は顔を写して化粧をするというような実用ではなく、もっぱら「祭祀」や「呪術」用のものとして
たいへん貴重なものとされました。はっきりと全く同じように写る鏡に神秘的なものを感じたわけですね。
世界共通の意識で「鏡の面を境に、別の世界がある」とか、光を反射することから「魔を払う」とか。
神話では「八咫鏡」が有名。これをフリガナなしで「やたのかがみ」の読めると「年を感じる」わけで。
皇室に伝わる三種の神器のひとつとされています。
かつて天照大神が天の岩戸に隠れてしまわれたとき、
困った神様たちが「天照大神にかわる新しい神様がこられた」ことにして大宴会を催し、
日本最初の踊り子「アメノウズメ」がおもしろおかしく踊り立てる…天照は「どんな神様がきたのか」と気になり、
岩陰からそっと覗こうとすると、すかさず「イシコリドメ」が作った鏡を差し出し、
天照は自分の顔が写っているとも知らず、もっとよく見ようと身を乗り出した…。
そこを「アメノタヂカラオ」が腕を掴んで外に引っ張り出した…というお話ですね。
お話によっていろいろ名前が違いますが、この時の鏡が「やたのかがみ」です。
さて、一気に時代がさがって江戸時代になると、鏡は青銅の表面に水銀をメッキして作りました。
今の鏡のようにガラスの裏に金属を塗る方法ではありませんでしたから、表面がすぐに曇ります。
そこで「鏡磨き」という職人がいました。簡単にいうとザラついた表面をとぎながら新たにメッキをする方法。
当然水銀を使いますから(水銀と錫、焼明礬に砥粉、梅酢を混ぜたもの)、体にいい商売ではありません。
それで鏡磨きには「老人」が多かったそうです。先が短いから…ということだそうで。あらら。
鏡を曇らせることは、女の恥だったと言われています。
鏡が「写る」ものだったから、心も写すとか、性根を写すとか、そんなことだったのかもしれませんね。
あ、洗面所の鏡、真ん中の顔あたりしか映らんわ…。
最近は鏡が曇っていても「恥ずかしいこと」とは言われませんが、電車の中で鏡をのぞきこんで化粧することも
恥ずかしいとは、いわないんですねぇ。
しているのを目撃しました。
特急ならともかく横並びで全部見える
状態で、人の目が気にならないの
でしょうか。
あれはなんとかならないものでしょうか。
家族に見られるのも嫌だと思うけど…と言ったら、
友人が「だから家族でなきゃいいんでしょ」って。
なんだか「恥ずかしい」って気持ちが変わったみたいな気がします。
揺れる電車の中で、目の中にもいれずマスカラつけたり、
はみ出さずに口紅塗る器用さには、感心しますけどねぇ。
その意味では貴重品。
恥ずかしい事ですが、銅鏡はそのまま磨くものと思っていました。
銅を磨いても顔なんて写らないのに不思議でしたが、今回のお話で良く分かりました。
水銀は小学校でも理科の時間に手の上に乗せて遊んだ憶えがあります。
鏡磨きが老人の仕事というのは悲惨ですが、福島の放射能除染決死隊が募集されるなら心動かされるかも知れません。
腰痛で直ぐに除隊処分になるかも知れませんが。
男物じゅばんで女性の浮世絵、というと、だいたいは美人画か春画なんですけど、珍しいですよね。
鏡磨きはかなりの労働だったようで、モロ肌脱ぎでとか、そんな絵も残っています。
当時の鏡はすぐに曇ったのだそうですよ。
放射能も、現場で働いている人の裏話なども出てきましたね。
仕事をなくしたくないので、被曝量を少なく申告してるとか。
命を削るような現場も、未だに目に見えないがために知らないうちに、
被爆しているかもしれない現状も、ホントのことが見えなくて苛立ちます。
ここだって遠くはないので、風向きによってはけっこうとんできているはずだと、そう思っています。
コメントいただけて、嬉しいです。
打掛の繰り回しについて、今日の記事にちょっと書いてみました。
打掛は素材や色柄によって、使い道もいろいろ考えられます。
私は自分の結婚式で「朱」の打掛だったのですが、菱形のびっしり並んだ地紋で、
これ、帯にしたらいいだろなぁ、なんて思ってました。貸衣装でしたから思っただけで終わりましたけど。
せっかくの打掛、形を変えて使えたらいいですね。