十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 その7 戊辰戦争 いわきの戦い

2019-11-15 05:00:00 | 投稿


戊辰の役と順天堂一統


『一介の藩医が官軍方の野戦病院長の職を受けるについては、本来、藩の意向を伺わねばならない。
しかし辞令を伝達する官軍高官から、鉄砲隊一〇〇名程度という官軍への阿波藩の貢献度の低さを指摘された寛斎は、藩の立場を考えてその場で決断したようだ。
もう一つの気懸かりは、幕臣としての義を重んじて旧幕軍に参加している、恩師泰然の実子であり、学友でもある松本良順と、戦陣で相まみえざるを得ないという事情である。


 奥羽討伐に当たり、大村はここでも軍陣医療の組織化にすぐれた才能を発揮した。三つの方面軍、まず平潟口海道軍には関寛斎、白河口山道軍には佐藤進、そして越後口北越軍には英軍医ウィリス、という当時一流の外科医を配置するとともに、最前線の動病院(救護所)と後方の不動病院(野戦病院)、そして本院の横浜病院を組み合わせた医療システムを編成したのである。


赤十字の先駆として

 

 寛斎が品川を出港したのは一八六八年六月一四日。鷲尾隆聚を総督とする、軍艦三隻に便乗した平潟口軍約1000名は、十六日には勿来関の手前、平潟に入港し、陸上の相馬藩軍へ艦砲射撃を浴びせつつ敵前上陸し、町を占領した。
寛斎は港の正面高台にある地福院海徳寺を戦陣病院と定めたが、折悪しく住民にチフス患者が発生したため、同寺の小高い山上にある念佛堂を隔離病舎とした。寛斎はすでに防疫法としての隔離の有効性を学んでいたのである。
やがて戦線は北に移動し、平潟病院は後方に残されたが、重傷者を船で横浜に移送するなど、寛斎は医療活動に忙殺された。そこへ六月二八日、仙台藩の軍艦が突如、平潟港に侵入し、海上から砲撃を加えるという事態が起こった。寛斎は、軽症者には銃を取らせ、住民の協力によって重症者を馬や戸板に載せて内陸の安全な場所に移動させるなどして事なきを得たが、この緊急な中でも隔離舎のチフス患者をも見捨てず全員を保護した。これは官軍や寛斎に対する一般住民の信頼を大きく高めるものであった。


 七月に入って、幕府重巨安藤対馬守の居城平城をめぐる攻防戦が始まり、同一七日の総攻撃で平城は落城する。

『六月二日、西軍は平城の攻撃を開始した。平城は激戦の末、七月十三日炎とともに落城。
平藩の藩医 松村有輔は、平窪村(平下平窪)安養寺に包帯所を設け、戦傷患者の治療にあたっていたが、自らも戦傷を受け、城の焼けるのを見て、落城を知り、藩士二名とともに切腹自刃。同藩医松井謹は、東北軍とともに、仙台を目指して退却した。』
                 いわき市史第6巻「文化」松村亨先生

『平藩医四代松村有甫は戊辰戦で負傷者の治療に当たり勤務医として活躍した』
                「福島県歴史資料研究紀要」国立国会図書館

 

そのころ、平潟病院はすでに手いっぱいのため、さらに平に近い小名浜の立花竜宅など旅館10軒を新たに病舎とし、さらにニ三日には平長橋町の性源寺に本拠を移した。この平病院は大村から「大病院」との呼称を与えられ、相馬などに分院を置いた。戦闘の拡大につれ、ここも常時入院150名、ほかに患者120名という状態だったので、看護や雑役には付近の住民男女を集めて、これに当たらせた。また、薬品・包帯・病衣・食料も不足し、現地調達をせざるを得なかった。食料不足が深刻化したため、寛斎は病院職員には一汁一菜をぎびしく守らせたが、患者には鶏卵、さらに買い上げてした牛の肉を給して栄養補給に努めるなど、ポンペの教えを忠実に実践した。
ところで、なんといっても。最大の問題は医者である。従軍した正規の軍医は、寛斎のほかは斎藤竜安・中村洪斎ら、二、三名にすぎなかったので、平・小名浜・四倉などの現地の医者を動員し、または彼らに患者を委託するほかはなかった。しかし彼らは漢方医だったため、寛斎は急遽、江戸から『創夷新説』『内科新論』などの医書を取り寄せ、西洋医学の速成教育を実地と結びつけて行った。この方式はいわき全域に及び、それがこの地域の医療近代化を一気に押し進める結果となった。

「いわき市史」は、寛斎の医療活動を次のように評価している。
1.いわきは小藩に分かれ……垣根のようなものがあったが……それが取り除かれ、寛斎らの指導によって救世精神を発揮した。
2.各藩各方部の医療……が、寛斎らの働きで一つの方向へ向くようになった。
3.……洋医学の優越性を実証し……洋医学の普及と向学心とを刺激した。
4.寛斎らが、各地で敵味方の別なく治療を行い、難民の医療に意を尽し……「わが国の赤十字事業の先駆である」といわれている。


 寛斎は戦陣の中でも、敵味方、軍隊と住民との分け隔てなく手を差し伸べて看護をつくした。「日記」には、平城攻防戦で負傷し、降伏した高橋某の治療などが記録されている。
敵地への進攻作戦に際して、その地域の住民の信頼と支持とを獲得できるか否かが、戦線維持の決定的要因であることは、今日でも戦略の原則の一つである。また、野戦医療においては、単に兵員の健康と治療だけでなく、その地域の衛生状態の良否が戦力維持に大きく影響することはナイチンゲールンゲールの活躍したクリミア戦争の例を見るまでもなく、戦史上も明らかである。しかし寛斎は、このような認識をもって意図的に実践したわけではなく、優れた先達から学んだままに誠実一途に医者としての分を尽くしたにすぎない。
だが。それは結果的に戦略や軍陣医療の原則にかなう大きな業績となり、同時に地方の医療近代化に貢献することになったのである。維新という名の革命は、このようにして日本の各地を深部から揺り動かし、全国を急激に変革していったのだった。』

「関寛斎 最後の蘭医」 戸石四朗著


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