十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

秋の旅行会 2019/10/20

2019-10-07 05:00:00 | 会報

秋の旅行会のご案内


「十勝の活性化を考える会」では秋の旅行会を企画しております。

下記の要領で参加自由となっておりますので、興味のある方はぜひご参加ください。


参加自由

・日時:10月20日(日) 9時30分~17時

・場所:陸別町:関寛斎資料館~北見市:ピアソン記念館

・内容:十勝と北見の歴史の接点をたどる旅です

・参加費:3,000円(入館料等)

・集合場所:帯広百年記念館駐車場 または独自に現地直行でも可

関寛斎資料館では斎藤館長、ピアソン記念館では伊藤館長がご案内してくださいます


 

関寛斎について

  1830年(文政13年)、上総国山辺郡中村(千葉県東金市)吉井佐兵衛の長男として生まれる。

 儒者関俊輔の養子となり、佐倉の佐藤泰然の門下に入り、医学を修業する。銚子で開業したが浜口梧陵の勧めにより長崎のポンペのもとで西洋医学を修得する。 
 その後、徳島藩より招かれて侍医となるが、戊辰の役では奥羽出張病院頭取として活躍、徳島医学校の創設などに力を注ぐ。一時海軍病院に努め、山梨県立病院第2代院長として業績を上げるが、徳島県に帰ってからは禄籍ともに奉還し東御殿跡(徳島町1丁目現在の城東高等学校)で開業して、地域医療につくし、関医院にいたる道は徳島人から関の小路と称されていた。
 寛斎夫妻金婚の祝賀を受けた後に日本の産業発展のために必要な地として注目された北海道の開拓を志した。その時すでに年齢70歳、四男又一は札幌農学校に在学。石狩樽川農場を開拓し、更に奥地である十勝国斗満の地に入植したのは、1902年(明治35年)、72歳の高齢である。
二宮尊親が経営する二宮農場の自作農育成に開拓の方針を求め積善社を結社した。また徳富蘆花との交友を深め、トルストイの思想に共鳴と理想的農村建設をめざしたが、子餘作、又一に志を托してみずからそのいのちを絶つ、82歳の秋だった。

 

 


ピアソン夫妻(ジョージ・ペツク・ピアソン、アイタ・タップ・ピアソン)

 

 ショージ・ペック・ピアソンは1861年アメリカ、ニユージャージー州で、アイダ・ゲップは、翌年ペンシルベニア州で生まれる。ピアソン氏はプリンストン神学校を卒業後、米国長老派教会の宣教師として、アイダは米国聖公会の宣教師として来日し、2人は日本で結婚。道内各地で伝道活動を行い、1914年に野付牛に移り住む。1928年に帰国。1937年|こアイダが。その2年後ピアソン氏も亡くなった。

 

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