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文科省、大学評価の怪

2014-10-17 12:46:31 | 日記
なぜ同志社大学がSGCからはずされたのか

Oct.16, 2014

ベース野村 秀治(昭和29、経卒)

10月6日付け日経紙の教育欄(P.20)をみて仰天した。驚きを超えて衝撃さえ受けた。文部科学省が大学の国際化を支援する「スーパーグローバル大学(SGU)」37校を選んだなかに、同志社大が落選しているのだ。日本における他の大学より多くのグローバル関係学部を常設(後述)しているこの大学が、なぜ査定から除外されたのか不可解極まりない。

同志社大がわが国のどの大学よりもグローバル化の資質を備え、教育政策における喫緊の課題に戦略的な貢献ができる素地があるか、つぎの4点に要約される。

まず建学の理念。校租である新島襄が、1864(元治元)年当時の国禁を侵して米国に留学し、1874年グレイス教会(バーモント州)のアメリカン・ボードの年次大会で建学の熱弁をふるい、感動した人々から5,000ドルの寄付の約束を取り付け、同志社設立の礎となった。建学の基礎はグローバル大学そのものであった。
第二は、その理念を具現化したものが大学の校歌。20世紀初頭に作られたカレッジ・ソングはW.H.ヴォーリズ作詞の全文英語。旋律はイェール大と同じもので、「神のため、同志社のため、人類・同胞のために」学ぶ精神を、日本語ではなく英語で高らかに歌い続けている。第三は、戦前から新島襄の母校であるアーモスト大学(マサチューセッツ州)と同志社は姉妹校の絆があり、教授や留学生の交換が継続的に続けられていた。

アメリカ東部の名門校、アーモスト大学に関連する三つの話題に触れてみよう。
大学中心の丘に創立以来の教会がある。この正面祭壇の両側に大きな肖像画が掲げてある。一つは卒業生であるクーリッジ大統領、もう一つは新島襄。この日本人の肖像画は、前大戦中にも取り下げられることはなかった。
つぎに前大戦終結のあと嫌日風潮が、まだ米国中に吹き荒れているとき、唯ひとりアーモスト大学だけが敗戦国日本の外交官研修生の留学を受け入れてくれた。さらに戦後、同志社に派遣されたオーティス・ケリー教授が学生の授業・寮(アーモスト館)生活の面倒をみる傍ら、皇室とGHQを説得して昭和天皇の日本各地への巡行を実現させた事実はあまり知られていない。当時、つい先ごろまで敵国の首領であった天皇が占領地の各方面に出向き、旧敵国民に接触することは一般常識では考えられないことであった。しかし結果的には、飢餓状態にあった敗戦国の国民は、かっての現人神であった天皇の真摯な行為に応えて、荒廃した国土の復興、再建にどれだけ勇気づけられたことか。

第四は、このような歴史的な背景と文化的環境のもとで教育をうけた卒業生は、世界各地で縦横に活躍し、実績をおさめている。いま世界の政治・経済の主流を担っている欧米・中南米の知識階級、政府高官、政治家、各企業のトップクラスの殆んどの人材は、キリスト教の洗礼ないし影響をうけているのが実状だ。これは中世以来、今日にいたるまで連綿と継承されている。同志社大の卒業生は在学中に、キリスト教の風土・環境より自然に修得した知識と経験から、クリスマス、イースター、感謝祭ほか多くの冠婚葬祭を通じ、これらの人材と友情を温め信頼を深めるチャンスに恵まれ、数多くの業績を残している。

グローバル化戦略の枠組みでは、同志社大はわが国の大学のなかでは「トップ型」の最右翼であり、「スーパーグローバル大」ではなく、むしろ「ウルトラ・グローバル大」ではないだろうか。にもかかわらず文科省は、同志社大を「スーパーグローバル大」37校のリストから除外した。かって大蔵省(現・財務省)や通産省(現・経済産業省)の友人は「文部省(現・文部科学省)は無いほうが、日本のためになる」と口を揃えて主張したのに対し反論していたが、このたびの経緯を冷静に観察するにつけ、その友人たちの意見に首肯せざるをえないと感じはじめたことは残念としか言いようがない。明日の日本を担う若者のグローバル化教育を正しく導く国益ために文科省の猛省をうながしたい。

  (註)現在、同志社大学に常設されているグローバル関連学部は;
      国際教育インスティテュート
      グローバル・スタディーズ研究科
      グローバル・コミュ二ケーション学部
      グローバル地域文化学部
      留学生別科