tokyoonsen(件の映画と日々のこと)

主に映画鑑賞の記録を書いています。

専業自分

2021-04-25 11:28:37 | 頭の中
 中学生の頃、「感情を無くそう」と思ったことがあった。

 要するに中二病というか、自意識過剰の状態に突入して、悲しかったり苦しかったり怒ったり妬んだりめまぐるしくなってしまい、笑うことでさえ嫌になってしまったのだ。
 
「笑うと嫌な事がある」と思い込み、「今日から一切笑わないことにしよう」と決意した日を覚えている。
 それからしばらくは、ふと気が緩んで笑ってしまうと、「あ、今笑っちゃった。いけない、いけない。」と気持ちを正して(?)いた。

 しかしいつのまにかそんな訓練もどこかへ行ってしまい、決死の「決意」がどう終わりを迎えたのかは良く覚えていない。



 それから随分時は経ち、世間の波間に浮かぶようになった頃、また思ったことがある。
 今度は、「気持ちというのは大切なもの」だった。

 たとえその気持ちが意味もなく、受け入れがたく、論理的には自然に成仏してもらうしかないようなものであっても、その気持ちがそこにあったという事実はとても大切な事だ、とある日感じたのである。
 その気持ちがどう成仏するかは分からないけど、それを無かったことにしてはいけない、それはそれで確実にそこにあって、誰かがそれを認めて感じたその気持ちは、宝石のようにきれいだと思ったのである。

 但しそれは、人の気持ちについてだった。当時とある人がいて、その人は割とストレートに感情を出す人だった。その感情を、とてもきれいに感じたんだと思う。打算のない人だった。少なくとも他人に対して打算が感じられなかった。

 その人が泣いていても何もしてあげられない私は、ただその人を見つめたり、下を向いたり、意味のないことを言ったりしていた。でもしばらくするとその人は泣き止んで笑顔になった。すると私も、先に進もうと思えるのだった。
 一分前と状況は何も変わっていないのに、気分はすがすがしかった。そして、この人が感じた感情が今ここにあったということを、大切にしようとなぜか心に感じた。

 度々訪れたそういう瞬間は、打算に閉じこもりがちな私にとって、貴重で有り難いものだった。当時明確に認識していたわけではないけど、今思えば代えがたく、素敵な体験をさせてもらったと思う。



 それからまた時は経ち、自分の気持ちについて考えるようになった。

 最近腑に落ちた。「自分が一番分からない」。
 自分で自分の事を分かってないと認めることは、結構怖いことだけど、それでもまあまあ生きてきたと思えばそう怖くない。大丈夫。

 裏には、「他人が何を考えているかなんて到底分からない」という事が、薄々分かった事もあるかもしれない。この件については、旦那に感謝したい。頭だけでなく実感を伴う体験をさせてくれたという意味では、旦那の功績が大きいからだ。


 それで、専業主婦(主夫)ならぬ、専業自分をしてみようと思った。

 人の気持ちがきれいならば、自分の気持ちだってきれいなはずだ。


 予測のつかないことや答えの出ないことを真面目なフリしてどうこうしているより、自分の気持ちに取り組んだ方が健全だ。自分の感情ほど明晰な体験はない。一つの大きな流れのように、確実に今ここにある。

 「専業自分」という唯一無二の職に就こう。最初の仕事は、自分の気持ちを認め、きれいだなと観察してあげること。