
行くと少しずつ片付けているのですが、昨日はまた着物を見てきました。
一番古いタンスをあけてみたのですが、紬のはいった「盆」の一番下に入っていたのがトップ写真の紬。
地は生成りです。十日町かと思います。
ちょっとアップしてみると…
「横段柄」…私が苦手な部類です。色柄によるんですよね。これはいけるかなぁ。
もうひとつえっと思ったのがこちらでした。こんなのいつの間に…。
柄がわかりづらいので、お福ちゃんに着てもらいました。
紬の訪問着です。人のことはゼッタイ言えない立場ではありますが…いつ着んねん…です。
背中側はこんな感じ。
前裾柄アップ
紬は経糸に節糸を使っているので、縦向きに節が浮いて見えます。
着たいですけれど、とにかく母のものはサイズがあいまへんのです。
とりあえず、写真を少しずつ撮って、整理しながら片付けなければ…ですね。
実は、白っぽい紬の入っていた「たとう紙」の中側の部分に、母の字をみつけました。
右側には、自分の手持ちの着物について書いてあり、
左側には「風にあてなさい」とか「赤くなったら染め直しなさい」とかコマゴマと…。
昭和53年9月27日…私が結婚して3ヶ月目の記述です。
きっと娘が嫁いだら、次は先のこと…と考えたのでしょうね。せっかちな母らしいです。
右側に着物の枚数や種類が細かく書いてありまして、笑ったのは最後のところ、
「これ以上増えることはないだろうから、大事に着るから…」と、私に譲る旨書いてあったのですが、
数えたら「増えることはないだろう」どころか、倍くらいになってるし…。
見たら「喪服 夏冬」…夏用喪服あったんだー!「大島 白1枚」…ど・ど・どこじゃっ!見てへんっ!
というわけで、乾燥時期でもあり、一応いるあいただけ扉を開けてきました。
着物着たーい、体がみっつくらいほしい~(細め限定で…)。
遺品整理…と言う気持ちが起きないのはフシギです。まだ生きてるような気がします。
母が50歳くらいでしたか一時期、ムキになってパッチワークに凝ったことがあります。
あまりにも「大作」とか「かざれるものを」とかいうので、
「まぁ凝り性もえぇけど、なにをそんなにきばってんねん」と言ったことがあります。
そのとき、母は「ウチが死んだら何にも残らん。お医者さんやら学者さんやらになるアタマもないから、
カタチ(実績とか著書とか)になるもん残せへんし、死んだらしまいや、わすれられるだけや」みたいなことを…。
だから「手芸」で、形になるものを残したい…それでも「元々こういうことをする人たちには才能がある。
自分は一からデザインしたり、新しいものを作り出すチカラはない。情けない、なんとかならんもんかと思う」
というようなことを何回か言いました。その時は正直、そのたびにイラッとしながら聞いていました。
「生きた証」とはよく言う言葉ですが、誰しも人に評価されるような、有名になるようなこと、残せるわけではありません。
むしろ普通に生きて、普通に暮らして、普通に世の中から消えていく…そういう人の方が多いです。
だから母がウデマエはともかく、今更プロになる気もないのに、ハッチャキになっているのにイラついたわけです。
その後、自分がその母の年になったときに、母の気持ちがわかったのですが、
たぶん「人生の折り返し時期」をすぎて今までのことを考えたり、これから先の方が短いと考えたりしたとき、
うまく説明はできないけれど「あせり」みたいなものがあったのではないかと思います。
凡庸であることを、私自身は特別情けないとは思っていませんし、母もまたそうであったと思います。
ただ母の時代は、いろいろなことを奪われ続けた「戦争」というものを経験して、また40前に後家になって…
きがつけばタダひたすら走り続けてきたような人生で、なにか損してきたような、やり忘れたような…、
そんなキモチがあったのではないでしょうか。
顔を合わせれば「何も生きた証が…」みたいなことを言うので、ある日私もプッツンときまして、
「なんか残さないと、人間はあかんのか?ウチがこの世に生まれて、こうして元気にシアワセに生きてるっちゅうことが
おかぁちゃんの生きた証にはならんのんか?ウチがアンタの作品やろ」と言いました。
その時は「ふんっ」みたいな顔をしていたのですが、しばらくしてパッチワークはパッタリと辞めました。
憑き物がおちたみたい…でした。
「人は自分が『物体』だから形のあるものにこだわる」と言う言葉を聴いたことがあります。
物に執着し、物を残したいと思い、自分が「物」でなくなる死を恐れる…。
母は、今はきっと解放されて、私が紬一枚に一喜一憂しているのを笑ってみていることでしょう。
「人生楽しまな、ソンやでぇ」という声が聞こえそうです。ついでに「それはアンタには似合わへん」とか言ってそう…。
生きているうちは、母が残してくれた「モノ」を楽しみ、それにこもる形のない母の思いを感じることにいたしましょう。
見え隠れしました。
それにしても…大胆な柄ですねぇ。
ためいきが出ます。
京都の人だけあって、和装、洋装どちらも
相当な衣装持ちですね。
何でもない事が書いてあっても母親の字を
見ると懐かしく会いたいと思います。
その時の親の心情はどうだったんだろうかと
私もダブらせて思い出しました。
京都の人の着倒れは、たびたび戦災(徳川以前)に見舞われて何もかも無くした歴史的記憶が、着るもので財産を備蓄させるようになった、というのを読みまして、へぇそんな?!と驚きました。
ま、いろんな解釈があるのでしょうが、長いみやことしての歴史から、お洒落にうるさいのは事実。
織りの訪問着なのに華やかです。一体おいくつくらいで仕立てたのか伺いたいですね~(^^;)参考にしたい。
着物のこと、丁寧な語り口調での説明が好きです。
お母様のお着物ステキですね。
人生とは何か、深く考えさせられます。
横段のお着物の八掛の色使いいいなあ~~
紬の訪問着はホント大胆ですね。
とんぼさんとお母様のやり取りが何ともいいですね。
受け継いでいってくれる娘がいると言うことは本当に素晴らしいことだとつくづく思います。
お二人に乾杯といきたいですね。
いなくなってからの方が、いろんなことを
思い出すものですね。
母の好みは大胆ステキで、洋服はついていけないのですが、
着物はまけてなるものかと?奮起してます。
オシャレが好きなひとでしたねぇ。
残っている帽子などを見ると「勝てない」…と思いますわ。
母の手紙などもとってありますが、なんだか字をみるだけで、
キュンとなりますね。
そうなんですよね、この前何の番組だったか解説者が
「戦後いろいろあって…」といったあとで「あっ戦後っていっても応仁の乱ですから」…。
そうだよねぇと思いました。
戦がたくさんあった地ですものねぇ。
これは私が嫁いでから買ったものですから、たぶん50代後半です。
コメントありがとうございます。
思いついて…のことばかりで、まとまりもなく書いています。
お楽しみいただけていましたら、本当に嬉しいです。
母は京女の「はんなり」も「まったり」も、あっちへ置いてきたんじゃないかと
そういわれるほどキツい人でしたが、
しっかり「着倒れ」だけはもってきたようです。
ありがたくもらっています。
母は紬系の八掛は60すぎてほとんど黒にしましたが、
白紬系はいつも表にうつつるからと、ぽかしで染めてもらっていました。
ぜーたくでっせ、ホンマ。
けっこう親に反発していましたが、年とともに親の気持ちがわかって…。
それでもカチンとくることばかり言われてましたっけ。
「乾杯!」ありがとうございます。そろって下戸ですので、われらは「お茶」で…。