先進国とはなにか? バブルとはなにか? という日常的な問いに対する解答はあるのでしょうか?
Wikipediaをみると先進国について“OECD加盟国で一人当たりGDPが1万米ドル以上の国”といったアバウトな定義がされています。OECD加盟国は欧米がメインであり、英語とフランス語を公用語とするところなどからも普遍的ではありません。何より経済学的な、構造の差異を示すような数理的なボーダーを示唆する定義があるわけでもなくアイマイです。
現実には、いかにも先進国であることを示しているといえる経済社会の状態があります。
経済構造の歴史的な進展に基づいた定義で、G7と呼ばれる各国の基本的な経済動向がそれです。良くも悪くも、資本主義の先進国の特徴といえば、<バブル経済>と<過剰な消費>になります。アメリカを典型的な先端とするこれらの属性は、法律にも明確に現われており、それはPL法として結実しています。60年代のアメリカ、80年代のヨーロッパでは先進的な経済状態に対して、それに応じた法体系が整備されたのです。
それらは抽象すれば以下のようにいうことができるものです。
バブルが構造化してるのが先進国
先進国はGDPの半分が選択消費
日本の90年バブル崩壊の最中に日本経済を分析した論に、明確な先進国の定義がされています。「リテレール」という季刊書評誌に掲載された「定義論Ⅱ」という考察です(後に『母型論』(吉本隆明)に収録)。将来の世界経済のあるべき姿を予測・予期するなかで分析され思索されたもので、「定義論Ⅰ」「定義論Ⅱ」は経済の考察。その直前の論である「贈与論」ではマリノウスキーなどを参照しながら母系社会が本源的蓄積により“経済化”していく過程、あるいは“経済のはじまり”が仔細に検討されています。
「定義論Ⅱ」におけるポイントは以下です。
先進国では…
所得の半分以上が消費されている
消費のうち半分以上が選択消費である
そのために
経済規模を3/4ないし2/4まで縮小してもダメージがない
具体的には以下のように記述されています。
わたしたちの地域は、88年(昭和63)ころから基本的にはあたらしい兆候にはいったといってよい。
この兆候は要約していえばふたつに帰することができる。
これは
(1)所得のうち半分以上が消費にあてられること。
(2)その消費のうち半分以上が選択消費、いいかえればどう消費してもよく、
消費をどう節減しようと心理的負担はともかく、
生活水準を下げる負担は感じなくていい消費部分ということになる。
これは別のいい方をすれば、経済的規模を、
4分の3ないし4分の2(半分)に縮小しても生活水準をおとす必要がないことを理論的に意味し、
アメリカ、日本、フランスなどの地域がこの段階にはいっている。
これはいってみれば兆候の段階として定義されるもので、
兆候の振動や波動としての景気上昇や後退とはかかわらない。
むしろその基礎的な構築にあたっている。
(『母型論』「定義論Ⅱ」)
母型論 著:吉本 隆明
参考価格: 価格:¥490 OFF : ¥1,454 (75%) |
経済が縮小しても生活水準をおとす必要がないことが「理論的」に意味されています。そして、それはむしろ「基礎的な構築」なのだと宣言されています。これらの指摘は何を意味するのでしょう?
98年以降自殺者が3万人を超えてしまった「1998年問題」という現実と、上記の「定義論Ⅱ」のギャップが示すものは何か? そこにこそ政治と政策の、責任とヒントが示されているといえます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます