東京クローバークラブ ブログ

東京クローバークラブのHPが休刊中、このブログをクラブ関係の情報交換の場といたします。

仙台北教会演奏会報告・感想集

2013-11-26 21:16:12 | 日記
『東西OB四連情報』 『八重の桜』『TCC美術館』 『練習日程』 『日韓友情』 『ウィーン発』『京都逍遥』『DOBS』『グリーの覗き窓』『追悼』『TCCコンサート情報』
その1
仙台北教会での演奏会について、野村 秀治氏(ベース)が「Dジャーナル」(2015年1月発行予定分)に寄稿された原稿を某ルートを通じ入手しました。鬼が笑うかも知れませんが、来年の予告としてTCC関係者に公開させていただきます。

東京クローバークラブ
東北に響いた男声ハーモニー
仙台北教会お見舞いコンサート


野村 秀治(ベース)

 新島襄が八重夫人とともに、自らが校長となる東北初の仙台英学校「東華学校」の開校式に出席したのは明治19年(1886)。その翌年に創設された「仙台北教会」で、さる11月17日、東京クローバークラブの東北お見舞いコンサートが開催された。

あさの礼拝での賛美歌サービスに続き、午後の部は「彼らに永遠の安息を」とラテン語の鎮魂曲で始まり、東日本大震災の被災者へむけて作曲された朗読と合唱曲「宮沢賢治の最後の手紙」(千原英喜曲)、北原白秋詩曲集、組曲「水のいのち」(高田三郎曲)、被災者へのメッセージとしてミュージカル「回転木馬」よりYou’ll Never Walk Alone(あなた達は決して独りではない)など十数曲の男声合唱を演奏した。

 「同志社春の集い」冒頭でのカレッジソングでおなじみの東京クローバークラブのメンバーは、109年の伝統を誇る同志社グリークラブの首都圏在住OB。創立53年の歴史を背景に現在、昭和29年卒から平成15年卒までの老壮青あわせて48名は毎週土曜日午後、小林香太(平成10年・経)指揮者と小川明子(芸大・大学院・声楽)の発声・合唱技巧指導のもとに練習を重ね、各地教会でのサービス、自主コンサート開催、早稲田、慶応、立教、関学OB、聖心、東洋英和OG合唱団とのジョイント・コンサートなど活発な演奏と奉仕を続けている。

ちなみにこの仙台北教会は同志社グリークラブの創始者 片桐哲(元同志社女子大学学長)が明治37年(1904)に、当時当教会の二代目牧師であった父 清治から洗礼を受けたゆかりの教会。「東京からやってきた皆さんの熱い想いが、みんなの胸に響きました」と小西望牧師(昭和63年神・大学院)。アンコールに続くカレッジソングのシャワーを浴びて退場してゆく聴衆の目に光るものがあった。(敬称略)


その2

仙台にはいろいろな思いが

森本 潔(バリトン)

11月16日、練習場をあとにした私は、渋谷駅の迷路のような通路を一途にJRは新宿湘南ラインのホームへと進み、大宮駅から「はやと」に乗り込んだ。事前にPCから取り出した周辺地図を懐に、一度だけ、信号待ちで地元の人と思しき紳士に方角をたずねただけで、東横インにたどり着いたまでは良かったが、なんと「館内では食事できません」の一言に、もう一度駅前の繁華街に足を運ぶこととなった。

入りやすそうな「京料理と伊達xxx」で「牛たん」に舌鼓を打ち、なんとなく見覚えのあるような、ビルの3階くらいの高さにあるアーケード街のことを尋ねたところ、毎年「たなばた」の飾りに使われる商店街とのことで、これはなんと、私がグリー現役の副指揮者として、1958年に市島さんと一緒に演奏旅行に訪れた昔のままの仙台であった。半世紀以上前のことながら、その後に続く宮城女学院や東北学院大とのコーラスを通しての交流が懐かしく思い出された。

翌朝、私は皆さんが仙台に到着される前の時間に、もう一つ別な教会を見ておこうと、朝の散歩のつもりでホテル周辺を歩きまわってみた。東六番丁教会は、同じ名前の小学校の隣にあるということだけをたよりに、教会の前に差し掛かったのが8時15分頃であったと記憶しているが、教会の案内や、掲示されているポスターなどを眺めている時に、教会敷地内の大きな銀杏やヒマラヤ杉の大木に囲まれた会堂の隣にある牧師館から教会の門扉を開けるために出てこられたのが牧師夫人。ご親切にも、会堂の中を案内していただいた。

東京の富士見町教会から贈られてきた会堂内のベンチのことや、第何代目かの宣教師の時代にアメリカから贈られてきたという文字通りクラシックな足踏みオルガンの話などを伺った。何故、私がこの教会を訪問したかったのかは、2014年4月には皆さんに公表して差し支えないと考えている。

皆さんの到着される30分ほど前に私は北教会に入り、9時に開始が予定されていた教会学校(昔は日曜学校と言ったが、現在は全国的にこの名称が使われている)を見学した。目を輝かして集まってくる子供たちは、仙台も東京も全く変わることはないと感じた。

昼食の後、いよいよ演奏会のための練習が始まるころ、佐々木さんに伴われて一人の男が私を訪ねてきた。その名は、永沢汪恭(ひろやす)。前回の北教会訪問の時にも会いにきてくれた。彼と初めて出会ったのは、たしか1959年、共立講堂で行われた「東西四大学」(現役)の控室であった。当時、東北合唱連盟で活躍されていた斉藤泓先輩に紹介されたそうで、「同志社の演奏に感動した」ということだった。

私にとって仙台は、TVの「お八重さん」を除いても、いろいろな思い、想い出の溢れる街であった。   


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