9月は、竹久夢二が生まれた月であり、また死んだ月でもあります。1884年9月16日……すなわち今日、現在の岡山県瀬戸内市(旧邑久町)に生まれ、1934年9月1日富士見高原療養所にて看護の人々に「ありがとう」の一言を残し世を去りました。
竹久夢二の本名は茂次郎。「もじろう」と読みます。モッサリしているでしょう?夢二自身この名前にコンプレックスを持っていたのか、「花のお江戸ぢや夢二と呼ばれ 郷里(くに)にかへればへのへの茂次郎」と暗いユーモアの篭った戯れ歌を詠んでいます久世光彦さんの小説『へのへの夢二』がいかに鋭く面白いタイトルかわかっていただけるかと。
「次郎」という名前のとおり、次男でした。しかし、長男・兄は幼くして死んだので、事実上竹久家の跡取り息子。大のお姉さんっ子……現在のミもフタも無い言い方をすればシスコンで、彼の生家には姉が嫁いだときの寂しさに彼女の名前を鏡文字に刻んだ柱が残されています。
もともと竹久家は素封家だったのですが、父の女癖が悪かったことで故郷にいられなくなり、一家そろって九州・八幡へ。おそらく、家運が傾いたところへ止めを刺したのが女性問題だったのではないだろうかと、勝手に想像しています。しかし、夢二は詩人になる夢が捨てられず、東京へ。早稲田実業で商業の勉強をするならと、父からも許可が下ります。
東京へ出た夢二を待ち構えていたものは?
偶然と必然が与えた、画家への道。
苦学生として生活をしながら、社会的弱者への関心を高めた青春時代。
そして、彼に最も大きな影響を与えた、「三人の女性」
最初の夢二式美人モデルになったと言われ、唯一戸籍上の妻である岸たまき。
その関係がこじれてきたところに、最愛の恋人と言われる笠井彦乃と出会い。
肺結核と彦乃の父により引き裂かれた後に出会った、空前絶後のモデル・佐々木お葉。
この3人だけでも「夢二って奴は、羨ましいご身分で」といった感想を述べられる人がいるかもしれない。実は、この三人だけではないのです。ここまで言うと「怪しからん!」と言う人も、出てくるでしょう。
……しかし、彼の壮絶な恋愛の葛藤は、決して羨ましいといえるものではありません。それは生活においても、芸術においても、漂泊の旅においてもです。
また、彼が女性たちに対して取った態度は、決して褒められたものではありません。
たまきに対する「夢二式美人の人形でいてくれ」という言葉も、
彦乃を決して戸籍上の妻にしなかったことも、
お葉が自殺未遂の静養から戻ったすぐ後に、別の女性と旅行に出かけてしまったことも。
しかし。欧州旅行中に、ナチスによるユダヤ人迫害に対して、ドイツ人牧師たちによる救済活動が行われていたのを密かに手伝ったのも、この夢二という男なのです。かつて社会主義の取り締まり強化に恐れ、内部のセクト主義に嫌気がさし逃げ出した男は、生半可な勇気では関われないことに参加しました。
大正浪漫の代名詞である彼の人生は、その儚く優しげな女性たちが与える印象とは違って、もがき続けるものでした。彼を人生の模範にしたいという人が周囲にいたら、蛙は止めます。しかし、自分の人生を生き抜く態度は、賞賛すべきものがあるという、複雑な人物です。
彼が生まれ、死んだこの月。
蛙の目からみた夢二について少しばかり書き散らし、欠点だらけでありながら人をひきつける詩人画家について、彼を取り巻いた人々と時代について、少し整理できたらな、と思います。
日本各地の夢二関連美術館はこちら。
夢二郷土美術館…夢二の出身地・岡山の美術館。ブログがある辺り、面白い。
弥生美術館・竹久夢二美術館…弥生では、夢二のみならず高畠華宵、蕗谷虹児、岩田専太郎、伊藤彦造といった、大正ロマン・昭和モダンな作家が目白押し。
竹久夢二伊香保記念館…夢二が愛した土地の一つ。商業美術研究所を計画した。『黒船屋』を持っている。
日光竹久夢二美術館…夢二ファンである旅館の女将さんが、「好き」の一念で作ったファン魂の結晶。
金沢湯涌夢二館…夢二にとって思い出深い土地の一つ。彦乃、次男・不二彦と滞在した。