蛙の掘立小屋~カエルノホッタテゴヤ~

蛙のレトロ探求と、本との虫と、落語と、日々の雑事。

もう一つ、ブログ始めてみました。

2005-09-30 21:19:00 | 雑文
以前から「言葉」に特化したブログを作ろうと思っていたので。作ってみました。
いろいろID取得するのが面倒で、既に別件で利用しているYahoo!を使ってみたのですが……。既にgooタイプの入力に慣れてしまった蛙には、扱いにくいことこの上ないです。
慣れというのは、恐ろしい。

とりあえず、いろいろな言葉にツッコミを入れていこうかなというブログです。
本格始動はまだ先ですが、よろしかったらこちらもよろしくお願いいます。

「蛙の雑語帖」


……本当は、今日中に新サイト立ち上げしたかったのにな……。

阪神の勝ちを待ったのは

2005-09-29 21:16:18 | 風物詩
金沢という町は、東京・大阪・名古屋の勢力が拮抗しています。よって、阪神ファンもドラゴンズファンも巨人ファンも拮抗しています。今夜のセ優勝に絡んだチームばっかりじゃん(笑)。もっとも、松井の出身県ということで最近とみにNYヤンキースが勢力を伸ばしています。加賀前田家以来の、日和見体質?(爆)まぁ、悪く言えば定見が無いのですが、よく言えば柔軟にどのチームが勝っても楽しんでいるといったところでしょうか。
街のスポーツカフェは、俄か虎酒場になっておりました。(心の目で、黄色い暖簾左側のトラを見てください)

何処のチームが勝っても、ファンと地元の方が喜んでいるのを見るのは嬉しいし、楽しいし、羨ましい。地元チームが無いもので(苦笑)。

ところで、わざわざ済んだことを穿(ほじく)り返す無粋は承知の上ですが。それでも、つい思ってしまうのが2年前の優勝と道頓堀の事故。気のせいか、マスコミ各社も今年は道頓堀での取材やレポートを控え気味にしているような気がします。
人命に関わる事態になって、初めて掌を返したように飛び込みを批判するようになった全国のマスコミを見て、当時の私は「アンフェアだな」と思っていました。勿論、自分自身にも当てはまるのですが。優勝当日道頓堀に詰め掛け、ヘリまで飛ばしていた報道陣は明らかに「飛び込むこと」を期待していたのに。そして、それをTVで見ていた人も。

阪神のような地元に密着したチームが勝つのは、見ている方もとても嬉しいことです。しかし、2年前を思い出す、苦い勝利でもありました。

2時間ドラマ版『金田一少年の事件簿』雑感

2005-09-24 23:47:50 | お話大好き・コミック編
2時間ドラマ版『金田一少年の事件簿~吸血鬼伝説殺人事件』見せていただきました。実は、連続ドラマor映画実写のはじめちゃんはあんまり見たことがないもので。実写版はじめちゃんとじっくりお付き合いするのは、これが始めてです。

先ずは、良い点を。
・スタートの時点では、あくまで普通の高校生であること。
コミックの場合、ヒーロータイプとでも言いますか、最初から探偵としても人格の上でもデキる奴だったんですが。フツーの甘ったるいボーズから始めるという辺りが、ある意味リアルです。
・剣持警部が人生の先輩として、良いリード役になっていること。
警部が逃げ腰の主人公にカツを入れるシーンには、共感しました。だって、前半の軟弱ぶりに、張ったおしてやりたくなっていたところですから(苦笑)。
・主人公の成長を描こうとする態度
原作を違った角度から設定しなおそうという姿勢は評価します。
・原作並みに胡散臭い容疑者たち
やっぱり、金田一少年モノは、被害者と犯人を除いた容疑者たちも、思いっきり胡散臭くなくっちゃ♪(爆)

次に悪かった点を。
・キャラクター設定が違いすぎ。
剣持さんと金田一が「吸血鬼~」で初対面というのが、原作ファンとしては違和感がありすぎます。しかし、何より抵抗を感じるのは主人公の性格が、まったく違うこと。亀梨くんは可愛いんだけど、もっとはじめちゃんらしい骨のある個性派の男の子は見つからなかったのかなぁ?
・演出・演技の掘り下げ不足
剣持さん以外は、どの登場人物にも、殆ど共感できなかった。
・セットが安っ!
「あ、これ人工芝」とか、「これプラスチックね」とか、「廃墟の遺留品にしては新しすぎ」とか、「血糊染料赤すぎ」とか、細かなところで雰囲気が殺がれまくり。
……他沢山(大爆発)

結論を言いますと、中高生向けミステリーとしては五つ星評価の★★★、くらいに評価しても良いですが。
金田一少年ものとしては、★(星ひとつ)評価。

この際、正々堂々とシナリオとファミリーキャラの主要設定のみは利用したが、後は普通の高校生が名探偵へ成長していくヤングアダルト・ミステリーとして再構成した全くの別物と宣言した方が気持ちが良い。

要するに、
あんなの、はじめちゃんじゃないやい!
ということです。

続編が出たら、原作ファンとして一応見ますが。しかし、頭の中は完全に別物と、チャンネルを切り替えて見ます。

夢二「最愛の恋人」伝説~笠井彦乃(2)

2005-09-22 23:32:52 | れとろ・とりっぷ
夢二、彦乃、不二彦、三人の旅行は、最初、かなり強行軍というか欲張りだったようです。石川県においては山中、片山津、粟津と加賀地方の温泉を1~2泊程度で次から次へと制覇しています。現在の、やれ特急だの、ジェット機だの、高速バスだのが通っている時分ならいざ知らず、京都から北陸なら当時でも比較的近いとは言え。
その後、二人を残して京都に戻ったり、今度は福井・三国に行ったり。もとから旅慣れていた夢二は、同伴者の迷惑を顧みず(笑)自分のペースでどんどん面白そうだと思ったスポットに立ち寄らずにはいられない性格だったのでしょう。

しかし、そのハイペースにもブレーキがかかるときがきました。不二彦が疫痢により、金沢で入院することになりました。夢二の日記には、9月2日にはじめて“ちこ(不二彦の愛称)”の病状について書かれ、その後3日、4日と続きますが、次の記述は飛んで14日になります。4日には薬剤師が個人的な心配事やなんかで薬の調合を間違えないか気をもみますが、14日には、父親に元気なところを見せようと「いきなり床の上に立つて見せる」くらいに回復したようです。この間隔のあき方が、夢二たちの看病の様子を物語っているようです。
思わぬ入院で当然旅費が危なくなり、夢二は金沢で画会を開きます。この時、彦乃も「山路しの」の名で出品しました。女子美出身の女流画家が、地方の新聞に名前を残しました。ちなみに、「山」は二人が使っていた暗号で、彦乃のことを指します。「しの」も、彦乃のことで、夢二が彼女につけた名前です。

この後、二人は不二彦の病後療養と、彦乃の指にできた腫れ物に効くと奨められ、湯涌温泉に逗留します。目的が目的ですので、今回ばかりは3週間と比較的長い滞在になります。
村のお堂に奉納する額を作ったり、散歩に出て虫を観察したり、不二彦の為にかるたを作ってやったり。そんなゆったりまったりの時間を過ごす中で、彦乃が丸髷を結ってもらうという出来事がありました。それは、当時、人妻の証でもありました。
夕めしのとき、丸髷にゆつたおしのさんを見て、田舎の婚礼の晩のやうに思った。(大正6年9月24日の日記 一部抜粋)

「まだしやしんがあつて、
「あゝあるよ、一枚くらひ、
「ぢやうつして頂戴、もうこれがこわれるから。
「ぢやちこにとつてもらを。
――――
東京から送つたキモノをぬひながら、こんな髪をゆつてキモノをぬつてゐるとこを父がみたら泣くでせうよ、でも、あたしがこゝで死んだら それでも好きな人とこうして死んだら、また泣くでせうよ。(大正6年9月25日の日記 一部抜粋)

湯涌での思い出について、夢二は次のような短歌を残しています。「湯涌なる、山ふところの、小春日に、眼閉じ死なむと、きみのいふなり」目を閉じて、死んでもいいわと君は言ったね、という、感傷的かつ浪漫的な歌です。

女心の極致とも、感傷的戯言とも取れる彼女の言葉ですが。彼女は病弱な己の体に、何らかの予感を持っていたフシがあります。京都に戻った後、彼女は段々体を壊していき、入院してしまいます。そうなると父親に夢二と暮らしていたことが暴露(ばれ)ないわけにはいきません。彦乃は東京に連れ戻され、最期を看取るどころか見舞いもさせてもらえないまま二人は離れ離れになります。
大正9年1月16日、お茶の水順天堂医院にて永眠。

夢二「最愛の恋人」伝説~笠井彦乃(1)

2005-09-21 21:49:15 | れとろ・とりっぷ
「三人の女性」の中で、夢二最愛の恋人といわれているのが、笠井彦乃(戸籍名:ヒコノ)です。元は山梨県南巨摩郡西島村(現・身延町、旧・中富町)の出身でしたが、一家を挙げて上京。とうとう宮内庁ご用達にまでなる紙問屋となった。故郷から転居して成功を収めた家……という点では、たまきと似ているかもしれません。
絵が好きで、女子美術学校に通っていました。彦乃の父が、どれだけ、そしてどのようにして娘を可愛がっていたのか見えてくるような気がします。女子美は当時男子校だった東京美術学校に対抗してつくられたものです。明治・大正の少女たちにとっては「男子と対等である」という夢と自尊心、憧れを、知的に満たしてくれる貴重な場所であったことでしょう。但し、芸術という男性に対して利害関係の比較的薄い分野ではありますが。
彦乃が女子美で製作した「御殿女中」という絵は、手に扇を持った女中が笑みを浮かべて立ち上がっている図になっています。舞っているようにも見えますが、何かに気づいたような表情が、文鳥か何かでも見つけたところを連想させます。左下には小さく「優」の成績評価が。父親ご自慢の娘さんだったことでしょう。

彦乃は当時の絵や可愛いものに気を使う少女たちのご多聞に漏れず、夢二のファンでした。夢二は絵葉書や封筒、千代紙、ポチ袋、半襟といったアイテムをデザインし、それをたまきに「港屋」という店で売らせていました。「港屋」へ行けば、夢二先生に会えるかもしれない、絵を教えてもらえるかもしれない。今も昔も変わらぬ乙女のミーハー心で、彦乃はこの店に出入りするようになります。
心に描いていた優しげな風貌をした彦乃の登場。夢二も彦乃に心を寄せるようになり、聖ニコライ堂で初めて恋の言葉を交わしたと言われています。

しかし。
彦乃の父から見れば、夢二は当然、信頼のおけない男でした。前妻のたまきとも、別れたのか別れていないのかハッキリしない関係が続いていたのですから。自棄か、自分が格上であることを言外に主張しようとしたのか、貞女のイメージに酔っていたのか、それとも二人の仲を壊してくれることを期待したのか、たまきが彦乃の父に「お嬢さんを竹久にください」と直談判しにいく騒ぎがあってから、父の彦乃に対する監視は厳しくなっていき、とうとう学校にさえ通わせてもらえなくなります。
そこで彦乃がとった作戦は、かなり大胆なものでした。彼女は京都に絵の勉強に行きたいと父に頼みます。また、友人に頼んで、それとなく京都が彦乃の絵の勉強に相応しい場所であるよう父に吹き込んでもらいます。勿論、女子美で優をとる彼女のことですから、「絵の勉強~」は本心には違いなかったでしょう。しかし、それよりも大きいのは、当時夢二が京都にいたと言うことです。

二人はたまきとの間の次男・不二彦と一緒に、二年坂で暮らしました。
その後に新婚旅行のようにしてやってきたのが、北陸への旅行でした。

祭りの準備@山中温泉

2005-09-20 20:21:30 | 風物詩
トラックに舞台の骨組みを乗っけて、電柱に提灯をつけてまわるおじさんたち。
中国雑技団ならぬ、温泉雑技団?

山中はお湯良し、景色良し、歩いて良しの街です。
あ、ついでに食べて良し(笑)。
総湯(共同浴場)は、胸に届きそうな程深く、まるでプールのよう。
芭蕉が「山中や、菊は手折らじ、湯のにほい」と詠んだ、癒しの香り漂う街。
「山中町」としてこの「こいこい祭り」を行うのはこれが最後。
新「加賀市」へ、合併となります。

山中温泉の公式サイトはこちら

「夢二の妻」にしかなれなかった女~岸たまき(3)

2005-09-19 22:41:01 | れとろ・とりっぷ
夢二が富士見高原療養所にて息を引き取った後、一人の50を過ぎた女がお礼奉公にやってきました。竹久夢二がお世話になったそうでと言いやってきた彼女は、よく働く、親しみやすい「オバチャン」だったそうです。そうして、準看護師たちにこう言うのでした。

「画家さんとは、結婚しまさんなや」

それは、ずっと以前に別れたたまきでした。

妻としても、母としても、たまきは決して信頼できる女性ではありませんでした。だからでしょうか。所長の正木不如丘博士は緘口令でも敷いたのか、準看護師さんたちはずっと後になるまで夢二の妻だったとは知らなかったそうです。(この辺りのいきさつは、金沢湯涌夢二館のビデオコーナーに詳しくあります)

何故たまきはお礼奉公にやってきたのか?
夢二と別れた後は、中上流家庭の女中をするなど流転が続いた彼女の人生。数少ない成功した士族の家に生まれ、そこそこの聡明さと人目を惹く美貌を持ち、気性は激しく、意思は強く、誇りは高い。そんな出発点に立っていた筈の彼女は、気がつけば「あの」夢二を育て支えた妻、という称号のほかは、自分の女性としての価値を証明するものが無かったのではないでしょうか。
しかし。死別した彦乃は別にしても、夢二と関わった多くの女性が彼のことを過去にしていったのに対し、たまきだけがお礼奉公にやってきました。

彼女から、夢二と完全に訣別することができていたら。彼女はここまで苦労はしなかったでしょう。しかし、もっと平凡な女として終わっていたことでしょう。彼女は強烈な個性を持ちながらも、「新しい女」として勝ち残るには何かが足りなかった。日本近代史に名を残した女性たちの足元には、たまきのような人々が大勢いたことでしょう。

仮令、自分の価値を確認するためであれ。
打算であれ。
執着であれ。
高慢であれ。
自己瞞着であれ。
愛は愛。

たまきとはそういう生き方をした女性だというのが、蛙の見方です。

「夢二の妻」にしかなれなかった女~岸たまき(2)

2005-09-18 00:17:46 | れとろ・とりっぷ
好きあってした恋愛結婚。しかし、二人の結婚生活は長く続きませんでした。気性の激しいたまきと、繊細な感受性を持つ夢二。しかも揃って我が強い。二人の間には喧嘩が絶えず、2年で協議離婚。
たまきは後に夢二との関係を振り返った手記で、偽造された印により騙されるようにして夢二の父・菊蔵により別れさせられたと言っています。あくまでたまきの言い分ですので、果たしてそこまでエゲツナイ手段がとられたのかは不明です。しかし、菊蔵が夢二たち夫婦の生活ぶりに呆れ怒ったこと、たまきに主婦失格の判を押したこと、二人に別れるように言ったことは考えられます。八幡で父を手伝う仕事を辞めて、家出同然に上京した夢二。そもそも、郷里にいられなくなったのは、父の女性問題が原因。そのせいで姉も離縁され。彼の父に対する気持ちは決して穏やかではなかったと思います。しかし、この時ばかりは父に従ったところを見ると、夢二自身、この結婚に疲れていたようです。
また、たまきにしても、夢二に正統派の絵画の勉強をさせようとしますが、あるいは個性を殺すことになると窘められ、あるいは展覧会に落選しと、夫としても画家としても、頼りないものを感じていたと言えるでしょう。
菊蔵が促すまでもなく、互いに疲れはてていたのです。

しかし、二人の縁は離婚のみで切れることは無く、この後も次男、三男が生まれています。有体に言えば、腐れ縁というやつです。

この二人の関係に止めを刺したのは、父・菊蔵ではなく、「第二の女性」彦乃の登場でした。彼女の登場で夢二の心は少しずつ離れていき、とうとう破局へと転がり落ちていきます。
当時、夢二がたまきにやらせていた夢二デザインの小物を売る店「港屋」。そこは一種の美術サロンとなっていました。ここに出入りしていた若い才能の一人に、東郷青児がいました(よろしかったら、こちらもどうぞ)。東郷は夢二不在の「港屋」で、たまきの為に「夢二ふう」絵葉書を描くなどしていました。そして、彼らの間が「怪しい」という噂がたつようになったのです。林えり子氏は『愛せしこの身なれど 竹久夢二と妻他万喜』で、二人があたかも不倫関係にあるように密告したのは彦乃ではないかとしています。有り得ないことではないですが、夢二自身、大正3年12月17日の日記で、次のように記しています。
男はその愛する児の口から「かあちゃんと東さんとパヽさんのゐないときねたよ」と聞いて「さうかえ」とばかり言ってだまつてしまつた。
それをきいてゐたばあやは
「そんなこといふのぢやありません」
とたしなめたが子供は何故いけないのだか知らない。
(中略)
近所でも「あのおくさんは旦那様のるすに若い男と歩いて金でもしぼつてゐるんだろ」とばあやに言つたさうだ。

既に噂は広がり、夢二の耳に届かないわけにはいかなくなっていたのでしょう。
サロンの女王が取り巻きのうちの一人を寵愛していただけなのか、実際に取沙汰されたような関係だったのか。真相は藪の中です。
しかし嫉妬に心とらわれた夢二は、自分が既に彦乃と付き合っていることは棚に上げ、富山の宮崎海岸で刺した刺さないの喧嘩となります。このとき、夢二のたまきに対する執着は消えいきました。しかし、たまきからは消えませんでした。

夢二の絵に「SAYONARA」という作品があります。袴をはいた女先生が、青い洋服の女の子を外まで送っている絵です。これは、離婚後自活の為に保母の見習いをしていたたまきをモデルにしたものだと言われています。確かに、パッチリと開いた先生の目は、たまきに似ているかもしれません。
このとき夢二は、ここで出会ったのも神のお導きだと言って(二人はキリスト教に傾倒していました)、たまきによりを戻すよう持ちかけました。彼女は躊躇いながらもその言葉に従います。
後から振り返れば、それがたまきの方から夢二と縁を切る、最大のチャンスだったかもしれません。

追記:
夢二日記の内容を修正。引用追加。(2005年9月22日)

「夢二の妻」にしかなれなかった女~岸たまき(1)

2005-09-17 23:09:11 | れとろ・とりっぷ
夢二に最も大きな影響を与えた「三人の女性」。気が強い姉さん女房、たまき。芸術に対する感性を持った、彦乃。少女のような無邪気さと、年齢以上の強かさが同居するお葉。個性がそれぞれ異なれば、夢二に対する愛のあり方もそれぞれ異なりました。
先ずは、たまきから。

岸たまき(戸籍名:他万喜)は加賀金沢出身で、代々儒学者として藩に仕えた家柄でした。明治維新により武士から士族になった人々の大多数は、「武士の商法」という言葉のとおり、新時代に馴染めず転落の一途を辿りました。しかし、たまきの父・岸六郎という人は先見の明があったようで、裁判所の判事としての道を選び成功します。武家の伝統と父の成功。この二つがたまきにお嬢さんとして育つことを許し、彼女の奔放な性格を助長していったと言えるでしょう。
父は高岡で判事を勤め、たまきもこちらで縁付きます。が、その相手は夢二ではありません。県立高岡工業学校で図画を教えていた日本画家・堀内喜一。彼がたまきの最初の夫です。しかし33歳の若さで病死。たまきは所謂「未亡人」となりました。

良くも悪くも行動力が有り余っている彼女は堀内喜一との間に出来た子を養子に出し、兄を頼って上京。早稲田鶴巻町に「つるや」という絵葉書屋を始め、名物女将となります。彼女の美貌に惹かれてやってくる人々の中に、当時まだ学生だった夢二がいました。
出会った当初の夢二に対する印象は、決して芳しいものではなかったようです。早稲田実業の学生だと言うが、髪はモサモサの長髪で、役者の絵葉書は無いかと訊かれ無いと答えると、それじゃあ売れないと文句をつけてくる。しかも、

「それなら僕が、早慶戦の絵を描いてあげよう」

などと言ってくる。
しかし、既に雑誌の小間(こま)絵(=カット)等を描いていた夢二の着眼点は確かでした。彼の絵を葉書にしたところ人気となり、夢二は絵葉書作家としての名声とたまきの心両方を手に入れたのでした。

追記:
堀内喜一のプロフィールを、一部修正。(2005年9月22日)

大正浪漫にもがき続けた男の物語~私的夢二フェア

2005-09-16 23:28:02 | れとろ・とりっぷ
9月は、竹久夢二が生まれた月であり、また死んだ月でもあります。1884年9月16日……すなわち今日、現在の岡山県瀬戸内市(旧邑久町)に生まれ、1934年9月1日富士見高原療養所にて看護の人々に「ありがとう」の一言を残し世を去りました。
竹久夢二の本名は茂次郎。「もじろう」と読みます。モッサリしているでしょう?夢二自身この名前にコンプレックスを持っていたのか、「花のお江戸ぢや夢二と呼ばれ 郷里(くに)にかへればへのへの茂次郎」と暗いユーモアの篭った戯れ歌を詠んでいます久世光彦さんの小説『へのへの夢二』がいかに鋭く面白いタイトルかわかっていただけるかと。
「次郎」という名前のとおり、次男でした。しかし、長男・兄は幼くして死んだので、事実上竹久家の跡取り息子。大のお姉さんっ子……現在のミもフタも無い言い方をすればシスコンで、彼の生家には姉が嫁いだときの寂しさに彼女の名前を鏡文字に刻んだ柱が残されています。
もともと竹久家は素封家だったのですが、父の女癖が悪かったことで故郷にいられなくなり、一家そろって九州・八幡へ。おそらく、家運が傾いたところへ止めを刺したのが女性問題だったのではないだろうかと、勝手に想像しています。しかし、夢二は詩人になる夢が捨てられず、東京へ。早稲田実業で商業の勉強をするならと、父からも許可が下ります。

東京へ出た夢二を待ち構えていたものは?
偶然と必然が与えた、画家への道。
苦学生として生活をしながら、社会的弱者への関心を高めた青春時代。
そして、彼に最も大きな影響を与えた、「三人の女性」
最初の夢二式美人モデルになったと言われ、唯一戸籍上の妻である岸たまき。
その関係がこじれてきたところに、最愛の恋人と言われる笠井彦乃と出会い。
肺結核と彦乃の父により引き裂かれた後に出会った、空前絶後のモデル・佐々木お葉。

この3人だけでも「夢二って奴は、羨ましいご身分で」といった感想を述べられる人がいるかもしれない。実は、この三人だけではないのです。ここまで言うと「怪しからん!」と言う人も、出てくるでしょう。
……しかし、彼の壮絶な恋愛の葛藤は、決して羨ましいといえるものではありません。それは生活においても、芸術においても、漂泊の旅においてもです。
また、彼が女性たちに対して取った態度は、決して褒められたものではありません。
たまきに対する「夢二式美人の人形でいてくれ」という言葉も、
彦乃を決して戸籍上の妻にしなかったことも、
お葉が自殺未遂の静養から戻ったすぐ後に、別の女性と旅行に出かけてしまったことも。

しかし。欧州旅行中に、ナチスによるユダヤ人迫害に対して、ドイツ人牧師たちによる救済活動が行われていたのを密かに手伝ったのも、この夢二という男なのです。かつて社会主義の取り締まり強化に恐れ、内部のセクト主義に嫌気がさし逃げ出した男は、生半可な勇気では関われないことに参加しました。
大正浪漫の代名詞である彼の人生は、その儚く優しげな女性たちが与える印象とは違って、もがき続けるものでした。彼を人生の模範にしたいという人が周囲にいたら、蛙は止めます。しかし、自分の人生を生き抜く態度は、賞賛すべきものがあるという、複雑な人物です。

彼が生まれ、死んだこの月。
蛙の目からみた夢二について少しばかり書き散らし、欠点だらけでありながら人をひきつける詩人画家について、彼を取り巻いた人々と時代について、少し整理できたらな、と思います。

日本各地の夢二関連美術館はこちら。
夢二郷土美術館…夢二の出身地・岡山の美術館。ブログがある辺り、面白い。
弥生美術館・竹久夢二美術館…弥生では、夢二のみならず高畠華宵、蕗谷虹児、岩田専太郎、伊藤彦造といった、大正ロマン・昭和モダンな作家が目白押し。
竹久夢二伊香保記念館…夢二が愛した土地の一つ。商業美術研究所を計画した。『黒船屋』を持っている。
日光竹久夢二美術館…夢二ファンである旅館の女将さんが、「好き」の一念で作ったファン魂の結晶。
金沢湯涌夢二館…夢二にとって思い出深い土地の一つ。彦乃、次男・不二彦と滞在した。