先日、岩波新書“学問と自由“の本を読んだ。この本には、2020年10月に起こった日本学術会議会員の任命拒否のことなどが書かれていた。この事実は、現代日本に生きる私たちにとって重大な事件であった。
当時の菅義偉政権は、何を恐れてこの暴挙に及んだのか。学問の自由と独立を侵し法に違背してまで、なぜ6名の任命拒否をしたのか、学問の自由はどこまで守られるべきなのか、政治の介入は許されるのか。
事態の発覚から2年余りが過ぎた今、この問題に関するメディアなどでの議論は少なくなりつつあり、すでに終わったと思う人もいるかもしれない。ただ、事の本質は決して一過性のものでもなく、日本学術会議という組織だけに関わる問題でもなく、日本の問題である。
「ポスト真実」の時代において、学問が果たすべき役割だけでなく、権力と法の関係、政治と専門家の関係といった民主主義の根幹をなす価値観について、私たちは再考すべき時を迎えているといえるのではないだろうか。
真実とは、嘘や偽りでない本当のことである。一般的には、社会で合意して共有できる公的で社会性を有する事柄を真実という。なのに、今の政治を見ていると、有る物を無いといったり、無いものをあるといったり、真実がゆがめられている。
古くは「パナマ文書」、最近では「森友・家計問題」、「桜を見る会」など、真実が明らかにされないままでうやむやにされてしまっている。
昔、国会で“記憶にございません”という言葉が流行った。時間の経過で記憶が薄れるのはやむを得ないが、日本人の特徴である「事なかれ主義」や「無関心」がまん延しているのが心配で、明日の日本を築く子供たちが真似をしなければと思っている。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻も、メディアで取り上げることが終わると忘れ去られるかもしれない。ただ、人間は辛いことや悲しいことを「忘却」できる能力があるからこそ、生きていけるのかも知れない。
しかし、ウクライナ戦争はまだまだ続く予想で、この戦争やコロナ禍に伴うインフレで食品の800品目以上の値上げが予想されるほか、貧富の拡大や富の偏在などが国民の身に振りかぶってくることから、忘れ去られることは無いだろう。
「十勝の活性化を考える会」会員
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