マハサラカムだより

マハサラカムでの生活、地域の様子の紹介

日本語教育

2012-03-20 14:44:31 | 日記

 タイかラオスで日本語を教えるのも面白いかなと考えたりしている。実際、ラジャパットで1回生のクラス40人余に授業をし、個人的には何人もの人に教える機会があった。その時のテキストで多く使ったのが青年協力隊からもらった「日本語好き好き」である。

 本格的に日本語教師をするとしたら、ハンデイが2つあると思っている。一つは関西弁、大阪と京都で60年生活して体の隅々まで関西弁がしみこんでいる、今更、共通語で日々の授業ができるだろうかという心配、2つめは2つの前歯の周辺に矯正をしなかったため隙間がある、そのため正しい発音に支障をきたすということである。

 日本語教師の国家資格はないが、一般的には日本語教師養成学校で420時間の授業を受けるか、認定試験に合格することなのだが、比較的簡単なのはやはり420時間の終了をすること、日本語教師にならなくても、少し日本語教育に関わったものとして生涯学習の一環として学校に行くのも良いかなと思い、京都の学校に体験入学をした。体験の内容は文法の授業と実習の見学で夕方から3時間滞在した。(写真:日本語を教えていた高校生)

 また、京都府国際センターで開催された実践講座を受講した、半日だけだが、班を作って討議する等、活気があった。そして、タイに着いた翌日に「タイ国日本語教師の会」の年次セミナーに昨年に続いて出席した、会場一杯で参加者は昨年よりも多かったように思う。(写真:タイの将棋)

 日本語教育の学習会に行くとよく思うのが「文法」の学習、日本人も全く気にしない「文法」を延々とやる、思い返せば、JICA赴任前に初めて日本語を教える学習会で導入で聞かれた「京都行く」と「京都行く」この違いをどう教えるかということだった。その時以来、本当にこれで日本語教育は良いのだろうか、外国人が日本語の学習を楽しいと思い、会話は上達するのだろうかと素人なりに考えるようになった、英会話ができない日本人が多いのは、学校で学習する英語が「文法」中心だからという反省があったように思うのだが、外国人への日本語教育も同じになっていないだろうかとついつい思ってしまう。


ナイトバザール

2012-03-19 15:35:52 | 日記

 暑い、暑い、雪のちらついていた京都からタイへ着いて2日たった。もちろん半袖、マッサージ店へ行った際も汗びっしょり、汗でシャツを脱いで着替えるのが難儀であった。それでも土・日曜日とクルンテープ市内を動き回った。

 ナイトバザールはタイの各地にある。首都クルンテープではかつてはルンビニ公園に面して大きなナイトバザールがあった。かなり以前から廃止するという話は聞いていて、昨年、本当にルンビニからナイトバザールは姿を消した。

 そして新しくSIAM PARADISE ナイトバザールがBTSプナウィシィ駅から歩いて5分くらいの所にできた。プナウィシィ駅はBTSのオンヌット駅からの延長路線にあり、2つ目の駅である。

 初めて行ったのは昨年の11月、開店していないシャッターのしまったままの店舗の方がはるかに多く、あまりに閑散としているのに驚いた、それでも出来たところで、これから賑わっていくものと思っていた。

 日本に帰国するにあたってちょっとした土産を買おうと12月に立ち寄った、少しは開いている店舗は増えたという印象だがやはり活気が感じられない。

 そして、宿泊したホテルに近いこともあり、土曜日の夜にまた行ってみた。歓声が聞こえるので何かと思ったら、ナイトバザールの奥でムエタイの試合をしている、開いている店舗の数も増えた、数えた訳ではないが半々といった感じである。お店のほとんどは服飾店で、民芸品等の土産物屋が少しある、12月に2軒あったタイのお菓子屋は一店は閉店している。お客は開いている店の数より少ない、当然、店員達は暇、何することなく座っている人が多い、活気がないからか、客が店内に入ったからといって積極的に売ろうという感じがしない、あきらめているという雰囲気である。

 団体のツアーバスでも入って、ともかくお客さんが入らないと話にならない、何とか、ルンビニ時代の活気を取り戻して欲しいと思う。


朝鮮半島への興味・関心

2012-03-17 03:30:47 | 日記

 ラオス・タイといった東南アジアへの関わりも強いが、同時に父親が戦前の京城(ソウル)生まれ、京城師範学校を卒業し、同じく京城で生まれ育った親戚の関係で以前から北・南の双方に興味・関心があった。2月当初に帰国して約40日間を経てタイに戻った訳だが、今回の帰国は久しぶりに朝鮮半島への興味・関心がよみがえった。(写真:金正日総書記の弔問の写真、於:朝鮮総連)

 そのきっかけはタイとの往復に大韓航空を利用して、仁川国際空港で乗り換えたこと、写真も自由に撮れなかった15年前の雰囲気は全くなく、関西空港をしのぐ活気を感じた。

 帰国してから「日朝友好京都ネット」の会合に出席した。6~70名の出席で会員になっている訳ではないが、総会があって、中心はその後の懇親会、この日朝友好京都ネットは比較的新しい組織で初めての出席だが、参加者には以前からの知人も何人かいた。中でもオムロンに勤めておられた地域の労働組合協議会の事務局長をしていた頃の役員に出会ったり、後述する「朝鮮史勉強会」のメンバーに出会ったりは懐かしかった、元衆議院議員の野中さんも出席しておられ、前の席の人に伺うと、会創立以来来られているということだった。

 そして5年以上ご無沙汰していた「朝鮮史勉強会」に参加した、毎月、第2木曜日に京都市内で開催されている息の長い勉強会、学習の中心は上田正昭京大名誉教授の著書の読み合わせ、古文書もあり、久しぶりの参加で難しくなかなかついていけない、上田先生が直接指導される「朝鮮文化を訪ねる会」にも何度か参加して、その時の話も思い出した、今回は行かなかったが、勉強会の後、飲み会もあり、楽しい会合である。

 また、ツアーではあったが初めて済州島にも行った。大阪で行われた「拉致問題を考える国民大集会」にも参加してみた、松原仁拉致担当相、松井大阪府知事、橋下大阪市長等の話も直接聞くことができた。

 帰路の仁川国際空港では模擬結婚式?のイベントが通路で行われていた、そして、21時20分、それまで来ていたジャンパー等が不要のスワンナプーム空港に着いた。


テラカフェ

2012-03-15 02:05:32 | 日記

  テラ・ルネッサンスという京都にあるNGOが毎月第2水曜日の夜に行っている活動の報告会、テラ・ルネッサンスの事務所のあるビルの地下の会議室で行われる、先月と昨日の2回出席した。テラ・ルネッサンスはホームページを見て名前は知っていたが、詳しい活動はわからない、マハサラカム滞在中で欠席したKOCA(京都海外協力協会、JICAのOB会)の新年例会で青年協力隊のOBでもあるテラ・ルネッサンスの理事長が講演されてよかったという話を聞いて出席してみようという気になった。(写真:先月のテーマ)

  テラカフェの参加者は十数名、昨日のテーマはこの3月でインターンを卒業する大学生3名の活動・体験報告、笑いあり、感動ありの例会だった。

  テラ・ルネッサンスのインターン生の9割は女性という、マハサラカムで出会ったインターン生も女性であった。学生が国際協力、国際支援に関心を持っているというのは何か嬉しい気分、みんな真面目である。青年協力隊も女性の方が多い、近年の状況だろうと思う。

 テラ・ルネッサンスの活動は「すべての生命が安心して生活できる社会(=世界平和)の実現」ということで地雷撤去、子ども兵、小型武器の活動に取り組んでいる。具体的な活動国はカンボジアとラオス(地雷不発弾撤去支援、地雷埋設地域の村落開発支援)、ウガンダとコンゴ(元子ども兵の社会復帰支援、小型武器の啓発)と説明された。ラオスの活動に関心をもったが、ラオスでの活動はあまりできていないようである。

 なかなか具体的にNGOの活動を聞く機会がないので、日程的に厳しいところもあるが事情の許す限り行ってみたいと思った。

  明日、タイに出発、土・日曜日はクルンテープに滞在してタイ日本語教育研究会の年次セミナーに出席、夜行バスでマハサラカムには月曜日の早朝に到着の予定、短いが月末まで滞在しようと思っている。


寺町通と竹屋町通

2012-03-13 02:52:53 | 日記

  KOCA(京都海外協力協会)による21年度3次隊の帰国歓迎と23年度4次隊の壮行会が寺町竹屋町上がるにあるホテル「The Screen」で昨日開催された。我々21年度3次隊の歓迎会も同じ場所で開催されたが、早いものでもう3ヶ月経ったことになる。(写真:会場)

  帰国者が1名、出発者は4名が参加されていた、同じ長岡京市のSVの方もおられた、10日に研修を終わられ、その2日後に表敬訪問、そして22日には出発されるという、日程的にはすごく厳しい隊次である。ちょうど前に座られたJVがバングラデシュに村落開発で行かれるということで、こちらもバングラデシュへの旅行を近々予定していることもあり、首都ダッカで会う約束をした、是非、バングラデシュの状況やダッカの様子を聞きたいと思う。

 前回は府庁を出て会場に行き、帰路は寺町を何人かで話ながら歩いたが、この界隈は大学の1回生の時に寺町二条にある書店のアルバイトで毎日、配達した所であり、時間もあったのでゆっくりと散策しながら会場に行った。寺町三条上がるに「鳩居堂」という店がある、高校2年の時に友達が拓本の墨を買うために誘われて来た店、初めて堺から京都に来た目的地である、当時の国鉄に乗り、所用を済ませた後に京都タワーに上ったこと等、まだ記憶は鮮明である。久しぶりに本能寺に参拝したりして、会場についた。

 帰りは丸太町から一筋南の「竹屋町」を烏丸に向かって歩く、この通りを歩くのは40年ぶりかも知れない、京都地裁の南側に「御所南小学校」がある、あまりに有名なので名前は知っていたが、実際に見るのは初めて、書店の配達では当時「竹間小学校」という古い学校に配達し、その後、京都新聞本社に配達するのが毎日の日課だった。

 竹間小学校の跡地だろうか、整備された「竹間公園」があった。雨や雪が少し降り寒かったが、短時間だが懐かしい思いをした。