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教育基本条例下の辻谷処分を撤回させるネットワーク

憲法に反する「君が代」条例ならびに公教育の理念に反する大阪の新自由主義的教育諸条例の廃止を求めます。

「学テ結果の教員給与への反映について」市教委交渉に参加して①

2018-10-13 21:26:34 | 当該より
橋下徹前大阪市長の後を継いだ吉村洋文現大阪市長は紛れもなく正真正銘の維新政策の継承者と言えます。

いったい公教育をどのように考えているのでしょうか!

マスコミ報道でも話題になっている、全国学力調査と教員人事評価の問題で大阪市教育委員会との交渉に参加しました。

「学テ結果の教員給与への反映について」市教委交渉に参加して①

昨日(10月12日)の‘子どもたちに渡すな!あぶない教科書大阪の会’が主催した交渉には市民32名が参加した。

まず、肝心の交渉テーマである「給与反映」については、具体的な内容はこれから検討するという回答に終始し、結局のところ何もわからなかった。ただ、来年度の試行実施については、条例・規則の改定は必要なく、2020年度からの本実施に向けては条例改正が必要と考えていると。つまり、来年度試行実施は、なんら議会で論議されることなく教育委員会で決定されるということか?

今回の交渉で何より衝撃だったことは、吉村市長の「全国学力テスト政令都市中20位から15位に引き上げる」という意向をそのまま受けて、市教委がすでに各学校に「学力向上にかかる取組の数値目標」を、まさに交渉のあった10月12日に通知したということだった。わかりやすくいうと、来年4月の学力テストで大阪市が15位になるためには、これだけの点数を取る必要があると各学校に指示したということだ。目標は15位―そのためには何点取る必要がある、ムムそれが学力?おかしくないか?本末転倒も甚だしいが、それをシレッーと説明する彼らは、もはやそのおかしさに気づいていないのかもしれない。それとも、そのおかしさをわかった上で、市長の意向に応えるためにはやむを得ないと思っているのだろうか?

説明では、小学校は4年生の経年テスト結果を使い子どもを4階層(正答率が81%~100%をA,71%~80%をB、62%~70%をC,0~61%をD)に分け統計的な手法を用いて、各階層の伸び幅を決定し、子ども一人ひとりの伸び幅を割り出した上で学校ごとに集約し、各学校の目指すべき目標(点数)を設定する。つまり小学校では学校ごとに数値目標(点数)は違う。中学校では、チャレンジテストを使い、全校一律に目標(点数)を決定し通知したとのことであった。子どもらを4階層に分けデータを割り出し学校ごとに数値を決めるというのもえげつないが、中学校は一律だという。ということは、これまで点数が高かったところにとっては、ハードルは低いが、低かったところにとっては相当なプレッシャーになるのではないか?なお、画像は小学校への通知資料である。

これは大変なことになってきた!というのが偽らざる感想である。吉村市長の一言によって、現在の小4生と中2生は、来年4月の学力テストに向けひたすらお尻を叩かれることになる。資料にあるように、10月下旬には「振り返りプリント」が送られ、また学習教材データの活用がうたわれている。先生たちも、いずれはそれが人事評価につながるとあっては2学期後半、3学期には、年間予定を変更してでもそれらを活用せざるを得ないだろう。犠牲になるのは子どもたちだ。おそらく、これで点数はあがるだろう。学力テスト結果15位にするためのプログラムなのだから。しかし、これで子どもたちに本当の意味での学力がつくとは到底思えない。







大阪維新の教育とは? その2 「君が代」をうまく利用した橋下知事

2018-08-19 11:49:50 | 当該より
大阪維新の教育とは? その1に引き続き、その2を掲載します。これもフェイスブックに投稿した記事です。よかったら読んでください。

さて、みなさんは「君が代」についてどう考えておられますか?橋下徹氏はどのように考えているのでしょうか?

日本は「天皇制国家」であるという思想のもとに『君が代』を歌われるのなら、それはそれで納得できます。天皇ありきの日本国家なら、天皇を崇めて当然ですものね。と言っても、それを国歌と定めることは問題があります。それでは、「主権在民」を謳っている日本国憲法と矛盾しますゆえ。

しかし、ここでは国歌として「君が代」を説くのではなく、あくまで橋下さんが、どのように「君が代」を考えているのか。それをもんだにしたいと思います。私は、機を見るに敏である橋下さんは「君が代」を上手く利用したのではないかと考えています。教員を統制し、安倍教育改革と歩を合わせるためには先んじて「君が代」条例大阪モデルを作ったのではないかと。



大阪維新の教育とは?その2

"君が代"条例―「君が代」をうまく利用した橋下知事


2011年6月大阪府議会で全国初となる条例が成立した。 「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例 」、いわゆる “君が代”条例である。わずか 4条からなるこの条例は、学校を含む大阪府の施設すべてにおいて毎日国旗を掲揚することと、大阪公立学校における儀式の際に教職員が国歌を起立して斉唱することを義務付けた。

それより 2か月前に行われた大阪府議会選挙で大阪維新の会は過半数を獲得していたので 条例成立は目に見えていたが、予想通り数名の議員意見を述べただけで、賛成 5 9票、反対 4 8票で条例はあっけなく成立した。

ここで、少し「日の丸」と「君が代」に触れておかなければならない。

「日の丸」「君が代」は戦後すぐから2つの勢力の間で揺れ続けてきた。1つは、戦争中、特に学校でそれらが果たした役割から「教え子を再び戦場に送るまい」というスローガンに表れるよう愛国主義教育を否定する動き。もう1つは、逆にもう一度愛国心を取り戻そうという動きである。当然、前者は愛国的シンボルとして「日の丸」「君が代」を教育の場に持ち込ませなかった。一方、為政者らは、愛国心を取り戻すシンボルとして「日の丸」「君が代」を欲した。1950年、吉田茂内閣の文部大臣であった天野貞祐が、公立学校での日の丸・君が代を国旗・国歌として掲揚および斉唱を指示する通達を出している。

これを皮切りに学校現場ではふたつの立場が争い続けるが、世間では、オリンピックやワールドカップ等を通して、「日の丸」「君が代」は国民に再び浸透していくようになる。最も大きな問題点は、戦争が終わった後、「日の丸」「君が代」も含めて日本人自身による戦争の総括が極めて曖昧だったことだろう。以降、「日の君」の問題は長い間、学校に閉じ込められてしまうことになった。

1999年、広島県立高校の校長が自殺したことが契機となり、その年の8月に「国旗国歌法 」が成立する。しかし、この法律によって斉唱を強制することはないと政府高官は繰り返し答弁する。確かに、「国旗国歌法」には尊重規定も罰則規定もなかった。しかし、この法律以降、明からに強制の度合いは強くなっていく。ただ、大阪府教育委員会は卒業式や入学式における「君が代」斉唱は、職務命令はなじまないという姿勢を堅持した。それを変えたのは橋下徹府政であった。

私は、橋下徹氏は、「日の丸」「君が代」を上手く利用したのだと思っている。「君が代 」不起立というだけで大阪で初めて処分が出たのは 2 0 1 0年 3月のことだった。私が以前勤めていた東寝屋川高校卒業式で 4名の教員が戒告処分を受けた。政治の力がそれまでの教育行政のあり方を変えた第一歩だった。

橋下徹府知事(当時)は、「府教委の毅然たる態度に感謝 」と讃え、以降繰り返し 「君が代 」を歌うのは公務員として当然のこと、ル ールを守らせるのが組織マネジメント、従えないなら辞めてもらうとの発言を繰り返した。

橋下徹氏の狙いはなんだったのであろうか。ひとつは、確かに命令には絶対服従する教員を作る組織マネージメントのため。しかし、もうひとつは安倍政治との連携であろう。先に述べた、「日の丸」「君が代」利用勢力の協力関係が彼らなりにうまく展開していったということだ。

2006年、第一次安倍政権は、憲法改定のためには必須ともいえる1947年制定の教育基本法の改定に成功した。日本会議のHPは、教育基本法改定についてこう紹介している。

「平成18年12月、国民待望の中59年ぶりに教育基本法が全面改正されました。私共は、全国各地における大会や街頭キャンペーンの推進、365万人の国会請願署名や37都道県420市区町村での地方議会決議などを促進し、その実現を図ってまいりました。改正された教育基本法には、道徳心、公共心、愛国心など日本人の心を育む教育目標が掲げられ、これにより混乱を続けてきた戦後教育を改革する大きな手掛かりが作られました。」

その2年後の2008年、橋下維新府政が誕生した。安倍勢力と橋下維新勢力は、反目する面があるにせよ、ともに「愛国」ツールとして「君が代」を用いることでは文句なしに一致しているわけだ。


大阪維新の教育とは? その1 橋下知事が最初に手がけたのは「市民🆚教員」の構図を作ることだった

2018-08-18 13:47:03 | 当該より
このところ、吉村洋文大阪市長のツイッターや記者会見での発言が話題になっています。その一つひとつを批判することも重要ですが、この10年間の維新による教育を振り返ってみると、よりその問題性ははっきりするかもしれません。なぜなら、大阪維新の会である吉村市長の政策は、2008年に大阪に登場した橋下徹氏の政策をそのまま受け継いだものであるからです。

当時、ある政治学者は、橋下徹氏の政治を、“大阪を新自由主義の実験場にするようなものだ”と、評しました。たしかに、大阪維新の教育方針は、米英ですでに失敗したと言われている@新自由主義教育政策の二番煎じと言えるかもしれません。

下記は、すでにフェイスブックに投稿した記事ですが、より多くの方々と問題を共有したいと思い、ブログに掲載することにしました。そもそも、「教育基本条例下の辻谷処分を撤回させるネットワーク」は、「君が代」条例ならびに「教育基本条例」そのものを問題視するところから出発しました。

今なお続く、というよりいよいよその問題が鮮明になって来たともいえる、この10年間の「大阪維新の教育」をともに振り返ってみたいと思います。


大阪維新の教育とは? その1

橋下知事が最初に手がけたのは「市民🆚教員」の構図を作ることだった。

2008年、橋下府政が誕生した。華々しくスローガンとしてあげられたのは「教育日本一 子どもが笑う大阪」だ。そして、真っ先に彼が手がけたのが「教育改革」だった。

就任のその年の、10月、11月と2回にわたって「教育を考える府民集会」を開催する。私はその会場にいた。集会自体は様々な意見が交わされ有意義なものだった。だが、私はそこでテレビが生んだ“橋下知事”の手法を目の当たりに見せつけられた思いがした。会場からの発言(ヤジ)に対して「みなさん、見てくださいよ。これが大阪の教員なんです。こんな人たちに大阪の教育任せられますか」と、一喝した。その後はもう自分の仕事は終わったとほとんど発言らしい発言をしなかった。そう、彼はマスメディアに「絵」を提供したのだ。そしてほとんどのテレビがそこを切り取って放映した。

いったい何のためにあの集会は開催されたのか。そこから対話は膨らまなかった。それどころか、市民と教員の対立はますます深まった。対立というと語弊があるかもしれないが、教育において、子ども、保護者、市民、教員、行政はそれぞれ立場が違うだけに利害関係というと変だが、それぞれの思いが異なる。だからこそ対話が必要なのだが、維新政治は、その対話を阻害することに専心した。教育は政治が決める、それゆえ対話は必要ないということなのだ。政治が決めたことに教員も子どもも従えというのが維新の基本的スタンツだ。そして、それが教育や教員に不満を持つ市民の間でそれなりに受け入れられていった。

維新政治による大阪の教育の崩壊はさまざまであろうが、私は一番の罪責は、人と人との信頼感が損なわれたことだと思っている。ちょうどその頃から、学校では、保護者との対話は少なくなっていく。そして現在、おそらく本気で保護者と対話しようとうする教員はひじょうに少なくなった気がしている。問題が起こらないよう、親から苦情が出ないよう、それを一義的に考え行動する教員が増えていったのは、どうやら維新政治の教育への介入と時期的にも一致するのかもしれない。子どもが教育の主体ではなく対象になってしまったのだ。もっと嫌な言い方をすれば“タマ”になってしまったのだ。それはとても不幸なことなのだが。

画像は2008年の府民集会を伝えるニュースから





司法記者クラブに判決案内文を出しました

2017-08-29 19:02:29 | 当該より
メディア関係者のみなさまへ

大阪府国旗国歌条例ならびに大阪府職員基本条例のもと下された「君が代」不起立減給処分取消訴訟控訴審の判決が8月31日に申し渡されます。


憲法のもと、大阪公立学校全教員に「君が代」起立斉唱を義務付け、それを実効化するために三度の不起立で免職と定めた職員基本条例は思想・良心の自由を侵害しないと言えるのか?!大阪高裁民事第5部田中敦裁判長の判断に注目したいと思います。

憲法学者西原博史さんは、意見書の中で次のように言われています。

「すでに旭川学テ事件最高裁判所大法廷判決で示されたように、子どもの教育というプロセスは『本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治観念や利害によって支配されるべきでない」ものと捉えられるべき存在である。これは、教育の場を構成する教職員に対して、政治的な力学に応じて観念の一元性を作りあげることが非生産的であることも明らかにする原理である。にもかかわらず、2011年段階で動き出した公務員や教職員を思想的に統制し、支配しようとする政治的な動きは、子どもたちの健全な発達の場を深刻な形で傷つけていくものであった。ここで教育のあり方に関する深甚な議論はとりあえず措くとしても、教職員個人の思想・良心の自由が憲法19条によって保障されたものであり、政治的多数派のその時々の恣意によって好き勝手に拘束されてよいものであり得ないことは確実な法原理である。」

そして、意見文の最後をこのように結んでおられます。

「にもかかわらず、有無を言わさず教職員の思想を捻じ曲げようとした策動の具体的なきけつが、本件減給処分である。この本質に気づいた時、大阪発で日本全体を害しようとする危険な傾向の発露であることが見えてくる。本件の処理を間違えると、21世紀の日本で憲法に保障された個人の基本的人権は、暴力的なコンフォーミズムの中で有名無実化し、空洞化する動きを積極的に追認する意味を持ちかねない、危険な岐路に我々は立たされている。思想・良心の自由が、あらゆる基本的人権の核心に位置し、民主的政治過程そのものの基盤であることをかんがえれば、本件で問われているものは重い。貴裁判所によって日本国憲法の真の意味が示されるよう、期待してやまないものである。」

さて、下記は、本日司法記者クラブに提出しました判決案内文です。


=記=

2014年1月20日大阪地裁に提訴いたしました「君が代」不起立減給処分取消訴訟は、昨年2016年7月6日民事第5部内藤裕之裁判長によって請求棄却の判決が言い渡されました。即日控訴し、控訴審におきまして、原審判決の誤りを糺すとともに、『良心の自由と子どもたち』(岩波新書)等の執筆者であり早稲田大学憲法学者の西原博史先生にお願いし、鑑定意見書「大阪府教育委員会による卒業式の国歌斉唱時における不起立を理由とする府立高校教員に対する減給処分は適法か?」を提出いたしました。

いよいよ8月31日に判決が言い渡されます。橋下知事の時代に制定施行され大阪府国旗国歌条例(「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」に基づき2012年1月17日大阪府立高校ならびに府立学校の校長と教職員に出された中西教育長(当時)の通達は今なお、校長から全教職員への「君が代」起立斉唱職務命令の根拠となっております。現に今年3月の府立高校の卒業式においても「君が代」不起立によ懲戒処分(戒告)を受けた教員がいることはすでにご承知のことと思います。

また、この条例により、多くの学校で「君が代」についての議論もままならぬ状況が生まれています。卒業式は、本来卒業を祝う儀式であるはずなのに、教職員が「君が代」を歌うかどうかの踏み絵の場となっている現状をこのままにはしておけません。人権を重んじなければならない学校で起こっている人権侵害をこのままにしておくことはできず、仮に控訴審で棄却判決が出れば、即刻上告し、憲法判断を仰ぐ所存です。

大阪の教育を根本的なところから歪めることになった国旗国歌条例ならびに職員基本条例の違憲・違法性について、裁判所の判断にご注目くださいますようお願いいたします。

なお、西原意見書をはじめ、控訴人・被控訴人の準備書面はブログ「教育条例下の辻谷処分を撤回させるネットワーク」に掲載しておりますので、ぜひご覧ください。

判決法廷のご案内

◆8月31日(木曜日)午後2時

◆大阪高裁82号法廷 (第2民事部田中敦裁判長)

※ 判決後、大阪弁護士会館1205室にて報告集会を行います。(取材等にぜひお越しください。)

記 =控訴審で訴えている主な争点=

1 原審には事実認定において重大な虚偽記載があること
・ 原判決では「大阪府人事委員会不服審査において戒告処分を承認するとの裁決を行った」という認定を弁論の全趣旨によりしているが、実際は、審理中であり何ら裁決はされていない。
・ 原判決では控訴人が卒業式に参列した動機について「原告の上記行動は、卒業式に参列することに意義があるとか、卒業式の主役である生徒あるいはその保護者のことを第一に考えたものであるとは認め難い」とし、それは「原告自らの世界観ないし価値観を優先させたものである」と認定しているが、証拠(証言等)に基づいていない。

2 減給処分は裁量権の乱用であること
・ 「君が代」不起立処分について最高裁および下級審の判例の認識では、減給以上の処分に際しては、「学校の規律あや秩序の保持性の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」を求めている。
また、加重された処分の結果が「更に同種の不起立行為を行った場合に残されている懲戒処分は免職だけであって、次は地方公務員である教員として身分を失うおそれがあるとの警告を与えること」になるような形での処分の加重がおこなわれる場合には、「きわめて大きな心理的圧迫を加える結果になるものであるから十分な根拠をもって慎重に行なわれなければならない」としている。しかし、本件では裁判所が認定している通り卒業式の秩序はなんら乱れておらず、「当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」なく下されたものである。

3 比例原則違反及び判断過程の瑕疵
・大阪府職員基本条例27条2項には同じ内容の職務命令に違反した場合には免職となる旨が定められている。本件は2回目の同一職務命令違反による処分である。1回目とは異なる加重処分がなされ「警告書」により次は免職と伝達されている。これは強度の心理的圧迫を与えるものであるが、第1回目と同様の処分の対象となった行為にもかかわらず不必要に重い処分が選択されており、比例原則違反を認定せざるを得ない。
また、大阪府教育委員会は原審において減給処分は職員基本条例27条2項と無関係であると主張しており、現在もその主張を維持している。そして実際減給処分を決定するまでの過程において、本件減給処分が職員基本条例27条2項にいる3回目に向けた第2回目の処分としての意味合いを持つものであることを十分に考慮に入れたことを証明する証拠は何ら提出されていない。これは処分量定の判断において考慮すべき点考慮しないまま決定が下されたことを明らかにするものであり、手続き上の瑕疵がある。

4 思想・良心の自由に対する直接的な侵害であること
・ 職員基本条例の制定過程を踏まえると、国旗国歌条例により教職員に対する無条件で国歌を歌う信条の強制と、職員基本条例における免職規定は一体として構想されたものであり、後者が前者の手段として位置づけられて成立したものであることが明らかとある。また、最高裁が戒めるところの「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付く」ものであり、明確な19条の直接的侵害である。

以上

西原鑑定意見書“読み解き”

2017-08-15 14:50:03 | 当該より
いよいよ減給処分取消控訴審判決の日を迎えます

(1) 経過報告
 2014年1月20日大阪地裁に提訴しました減給処分取消訴訟は、昨年7月6日大阪地裁内藤裕之裁判長によるあまりにも杜撰で予断と偏見に満ちた不当判決に即日控訴をしました。そして舞台を大阪高裁に移し、いよいよ8月31日判決の日を迎えます。

前号で控訴審へのお力添えをお願いしましたところ、「教育の自由」についてもぜひ訴えを、とアドバイスをいただきました。また、条例が憲法19条に違反するものであること、ならびに減給処分は裁量権の濫用にあたることについては、思想・良心の自由の問題では第一人者ともいえる早稲田大学の西原博史先生に鑑定意見書をお願いすることができました。
これらにつきまして、控訴人準備書面で意を尽くして主張したつもりです。ただ、現在の裁判所の状況をみていると、果たしてそれが大阪高裁第2民事部田中敦裁判長に通じるかどうかが問題です。

今号では、判決に先立ち、西原博史鑑定意見書(以下、意見書)を読み解きながら、みなさまと共に今後の闘いに向け、大阪「君が代」不起立処分において、いったい何が問題であるのか、その本質について共有できればと考えます。なお、「鑑定意見書」全文は、すでにブログ「教育基本条例下の辻谷処分を撤回させるネットワーク」に掲載しています。ここでは、控訴人の思いも含めて、「読み解き」という形で意見書の内容をお伝えしたいと思います。

(2)意見書の構成
 意見書には、主として3つの論点から減給取消処分の不当性が論述されています。
一つ目は、「君が代」不起立処分として、大阪府教育委員会は、「戒告」より一段階重い「減給」処分をくだしたことについて、処分権者の裁量権の範囲を逸脱しており、本来なら考慮すべき点を考慮しないまま、比例原則に反する評価を前提としており、瑕疵(誤り)あるものとして下された決定に基づくものであり、効力がないということ。 
二つ目は、いわゆる「君が代」条例、そして大阪府職員基本条例27条2項、および教育長通達によって作り上げられた教職員への「君が代」斉唱強制の枠組みは、斉唱参加を是とする立場以外の信条を持つ教職員を排除、すなわち辞めさせることを狙った意図的な思想弾圧の構造として導入されたものであり、職務命令という法的義務付けによって具体化し、また減給処分という形で法的効果を生んでいる点において憲法19条に対する直接的侵害であり違憲であること。
三つ目は、これまでの「君が代」不起立をめぐる憲法問題からみた本件の問題、つまり思想・良心に照らして斉唱が不可能であるとする教員に対して起立斉唱を命じる職務命令がどのような憲法上の問題を引き起こすのか、なぜ最高裁の判例においてこれまで憲法違反が認定されてこなかったのか、思想・良心の自由の保障における「君が代」不起立問題の位置づけにおいて本件の再確認を行い、大阪府の状況には特殊性があること。
以上の3点ですが、難しい法律用語も出てきますので、初めて読んでいただく方々にもできるだけわかりやすくお伝えしていきたいと思います。

(3)第一の論点――減給処分は適法か?
①これまでの判決事例から
減給処分は文字通り給料を減らされる点で、戒告処分とは異なり生活に直結する「重い」処分といえます。本件における「君が代」不起立に対して、そのような重い処分を課すことが果たして適法かどうかが第一の問題点です。まず、これまでの「君が代」裁判最高裁判決をみてみましょう。そしてそこから本件減給処分が果たして適法といるのか、それとも違法であるのか、検証してみます。

2011年5月から6月にかけて、最高裁は一連の「君が代」処分裁判において、起立斉唱職務命令は憲法19条に違反しないとの判決を出しました。これらは、「君が代」起立斉唱職務命令は違憲とはいえないと判断していますので、《起立命令合憲判決》といえます。
しかし、その半年後の2012年1月16日、最高裁は、「君が代」不起立による過去1回の処分歴を踏まえた減給処分や過去3回の処分歴を踏まえた停職処分について、処分権者の裁量権の範囲を超えるもので違法としました。これらは、《不起立減給・停職処分違法判決》といえます。ここでは、次のような確認がなされています。

【《不起立減給・停職処分違法判決》より引用】
「不起立行為等に対する懲戒において戒告を超えて減給の処分を選択することが許容されるのは、過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴や不起立行為等の前後における態度等に鑑み、学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合であることを要する。」

すなわち、減給以上の処分が許容されるのは、「学校の規律・秩序」のためには減給以上の「処分」も致し方ないと判断される「具体的な事情」がある場合に限定されるということです。これらの最高裁枠組みから本件における減給処分が妥当かどうか、すなわち本件が「減給処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合」に該当するかどうかを検証します。

まず、最初に断っておかなければならないのは、最高裁は過去の不起立行為による処分歴を理由として減給以上の処分を行うことは原則として「相当性を基礎付けるものではない」としている点です。いわゆる「累積加重処分」を排しています。このことについて、最高裁櫻井竜子裁判官は補足意見として次のように具体的に記しています。

【《不起立減給・停職処分違法判決》より引用】
「本件の不起立行為は、既に多数意見の中でも説示しているように、それぞれの行為者の歴史観等に起因してやむを得ず行うものであり、その結果式典の進行が遅れるなどの支障を生じさせる態様でもなく、また行為者も式典の妨害を目的にして行うものではない。不起立の時間も短く、保護者の一部に違和感、不快感を持つものがいるとしても、その後の教育活動、学校の秩序維持等に大きく影響しているという事実が認められているわけではない。」

 ここに示されているように、職務命令が憲法19条で保障された思想・良心の自由に対する侵害を生じさせるものではないとしても、思想・良心の自由の保護領域に対するものであることが職務命令違反に対する処分量定の段階でも考慮に入るものであり、「やむを得ず」行う職務命令違反の行為という位置づけが意識されることになります。またさらに櫻井龍子裁判官の補足意見を引用します。

【《不起立減給・停職処分違法判決》より引用】
「処分対象者の多くは、そのような葛藤の結果、自らの信じるところに従い不起立行為を選択したものであろう。式典のたびに不起立を繰り返すということは、その都度、葛藤を経て、自らの信条と尊厳を守るためにやむを得ず不起立を繰り返すことを選択したものと見ることができる。…毎年必ず挙行される入学式、卒業式等において不起立を行えば、次第に処分が加重され、2、3年もしないうちに戒告から減給、そして停職という形で不利益の程度が増していくことになるが、これらの職員の中には、自らの信条に忠実であればあるほど心理的に追い込まれ、上記の不利益の増大を受任するか、自らの信条を捨てるかの選択を迫られる状態に置かれる者がいることを容易に推認できる。不起立行為それ自体が、これまで見たとおり、学校内の秩序を大きく乱すものとはいえないことに鑑みると、このような過酷な結果を職員個人にもたらす前記2(1)のような懲戒処分の加重量定は、法が予定している懲戒権の範囲を逸脱するものといわざるを得ない。」

このように、憲法上保障された思想・良心の自由として尊重されている世界観・歴史観などに関わる信条に基づく不起立行為は、たとえば児童・生徒の権利侵害となるような職務上の違法行為とは大きくその性質が異なります。職務命令違反であるという点において一定の懲戒がやむを得ない場合があり得るとしても、それが、≪起立命令合憲判決≫でいう「歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」となることは許されない、という点が常に考慮に入れられています。

そして、これを受けて、さらに2015年5月28日東京高裁判決(後に最高裁2016年5月31日上告棄却により確定)では、「自らの思想や信条を捨てるか、それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られる」こととなるような事態は「日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながる」ものであるとの認定がなされています。

②本件減給処分の適法性〜減給を選択した具体的な事情はあるか?
大阪府職員基本条例では、同じ内容の職務命令に違反する行為が累計3回となった場合に免職処分が想定されています。ならば、本件において2012年入学式の戒告処分の場合とは異なりそれより加重された「減給処分」が選択されたことは、櫻井龍子裁判官が述べるところと同様の「心理的圧迫」を生じさせるものといえます。減給処分がなぜ選択されたかについて、「十分な根拠をもって慎重に行われなければならない」という条件に合致していることが必要です。要するに、戒告ではなく減給処分を選択した根拠が明らかであるかどうかが問題となるわけです。

原審である大阪地裁内藤裕之裁判長判決では、控訴人は国歌斉唱時の不起立不斉唱だけではなく、与えられた正門警備という役割を放棄して、式場内に丸椅子を持ち込んで着席し、不起立不斉唱に及んだ点で、「規律や秩序が相当大きいものである」としています。しかし、それが、《不起立減給・停職処分違法判決》でいうところの「学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」といえるかという点で問題があります。

たとえば、先の櫻井龍子裁判官補足意見は、不起立が「その後の教育活動、学校の秩序維持等に大きく影響」するかどうかという枠組みを踏まえています。本件においては、卒業式の進行は問題なく進み、生徒、保護者をはじめとする列席者に直接的な影響もありません。すなわち秩序を害したと判断する根拠はどこにもないわけです。また、丸椅子を持ち込んだことについても、「本件不起立に積極的かつ意図的に及んだ」とする認定は適切ではなく、あくまで同席する場すなわち卒業式の場に国歌斉唱があったことによりやむを得ず不起立に及んだものといえます。

いずれにしても、本件の処分対象は2012年入学式の不起立行為と同種の行為といえます。にもかかわらず2回目であることによって戒告ではなく減給処分へと加重されているわけですが、前回と比較し、特別に重く処罰すべき事情はどこにも存在しません。そうである以上、減給処分が、《不起立減給・停職処分違法判決》でいうところの「学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」なく下されたものであることになります。

③比例原則違反〜手続き上の瑕疵がある
さらに、それよりも本質的な問題として比例原則違反が認められ、また、考慮すべき事項が考慮されていない点で判断過程における瑕疵(誤り)が認められます。
 比例原則とは、行政行為及び行政活動一般に適用される法の一般原則であり、不文法源の一つです。この比例原則は実質的には、裁判所が行政庁の裁量権の逸脱・濫用の統制を図る方法として機能しています。例えば、判例において、裁量権の行使の目的に照らし、相手方に生じる権力侵害の程度・手段が不相応に過酷であり、行政庁の裁量が「社会通念上著しく妥当性を欠く」と認められる場合には、比例原則違反となり、裁量権の行使を誤ったとして違法になる、というような場合です。

大阪府職員基本条例27条2項によると、同じ内容の職務命令に3回違反した場合は免職と規定されています。本件は、「君が代」起立斉唱に関する2回目の職務命令違反による処分です。控訴人において、次は免職とことさら意識させるものといえます。ところが、大阪府教育委員会は、原審において減給処分は大阪府職員基本条例27条2項とは無関係であり、本件減給処分に同条は適用されていないと主張し、また現在も主張し続けています。そして実際、本件減給処を決定するまでの過程において、減給処分が、大阪府職員基本条例27条2項にいう第3回目に向けた第2回目の処分でとしての意味合いを持つものであることを十分に考慮に入れことを証明する証拠は何ら提出されていません。これは処分量定の判断において考慮すべき点を考慮しないままに決定がくだされたことを明らかにするもので、当該処分には手続き上の瑕疵(誤り)があるといえます。

さらに、3回目(大阪府職員基本条例では免職処分)に向けた2回目の処分として1回目の戒告より重い処分が下されたことについて、これは被処分者に「次」すなわち免職を意識させ、強度の「心理的圧迫」を生じさせるものです。そうである以上、そのような心理的圧迫をも正当化し得る「権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」の存在が不可欠であるはずですが、1回目の処分対象となった行為と大きく異ならない本件不起立のありように着目した場合、そうした心理的圧迫まで正当化し得るような事情が存在するとは認められません。そうだとすれば、処分対象となる行為の「悪質さ」に比して不必要に重い意味を持つ処分が選択されたことになり、これは比例原則違反を認定せざるを得ないことになります。
 以上の点を考慮すると、本件減給処分は、考慮することの必要な事項を考慮しないままに、事態の状況に比して著しく重い処分が選択されたものと認めざるを得ず、被控訴人である大阪府教育委員会の範囲を超えた処分、すなわち裁量権の逸脱であったと認めるのが相当です。


(4)第二の論点――思想・良心の自由に対する直接的侵害の有無
①最高裁のいう間接的制約
第一の論点では、おもに懲戒権者の裁量権濫用の観点から本件減給処分を検証してきました。しかし、本件における法的な問題それに留まりません。最高裁の≪起立斉唱命令合憲判決≫は、思想・良心に基づいて斉唱できない教員に対して起立斉唱を命じる職務命令は思想・良心の自由に対する直接的制約を生ぜしめるものではないとして、問題を不起立教員に対して生じていた「間接的制約」が許されるかどうかの次元に置き、必要かつ合理的な場合には一定の制限が生じることはやむを得ないとしたうえで制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められると認定しました。その際には以下の考察が基礎に置かれています。

【≪起立命令合憲判決≫判決文より】
「…起立斉唱行為は、その性質の点から見て、上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず、上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は、上記の歴史観ないし世界観を否定するものということはできない。…本件職務命令は、特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無については告白することを強要するものということはできない。そうすると、本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」

②本件は直接的制約の有無を問う必要がある
それに対して、大阪府においては条例に基づく別種の規範構造が成立しているといえます。すなわち「君が代」条例および「大阪府職員基本条例」は、「君が代」不起立を理由に3回の処分を受けた教員に対しては免職処分が下される旨を定めており、これら条例の制定過程における議論に鑑みても、大阪府における教員の国歌斉唱義務に関わる条例上の制度が、最高裁の≪起立命令合憲判決≫にいう「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くもの」に該当することは疑う余地がありません。
すなわち本件減給処分については、最高裁≪起立命令合憲判決≫がそのままで先例としての意義を有するものとは認められないわけです。むしろ、大阪府においては、憲法19条に対する直接的制約の有無を問う必要性があることになります。

③特定の思想をもつ教員の排除が狙い
大阪府職員基本条例で定められている「不起立3回で免職」という構造は、直截にいえば、国旗・国歌を尊重すべきであるという信条を共有しない、つまり「君が代」に疑義を有する教職員を大阪府の組織から排除することを狙い意図的に作られたものと言えます。

橋下徹知事(当時)率いる大阪維新の会は政治課題として学校における国歌強制の徹底を実現するために、不起立者を処分するための条例案を準備していました。たとえば、2011年8月19日発表の条例案では以下のような定めとなっています。

【教育基本条例案(職務命令違反に対する処分)より】
第38条 職務命令に違反した教員等は、減給又は戒告とする。
2過去に職務命令に違反した教員等が、職務命令に違反した場合は、停職とする。
345略
(常習的職務命令違反に対する処分)
第39条 前条4項で規定される指導研修が修了したのちに、5回目の職務命令違反又は同一の職務命令に対する3回目の違反を行なった教員等は、直ちに分限免職とする。後略
2前項の規定にかかわらず懲戒免職とする事由のある場合は、懲戒免職とする。

2011年6月13日施行のいわゆる「君が代」条例は罰則規定がありませんでした。その2ヶ月後に公表された、この大阪府基本条例案は、明らかに「君が代」不起立者を狙い撃ちに懲戒処分、ひいては免職にするためのものであったといえます。

④橋下知事(当時)の明確な思想差別の意図
そもそも、学校現場で職務命令違反が生じるのは、極めて例外的な場合です。控訴人にとっても、38年の教員生活において、自身に職務命令が下されることはおろか、その場に居合わせる機会も「君が代」起立斉唱命令が発出されるまでは皆無でした。
ゆえに、この大阪府教育基本条例案39条1項の(常習的職務命令違反に対する処分)とは、同時期に進行していた大阪維新の会による国歌斉唱強制の徹底を図る措置の一環としての意味を持ち、この同一内容の職務命令違反3回で免職という構図は、まさにこの国歌斉唱義務を実際に実効化するための制度として導入を図られたわけです。

橋下知事は、公立学校教員の思想・良心の自由が尊重されるものではないと、常に明確にしていました。たとえば、讀賣新聞2011年5月17日(夕刊)は、以下のように報じています。

【讀賣新聞記事より】
「大阪府の橋下徹知事は17日、入学式や卒業式の国歌斉唱時に起立しない府立学校や公立小中学校の教員を免職にする処分基準を定めた条例を9月定例府議会に提案する考えを示した。府によると、同様の条例は全国でも例がないという。
知事は報道陣に『府教育委員会が国歌は立って歌うと決めている以上、公務員に個人の事由はない。従わない教員は大阪府にはいらない』と指摘し『繰り返し違反すれば免職になるというルールを作り、9月議会をめどに成立を目指したい』と述べた。」

国歌を歌うことを是とする思想を絶対化し、公立学校教員に対してその思想の無条件の受容を要求するとともに、その思想を受け容れることのできない者を公立学校教員から排除しようとする、ここには、明確な思想差別の意図があります。橋下知事が、自らを憲法を超越した権力的な高みに立つと誤認した結果の発言ともいえます。公務員といえども個人として基本的人権の尊重受けることが当然の前提となっている日本国憲法の下においてあり得ない考えです。

⑤19条に対する直接的侵害
こうした経緯を踏まえると、「君が代」条例による教員への無条件の起立斉唱の強制と大阪府職員基本条例27条2項における免職条項は一体として構想されたものであり、後者が前者の手段として位置づけられて成立したものであることが明らかになります。
ここで問題となるのは、国歌斉唱は自らの信条に照らして不可能であるとする教員を、その思想・信条のゆえに公立学校教員としての地位から排除しようとする権力的措置は、憲法上19条の思想・良心の自由に対する直接的な侵害となることです。
国歌斉唱は自らの信条に照らして不可能であるとする教員を、その思想・信条ゆえに公立学校の教員としての地位から排除することを目的に法的な斉唱義務を組み立てることは、府政を担う政党の立場から見て好ましい思想・信条を各教員が有するかを判定するための踏み絵を踏ませるものとなっているといえます。

そうである以上、条例上の斉唱義務に基づく起立斉唱行為は、最高裁≪起立命令合憲判決≫でいうところの「その性質の点から見て」当該教員の有する「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付く」ものであり、それを義務づける「君が代」条例及びそれを実施するための職務命令は当該教員に対して「上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」に該当することになります。
大阪府職員基本条例27条2項は、国歌斉唱が自らの信条に照らして不可能であるとする教員に対する適用を予定している限りにおいて憲法19条に対する直接的な侵害です。

⑥思想強制排除システムによる本件処分
ただ、本件減給処分は大阪府職員基本条例27条2項が直接に適用された事例ではないため、同条が憲法19条であったとしても、本件減給処分がただちに違憲無効なものとなるわけではありません。
しかし、原審は、本件減給処分が「君が代」条例の射程の範囲において下されたものであることを認め、同条例を判決に引用しています。これは本件減給処分が「君が代」条例と大阪府職員基本条例によって作り出された思想強制システムが作動する中で生じたものであることを認めたものといえます。そうである以上、本件減給処分の法的な意味を考慮するにあたっては、当該の思想強制メカニズムが憲法に照らして存在を許されていないことが考慮に入れられなければなりません。

具体的には、本件処分が2回目の同内容の職務命令違反を対象としていることが問題となります。もともと、「君が代」不起立にかかわる事例においては、教員に生じる不利益の背景は一回限りの不起立行為というよりも、その動機あるいは原因となる世界観・歴史観・教育観といった思想・信条の側であることが少なくありません。だからこそ、ある種必然的に、「君が代」不起立を理由とする職務命令違反は累積する傾向が強いわけです。その点を手がかりとして公立学校から排除するための仕組みを整えようとしたのが大阪府において「君が代」条例と職員基本条例を一体的に運用することで作り上げられた排除システムだったわけです。そして本件減給処分が、この累積する傾向に基づいて発生した2回目の「君が代」斉唱命令違反の処分でした。

2011年8月段階の条例案においては、2回目の職務命令違反に対して停職処分が下されることが想定されていました。それに対し現行の大阪府職員基本条例においては、表面的には、職務命令違反に関わる自動加重処分の枠組みは明記されていません。しかし、実務において実際には自動加重的な発想が根底に置かれ、「君が代」不起立を行う教員に対して極めて強い非難あるいは排除の意図が感じ取られるような制度が運用されていることは間違いありません。
本件においては、教育基本条例案で想定される停職処分と職員基本条例をそのまま読んだ場合に想定される戒告処分との繰り返しの中間を取って、1回目の戒告処分から1段階加重された減給処分が採用されました。これ自体が、最終的に免職によって特定思想の持ち主を公立学校から排除するための仕組みが本件においても作動していることを表す証左です。

前述の東京高裁2015年5月28日判決は、信条を捨てるか教員としての職務を捨てるかの選択を突き付けられる状況における、思想・良心の自由に対する「実質的侵害」を問題にしました。こうした選択を強いられる状況は、思想弾圧や宗教弾圧を前にして不利益を甘受するか自らの信条を放棄するかを思い悩まされる瞬間に生じる侵害状況と実質において変わるところがありません。そして、本件においてこの強制的葛藤状況が侵害者である府政の意図の下に人為的に生じているのですから思想・良心の自由に対する侵害はもはや実質的だけでなく、その名目においても妥当することになります。

⑦「君が代」条例、教育長通達は19条違反
仮に発令時の具体的な起立斉唱を求める職務命令が憲法19条違反でないとしても、その職務命令違反に対して過度に重い処分を課すことは、それ自体が独立して憲法19条違反を構成することがあり得ます。
職務命令と懲戒処分が一体となって、現に公立学校教職員の一部の中に存在している世界観・歴史観・教育観などの思想・良心の内容を否定することそれ自体を目的にとして、あるいは否定する枠組みとして運用されている場合、思想・良心の自由に対する直接侵害性は一層明白です。
そうした前提で考えた場合、まず本件における控訴人の「君が代」起立斉唱義務を法的に支えている点で、「君が代」条例が憲法19条に違反している可能性は大きいといえます。少なくとも、国の学習指導要領における国旗国歌指導の意義を敷衍して公立学校教職員の具体的な義務を作り出すことを狙う教育長通達は、それが個々の教職員の法的義務の直接的根拠とされるかぎりにおいて、憲法違反と評価せざるを得ません。

⑧本件減給処分は19条違反〜よって取消を!
ただ、仮に職務命令の時点において、特定の世界観・歴史観・教育観などを否定する意味合いが確定しきれず、なおも憲法違反と判断するには十分な根拠がないとしても、大阪府職員基本条例27条2項の将来における適用を想定した2回目の職務命令違反に対する処分として1回目よりも加重され処分が選択されたことは、心の中の国旗国歌に対する教育上の考え方を理由に教員を排除することに向けたメカニズムが動き出したものと評価せざるを得ず、その時点において憲法19条違反の処分になっていることは否定できません。その点において、本件減給処分は憲法に反し、有効に成立したものではないため取り消しを免れないということになります。

(5)第三の論点――「君が代」不起立をめぐる憲法問題における本件の位置
①「君が代」不起立と憲法19条
信条に基づく「君が代」不起立が憲法19条に保障された思想・良心の自由に含まれるか否かは、長く明確にされてきませんでした。1958年学習指導要領改訂で国旗・国歌条項が導入されて比較的早い段階から、たとえば子どもが不起立を行う権利や、子どもが不起立を行うかどうかを決定する親の権利は憲法19条に根拠を有するという指摘は憲法学・教育法学の中に現れ始めます。しかし、それが判例の中で明示的な承認を受けるためには、2011年の《起立命令合憲判決》を待たざるを得ませんでした。

憲法学にとってこの問題に難しさがあったのは、思想・良心の自由が行為領域において自らの思想・良心に反する法的義務を拒む権利を含んでいるかに関して長く争いがあり、通説はむしろそうした憲法学19条の意義を否定してきたからでした。長い間、憲法19条は内心領域に関わる自由権と理解され、内心における思想・良心が外部に表出した場面では憲法21条の保障が想定される、という枠組みが採用されてきました。せいぜい認められていたとしても、内心の自由を「事実上制限することとなる外部的行為の制限」が最小限度に留められるべきであることを要請する、「不可分行為」の理論があてはまる場面に限られていました。それに対し、憲法19条が内心における思想・良心の自由を破壊するような
行為義務の強制を禁じると考える私見のような立場は圧倒的な少数説の地位に甘んじざるを得ませんでした。

②最高裁謝罪広告事件にみられる19条問題
ただ実際には、最高裁は比較的早い時期からすでに、行為領域における憲法19条の意義を問題にし始めています。謝罪広告の強制に関わる1956年7月4日の最高裁大法廷判決はすでに、謝罪広告の形における謝罪の意思表明び強制が「債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由乃至良心の自由を不当に制限することとなりいわゆる強制執行に適さない場合に該当することもありうる」ことを認めています。学説上、沈黙の自由というカテゴリーが決定されおり、謝罪広告に関わる問題がこの沈黙の自由に関わるようにも見えたので、この判例の位置づけに関わる深刻な議論が提起されることは少なかったのですが、最高裁の内部においては、この事例はすでに外部的行為の強制と思想・良心の自由の関係に関わるもの見られていました。

田中耕太郎裁判官による補足意見では、法が「行為が内心の状態を離れて外部的に法の命ずるところに適合することを以て一応満足する」ものであることを前提に、「命じられた者がいやいやながら命令に従う」ことが良心の自由にかかわる問題を提起するものではない点が強調されています。これは憲法学において承認されていた、外部的行為の領域において憲法19条が具体的な帰結を持つものではないと考える通説に対応する考え方でした。にもかかわらず、前述の多数意見に現れた構図は、事例の構造次第では外部的行為の強制が憲法19条で保障された権利に抵触し得るものとする枠組みを採用していました。

③1999年国旗国歌法を通しての19条問題
最終的には、1999年に国旗国歌法が制定される過程で、小渕恵三首相(当時)が「児童生徒の内心にまでわたって強制しようとする趣旨のもの」ではないことを確認し続けるとともに、有馬朗人文部大臣(当時)から特に児童生徒との関係で「その人の良心の自由で、ほかの人に迷惑をかけない格好で自分の気持ちで歌わないということはあり得る」ことが示されることによって、「不起立」が思想・良心の自由の現れであることが認められるようになっていきました。

④19条の間接的制約説
そうした過程を踏まえ、最終的に最高裁の《起立命令合憲判決》が「間接的制約」の枠組みを承認していくことになります。入学式の国歌斉唱時におけるピアノ伴奏命令が問題となったケースでなおも当該職務命令が思想・良心自由の制約を生じさせているか否かを明示せずに判断を下した最高裁は、《起立命令合憲判決》の段階では、一方において前述の不可分的行為の理論を採用して「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付く」ものが直接的な制約となることを認めながら、不起立事案にそうした不可分的行為の制限ではないとし、ただ、国歌斉唱に付着する「敬意の表明」としての要素に着目しながら、「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由について間接的な制約となる面があることを認めていきました。

この「間接的制約」が生じる範囲については、仮に前述の謝罪広告事件判決田中耕太郎裁判官補足意見にいう「命じられた者がいやいやながら命令に従う」場面すべてを包括すると考えるならば、その範囲は茫漠たるものとなっていくでしょう。一方において、そのように広範囲に間接的制約を認めた場合に憲法19条の保障がむしろ空転してしまう危険が生じることを意識する私見などは、行為が義務づけられた場合に内面的判断機関としての思想・良心を維持できなくなるような場面に射程を限る必要があることを指摘しています。それに対して他方で、この間接的制約が設けられる正当性の証明手続きとして非常に簡便な理由の提示しか想定されていない点をもって、最高裁における間接的制約の軽さを強調する見解もあります。

⑤本件は間接的制約ではなく直接的制約説の問題
いずれにしても、間接的制約が認められる範囲、そしてその範囲において制約が正当と認められるための条件に関して、なおも最終決着を見たものとは考えられず、議論は継続していくことになると思われます。それに対し、本件が提起する問題はむしろ間接的制約ではない、直接的制約に認定方法に関わるものです。

前述の謝罪広告判決田中耕太郎裁判官補足意見は、良心の自由の意義との関係で、「国家としては宗教や上述のこれと同じように取り扱うべきものについて、禁止、処罰、不利益取扱等による強制、特権、庇護を与えることによる偏頗な処遇というようなことは、各人が良心に従って自由に、ある信仰、思想等をもつことに支障を招来するから、憲法19条に違反する」とする整理を行いました。(私はこれを「思想弾圧ターゲット論」と呼んで、旧式の解釈枠組みのモデルと捉えていますが、こうした規範モデルに現在も重要な意義があることは言うまでもありません。)そして1999年国旗国歌法制定以降に進行している学校における国歌斉唱強制、たとえば東京都教育委員会の2003年10・23通達以降の実務に典型的に見られるように、都道府県教育委員会のレベルで起立斉唱枠組みを作り上げ、各学校において確実に職務命令が発せられるようにし、不起立教職員を炙り出しては必罰主義に服さしめるような動きは、特定思想を有する者を学校から排除することを狙った「偏頗な処遇」にほかならないものとして進行している部分があります。しかし、最高裁は現在までのところ、各自治体における学習指導要領の具体化手続を善意の教育目的のものと捉えるスタンスを維持し、特定思想に対する狙い撃ち的は排除構想の存在を認定しようとしてきませんでした。これは下級審段階で入手可能な証拠の範囲において思想・良心の自由を違憲な形で意図的に無視して特定思想に対する排除を追求する邪悪な意図を立証する手段が入手不可能であったことにも依存している現実があります。

⑥大阪の状況―これこそ憲法19条が防ぐべき権力の暴走そのもの
しかし、大阪の状況は異なります。上記の2011年段階における「君が代」条例と(当初案では)大阪府教育基本条例案を通じ、教職員の思想を全面的に首長の選挙に表明された民意の方向でもって拘束し、たとえば学校の思想的多元性を維持して子どもの権利保護に対する関心を優先させるなど、首長の方針とは相いれない世界観・歴史観・教育観を持つ者を排除しようとする政治的策動に典型的に見られるように、そこでは、教職員の基本的人権を無視した暴政が作動していました。本件に現れてくるような「君が代」不起立処分は、まさにその排除メカニズムが具体的に作動しているものにほかなりません。これこそが、日本国憲法が19条を定めることによって防ごうとしていた権力の暴走そのものであるといえます。

(6)おわりに
①本件は憲法19条に対する直接的侵害
 以上のように、本件減給処分は、第一に処分権者の裁量権の範囲を逸脱し、本来考慮すべきことを考慮しないまま、比例原則の反する評価を前提として、瑕疵(誤り)あるものとして下されたものであり、効力を有し得ません。さらに第二に、「君が代」条例、大阪府職員条例27条2項及び大阪府教育長通達によって作り上げられた大阪府の公立学校における「君が代」斉唱強制の枠組みは、無反省の斉唱参加を是とする立場以外の信条を持つ者を教職員から排除することを狙った意図的な思想弾圧の構造として導入されたものであり、本件職務命令という具体的な法的義務づけに具体化し、また本件減給処分という形で具体的な法的効果を生んでいる点において、憲法19条に対する直接的侵害として違憲の評価を受けざるを得ないものであります。

②憲法19条の保障―政治的多数派によって拘束されない
 すでに旭川学テ事件最高裁大法廷判決で示されたように、子どもの教育というプロセスは「本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきものではない」ものと捉えられるべき存在であります。これは教育の場を構成する教職員に対して、政治的な力学に応じて観念の一元性を作り上げることが非生産的であることも明らかにする原理であります。にもかかわらず、2011年段階で動き出した公務員や教職員を思想的に統制し、支配しようとする政治的な動きは、子どもたちの
健全な発達の場を深刻な形で傷つけていくものであります。教職員個人の思想・良心の自由が憲法19条によって保障されたものであり、政治的多数派のその時々の恣意によって好き勝手に拘束されてよいものであり得ないことは確実な法定理であります。

 にもかかわらず、有無を言わさず教職員の思想を捻じ曲げようとした策動の具体的な帰結が、本件減給処分であります。この本質に気づいた時、大阪発で日本全体を害しようと
する危険な傾向の発露であることが見えてきます。

③思想・良心の自由の意義―日本国憲法で保障された基本的人権の尊重
 本件の処理を間違えると、21世紀の日本で憲法に保障された個人の基本的人権は、暴力的なコンフォーミズムの中で有名無実化し、空洞化する動きを積極的に追認する意味を持ちかねない、危険な岐路に我々は立たされています。
 思想・良心の自由が、あらゆる基本的人権の核心に位置し、民主的政治過程そのものの基盤であることを考えれば、本件で問われているものは重いといえます。貴裁判所によって日本国憲法の真の意味が示されるよう、期待してやみません。

 以上、控訴人としては、第3の論点については「読み解き」というより、鑑定意見書をそのまま引用しかできませんでしたが、改めて、これが憲法を問う裁判であることを再認識した思いです。8月31日の控訴審判決のいかんに問わず、今後も大阪の教職員に対する思想弾圧装置排除メカニズムの問題を多くのみなさまに訴えていく所存です。