十勝の活性化を考える会

     
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アイヌ神謡集:知里幸恵

2021-12-17 05:00:00 | 投稿

 


 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.
天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせす山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬(よもぎ)摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円かな月に夢を結ぶ.
嗚呼なんという楽しい生活でしょう.
平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.
僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.
しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,

おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名
なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.

 その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう.
 時は絶えず流れる,世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう.それはほんとうに私たちの切なる望み,明暮祈っている事で御座います.
 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通する為に用いた多くの言語,言い古し,残し伝えた多くの美しい言葉,それらのものもみんな果敢なく,亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか.

おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います.

 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました.
 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば,私は,私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び,無上の幸福に存じます.


  大正十一年三月一日
知里幸恵

 




知里幸恵。この写真は、彼女が死去する2ヶ月前、大正11年7月に滞在先の東京の金田一京助の自宅庭で撮影された。

『知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)6月8日 - 1922年(大正11年)9月18日)は、北海道登別市出身のアイヌ女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。

生誕100年を迎える2003年前後あたりから、マスコミや各地のセミナー等でその再評価の声が高まり、また幸恵への感謝から「知里幸恵」記念館の建設運動が活発化した。2008年10月には、NHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が詳細に取り上げられ、インターネット書店「アマゾン」の「本のベストセラー」トップ10に『アイヌ神謡集』が入った[要出典]。また、『アイヌ神謡集』は、フランス語・英語・エスペラントにも翻訳されており、2006年1月には、フランス人作家ル・クレジオが、そのフランス語版の出版報告に幸恵の墓を訪れている。

なお、弟に言語学者でアイヌ初の北海道大学教授となった知里真志保がおり、幸恵の『アイヌ神謡集』の出版以降、大正末期から昭和にかけて、新聞・雑誌などからはこの姉弟を世俗的表現ながらも「アイヌの天才姉弟」と評された[要出典]。他の弟の知里高央(ちり たかなか、真志保の長兄)も、教師をつとめながらアイヌ語の語彙研究に従事した。

生涯
1903年(明治36年)6月8日、北海道幌別郡(現・登別市、札幌市から南へ約100キロ)に生まれた(父・高吉、母・ナミ)。6歳で近文コタン(現旭川市内)の伯母金成マツのもとに引き取られて尋常小学校に通学した。最初は和人の子どもと同じ学校だがアイヌのみの学校設置がされて学業優等でアイヌの尋常小学校を卒業した。
旭川で実業学校(旭川区立女子職業学校)にまで進学している。アイヌ語も日本語も堪能で、アイヌの子女で初めて北海道庁立の女学校に受験するが不合格になった。『優秀なのになぜ』『クリスチャンだから不合格となったのでは』と言う噂が町中に飛び交った。幸恵の祖母・モナシノウクはユーカラクルであった。すなわちアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手だった。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。
幸恵の生まれた頃は、ロシアによる領土侵略を防ぐため、明治政府が北海道を開拓し始め30年以上たっていた。この幸恵の家を言語学者の金田一京助が訪れたのは、幸恵が15歳の時であった。金田一京助の目的はアイヌの伝統文化を記録することであった。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取る姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、カムイユカラ研究への熱意を感じた。幸恵はカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。やがて、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京・本郷の金田一宅に身を寄せて翻訳作業を続けた。

幸恵は重度の心臓病を患っていた(当時は慢性の気管支カタルと診断されていた)が、翻訳・編集・推敲作業を続けた。『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)9月18日に完成した。しかしその日の夜、心臓発作のため死去。19歳没。
幸恵が完成させた『アイヌ神謡集』は翌1923年(大正12年)8月10日に、柳田國男の編集による『炉辺叢書』の一冊として、郷土研究社から出版された。

後世への影響
明治時代に入り絶滅の危機に瀕していたアイヌ文化アイヌ民族に自信と光を与え、重大な復権・復活の転機となった幸恵の『アイヌ神謡集』の出版は、当時新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなった。また幸恵が以前、金田一から諭され目覚めたように多くのアイヌ人に自信と誇りを与えた。幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ人初の北海道大学教授となった。また歌人として活躍したアイヌ人、森竹竹市・違星北斗らも知里真志保と同様、公にアイヌ人の社会的地位向上を訴えるようになった。幸恵はまさに事態を改善する重要なきっかけをもたらした。

幸恵の『アイヌ神謡集』により、アイヌ人にとって身近な“動物の神々”が、アイヌ人の日々の幸せを願って物語るカムイユカラが文字として遂に後世に残された。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績であった。かつて幸恵が祖母から謡ってもらったように、母親が読み聞かせ子供が容易に理解できる程に平易な文章でつづられた13編からなる物語。アイヌ語から日本語に翻訳されたその文章には、幸恵のアイヌ語・日本語双方を深く自在に操る非凡な才能が遺憾なく発揮されている。また、文字を持たないアイヌ語の原文を、日本人が誰でも気軽に口にだして読めるようにその音をローマ字で表し、日本語訳と併記している。』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』