希望の翼 ~あの時、僕らは13歳だった~

昭和20年、たった4か月、朝鮮半島の中学校で共に学んだ日韓二人の少年の再会が閉ざされていた日韓の民間外交に風穴をあけた。

日韓友情

2013-07-22 19:00:56 | 日記
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希望の翼 『あの時、ぼくらは13歳だった』
放送人グランプリ特別賞を受賞

寒河江正さんと羅逸星さん共著「あの時、ぼくらは13歳だった」をドラマ化し「希望の翼」として放送した神奈川テレビが「放送人グランプリ」の特別賞を授賞することが決まった。正確には、制作スタッフあてに贈られる賞であるが、独立局の作品が対象となるのは、12回の表彰の歴史の中で、初のことだという。同社のニュースリリースを紹介します。
http://www.tvk-yokohama.com/company/release/130430.pdf

3月30日産経新聞朝刊【書評倶楽部】
デザイナー・森英恵 
『あの時、ぼくらは13歳だった誰も知らない日韓友好史』
寒河江正、羅逸星著


森英恵さん(産経より)

<もり・はなえ>パリ・オートクチュール組合に属して活動を展開した唯一の東洋人デザイナー。現在は森英恵ファッション文化財団の活動も。彫刻の森美術館館長。

国際交流のモデル、ただ静かに

 初の女性大統領が誕生した。就任式の映像で、朴槿恵(パク・クネ)大統領の胸元に蝶(ちょう)のブローチを見た。5年前、ソウルから遥(はる)か南の咸平で開催された「世界蝶・昆虫エキスポに招かれたことを懐かしく思い出した。
この本は、テレビプロデューサーの寒河江正さんと天文学者の羅逸星さんの対話による”日韓友好史”である。
寒河江さんは、父親が病院の院長で、朝鮮半島に生まれた。1945年4月、13歳で入学した中学校で、羅さんと友達になる。しかし、わずか4カ月半後に終戦。41年後、ソウルで再会を果たす。
日本への引き揚げ体験や、羅さんが38度線を越えて南へ向かう様子など、幼なじみの率直な語らいで、日韓の歴史を証言。
 そして、京都の同志社大学と韓国ソウルの延世大学で2人の学生時代には、共に合唱があったことを知る。「合唱の素晴らしさは、第1にハーモニー」という認識も共通していた。
 再会後は音楽交流へ発展。同志社大学OBの男声合唱団「クローバークラブ」の活動を通して、2010年の韓国演奏旅行などが実現する。「初めて会った人たちに心を開くことは、大きな価値があると思う。交流の真の目的は互いにどれだけ親しくなれるかということ」と羅さん。「僕らは声を上げて日韓交流を叫んだことはないけれど、ただ静かに国際交流のモデルを作っているようだね」とは寒河江さん。
世界中に紛争は絶えないが、地球という一つの星で暮らしている私たち。歴史を辿(たど)れば、この2人のようにルーツはそれほど違うものではない。
 そして、思いやりのある交流の積み重ねが平和につながるのではないかと感じた。
 新しい女性のリーダーのもとで、日韓交流が温かく発展することを願う。

「あの時、ぼくらは13歳だった 誰も知らない日韓友好史
寒河江正、羅逸星著 (東京書籍 1680円)
(編集室注:以上の記事は「MSN 産経ニュース」より転載しました。)

感動の2時間ドラマ
あの時、僕らは13歳だった
ドラマ「希望の翼」に想うこと
埼玉 魚谷庄司

戦時中の辛い時代に内地で生活をしている人達には分からない日韓の友情が芽生えていたことに感動を覚えました。私はこのドラマの中で寒河江さん一家がソ連兵から逃れ船で南側に避難をする場面で私の体験・・・といっても両親から断片的にですが聞かされていたことに重ね合わせて見ていました。

私は昭和20年3月に韓国慶尚北道、現在の浦項市近郊の九龍浦という漁村で生まれました。兵庫県の沼島(ぬしま)という小さな島の出身である両親が親戚の経営する水産会社の手伝いをする為に朝鮮(当時は韓国ではなく朝鮮と言っていたようです)に渡りました。朝鮮人従業員も多く雇用してかなり手広く事業をしていたようです。浦項近郊には日本人も多く生活をしていて現在浦項市では旧日本人家屋を保存しようという動きもあるようです・・・話が少し逸れましたが終戦後内地(日本)への引き揚げが始まり我が家族、親戚も九龍浦の港から引き揚げのため、総勢何名乗船していたのか確認はとれていませんが漁船に乗り内地に向かいました。

東支那海航海中台風に遭遇、昭和20年9月17日です。漁船は遭難、沈没、我家族3人だけが奇跡的に長崎県斑島の人に救助され生き延びることができました。母親からは生後6ヶ月の私は籠に入ってしっかりと抱えていたそうですが籠を手放そうかとの気持ちもあったようです。9月17日は私の生まれ変わった第二の誕生日だと思っていますし、母にとっては従兄弟、叔母をなくした命日として今でも写真を供え毎日供養をしています。

一年位前に、ある新聞に両親、親戚が生活をしていた九龍浦の旧日本人家屋の写真が出ていたのを弟が見つけて興奮していました。90歳の母親を一度韓国に連れて行きたいと思っていましたが飛行機が怖く2年位前に腰を圧迫骨折をして、認知症もでてきているので連れて行くことは出来なくなりましたが私は行ってみたいと思っています。

寒河江さん一家や私の体験は当時の日本人にとってはほんの一例でもっと多くの日本人がもっと辛い体験をしているのではないかと思います。現在日韓の間ではいろいろ問題が発生していますが一個人、一国民として大きな気持ちで韓国の人達との交流ができればと思っています。このドラマ「希望の翼」が韓国でも放送されるとのことですので日韓両国間の個人レベルでの友情が更に広まることを期待したいですね。
魚谷庄司

これはクローバーの日韓友好実話


佐藤しのぶと 延世大学・東京クローバー TVKより

完成記者会見で原作者、監督、出演者ら(右から)

同志社大学神学館チャペルにて TVKより

延世大学総長と八田同志社大学学長 TVKより

同志社大学クラーク記念館 TVKより

原作者 羅さんと寒河江さん TVKより

エンディングタイトルに協賛者の名 TVKより

これが寒河江さんの原作だ

BS-TBSでも全国放送

寒河江さんと羅教授の共著「あの時、ぼくらは13歳だった」がテレビドラマとなり、まず3月2日(関東地区)に続き23日にBS-TBSで全国放送された。
戦時中の寒河江少年と羅少年が、戦後の日韓文化交流に風穴を開けた、クローバークラブと韓国との友好の歴史実話を、2時間のドラマに収めたもの。
京都では同志社グリークラブOB有志が、横浜では東京クローバー有志が合唱で出演し、2時間の感動ドラマに花を添えた。

日韓でミニコンサートも


日韓全員で「神ともにいまして」Photo/Kohno
ドラマの最終収録は1月20日(日)TVKスタジオで行われた。スタジオには韓国延世大学音楽専攻生から成る混声合唱団に東京クローバークラブが合流して、佐藤しのぶさんを中心に主題歌「鳳仙花」の音声と映像を収録した。
この映像はドラマの冒頭とエンディングに使われる。
スタジオには大勢のエキストラに混じって、大山勝美総監督、TVK社長、ドラマの俳優が勢ぞろい、互いに撮影の最終本番を見守った。
撮影終わって、スタジオでは午後5時から、両団によるミニコンサートを開催。
ジュリアード音楽院卒の金恵玉教授指揮による、延世大学コンサート・クワイアーは同アンサンブルとの協演、ソロを含めて総勢35名が、バッハ、ブラームスの曲や韓国民謡を披露。さすがに一流と言われる同大学生とあって、前夜に新宿の在日大韓キリスト教会でのコンサートに続いての本番にもかかわらず、卓越した合唱を披露した。東京クローバーも前日の同立OB交歓演奏会に続いての本番参加となり、有志22名が森本潔指揮で「夕焼け小焼け」「里の秋」「アヴェマリア」などを演奏。ヴァイオリストの牧千恵子さんの飛び入り伴奏が入り、一皮むけた新鮮な演奏を披露し好評を博した。
最後に両団合同により韓国民謡「故郷の春」(稲熊裕之編曲)と「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(モーツアルト)を演奏した。
金教授によると「同志社の皆さん、声は非常に綺麗。但し、テンポが遅れるので困った」との評であった。
名古屋から駆けつけた「故郷の春」の編曲者、稲熊裕之さん、「犬井さんからいただいたテープを聞いて男声合唱に編曲したが、まさかこんな形で本国の人に歌っていただくなんて、想定外でした」と感激。

あの「神とも」が今も響く
森本 潔

2013年1月20 日、TVK(テレビ神奈川)1階フロアは難しくいうと「日韓交流の交歓演奏会」と名づ けた音楽会が開かれていた。吾が方は平均年齢70 歳の男声合唱団(東京クローバークラブ)、前日に立教OB合唱団と交歓演奏会が行われたため、メンバー全体とは言えず二十数名、韓国側は前日に飯田橋の教会で演奏会を開いた韓国の延世大学の混声合唱団。後に持たれたレセプションで聞いたところによると、同大学音楽部の学生さんたちとのこと。

プロを目指す音楽の専門家であり、まさに圧倒されるような声量。記憶では女声20名、男声10名というすごいバランスのよい構成であった。指揮者はジュリアード音楽院で専門の教育をうけた女性。ピアノも弦楽器も夫々の専門の学生さんということのようであった。
両合唱団の演奏や、合同演奏のことではなくここで書いておこうと思ったことは、全く事前の打合せをせずに、演奏会後のレセプションの終りに会場にいた全員が自然発生的に「神ともにいまして」を日本語、韓国語、(さらには英語もあったようだが)を歌ったという感激の事実である。

彼らの大部分がその日の内に韓国に帰るというあわただしい雰囲気の中、「何か一緒に歌える曲を」という司会者からの要請があり、我々クローバーとしては、こういう場面では「神とも」ということで、先方の金指揮者に声をかけ、「こんなメロディーの讃美歌ですが」と説明したところ、周囲にいた数名の学生さんたちも直ちに「ああ、あの曲」と韓国語で歌ってくれた。司会者としては「みなさんステージの上で・・・」という形を考えたように感じられたが、「私が一人段の上で振りますから」ということで始めてみた。

さすがに、今の若者・・・という場面があった。それは、讃美歌の最初の歌詞をスマホに打ち込んで、それを数名で覗き込みながら歌っていたのである。勿論、韓国語の歌詞であったが、便利な世の中になったもの・・・と感じさせられた。一番手前にいた二つのグループはそれを囲んで私に背中を見せて歌い始めたために、「指揮者はこちら側だから、向きを変えて・・・」と声をかけたことが、不思議な印象として残っている。

あの会場全体の「神とも」は確かに感激であったし、歌い終わった時に数名の学生さんに「またどこかで一緒に歌いましょう」と思わず声をかけてしまった。不思議にもその時には、3 回目の我々の訪韓で、英語と韓国語で Handel のHalleluja をステージで一緒に歌ったのを想いだした。

ささやかで短時間の交流ではあったが印象深い濃密な時間を過ごせたのは幸せなことであった。
あの響きが思い出せる限り、我々の心の交流は続くと考える。


「神ともにいまして」歌詞をスマホで見ながら讃美歌を歌う、延世大学の現代っ子。
Photo/Kohno
日韓ミニコンサート スナップ
Photo/Inui(以下すべて)

両校エール交換

東京クローバークラブ

韓国延世大学混声合唱団


橋渡し役犬井さんと羅教授ら

原作者寒河江さんと大山監督