蛙の掘立小屋~カエルノホッタテゴヤ~

蛙のレトロ探求と、本との虫と、落語と、日々の雑事。

夢二「最愛の恋人」伝説~笠井彦乃(2)

2005-09-22 23:32:52 | れとろ・とりっぷ
夢二、彦乃、不二彦、三人の旅行は、最初、かなり強行軍というか欲張りだったようです。石川県においては山中、片山津、粟津と加賀地方の温泉を1~2泊程度で次から次へと制覇しています。現在の、やれ特急だの、ジェット機だの、高速バスだのが通っている時分ならいざ知らず、京都から北陸なら当時でも比較的近いとは言え。
その後、二人を残して京都に戻ったり、今度は福井・三国に行ったり。もとから旅慣れていた夢二は、同伴者の迷惑を顧みず(笑)自分のペースでどんどん面白そうだと思ったスポットに立ち寄らずにはいられない性格だったのでしょう。

しかし、そのハイペースにもブレーキがかかるときがきました。不二彦が疫痢により、金沢で入院することになりました。夢二の日記には、9月2日にはじめて“ちこ(不二彦の愛称)”の病状について書かれ、その後3日、4日と続きますが、次の記述は飛んで14日になります。4日には薬剤師が個人的な心配事やなんかで薬の調合を間違えないか気をもみますが、14日には、父親に元気なところを見せようと「いきなり床の上に立つて見せる」くらいに回復したようです。この間隔のあき方が、夢二たちの看病の様子を物語っているようです。
思わぬ入院で当然旅費が危なくなり、夢二は金沢で画会を開きます。この時、彦乃も「山路しの」の名で出品しました。女子美出身の女流画家が、地方の新聞に名前を残しました。ちなみに、「山」は二人が使っていた暗号で、彦乃のことを指します。「しの」も、彦乃のことで、夢二が彼女につけた名前です。

この後、二人は不二彦の病後療養と、彦乃の指にできた腫れ物に効くと奨められ、湯涌温泉に逗留します。目的が目的ですので、今回ばかりは3週間と比較的長い滞在になります。
村のお堂に奉納する額を作ったり、散歩に出て虫を観察したり、不二彦の為にかるたを作ってやったり。そんなゆったりまったりの時間を過ごす中で、彦乃が丸髷を結ってもらうという出来事がありました。それは、当時、人妻の証でもありました。
夕めしのとき、丸髷にゆつたおしのさんを見て、田舎の婚礼の晩のやうに思った。(大正6年9月24日の日記 一部抜粋)

「まだしやしんがあつて、
「あゝあるよ、一枚くらひ、
「ぢやうつして頂戴、もうこれがこわれるから。
「ぢやちこにとつてもらを。
――――
東京から送つたキモノをぬひながら、こんな髪をゆつてキモノをぬつてゐるとこを父がみたら泣くでせうよ、でも、あたしがこゝで死んだら それでも好きな人とこうして死んだら、また泣くでせうよ。(大正6年9月25日の日記 一部抜粋)

湯涌での思い出について、夢二は次のような短歌を残しています。「湯涌なる、山ふところの、小春日に、眼閉じ死なむと、きみのいふなり」目を閉じて、死んでもいいわと君は言ったね、という、感傷的かつ浪漫的な歌です。

女心の極致とも、感傷的戯言とも取れる彼女の言葉ですが。彼女は病弱な己の体に、何らかの予感を持っていたフシがあります。京都に戻った後、彼女は段々体を壊していき、入院してしまいます。そうなると父親に夢二と暮らしていたことが暴露(ばれ)ないわけにはいきません。彦乃は東京に連れ戻され、最期を看取るどころか見舞いもさせてもらえないまま二人は離れ離れになります。
大正9年1月16日、お茶の水順天堂医院にて永眠。