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教育基本条例下の辻谷処分を撤回させるネットワーク

憲法に反する「君が代」条例ならびに公教育の理念に反する大阪の新自由主義的教育諸条例の廃止を求めます。

高作正博さん講演レジュメ掲載

2016-10-06 15:41:15 | Tネット総会
遅ればせながら、本年2月27日Tネット総会における高作正博さんの講演レジュメを掲載します。なお、講演録は、10月7日完成予定です。レジュメを含め講演を文字起こししたものです。ご希望の方はメッセージをお寄せください。

教育における「不服従」の意義と裁判の行方
- 運動論と法律論との「共振」 -
高作正博(関西大学)
2016年2月27日(土)

序――「起立」「斉唱」強制の理由 
                        
(1)「ルール」と「人権」の区別――「ルールに従うのは当然」なのか?
 ①橋下大阪市長の発言(2012年3月14日記者会見。『朝日新聞』同月30日朝刊)
  ・「一教員がルールを無視して座るなんて言ったら民主国家は成り立たない。不起立教員は公務員を
やめなきゃ」
  ・「教育で一番重要なことはルールを守ること。自分の考えと違っても社会のルールに従う。これを
教員が子どもに教えられないでどうするのか」
 ②判例における同旨の傾向
  ・最高裁昭56年7月21日判決における伊藤正己裁判官の補足意見
  ・「憲法47条は、国会議員の選挙に関する事項は法律で定めることとしているが、これは、選挙運動
   のルールについて国会の立法の裁量の余地は広いという趣旨を含んでいる」(それ故、選挙運動の規
   制[戸別訪問の禁止]は違憲ではない)

(2)「儀式」と「人権」の区別 ―― 「単なる儀礼的な所作」なのか?
 ①起立斉唱拒否事件における判例の立場
  ・本件職務命令当時、公立学校における卒業式等の式典では、「日の丸」の掲揚と「君が代」の斉唱が   広く行われていたことは「周知の事実」である
  ・学校の卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、「一般的、客観的に見て、これらの
   式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として
   外部からも認識されるものというべきである」
 ②「人権侵害はなかった」!?
  ・「起立斉唱行為は、その性質の点から見て、上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不   可分に結び付くものとはいえず、上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は、上記
   の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない」

1 不服従の意義と批判精神

(1)服従の傾向と同調圧力
 ①組織内部での自発的服従と同調圧力
 ・「独裁」の可能性(映画『THE WAVE ウェイブ』)
 ・良心に反する命令にも服従するのか?(「アイヒマン実験」)
 「各個人は、大なり小なり他人への破壊的な衝動の無制限な流れを抑えるための良心を持っている。だが  その人が自分自身を組織構造に埋め込むと、自律的な人物にとってかわる新しい生物が生まれ、それは  個人の道徳性という制約にはとらわれず、人道的な抑制から解放され、権威からの懲罰しか気にかけな
  くなる。」【ミルグラム・後掲276頁】
 ②外部に対する「他者」の排除
  ・嘘・誤報道を信じてしまう傾向(『オルレアンのうわさ』)             
  ・嘘・誤報道でパニックに陥る傾向(関東大震災の際のジェノサイド)
 ③情報操作による選択の誤り
  ・「ナイラの証言」(15歳のクウェート人女性が米連邦議会下院の公聴会で証言)
  「私は病院でボランティアとして働いていましたが、銃を持ったイラクの兵隊たちが病室に入ってきま
   した。そこには保育器の中に入った赤ん坊たちがいましたが、兵士たちは赤ん坊を保育器の中から取
   り出し、保育器を奪って行きました。保育器の中にいた赤ん坊たちは、冷たいフロアに置き去りにさ
   れ、死んで行きました」(1990年10月10日)。
  ・「湾岸戦争のトラウマ」
   戦費支援として支出された「90億ドル支援(当時のお金で約1兆2000億円)のうち、クウェートに
   支払われたのはたった6億ドルだったという事実を知らない人が多い。1兆円以上のお金は米国のた
   めに支出されたのだ」。【伊勢崎・後掲51頁】

(2)権力への服従の構造
 ①承認不安:「私」の価値への不安
  ・3つの承認;親和的承認、集団的承認、一般的承認
  ・現代における承認不安・承認要求
    *家族の変容、居場所の喪失、一般的価値基準の喪失
    *周囲の承認を維持するために過剰な配慮・同調を繰り返す
     A) 人間関係において空気を読もうと必死になる → 「自発的隷属」
     B) 承認を求めるに値しない「他者」とは一線を引く → 「他者」の排除
    *場の空気を読む能力、相手の意図を瞬時に察知する能力が重視される
 ②分断統治;「引き下げ民主主義」(丸山・後掲106、107頁)
  ・他者が自分よりも得をしているのではないか、という雰囲気を利用
  ・特徴(「既得権」「特権」批判・攻撃、公共サービスの切り下げに利用)
  ・市民の「分断」、民意の調達、権力の正統化

(3)不服従の価値を伝える必要性
  ・「民主主義と独裁・・・・の間の親近性」。大衆社会がもたらしたのは、「徹底した自己喪失という全く   意外なこの現象であり、自分自身の死や他人の個人的破滅に対して大衆が示したこのシニカルな、あ   るいは退屈しきった無関心さであり、そしてさらに、抽象的観念に対する彼らの意外な嗜好であり、   何よりも軽蔑する常識と日常性から逃れるためだけに自分の人生を馬鹿げた概念の教える型にはめよ   うとまでする彼らのこの情熱的な傾倒であった」【以上、アーレント・後掲20、21頁】
  ・「若者をシティズンシップ教育と批判的思考によって現代世界に立ち向かえるよう教育しないのは、   彼らを『サメがうようよしている海へ準備なしで』放り込むようなものだ」
   【クリック・後掲10頁】。
 ①2つの教育モデル
  ・経済成長のための教育モデル
    *「短期的な利益の追求を国家が優先する状況」;実学優先の傾向、「人材」育成
  ・民主的な市民精神のためのモデル
   *「想像力や創造性に関わる側面、厳密な批判的思考に関わる側面」の危機
    *デモクラシーの存続と維持に必要なこと;「鋭い批判的精神、大胆な想像力、多種多様な人間の
   経験に対する共感的理解、そして私たちが生きる世界の複雑さの理解」【ヌスバウム・後掲10頁】
 ②市民養成のための学校の役割
  ・警戒すべき「病理」
    *過度の競争 → 勝ち負けが価値基準、「強さ」の強要、「自己責任」の受容
    *過度の潔癖さ・純粋性 → 異物の排除、「バイキン」狩り、いじめ
    *「嫌悪感」 → 「『純粋』なものと『不純な』ものに世界を二分すること」
  ・学校による有効な対策
    *病理を生む感情の除去 → 思いやり、感情移入、「立場を変えた思考」能力
    *病理を生む構造の除去 → 個人の説明責任(匿名性の排除)、他者を一人の個人として扱うこ
    と(「動物」「モノ」「数字」として扱わないこと)、積極的に批判的な声を上げること
    (反「イエスマン文化」)
  ①他者、特に劣っているあるいは「単なるモノ」と社会が見なしている人々の観点から、世界を捉える  能力を生徒に養うこと。②人間の弱さや無力さに対する態度を教え、弱さは恥ずべきことではなく、他  人を必要とすることは女々しくないと示唆すること、欲求や不完全さを恥じるのではなく、協力と互恵  性を築く機会と捉えるように子どもに教えること。③近くの、または遠くの他者に対して、真の関心を  持てる能力を養うこと。④さまざまなマイノリティの人々を「劣ってい」て「けがらわしい」と見なし  て嫌悪し、避ける傾向を和らげること。⑤他の集団(人種的・宗教的・性的マイノリティ・身体障がい
  者)の現状や真実を教え、ステレオタイプとそれに付随しがちな嫌悪感に対抗すること。⑥一人ひとり
  のこどもを責任ある主体として扱うことで、説明責任を養うこと。⑦批判的思考、および異議を唱える
  のに必要な能力と勇気を強く奨励すること。【以上、ヌスバウム・後掲58、59頁】

2 「後退」する判例と「前進」の可能性
(1)最高裁判決の論理と現状
 ①人権論の現状;思想・良心の自由の保障内容(①)、制約(②③)、制約の合憲性(④)
 ①「歴史観ないし世界観から生ずる社会生活上ないし教育上の信念等」といいうる。
 ②「個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできない」。
 ③起立斉唱行為は、「一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であ
  る」。これを求められることは、「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と
  異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることになり、その限りにおいて、その
  者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる」。間接的制約が許容されるか否かは、「職務
  命令の目的及び内容」並びに「制約の態様等を総合的に較量して、当該職務命令に上記の制約を許容し  得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当」。
 ④本件命令は、「慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするも
  のであって、・・・・生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円  滑な進行を図るものであるということができる」。「制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認め  られるというべきである」。                              
 ②裁量権の現状(最高裁2012年1月16日判決);減給処分、裁量権の逸脱・濫用
 ①「懲戒権者は、戒告事由に該当すると認められる行為の原因、動機、性質、態様、結果、影響等のほ
  か、当該公務員の上記行為の前後における態度、懲戒処分等の処分歴、選択する処分が他の公務員及び
  社会に与える影響等、諸般の事情を考慮して、懲戒処分をすべきかどうか、また、懲戒処分をする場合
  にいかなる処分を選択するべきかを決定する裁量権を有しており、その判断は、それが社会観念上著し
  く妥当を欠いて裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用したと認められる場合に、違法となるものと解
  される」。
②「戒告を超えて減給の処分を選択することが許容されるのは、過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴  や不起立行為等の前後における態様等・・・・に鑑み、学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不
  利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情が認められ
  る場合であることを要すると解すべき」。「例えば過去の1回の卒業式等における不起立行為等による
  懲戒処分の処分歴がある場合に、これのみをもって直ちにその相当性を基礎付けるには足りず、上記の
  場合に比べて過去の処分歴に係る非違行為がその内容や頻度において規律や秩序を害する程度の相応に  大きいものであるなど・・・・を要する」。
③「過去の入学式の際の服装等に係る職務命令違反による戒告1回の処分歴があることのみを理由に同第1  審原告に対する懲戒処分として減給処分を選択した都教委の判断は、減給の期間の長短及び割合の多寡
  にかかわらず、処分の選択が重きに失するものとして・・・・違法の評価を免れないと解するのが相当であ
  る」。

 (2)「内藤判決」(大阪地裁2015年12月21日)の問題性――判例の水準からの批判
  ①思想・良心の自由について → 基本的には最高裁判例を踏襲
  ・「憲法94条に違反する旨の府国旗国歌条例に関する原告の主張は理由がない」
    *法律と同じ目的で条例を定めより厳しい処分を適用することが「法律の範囲内」?
    *公務員に対する不利益処分は、「全国的に一律に同一内容の規制を施す趣旨」(最高裁1975年  9月10日大法廷判決)ではないか
  ②児童・生徒の思想・良心の自由・教育を受ける権利について
  ・「本件通達及び職務命令は・・・・生徒に宛てて発出されたものではな」い
    *教師に対する規制が自由な思想の流通を妨げ、児童・生徒の権利に影響を与える
    *書籍の自動販売業者(売り手)に対する規制について、青少年・成人(読み手)の表現の自由と     の関係から審査した判例(岐阜県青少年保護育成条例事件・最高裁1989年9月19日判決)との     整合性?
  ・「誤った知識や一方的な観念を子どもに受け付けるような内容の教育を強制的に施すことを目的とす    るものではない」(「植えつける」が正しい。旭川学テ事件・最高裁1976年5月21日大法廷判
    決)
    *公権力が思想の自由市場に与える「ゆがみ」(「給付」における言論規制)
    *特定の空間に閉じ込め「一方的な観念」を強制する「効果」(「囚われの聴衆」)
  ③減給処分の違法性について → 原告の主張をことごとく退ける
  ・「職務命令違反行為は、その結果、学校の儀式的行事としての式典の秩序や雰囲気を一定程度損なう
   作用をもたらすものであって、それにより式典に参列する生徒への影響も伴うことは否定し難い」
   *「原告の不起立行為により、平成24年度卒業式の進行が妨げられるなどといった現実的な支障は生
   じていない」とする認定(判決文31頁)との不整合
   ・「卒業式という重要な学校行事の秩序や雰囲気を損なうような行為に積極的に及んだものと評価で
   きる」  
   *「積極的に式典の進行を妨害したものではない」、「過去の非違行為における処分歴は、本件減給
   処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情とは認め難い」、「不起立行為等は積極的、
   物理的に式典の進行を妨害するものではなく、具体的に平成24年度卒業式が混乱した事実も認められ
   ない」等とする認定(判決文40頁)との整合性

(3)判例の批判的検討――判例の水準に対する批判
 ①「思想」と「慣例上の儀礼的な所作」との距離;他者の立場への「共感」の不在
  ・「宗教」の事例;愛媛玉串料訴訟判決(最高裁1997年4月2日大法廷判決)
   玉串料等の奉納は、「時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼に
   すぎないものになっているとまでは到底いうことができ」ない
  ・思想・良心のあり方は、個人によって多様であるはず
  ・思想・良心の自由という内心にかかわる人権について、「一般的」「客観的」な標識を持ち出してそ
   の合憲性を判断することには問題がある
 ②「思想」と「外部的行為」との距離;制約の直接性・間接性
  ・「宗教」の事例;剣道受講拒否訴訟判決(最高裁1996年3月8日判決)
   剣道実技の参加拒否の理由は、「被上告人の信仰の核心部分と密接に関連する真しなものであっ
   た」。本件処分は、「信教の自由を直接的に制約するものとはいえないが」、「重大な不利益を避け
   るためには剣道実技の履修という自己の信仰上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせられる
   という性質を有するものであったことは明白」。
  ・最高裁2011年6月6日判決に於ける宮川光治裁判官の反対意見
   「本件通知は,式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく,前記歴
   史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する強い否定的
   評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることがで
   きると思われる」。
  *強制する側の意図・目的も重視すべき
  ・直接的制約・強制ではないのか?
①思想良心    →    ②外部的行為     ←    ③②に反する行為の強制
【歴史観・世界観】     【敬意の表明の拒否】       【敬意の表明の要素を含む行為】
    *①と②が密接不可分である場合、②に対する規制は直接的制約
 ③「必要性及び合理性」判断への違和感
  ・最高裁2011年5月30日判決における須藤正彦裁判官の補足意見
①「職務命令において,高校生徒に対していわば率先垂範的立場にある教員に日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機を与える行為を行わしめることは当然」。
②「国民は,日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機を与える教育について,その提供を受ける権
  利を有するということができ,国はこれに対応してそのような教育の提供をする義務があるともいえる
  のであるから,教育関係者がその実践に及ぶことはその観点からしても当然」。      
  ・「秩序の確保」「円滑な進行」(最高裁判決)、「自国のことに注意を向ける」こと(須藤補足意
   見)は、規制目的として合憲か? → 制約を正当化しうるほどの利益?
  ・規制目的のために日の丸・君が代への「忠誠」を強制することの問題性
    *公務員である以上、憲法への「忠誠」は可能(第99条)
    *しかし、日の丸・君が代への「忠誠」と憲法への「忠誠」とは異なる
  ・「秩序」「進行」を妨げていないのに処分をすることの必要性・合理性?
    *「秩序」「進行」「注意を向ける」(目的)のためであれば、処分は必要性なし
    *それでも処分というのであれば、手段が目的化している(強制のための強制)
  ・「自国のことに注意を向ける」(須藤補足意見)と強制との関連性?
   *日の丸・君が代の「負の歴史」を通じて「目を向ける」ことも可能で必要

結――教育と「政治的中立性」――政治的な問題の扱い方
(1)「中立性」の誤解
 ①「触れない」ことは「中立」か? → No!
 ②表面的にのみ「触れる」ことは「中立」か? → Yes,But

(2)あるべき「中立」とは
 ①基本的な方向性
   ・概念を教える(概念は他の人と共有している)
   ・相違点に光を当てる(考えはそれそれ異なる)
   ・無理に結論を強要しない;コンセンサスの強要、教師の「権威」利用に注意
 ②応用問題;批判を許さないようなやり方で自分の主義主張を述べることはやらない
   ・但し、「先生はどう考えるのですか?」と聞かれたら・・・・

①「私の話は問題に決着をつけるためのものでは決してない」と説明する。 ②なぜ、私の個人的意見が質問者にとって興味深いのか、を尋ねる。 ③教師である自分の技能は、「主にできの悪い議論や解答を暴露することであって、自分で正解を出せるという点で自信満々なわけではない」と説明する。 ④最後に、「そうではあるけれども、と言って、かなり徹底した本音の答え」を示す。【以上、クリック・後掲33頁】
   ・「中立性」を疑う視点;「批判的思考」の実践

【参考文献】
H・アーレント、大久保和郎・大島かおり訳『全体主義の起源3』(みすず書房、1981)
B・クリック、関口正司監訳『シティズンシップ教育論――政治哲学と市民』(法政大学出版局、2011)
S・ミルグラム、山形浩生訳『服従の心理』(河出文庫、2012)
E・モラン、杉山光信訳『オルレアンのうわさ――女性誘拐のうわさとその神話作用[第2版]』(みすず書房、1980)
マーサ・C・ヌスバウム、小沢自然・小野正嗣訳『経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由』(岩波書店、2013)
伊勢崎賢治『日本人は人を殺しに行くのか――戦場からの集団的自衛権入門』(朝日選書、2014)
加藤直樹『9月、東京の路上で』)(ころから、2014)
丸山真男『「文明論之概略」を読む・上』(岩波新書、1986)
山竹伸二『「認められたい」の正体』(講談社現代新書、2011)

「教育における『不服従』の意義と裁判の行方-運動論と法律論との『共振』-」講演録

2016-10-05 22:52:37 | Tネット総会

2016年2月27日Tネット第4回総会での高作正博氏の講演「教育における『不服従』の意義と裁判の行方-運動論と法律論との『共振』-」の記録集を作成します。

講演は大阪地裁奥野裁判判決(2015.12.21)のすぐ後のものであり、その分析・批判が大きなテーマになっていますが、その後の地裁辻谷裁判判決6.7.6)にもそのまま当てはまります。さらに、一連の「君が代」不起立処分への法廷内外での闘いの法理論的指標となる射程を持ったものでもあります。

今後の私たちの運動に活かしていきたいと思います。ここでは目次を紹介します。

教育における「不服従」の意義と裁判の行方

- 運動論と法律論との「共振」 -


はじめに
「ルール」から「儀礼的所作」まで
序――「起立」「斉唱」強制の理由 
     
(1)「ルール」と「人権」の区別――「ルールに従うのは当然」なのか? 
①橋下大阪市長の発言(2012年3月14日記者会見。『朝日新聞』同月30日朝刊)
②判例における同旨の傾向

(2)「儀式」と「人権」の区別 ―― 「単なる儀礼的な所作」なのか?
①起立斉唱拒否事件における判例の立場
②「人権侵害はなかった」!?
服従のメカニズムと不服従の実践

1 不服従の意義と批判精神
(1)服従の傾向と同調圧力
①組織内部での自発的服従と同調圧力
②外部に対する「他者」の排除
③情報操作による選択の誤り

(2)権力への服従の構造
①承認不安:「私」の価値への不安
②分断統治;「引き下げ民主主義」

(3)不服従の価値を伝える必要性
①2つの教育モデル
②市民養成のための学校の役割
判例の現状とその分析・批判

2 「後退」する判例と「前進」の可能性
(1)最高裁判決の論理と現状
①人権論の現状;思想・良心の自由の保障内容(①)、制約(②③)、制約の合憲性(④)
②裁量権の現状(最高裁2012年1月16日判決);減給処分、裁量権の逸脱・濫用

(2)「内藤判決」(大阪地裁2015年12月21日)の問題性――判例の水準からの批判
     ①思想・良心の自由について → 基本的には最高裁判例を踏襲
②児童・生徒の思想・良心の自由・教育を受ける権利について
③減給処分の違法性について → 原告の主張をことごとく退ける

(3)判例の批判的検討――判例の水準に対する批判
     ①「思想」と「慣例上の儀礼的な所作」との距離;他者の立場への「共感」の不在
②「思想」と「外部的行為」との距離;制約の直接性・間接性
③「必要性及び合理性」判断への違和感
教育の場での「政治的中立性」

結――教育と「政治的中立性」――政治的な問題の扱い方
(1)「中立性」の誤解
①「触れない」ことは「中立」か? → No!
②表面的にのみ「触れる」ことは「中立」か? → Yes,But

(2)あるべき「中立」とは
①基本的な方向性
②応用問題;批判を許さないようなやり方で自分の主義主張を述べることはやらない





憲法で保障されている「思想」「良心」の自由とは? ―私自身の「思想」と「良心」に即して―

2016-08-13 10:41:42 | Tネット総会
人事委員会戒告処分不服審査の最終陳述書、減給取消の控訴理由書の準備をしながら、2015年1月31日に開催第3回Tネット総会の折、配布させていただきましたTネット資料集Ⅲ所収の下記論考に自分自身の体験に即して「君が代」不起立の理由が具体に記載したことを思い出しました。少し長いですが、お読みいただければ幸いです。



憲法で保障されている「思想」「良心」の自由とは?
                 ―私自身の「思想」と「良心」に即して―

 辻 谷 博 子

1.「思想」「良心」の自由って何?
 1952年生まれの私は、日本国憲法のもと平和と民主主義を学ぶなかで育ちました。小学校で初めて憲法について学んだとき、とても誇らしげな気持ちになったことを今でも覚えています。学校すなわち教育の場で「君が代」斉唱が強制されてよいものかどうか、様々な側面から考えることができますが、ここでは憲法を手掛かりに考えてみたいと思います。憲法19条は、「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない。」と規定しています。では、いったい「思想」の自由とは何か?「良心」の自由とは何か?それは誰が有しているものなのか?また、「侵してはならない」とありますが、誰に対して禁じているのか?そして、憲法19条で保障されている「思想」・「良心」の自由と「君が代」強制とはどのようなかかわりがあるのか?自らの体験を踏まえて考えてみたいと思います。なぜなら、「思想」・「良心」の自由とは多数が決めるのものではなく、極めて個別的なものであると考えるからです。

2.「君が代」強制条例と処分条例
2011年6月3日大阪府議会は、大阪府の教職員が入学式や卒業式等で国歌斉唱時起立し斉唱することを義務付ける条例、すなわち「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」(以下、「君が代」強制条例)を可決し、大阪府は6月13日施行しました。
そして、翌年4月1日には、不起立3度で免職とする、いわば「君が代」処分条例とも言える「大阪府職員基本条例」(以下、「君が代」処分条例)を含む「大阪府教育行政基本条例」「大阪府立学校条例」「職員基本条例の施行に伴う関係条例の整備に関する条例」、いわゆる教育4条例を施行しました。

3.「思想」とは、背骨のようなもの
私は、自らが勤める府立高校において卒業式や入学式「式次第」で「君が代」斉唱が実施されて以来、斉唱時には常に着席して来ました。学校は多様な考え方を尊重する場でなければならないはずです。また、異なる考え方を尊重する場でなければなりません。オリンピックやワールドカップとは違い、教育の場で国家のシンボルである国歌を儀式で斉唱することは、事実上生徒に強制することになります。国歌斉唱によって帰属意識や集団意識を高めることは、愛国心の発露から来る健全な国家への批判をも封じることになると思ったからです。このことは、長年の間に培われた私の「思想」と関係しています。思想とは、いわば背骨のようなものではないでしょうか。また、教員をするなかで、最低限、これだけはしてはならないと戒める「良心」とも関係しています。私にとって、「君が代」斉唱時に立たない(立てないと言った方が正確かもしれません)という行為は不可避の行動でした。
 よって、たとえ条例で義務付けられようが、校長から職務命令が発出されようが、それらにしたがうことはできませんでした。オーバーに聞こえるかもわかりませんが、なぜなら、それは私にとってこれまで生きてきたこと、そしてこれから生きていくうえでも必要な、つまり背骨のようなものと関係していたからです。私にとって学校で強制される「君が代」の問題を避けて通ることはできませんでした。それは畢竟、私の「思想」の問題であり、私の「良心」の問題であったということができます。

4.良心の自由とは?
「思想」が背骨のようなものなら、では、「良心」とはいかなるものでしょうか。憲法19条が保障するところの「良心」の自由とはいったいどのようなものでしょうか。それは、多数者によって決められる、ある種の規範なのでしょうか。しかし、それなら、憲法によってわざわざ、その自由が規定されることはないはずです。「良心」とは、一般的・客観的に判断されるものではなく、極めて個別的なものであるはずです。だからこそ、為政者に対して、その自由を侵すことを憲法は禁じているのではないでしょうか。

『広辞苑(第六版)』によると、「思想」「良心」はそれぞれこうあります、
「思想」①考えたこと。かんがえ。「誤った―」
     ②〔哲〕ア判断以前の単なる直観の立場に止まらず、このような直観的内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。「新しい―」
         イ社会・人生に対する全体的な思考の体系。社会的・政治的な性格をもつ場合が多い。北村透谷、厭世詩家と女性「安んぞ知らむ、恋愛は―を高潔ならしむる嬭母なるを」
「良心」 何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識。「―がとがめる」
 思想が「体系的にまとまったもの」、「社会的・政治的な性格」と表現されているのに比して、良心は「個人の道徳意識」とあります。

では、その良心、すなわち個人の道徳意識の「自由」を憲法で保障するとはどのようなことなのでしょうか?そこには、まずその前提として、個人の道徳意識が時代や社会のなかで侵害される恐れがあるという認識があります。そして、個人の道徳意識とは時代や社会で多数者によって、まして為政者によって決定されるものではないという認識があります。それはあくまで「個人」のものなのです。「良心の自由」とは、たとえ社会や世間すなわち多数者と対立する道徳意識であっても、個人の尊厳に基づきそれを有することはあり得るということではないでしょうか。つまり、良心とは、多数者の価値観によって判断されるものではなく、むしろ多数によって形成される主流的な秩序、すなわち多数者価値とは相容れない、もしくは対立する少数者の抱く道徳意識であり、その権利擁護こそが憲法19条の趣旨ではないでしょうか。私たちは、良心とは、すべての人間が普遍的に抱く道徳意識だと錯覚しがちです。しかし、もし良心がそのようなものであるなら、なんら法的にその自由を保障する必要などないはずです。多数者価値観によって少数者が迫害もしくは排除されないためにこそ、憲法19条は存立すると考えます。

5.私自身の思想と良心
「君が代」―それ自体の問題性はひとまず置くとして、ここでは、「君が代」が強制されること、すなわち、「君が代」強制条例と、それを踏まえて発出された通達ならびに職務命令が、私自身の「思想」と「良心」を侵害するものであることを明らかにしたいと考えます。
そこで、まず問題となるのは、そもそも私の「思想」とは何か?「良心」とは何か?と言うことになります。先に記しましたように、それは、私のこれまでの60年余年の生きて来た過程、特に38年間の教員生活を通して私のなかに「培われ」「蓄積されたもの」であり、一個人として、また特に教員として有するに至った善悪の判断基準です。それらは、普遍的あるいは社会的に確立した善悪の認識と言うようなものではなく、それらを前提としながら、より血肉化されたものであり、仮に、それを葬り去るならば職業人としても人としても精神的死に至るもの―そのようなものと考えます。そのことをご理解いただくためには、教員としてどのような体験をしたか記す必要があります。なぜなら、それらの体験によって、私の「思想」と「良心」は私のなかに構築されたものだからです。

6.―教員として―
(1)南寝屋川高校において
 ① 解放教育に触れて
1975年4月、最初の勤務校として私は大阪府立南寝屋川高校に赴任しましました。当時、同校は同和教育推進校の指定を受け、被差別の問題や、在日朝鮮人の問題に取り組んでいる高校でした。世の中にある差別や偏見と真っ向から向き合う同校の教育理念は、自分が受けて来た公教育の中では実感できなかったものでした。私が受けた教育―小学校時代は越境入学が「ふつう」であり、また中学おいては、当時「府験(フケン)」「市験(シケン)」と呼ばれる統一テストの成績が広く保護者や生徒にとってある種の判断基準であり、そこには厳然たる学校差別がありました。また中学における進路指導は、成績による輪切り指導が「ふつう」でした。おかしいと感じることが多々ありましたが、どうすることもできませんでした。ところが、南寝屋川高校では、世の中にあるおかしなことに対してそこからの解放を求める教育理念がありました。私は初めて教育の可能性に触れた思いでした。
差別について「自分は差別をしない」という意識の問題で終わっていましたが、実は、それこそが自らの差別観を内包し隠匿するものであったことも、同校の(人権)教育を通して気づくことができたように思います。また、差別とは、「する・しない」という個人の心情的な問題ではなく、社会に構造的に存在する差別に対し自分はどう関わるかという問題であることも(人権)教育を通して教えられました。

② 就職差別事件
赴任後4年目にして同校6期生を私は初めて担任として持ち上がることになりましました。そして(人権)教育推進委員としても積極的に人権教育にかかわっていきました。そこにある種の可能性を信じることができたのです。差別解放研究会や朝鮮文化研究会の生徒から聞く話は、私にとってこれまでの人生で初めて触れる話ばかりでした。たとえば、ある被差別に住む生徒の、「差別があかんとか、するなと言うだけでなく、先生らは、○○に住むおっちゃんやおばちゃんらが、どうやって差別と闘って来たか、そういう話をみんなにして欲しい」と言う言葉に、教師である私自身がまず差別と闘って来た歴史を知らなければならないと思いました。ある在日の生徒が言った「他の日本人の子らは、なにやっていいかわからんみたいやけど、私は在日朝鮮人差別と闘っていくということがはっきりしている。」との言葉に、闘うことの勇気のようなものを感じました。実際に差別がありそれに抗していくことが大事だと教えてくれたのは、彼や彼女ら、差別されている現状に向かい合って来た教え子たちであったように思います。
しかし、その一方で、「もし、私が被差別出身だということがクラスで知られたら自分は生きていくことはできへん。自殺する。」という生徒もおり、差別が人の心をそこまで苦しめることも知りました。
1980年、私はあの時教師という仕事がどういうものなのか知ったのかもしれない、と今振り返って思う事件が起こりました。それは、私が初めて担任した3年生のクラスで起こった就職差別事件です。これまでは、書くことをためらって来ましたが、これを機会に少々長くなりますが、あのときのことを振り返ってみたいと思います。

以下、事実経過―
その生徒をかりにAとする。Aは、通名(日本名)を使い、高校に入学するまでは自分が韓国籍であることは知らなかったが、朝鮮文化研究部や朝鮮奨学会の活動を通して、「本名で同胞のために働きたい」と考えるようになる。就職第一次試験で、彼女は本名で応募書類を、甲社(仮称)に提出した。私は担任として就職担当者と共に、甲社を訪れ、Aが本名で就職したいと考えている意向を伝え、差別選考がないようお願いをした。その時、企業側人事担当者が言ったこと―「私どもはなんら差支えないが、(本名となると)ご本人さんが、(周囲との軋轢の中で)辛い思いをなさるんじゃないでしょうかね。」結果は不合格、理由は「総合判断で点数が足りなかった」とはっきりしないものだった。生徒も私も差別を疑ったが、それを立証する手立ては何もなかった。やむなく二次試験としてAは乙社(仮称)を受けることとなった。ところが結果はまたしても不合格。しかも、乙社が就職面談の際に、近畿統一応募用紙の趣旨に違反する質問があったことが判明し、学校は大阪府教育委員会ならびに大阪府労働部と連携し、就職差別違反選考の撤回に取り組んだ。
当時、今でもそうだろうが、府立高校では、3年生1学期のHRで「近畿統一応募用紙」がどのような経過を経て生まれたかを学び、就職差別の問題を学ぶことが常であった。もちろん、私も初めての3年担任としてHRでこの問題を取り上げ、就職差別を許さないことが大事であると生徒に話をしていた。
Aが受験した企業は、一旦はそのこと、つまり違反質問を行ったことを認め謝罪したものの、後には居直り差別選考の結果を翻すことはなかった。「私は本名で同胞のために働きたい」と語っていたAは、この差別選考の結果に精神的にすっかり参ってしまっていた。同校では、管理職をはじめ進路指導部、同和教育推進委員会が、大阪府教育委員会や大阪府労働部と折衝を積み重ね、何とか、企業側に「差別選考」を認めさせ「合格」をかち取ろうとしたが、企業側は頑として認めず、結局差別選考を撤回させることはできなかった。Aは、埼玉の親せきをたより大阪を離れていった。私は、卒業式を終えた後の3月に埼玉の親せき宅にAを訪れたが、Aは差別の現実に委縮してしまっているように見えた。

この時、私は差別とはどのようなものであるか初めて体験しました。社会にあまりにも根強く残る差別と、その壁に阻まれ理想や夢を捨てざるを得なかったに生徒を前にして、私は教員という仕事の持つ意味と、また、自分の教員としての無力さを痛感することとなりました。
その後も、私は、同校で何人もの在日朝鮮・韓国人の生徒、被差別の生徒、家庭的、経済的に被差別の状況におかれている生徒と接して来ました。そのたびに、構造的に差別が温存されている社会を変革しなければならないと思う一方で、一教員としての自分の無力さに対する痛恨の思いはいつまでも消え去ることはなく、いや、むしろ深く沈殿し、教育という仕事の持つ重圧感に押し潰されそうになったこともありました。

③大喪の礼
1988年4月、私は同校14期生の入学を3度目の担任として迎え入れました。そのなかには、中学生のころ、それまで名乗っていた通名すなわち日本人名から朝鮮人の「本名」を名乗り始めたOがいました。そのときの私の正直な気持ちは、彼女と向かい合いたいと言う気持ちと、教師として『在日』の生徒に私がどのように向かい合うことができるのだろうかと不安も大きかったのです。しかし、OやOの母親の話を通して、日本社会にある朝鮮人に対する差別が構造的にも、また心情的にもあることを改めて感じ、それに向き合わなければならないと思うことができたように思います。1988年秋、ソウルオリンピックが開催され、テレビ等を通じて、隣国である韓国はそれまでに比して非常に身近になっていましたが、OやOの両親は「朝鮮」籍(それは国籍としてではなく、記号として扱われているのですが)を変えずにいました。朝鮮半島が分断されている現実は、そのまま日本社会の問題であり、それを解決していくのは日本人の責任です。
1989年1月、昭和天皇の死去に際して、学校で「日の丸」が半旗として掲揚されることになりました。もちろん、職員会議では多くの反対の声が起こりました。これまで教員として接して来た何人もの、いまだ本名を名乗ることさえ叶わない在日韓国・朝鮮人の生徒を思えば、戦争を象徴するものとして、また日本国家を象徴するものとして天皇の死を悼む「日の丸」半旗掲揚は到底受け入れられるものではありません。しかし、当時の校長はそれらの反対を押し切り「日の丸」掲揚を断行しました。府立高校教員となって、その時、私は初めて校門に掲げられた「日の丸」を見ました。取り返しのつかないことをしてしまったと言う思いがありました。いくら反対したと言っても私は「日の丸」を掲げる方にいたのです。それが私には遣りきれなかったのです。私にできることは、「日の丸」掲揚に対する異議申立てとして始業式に出ないことぐらいでした。学校で「日の丸」「君が代」が強制されるたびに、私たち教員はそれへの精一杯の抵抗の形を作っていったのです。後の「不起立」も同じことでした。当時私だけでなく担任であった教員数名も同じように始業式には参列しませんでした。いかに文科省からの指導があろうが、儀礼上のことであろうが、同和教育を通して差別の現実を知り、平和教育のなかで戦争の歴史を生徒に教え、ともに学んで来た立場から、教員として、再び天皇賛美の行為につながる、学校における「日の丸」の掲揚は認めるわけにいかなかったのです。始業式参列を拒否し生徒にその問題性を伝えることが私にできる精いっぱいの行動でした。

④ 89年学習指導要領
昭和天皇の死からほぼ1か月後、1989年2月10日文部省(当時)は新学習指導要領案を公表しました。1947年から数えて大きな改訂としては5回目になるこの案は、道徳の徹底や小学校6年の歴史学習で「教えるべき歴史上の人物」として日露戦での「英雄」東郷平八郎が推され、また、「伝統」が強調されるなど、国際化をたてまえとしながらも、日本人化教育いわば「愛国」教育強化の内容になっていました。そして、学校での「日の丸」「君が代」の扱いが、それまでのゆるやかな「強制」から、事実上の義務付けに転じたこともいわばその一環であり、象徴とも言えます。これまでは、「祝日儀式など」とぼかし、「国旗を掲揚し、国歌を斉唱させることが望ましい」という文言であったものを、案では「入学式や卒業式においては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とし、この案はそのままの内容で3月5日文部省から告示されることとなりました。以後、全国的に、そして大阪でも、学校への「日の丸」「君が代」の強制が一段と強まっていきました。振り返って思うに、学校への「日の丸」「君が代」の強制は、市民にとっては自身の学校時代のその時(だけ)のものでしかなく、大した印象も持たれないかもしれませんが、私たち教員は、学校という場で、次第に「日の丸」「君が代」の強制が進む有様を30年近くずっと見続けて来たわけです。学校の教員と市民との温度差は、そのことと関連しているように思います。そしてもう一点あげるならば、教員は、教育の担い手であるだけに、「する」側の責任の自覚もありました。

⑤ 大喪の礼
1989年2月24日、大喪の礼当日、府立高校はすべて休校となりました。しかし、同校では多くの教職員が大喪の礼という天皇制賛美につながる行事を問題視し、自主的に天皇制について学習会をもちました。私は.組合には入っていませんでしたし、差別問題で学ぶ以外は、それまで象徴天皇制に対し特に疑問を持つことはありませんでした。ただ、昭和天皇死去の前後の奇妙な自粛ムードにはとても無気味はものを感じました。それまで特に意識したことのない「天皇制」が私たちの生活のなかに厳然としてあり、それが私たちの生活のある種の決定権を持っている、天皇制ってこういうことだったのか―そんな気分でした。いわゆる「天皇制」なるものに危険を感じたのはこの時が初めてでした。それは、右へならへの意識とともに、日本人をある種の思考停止状態に陥れるもの、およそ民主主義とは相容れないもの、意識する意識しないにかかわらず人々をひとつの流れに連れていくもの、うまく言えませんが、戦後の日本国憲法下の天皇制を実感するに至った体験でした。

(2)東寝屋川高校において
① 奨学金係り
1989年4月、私は2校目の勤務校である東寝屋川高校に転任しました。ここで、私は初めて生活指導部奨学金係りの仕事をしました。その奨学金係りの仕事を通して一人の在日朝鮮人生徒と出会いました。その生徒とは、本名で学校生活を送り朝鮮奨学会へ申込みを行った2年生のKでした。Kは学校生活を送るなかで出くわした「在日」としての体験を私に話してくれました。これは、日本社会で日本人として生まれ日本人として生活する私も含めた多くの人間にはなかなかわからないことでした。思うに、教員とはこういった出会いのなかから多くのことを知っていくのだと思います。私は前任校南寝屋川高校朝鮮文化研究部の生徒Oを紹介するなど、何とかKがKとして生きていくために彼女のアイデンティティを尊重することができる道がないかと模索しました。
一方、「日の丸」「君が代」の強制は、この時期、またその度合いを一段と強めることとなりました。いったい誰が?―文部省?政治家? ただ、ひとつ言えるとしたら、この日本社会では、おそらく戦後ずっと国家を優先して考える勢力と国家以前に国民つまり個々人を中心に考える勢力とがいつも拮抗しながら時代を築いて来たのではないでしょうか。そしてそれらの勢力にとって教育と情報を掌握し利用しようとするのは、おそらく世の常なのでしょう。私、いや私たち教員は、過去の歴史から考えても、国家のための教育には大きな抵抗感があったのです。

② 強まる強制
1989年度の卒業式を巡って、校長からは、新学習指導要領にそって「『日の丸』を掲揚し、『君が代』を斉唱したいと提案がありました。そのため数日にわたる職員会議が続き、多くの教員がそれぞれの「日の丸」「君が代」に対する思い、また学習指導要領に則り公教育に「日の丸」「君が代」を取り入れること、すなわち「愛国心」教育は、果たして問題はないのか、戦前の軍国主義教育が復活することになるのではないか、戦後民主主義教育とは何であったのか等々発言し、侃々諤々の議論が行われました。あれほど「日の丸」「君が代」について真剣な議論が行われたことは後にも先にもありませんでした。ほぼ、全員に近い教員が発言しました。しかし、最終的には、校長との妥協案として「日の丸」は生徒や保護者の見えないところで掲揚し、「君が代」は、開式前の誰もいない会場でテープが流すこととなりました。以降、毎年のように職員会議では、卒業式前には「日の丸」「君が代」を巡って、断行しようとする校長と反対する教職員の間で議論があり、平行線のままその妥協案を模索することが恒常化していきました。

③ 13期生入学式
1990年4月、私は、同校13期生の担任となりました。恒例のように卒業式前の職員会議では、「日の丸」「君が代」の実施を巡って議論がありました。ただ、これは学校の教職員以外には見えない議論でした。私たち教職員は毎年のように「日の丸」「君が代」を学校で取り行うことの是非について話し合い、実施すべきではないとの思いを強くしていきましたが、それを保護者や生徒と共有する場はほとんどありませんでした。それは教育の担い手として教職員の責任の問題だったのです。この年も職員会議においては、学校で「日の丸」「君が代」を執り行うべきではないとの意見が圧倒的多数であり、管理職と対立することとなりました。職員会議では、反対決議が挙げられ、入学式においては、同校教員のうち一人が、正門前に掲揚されていた「日の丸」を一時おろす行為までありました。当時は、その教員が処分されるようなことはありませんでした。徐々に、教職員と市民との間で、この問題に対する意識は大きく隔たっていきました。それは今振り返ってわかることなのですが…。

④ サムルノリ
さて、Kは2年生となり、周囲の無理解な発言を私に訴えることがありました。私は、文化祭で朝鮮文化にかかわる取組をしてはどうかと提案しました。Kは自分のアイデンティティを巡って、それを自らのなかにどのように作り、そしてそれを通して他者とどのようにかかわっていくかが見えず迷っているように見えました。Kはいろんな意味で力を持った生徒でした。この提案を実現していく上ではいくつかものハードルがありましたが、彼女は有志を集め朝鮮民族音楽である「サムルノリ」演奏を企画することになりました。私はその顧問となり、10月のある日、他の在日朝鮮人生徒や日本人生徒と共にサムルノリ発表会を行いました。後日、それを冊子としてまとめましたが、この取組を通して私も色々と考えさせられました。日本社会が圧倒的多数の日本人で構成されている実態において、少数者である在日外国人、特に在日韓国・朝鮮人の姿はなかなか見えて来ません。外観は日本人とそう変わらず、しかも、戦争の歴史のなかで日本人名を名乗ることを余儀なくされ、戦後も占領政策やその時々の日本政府の政策に翻弄されながら、いまだに本名を名乗る環境も整っていません。一教員として、私は改めて公教育のなかで朝鮮人生徒の人権を保障していくにはどうしたらよいだろうかと考えることになりました。
1992年4月私が担任する3年のクラスには在日朝鮮人生徒4人がいました。4人はそれぞれ日本社会で少数者として生きる課題を抱えており、本名ではなく「通名」すなわち日本名で生活していました。彼・彼女らが提起する問題は、すぐさま解決できるような問題ではありませんでしたが、私は、この4人と接するなかで、日本人でありかつ府立高校教員である自分の責任を自覚していったように思います。人であることの責任と教師であることの責任が、「日の丸」「君が代」問題における私のかかわり方を明確にしていきました。そういった積み重ね、蓄積のもとに、「不起立」はあるように思います。

⑤ 妥協案
卒業式や入学式では、教職員と校長との話し合いのなかで一種の妥協案として「生徒の見えないところ」での「日の丸」掲揚。「生徒が入場する以前」の会場で「君が代」演奏のテープを流す形が続いていました。生徒や保護者の知らないところで。年を追うごとに、卒業式前になると例年のように繰り返される、管理職からの「学習指導要領に基づいて国旗国歌を執り行う」と、「学校で『日の丸』『君が代』を執り行うことは過去の歴史から見て受け入れられない」という教職員の意見は平行線のままかみ合うことはなく、次第にそういった議論に疲れ果てる教員も増えて来ました。しかし、卒業式前には、十名を超える教職員で何度も何度も繰り返し校長を説得しました。これも繰り返しますが、生徒や保護者の知らないところでです。私たちは、過去の歴史を繰り返さないことは教員の役目だと考えていたのです。

⑥ 18期生を迎えて
1995年4月、私は18期生1年を担任として迎え入れました。新校長に赴任したH校長に対して、1年学年団を中心とした教員は粘り強く「君が代」斉唱を止めてほしいと説得を続けました。結果、校長は18期生新入生の中に車椅子を利用している障がいのある生徒がいたこともあり、力づくで「君が代」斉唱を強制しないという立場に立ちました。これは東寝屋川高校だけのことではなく、府立高校の多くの教職員は、年度末の卒業式から年度当初の入学式にかけて「日の丸」「君が代」を巡って何度も何度も管理職との間での話し合いをもったのです。そして、妥協案ともいうべき形で、だれもいない場所で「日の丸」を掲揚し、卒業生や入学生が入場する前のだれもいない式場で「君が代」のテープが流されていたのです。欺瞞的な遣り方には違いないし、ある見方をすれば滑稽にさえ思われるかもしれませんが、それでも私たちは、生徒の目に触れないということで「日の丸」「君が代」が公教育のなかで再び利用されるのをぎりぎりのところで阻止できたという気持ちがありました。今振り返って見て、私は、そういうやり方が果たしてよかったのか、生徒自身がこの問題を考える機会を奪うことになったのではないか、と悔いを感じることもあります。

⑦ 人権教育
さて、私は、同校で18期担任団人権教育係りとして、1年生入学当初に起こった「いじめ」事件をきっかけに「いじめと人権問題」に取り組みました。そして、人権学習講演会には朴一さんを迎え民族差別の問題に取り組み、また教員向け人権研修としては、寝屋川市に住むKさんを迎え、「この寝屋川で在日朝鮮人のオモニとして生活する中から見えて来たもの」というタイトルで語っていただきました。それらの取り組みの一方で、18期生に在籍する3名の在日朝鮮人との対話も持ち続けていました。が、うち一人は「帰化」を考えているなど、日本社会で在日朝鮮人として生きていく困難性を、ますます私は認識することになりました。
1998年度、私は担任を離れ、人権教育推進委員会の主担となりました。職員会議では校長から学習指導要領に則って入学式や卒業式において「日の丸」「君が代」を実施したい、つまり檀上に「日の丸」を掲揚し、式次第に「君が代」斉唱を入れたいとの提案がなされ、それに対し教職員は全員一致で反対しました。私は、これまで以上に人権教育の立場から、積極的に校長交渉等にも参加し、「日の丸」「君が代」実施の問題性を指摘しました。

⑧ 国旗国歌法
1999年2月、「日の丸」「君が代」の実施を巡って広島でひとりの校長が自死しました。それを契機に政府は1999年夏、国旗国歌法を制定したのです。唖然とする思いがありました。先にも記しましたが、学校における「日の丸」「君が代」の実施については、それこそ戦後すぐから、反対するふたつの勢力がたえず争いを展開していたのです。それは、よく日教組vs文部省と言われますが、組合員であるかどうかに関係なく実際に生徒と向き合っている教員と国家への帰属意識を持たせたいと考える行政との対立であったように思います。国旗国歌法制定というひとつの山場で、その時、私が勤める東寝屋川高校で具体にどのようなことが起こったか、記したいと思います。

⑨ 22期生を迎えて
 同年4月、私は22期生の担任となりました。新たに赴任したK校長は入学式式次第において「君が代」斉唱を行うと宣言しました。この年の卒業式まで、同校では、式場で開式前に「君が代」のテープを流す方法が取られていました。先に記したように、府教委の指示を受けた管理職の、とにかく「君が代」を流す形を作りたいという意向と、最低限生徒にだけは聞かせたくないとする教職員の意向の妥協点がその形だったのです。何度も話し合いを持ちましたが、それでもK校長は実施する意向を翻すことはありませんでした。私たち1年学年団は、教員にできる最低限のこととして入学式直前に新入生にプリントを配布し、その事実を伝えるとともに、入学式の主役として、新入生の一人ひとりに日本国憲法19条思想・良心の自由が保障されていること、21条では表現の自由が保障されていることを担任から伝えました。結果、入学式では多くの新入生が「君が代」斉唱時に式場から退出し、また私を含む多くの教員も退出しました。上意下達により、「君が代」を式次第に入れ有無を言わさず起立し歌わそうとするやり方は人権教育の観点のみならず公教育の条理に照らし合わせても納得できないものだったわけです。私は、担任クラスでプリントを配り、新入生にことの経緯を話し、『憲法』や『子どもの権利条約』の話をしましました。そして、このような事態になったからには、一人ひとり、自分の問題として判断してほしいと話しましました。その時、真ん中あたりに座っていた一人の生徒が隣の席の生徒に『そんなん、どうするか学校で決めておいてほしいやんなぁ』とそういうことを話す声が聞こえて来ましました。私は、それが入学生にとっては正直な思いだろうと聞きながら、これはだれかに決めてもらってそれに従うという問題ではないので、自分でどうすればいいか迷う気持ちも当然あると思うが、でも、一人ひとり自分で決めて欲しいし、決めなければならないことだというようなことを話しました。
入学式が終わって、生徒や保護者のなかには、今後の高校生活に不安を抱かれる方もいるのではないかと思い、人権教育の係り、学年通信の係りとして、校長や学年団の教員らと相談の上、校長からのメッセージとともに、次のような記事を掲載しました。長くなりますが、全文を引用します。
「 東寝屋川高校では、開校以来、今春の入学式まで新入生を前に「君が代」が流れたことはありませんでした。今春の入学式を前に、学校長から入学式において開式に先立ち『君が代』を入学生に聞かせたいとの要請があり学校長ともども教職員一同この件について限られた時間の中で論議を続けて来ました。これまでの本校の教育活動の経過を振り返り、そして、また、「日の丸・君が代」について入学生・保護者の方々がそれぞれのご意見をお持ちであろう事を考えあわせ、本校の教育活動のスタートの場である入学式において、主役である新入生一人一人のアイデンティティを尊重するにはどのような形で入学式を執り行うのがよいのか、どうすればよいのか、入学式直前まで議論を続けました。何よりも、入学式が混乱するようなことは何としても避けたいというのが、学校長を初め、私たち一年学年団、そして全教職員の一致した意見でした。
入学式当日、「君が代」を流すに先立って、メロディ-だけでも新入生に聞かせたい、しかし、どうしても聞くことができないという人については配慮したいとの学校長の意向を受け、一年学年団として、式場入場の前に今起こっている事態を新入生に説明をし、そして、式場において校長より前述の説明がなされた折り、新入生が意見表明(退席するか、その場に残るかの判断)をしやすいように、学年団の教師から生徒に対し「このような形で『君が代』を聞きたくないとう思う人は、退席できます」と声をかけるようにした次第です。
思いがけない突然の事態にとまどった生徒も多かったと思います。保護者の方からも、いくつかの忌憚なきご意見をいただいております。私たち一年学年団は、この「入学式」が巻き起こした波紋を忘れることなく、今後の日々の教育活動を通して「生きる力」―さまざまな意見に耳を傾け、論議をし、考える中で、自らの意見を表明することのできる力の育成を目指していきたいと考えております。どうかこれからも子どもたちの教育を巡っての連携についてご尽力のほどよろしくお願いします。」

校長の強引とも言える「君が代」実施の後、「日の丸」「君が代」問題はあからさまになり、皮肉にも、保護者や生徒を含めて真剣な議論を交わすことになったのです。
そして、4月の人権教育において、生徒たちに入学式についての意見・感想を書いてもらいました。入学式における「日の丸」「君が代」について、多くの生徒たちが意見を書いてくれました。それは今も残していますが、この時、確認できたことは、生徒たちの間に実さまざまな意見がある以上、それぞれ異なる意見を尊重する必要性でした。これは、私自身の、これまでの「日の丸」「君が代」問題に取り組む教員としての責任の内実が変わったということでした。つまり、生徒の目に触れさせない教員としての責任から、生徒らの間にある多様な意見を尊重する、とりわけ少数者の意見を尊重する責任を大きく意識することになったのです。

⑩ 天皇在位10周年
国旗国歌法が成立したは、その年1999年の8月のことでした。
そして、同じくその年1999年秋「天皇陛下御在位十年記念式典」の挙行に際して、K校長は国旗掲揚を提案しました。学校における「日の丸」「君が代」の強制がまた一歩進んだわけです。私は、これまでに行って来た人権教育の観点から考えれば、天皇の在位に事実上祝意を強制する行為を教育の場ですべきではないと考え、他の教員とともに強く反対しました。また、20期生3年生有志もこの問題について校長に話し合いを求めました。しかし、K校長はどうしても譲らず11月12日「日の丸」掲揚を行いました。私たち東寝屋川高校教職員は、一同の総意として、前日の11日には、生徒・保護者宛てに教育の場での「祝意の強制」「掲揚の強制」は憲法上すべきではないという趣旨のプリントを配布しました。
そのように学校で強制の度合いを強める「日の丸」「君が代」の実態を明らかにすることが、私たち教職員にできる精一杯のことだったのです。

⑪ 20期卒業式―うちらのめでたい卒業式には血で汚れた「日の丸」や「君が代」はいらん!
2000年3月東寝屋川高校20期卒業式はとりわけ忘れられません。私は生徒たちから教えられました。東寝屋川高校では、毎年、卒業生が卒業式委員会を結成し、自分たちの卒業式に取り組むことが伝統でありました。20期生は「日の丸」「君が代」問題に取り組みました。まず、卒業式委員は、その実施の是非についてみんなの意見を集約し校長と話し合いまで持ちました。そして、学習指導要領を根拠にあくまで実施するという校長に対し、「うちらのめでたい卒業式に血で汚れた「日の丸」も「君が代」もいらない」と、全校生から署名を集め、1、2年生のクラスにおいてもアピールを行いました。私は、このとき中心となった女子生徒から次のような話を聞いました。「私は小学校時代に教わった平和教育や同和教育を通して、学校に「日の丸」や「君が代」はいらないと思っていた。ところが、東寝屋川高校に入学したとき、だれもいないところにしても『君が代』が流され、誰も見ていないにしても屋上に『日の丸』が掲げられていることを知った。このことに私は、ずっとおかしいと思っていた。」と。私はこの言葉を聞き、さらに公教育の場で「日の丸」「君が代」を執り行ってはいけないとの思いを強くしました。そして、そのことを、生徒と共に考えていかなければならないとも思いました。私が担任した22期生も、先輩らが卒業式を自ら作り出す過程を見て、自分たちの卒業式は自分たちの手で作っていきたいと話していました。しかし、私は22期生1年担任を終えた後、四條畷高校に転任することになりました。
東寝屋川高校についてもうひとつ述べておきたいことがあります。同校は2009年度の卒業式において、大阪で初めて卒業式における「君が代」斉唱時不起立を理由に4名の教員が戒告処分を下された学校です。私はそのことを知ったときに、東寝屋川高校において生徒と教員がともに声をあげ作り出して来た伝統というようなものを感じました。

(3)四條畷高校において

大阪弁護士会人権救済
 
私は、2000年4月に、三つ目の勤務校として四條畷高校に転勤しました。そこでは、「日の丸」「君が代」の強制はさらに一段と進んでいました。百周年記念行事、そして57期生の卒業式における「日の丸」「君が代」問題で、思いもかけず私は、教職員の評価・育成システムを利用した人権侵害にさらされることになりました。教職員の評価・育成システムについては、多々問題があるとしても、私自身「君が代」問題についての教員の姿勢によって、これほどまでに露骨な低い評価を受けるとは思ってもいませんでした。多くの教職員や市民の支援を受け、私は自分が受けた人権侵害を公的機関に訴えることにしました。いったいどのようなことが起こったか、当時、大阪弁護士会に人権救済した申立書をそのまま掲載します。



2008年秋、弁護士会から大阪府教育委員会と四條畷高校校長に対して、私のC評価を撤回するよう勧告が出ました。この時の嬉しさは忘れられません。「君が代」問題にまつわる不当な評価が認められたたのですから。ところが、その実現を求めていた矢先、私は、突然、四條畷高校から枚方なぎさ高校に転勤を命じられたのです。

(4)枚方なぎさ高校
2009年4月、やりきれない思いを抱えながらどうすることもできず、私は枚方なぎさ高校に赴任しました。枚方なぎさ高校O校長は「先生のことはK四條畷高校校長より聞き経緯については知っている。」と。つまり、私が「君が代」強制に反対してきたこと、弁護士会に人権救済申立をし「勧告」が出たこと、そしてその実現を教育委員会に迫っていることも了解しているとの話でした。以後、校長とは立場の違いはあれ、何度か話し合いの場を持つこととなりました。
枚方なぎさ高校では、2009年度卒業式を前にして、O校長が3年担任を一人ずつ呼び出し「君が代」斉唱の際、起立するかどうかの意思確認をしていると3年担任より聞きました。これはこれまでにはなかったことでした。このことは、思想チェックに当たります。そのことをO校長に告げました。翌年、国語科の意向もあり担任を希望しましたが、O校長は頑として私の担任希望を認めませんでした。校長からは人権教育推進委員会の長をやってほしいと懇願され、私は残された教員生活を担任としてではなく人権教育にあたろうと考えました。
2010年4月1日、職員会議において、私はO校長に対して、3点を要望しました。1点目は、「東寝屋川高校卒業式において「起立・斉唱」の職務命令が発出され、「不起立」を理由に4名の教員が4名懲戒処分を受けた。このことについて、同じ府立高校校長として、府教委に抗議をしてほしい。」と。O校長の回答は「してもどうにもならない」とのことでした。2点目は「枚方なぎさ高校でも3年全担任を個別に一人ずつ呼び出し、『君が代』斉唱時に起立するかどうかの確認をされたと聞くが、これは思想のチェックになる。入学式に向けて1年担任団にはそのようなことはしないでほしい」と。校長はこれに対し「しない」と言明しました。3点目に、「職務命令は出すべきではない。出さないでほしい」と要望しました。校長は、「職務命令は出すつもりはない」とはっきりと答えました。府教委の指導の下、管理職の苦しい立場を理解しつつも、府立高校における「君が代」強制がこれ以上進むようなことがあってはならないと考えていました。

7.「日の丸」「君が代」強制の嵐
2008年2月橋下徹氏が大阪府知事として就任し、大阪府教育委員会は、2009年度「府立学校指示事項」における卒・入学式における「日の丸」「君が代」の実施について、これまでとは異なる姿勢を示しました。それは次のような文言の変化に表れています。
「入学式や卒業式においては、学習指導要領に基づき、国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導するとともに、『望ましい形』となるよう、その指導の徹底に努めること」(前年度までは「徹底」ではなく「充実でありました。」)。「教員は教育公務員としての責務を自覚し、国歌斉唱に当たっては起立し斉唱するとともに節度ある行動をとること。(前年度までは「起立」のみで「斉唱」はなかった。)。
2009年春、I高校では不起立者の調査が行われ、入学式前には1年担任団全員に、校長から個別に「起立するよう」指導がありました。また、I学校でも不起立者の調査が行われ、不起立者全員に「顛末書」の提出が求められ、提出に応じた全員27名が「厳重注意」処分とされました。大阪府教育委員会は、2009年3月18日、この時期としては異例の通知を府立学校長あてに出し、改めて、「教員には教育公務員としての責務を自覚させ、国歌斉唱に当たっては、起立し斉唱させる」ことを求めました。政治の力によるものでした。その後、私がかつて勤めた東寝屋川高校の卒業式で、担任団全員が不起立を理由に、当該の担任らが全員「顛末書」提出を求められました。また同じように近隣のN高校入学式においても担任団全員が不起立を理由に「顛末書」提出を求められました。そして、6月2日、大阪府教育委員会は退職者1名を除く両校の当該の教員15名に「厳重注意」処分をくだしました。「日の丸」「君が代」の強制はさらに進んでいったのです。2010年1月15日、大阪府教育委員会は、「平成21年度府立学校に対する指示事項」を「参考」に掲げ、教育振興室長名で府立学校長・准校長に「卒業式及び入学式の実施について」を通知しました。2010年、先に記しましたように、私がかつて勤めていた、そして長女も学んだ東寝屋川高校でN校長は府立高校・府立学校校長のなかでただ一人、同校教員に「君が代」起立斉唱の職務命令を発出しました。そして、学年主任を初めとする3年担任団4名の教員がそれには従わず、大阪府立高校において初めて「君が代」不起立により懲戒処分すなわち戒告処分がくだされたのです。
2011年、大阪に「君が代」強制条例が制定され、私たち大阪の教職員は、納得できないまま法に従い「君が代」起立斉唱するのか、それともあくまで「不起立」という形で抗するか、岐路に立たされました。このまま黙って見過ごしていけば、やがては生徒たちまで、強制の手が及ぶことは明らかでした。それはおそらく強制ではなく指導という形で。

8.私自身の「思想」と「良心」

 以上、私が教師として体験したことを長々と書いて来ましたが、それは、私の「思想」や「良心」は、それらを通して形成されて来たものだからです。「思想」はたんにイデオロギー的なものを指すのではなく、体験を通して個々人の核として存在するものだと考えます。条例で定められようが、命令されようが、「君が代」斉唱時には起立斉唱はできません。それは私がこれまでかかわって来たもの、そして私のなかに蓄積されたものすべてを否定することになるからです。特に教員として「君が代」強制の一翼を担うことは、憲法が保障するところの「思想」及び「良心」を自ら捨てさせられることに等しく到底受け入れられないことなのです。学校における「君が代」強制を抵抗することなくそのまま受け入れることは、教員としてのアイデンティティである「思想」及び「良心」に反する行為を自らが行うことによりそれらを無に帰する行為と言っても過言ではありません。そのような状況から心身を守るためにこそ憲法19条は存在すると考えます。