追悼

クローバー関係者の追悼記事

市島さんを偲ぶ

2013-08-07 21:29:07 | 日記

~西島智恵三 から 辰村章三郎 への半世紀~

森本 潔

それは1958年のこと。当時はまだ、三条烏丸にあった平安教会をグリーが練習場として使わせてもらっていた頃のある日、グリーの年次総会が開かれ「森本潔君を副指揮者に任命します」という市島さんの宣言によって、私の数十年に及ぶ指揮者生活が始まった。

市島さんは卒業と同時に延岡へ、2年後に私は名古屋へと、全く異なった地域で過ごし、約30年ぶりくらいに東京で再会し、二人でクローバーを振っていた時期もかなり永くあった。

 私の現役時代、年に数回発行されていた「グリー時報」はメンバーの間で重宝された「コミュニケーション誌」であった。中学生・高校生の時代に培った「新聞部」の経験が大いに役立って、市島さんはよくこの「時報」に文章を載せておられた。タイトルの副題につけた「西島智恵三」はその中に登場した著者の一人であるが、その名前の由来を正しく理解し、記憶されている方は今では少ないのではないか・・・。

ご本人の姓名にたくみにどなたかの名前を組み合わせ使っておられた現役の頃の市島さんであった。ちなみに奥様のお名前は智恵子さん、私の記憶が正しければ、旧姓は西川さん。市島さんは、いつもそうであったように、ちょっと照れながら、この事に関しては「もりもっちゃん、よお覚えとるな…」と今も言っておられるように思います。

 二つめの辰村章三郎は、ここ1年くらい市島さんがClover Times (Hail our Glee Club) のサイトに使われていたペンネームで、なんと今出川の中学から、1952年、彼の高校進学と共に香里に一緒に移って行かれた新聞部部長・男声合唱団オルフォイスの指揮者であった西邨辰三郎先生のお名前と組み合わされたものである。いつか私が書いた文章の中に、「男声ばかりの混声合唱」-同志社イヴコンサートに登場したオルフォイス-があるが、市島さんが尊敬してやまない西邨先生の名前がここにも巧みに現役の頃に組み込まれている。

 実は、市島さんがその早朝にすでに神様の元へと召されていたことは全く想像だにできず、私は6/23に向けて練習している「おらしょ」の歌詞解説の中でも難解な、ラテン語のなまった日本語(キリシタン日本語とでも言うべか)を正しいラテン語に置換え、日本語訳をつけたものをその夜にも市島さんに送ろうと考えていたところ、そのパソコンには訃報が待っていました…。

 先に坪井さん、柳瀬さんを送り、市島さんのグリー同級生は天国で10名となりました。結束の固かったS34卒団のみなさんとの再会を楽しんでおられることでしょう。送り先のなくなった「歌詞解説」はどこに送ればよいのでしょうね。「そんなん、自分らで判断せーよ」と言われそうですが。


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