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蛙の掘立小屋~カエルノホッタテゴヤ~

蛙のレトロ探求と、本との虫と、落語と、日々の雑事。

日本のリンドバーグ・東善作~快男児足元にあり・その2

2005-10-16 00:07:16 | れとろ・とりっぷ
二人目の快男児は東善作。羽咋郡南大海村字中沼(現、かほく市中沼・現在石川県立看護大学がある」辺りです)の出身です。小学校に上がる頃に、お母さんの実家がある一宮村(先日お話した野村直吉の出身地と同じですね)に移ります。
尋常小学校4年の頃、母の実家を継ぐ筈だった従兄弟が折からの探検ブームに乗って海軍軍人に志願。寺の跡目にと期待され、伯父の家に預けられるようになります。

しかし、広い世界へ憧れる気持ちは、彼も同じでした。高等小学校卒業後、村役場の給仕になるのですが、どうしても韓国に行きたいと言い出します。16歳の少年は、事業主の夢を胸に海を渡ります。韓国に着いた後、酒屋の小僧などをして小金を貯め、小さいながら自分の店を持つようになりますが、大損をして失敗。懸命に働くだけでは成功しない、やはり学問が必要だと感じるようになった善作は帰郷し中学を受験します。ある意味、『ドラゴ○桜』の先行版な人生です(笑)。
ちなみに、このUターンをして帰ってきたのが17歳。実に切り替えが早く、フットワークが軽いのが、この人の特徴のようです。

おおらかで面倒見が良い一方、「人の厄介にはならない」がモットーの東善作は、中学の学費も自分で工面しました。当時苦学生のお約束アルバイトの一つだったらしい俥屋(くるまや・人力車夫。あの竹久夢二も車夫バイトをしていたってンだから、信じられない)をしながら学校に通います。そうやって勉学勤労両道に励むある日、花町の売れっ子芸者さんに紹介されて地元新聞に載り学費の援助をしてくれる後援者がみつかります。芸者の姐さんが口を利いてくれたというのが、如何にもこの時代らしい。
中学卒業後、金沢で新聞記者の採用に合格しますが、そこで人生最大の転機を迎えます。金沢の野村練兵場で行われたアート・スミスの曲芸飛行に心奪われ、夢多い青年は、ついにこれぞという道を選びます。記者生活は半年足らずでした。

飛行技術を学ぶ為に渡米。授業料は1分1ドル。卒業には最低10時間の飛行、すなわち約600ドルの学費が必要です。当時50ドルで約一ヶ月の生活ができました。持ち前のガッツでお馴染みのアルバイト作戦、農場での労働で学費を稼ぎます。第一次世界大戦中は民間の航空学校が閉鎖されたこともあり、アメリカ陸軍航空隊に在籍してまで飛行技術を学びます。その後より高い飛行技術を求めて、オークランド飛行学校に入学。更に国際ライセンスを取得する為、ロサンゼルスのクーパー高等飛行学校へ入学。
大正12年、関東大震災のニュースを知ったときは、仲間たちと共に、日本救援を呼びかけるビラを曲芸飛行をしながらまき続けました。

大正末期から昭和初期にかけて、日本でも航空技術の必要性が認識され始めました。しかし、現状はお粗末の一言。祖国に飛行技術の必要性をアピールする為、飛行機仲間たちと共に母国訪問飛行を決行します。最初に名乗りをあげたのは大分出身の後藤正志。しかし、悪天候により帰らぬ人となります。その9ヵ月後、2番手として東善作が名乗りをあげます。「三大陸横断」を「自費」で決行。飛行帽には「同行八千萬人」日本人全員と飛ぶんだと、眼鏡のベルトには「同行二人」死んだ後藤と共に飛ぶんだと、墨書された帽子が展示されています。
1930年8月31日、彼が中学の青春を過ごした岡山の町に着陸。大阪でも着陸した後、東京立川にて終着点を踏みます。三大陸横断成功の瞬間でした。

この後、東善作は飛行学校の設立に奔走しますが、実を結びませんでした。また、記録的5ヶ月天下の(爆・しかも石川出身で更に爆)林銑十郎内閣の下衆議院に立候補しますが落選。その後信州に移り住み、戦前戦中が飛行機や自動車の部品を扱う仕事、戦後は進駐軍出入りの商人、ウラン鉱脈の探索等を行います。
展示品の中には、選挙のビラに使ったらしい、風刺漫画の版木がありました。飛行機に乗ったらしい東善作の後ろに林銑十郎が「東君、お手柄お手柄」と手を振っている図です。アメリカ在住時代、排日感情の壁にぶつかり嫌な思いをしたこともあったでしょうが、じかし、当時のそれこそ「ナントカ」の一つ覚えのような米英排斥運動に違和感を感じなかった筈は無いと思うのですが…。おそらく、どの時代、どの国でも、善良で真面目な人ほど疑問なく素直に自分の力を国の役に立てようとするように、東善作という人も大変純朴な国民感情を持った人だったのでしょう。

彼の遺骨の一部は、故人の意志により日本海に撒かれました。空の男に相応しい、ロマンチックな後の始末です。

このほかにも、蛙が北陸ゆかりの人で格好良い男だと思っている人に、八田与一(ダム建設の技師)、中谷宇吉郎(雪の研究者)、藤野巖九郎(魯迅の恩師)等の人がいます。いずれも誰もが知る偉人として名を残すには至りませんでしたが、だからこそ市井の人として自分が決めた道に専心した、人生の輝きを感じます。やっぱり、知る人しか知らないマイナーな一代男を発掘するのって、楽しいわ(笑)。これらの人々については、機会があればお話するかも知れません。
あ、ついでに格好良い北陸男に、田中耕一さんも入れておいてください♪

初代南極船長・野村直吉~快男児足元にあり・その1

2005-10-15 23:19:18 | れとろ・とりっぷ
現在、羽咋市歴史民俗資料館にて、特別展《「野村直吉」と「東善作」》を開催しています。PRポスターを見るまでは、そういう人がいたことさえ知らなかった、駄目だめレトロファン蛙です。
野村直吉は白瀬南極探検隊の船長を務めた人物。東善作はリンドバーグが大西洋横断に成功した次の年、米欧亜三大陸横断に成功した人物。ともに石川県羽咋郡(現、羽咋市・ついでに、CMも見てあげて)の出身です。
自分の出身県に、稀代の冒険家がいたとは知らず、早速観にいきました。

先ずは、野村直吉から。この人は一宮村(現、羽咋市一ノ宮町。気多大社周辺の地域)出身です。幼少の頃の詳しい経歴は不明。父と兄は北前船の船頭で、彼自身、成長してからは兄の下で航海の腕を磨いたと言われています。
北前船交易は、交通の不便があってこそ成り立った経済活動でした。北海道の昆布が陸路ではそう簡単に江戸や大阪に届かない。だからこそ、板子一枚下は地獄ハイリスクの海路をとり、その命の値段でボり倒して売るハイリターン。しかし、明治に入って鉄道の敷設により陸路がスピードアップ。それにより輸送コストもダウン。消費者は、高い北前船の商品を買う必要が無くなっていきました。

和船に拘っていては、職を失うことが目に見えきっていました。そこで、野村直吉は甲種船長を受験。見事免許を取得します。そのときの年齢が、41歳。中年男、華麗なる転身です。
展示品の中に、船長受験の為にとったノートがあり、実に細かい字で丁寧に文章が綴られています。参考書か何かから写し取ったのでしょうか?綺麗に色分けした図も書かれています。北前船乗りから船長へというのが、如何にも明治らしい大きな転身ですが、それにはまた如何にも明治らしい刻苦勉励の努力に支えられたものでした。

船長受験が第一の転機なら、第二の転機は存外直ぐにやってきました。白瀬中尉の南極探検隊員の募集を知ったのが43歳の6月。船長として参加することが決まり、準備に奔走。出発が直吉44歳の11月。
しかし。陸上隊と海上隊の間にギャップがあるのは、いつものこと。船の調達に遅れたこともあり、南極周辺は既に氷に覆われ始めていました。この時、白瀬隊長の探検家としての使命と、野村直吉の船長としての使命が激突。結局無理はせず、シドニーへ一旦退きます。直吉たちは追加の資金を得る為に日本に戻らざるを得なくなります。このとき白瀬は支援者への手紙で、悔しさ故か野村船長の判断を臆病であると断じています。しかし、北前船というハイリスクな世界を知っている者ならではの危機管理能力があったからこそ、直吉自身が宣言したように(20頭のカラフト犬を除いては)、全員無事に陸に帰すことが出来たのでしょう。

1911年11月シドニー出航。1912年1月南極圏東進記録を更新。6月芝浦港へ帰港。
生還後は遠洋航路の船長を歴任しますが、1922年病気の為、退職。震災、或いは他の何らかの理由により財産を失い、残った財産は妻子の有利になるように整理し、自分は会社を設立するなどしていたのですが、殆ど結実することが無いまま、1933年東京の自宅にて亡くなります。

遺品には、岡山在住の見ず知らずの方からの手紙があり、南極探検の快挙を心の支えに生きてきたことが綴られています。
只一通。和船船乗り上がりの船長に報いる真心として、実に相応しい数字のように思えます。

展示品の中には、野村直吉自身の手による、南極の氷や空、海のスケッチがあります。ペンギンが興味深そうに船の様子を伺っている、微笑ましい一枚もあります。
決して上手というわけではありあせんが、南極の驚異に対する素直な畏敬が伝わってくる絵です。

アーケードの去った町~横安江町その後

2005-10-06 20:30:35 | れとろ・とりっぷ
以前、商店街アーケード撤去のお話をしましたが。近江町へ大行燈祭りの写真を撮りに行った日に、足を伸ばして様子を見に行きました。撤去完了後訪れるのは、初めてです。
感想は。馬鹿馬鹿しいくらい、明るくなっていました。
今回の写真は、前回のものより大分手前で撮ったものです。本当は大体同じ位置に立って撮りたかったのですが。一つには以前の撮影位置を忘れてしまったというのと。もう一つには、印象がガラリと変わってしまったので、以前何処から撮ったか思い出せなくなってしまったというのがあります。
これからこの町は、アーケードに代わる町のイメージを作っていかなくてはなりません。新しいスタート地点です。


ちなみに、こちらは先日ご紹介したばかりの、近江町市場です。ここにも、行燈が写っているでしょう?
アーケードの奥に光がさして妙に明るい部分がありますが、そこでアーケードが終わっているわけではありません。よく見たら、その更に奥、やっぱりアーケードが続いているのが見えますか?
実は近江町でも一部アーケードを取り壊しています。しかし、撤去の為ではありません。改修の為です。現在、アーケードの代わりに白テントをたてて代用しています。
方やアーケードは使命を終え、方や新たに要求されている。この二つを分けたのは、一体何だったのでしょう?町の有り方のヒントは、こういうところにも隠されているのかもしれません。

金沢・近江町は祭りの彩り~大行灯祭

2005-10-05 23:23:27 | れとろ・とりっぷ
以前、金沢には町衆の祭りが無いとお話しましたが。だからと言って、お武家さん由来の祭りしか無いというわけでもありません。「金沢市民の台所」がキャッチフレーズの近江町市場では、商売人と庶民の祭り「大行燈夜祭り」を開催しています。もっとも、ずっと続いていたわけではなく、数年前に復活させたのですが。

ポスターカラーを使ったらしい鮮やかな色で、描かれているのは日本人が富と幸せを祈る最も身近な神様、福の神。その中でも商売と実りに関係が深い大黒さん、恵比寿さんが多いです。
やはり魚屋さんでは恵比寿さんが鯛を捕まえているところ、八百屋さんや果物屋さんでは大黒さんが取れたての野菜と果実を籠や笊に入れているところが人気。向かって左側面にはお店の名前、右側面には縁起の良い文句やお店のキャッチ、場合によっては川柳がかいてあったりします。
書いてある魚や野菜にしても、只今売り出し中の「加賀野菜」だったり、北国ということで「蟹」だったり。
他にも店主さんの似顔絵が行燈になっているものもあります。きっと注文するときに、写真か何かを絵師さんに送ったんでしょうね。漁師さんの格好をして魚を手にニッカリ笑っているご主人。今日日使うかは別として、大八車に野菜や果物を山積みにしたご主人。眼鏡顔が自然に行燈になっている辺りが、やっぱり平成です。
シンプルに、自分のお店のトレードマークだけを使ったところもあります。
(↓はいろいろな行燈をまとめて切り貼り)

お祭りの日に絵入りの行燈を奉納している姿というものを、蛙は覚えていません。蛙が生まれた頃には、行燈を奉納するのは余程信心深いか、地縁的結束が強い土地だけになっていたのかもしれません。
提灯やお神酒なら、近所の神社でもよく奉納されていました。お酒の瓶にくるりと熨斗紙のようなものを巻いて、上半分には「奉納」とか「○○神社」、下半分には奉納した人や商店の名前を墨書します。やはり酒屋さんのような資本力のあるお店は、豪勢に薦被りの樽を収めていました。

近江町市場には、市場ならではの駆け引きや、良い意味での泥臭さが残っています。商品に関する知識と経験、威勢のいい兄ちゃんやオバちゃんの呼び込みをかわしつつ値段と鮮度を見極める観察眼、そしてそれを比較する記憶力、お目当ての店へ迷わず行ける方向感覚…。買い物に自分の能力全てを使っていた頃の気分が楽しめます。
機会のある方は、是非どうぞ。

追伸:地元人的買い物の頼りないコツ(?)は「旬ではないものには絶対手を出さない」と「『金時草』が『きんじそう』であることを知っておく」ことでしょうか。

夢二「最愛の恋人」伝説~笠井彦乃(2)

2005-09-22 23:32:52 | れとろ・とりっぷ
夢二、彦乃、不二彦、三人の旅行は、最初、かなり強行軍というか欲張りだったようです。石川県においては山中、片山津、粟津と加賀地方の温泉を1~2泊程度で次から次へと制覇しています。現在の、やれ特急だの、ジェット機だの、高速バスだのが通っている時分ならいざ知らず、京都から北陸なら当時でも比較的近いとは言え。
その後、二人を残して京都に戻ったり、今度は福井・三国に行ったり。もとから旅慣れていた夢二は、同伴者の迷惑を顧みず(笑)自分のペースでどんどん面白そうだと思ったスポットに立ち寄らずにはいられない性格だったのでしょう。

しかし、そのハイペースにもブレーキがかかるときがきました。不二彦が疫痢により、金沢で入院することになりました。夢二の日記には、9月2日にはじめて“ちこ(不二彦の愛称)”の病状について書かれ、その後3日、4日と続きますが、次の記述は飛んで14日になります。4日には薬剤師が個人的な心配事やなんかで薬の調合を間違えないか気をもみますが、14日には、父親に元気なところを見せようと「いきなり床の上に立つて見せる」くらいに回復したようです。この間隔のあき方が、夢二たちの看病の様子を物語っているようです。
思わぬ入院で当然旅費が危なくなり、夢二は金沢で画会を開きます。この時、彦乃も「山路しの」の名で出品しました。女子美出身の女流画家が、地方の新聞に名前を残しました。ちなみに、「山」は二人が使っていた暗号で、彦乃のことを指します。「しの」も、彦乃のことで、夢二が彼女につけた名前です。

この後、二人は不二彦の病後療養と、彦乃の指にできた腫れ物に効くと奨められ、湯涌温泉に逗留します。目的が目的ですので、今回ばかりは3週間と比較的長い滞在になります。
村のお堂に奉納する額を作ったり、散歩に出て虫を観察したり、不二彦の為にかるたを作ってやったり。そんなゆったりまったりの時間を過ごす中で、彦乃が丸髷を結ってもらうという出来事がありました。それは、当時、人妻の証でもありました。
夕めしのとき、丸髷にゆつたおしのさんを見て、田舎の婚礼の晩のやうに思った。(大正6年9月24日の日記 一部抜粋)

「まだしやしんがあつて、
「あゝあるよ、一枚くらひ、
「ぢやうつして頂戴、もうこれがこわれるから。
「ぢやちこにとつてもらを。
――――
東京から送つたキモノをぬひながら、こんな髪をゆつてキモノをぬつてゐるとこを父がみたら泣くでせうよ、でも、あたしがこゝで死んだら それでも好きな人とこうして死んだら、また泣くでせうよ。(大正6年9月25日の日記 一部抜粋)

湯涌での思い出について、夢二は次のような短歌を残しています。「湯涌なる、山ふところの、小春日に、眼閉じ死なむと、きみのいふなり」目を閉じて、死んでもいいわと君は言ったね、という、感傷的かつ浪漫的な歌です。

女心の極致とも、感傷的戯言とも取れる彼女の言葉ですが。彼女は病弱な己の体に、何らかの予感を持っていたフシがあります。京都に戻った後、彼女は段々体を壊していき、入院してしまいます。そうなると父親に夢二と暮らしていたことが暴露(ばれ)ないわけにはいきません。彦乃は東京に連れ戻され、最期を看取るどころか見舞いもさせてもらえないまま二人は離れ離れになります。
大正9年1月16日、お茶の水順天堂医院にて永眠。

夢二「最愛の恋人」伝説~笠井彦乃(1)

2005-09-21 21:49:15 | れとろ・とりっぷ
「三人の女性」の中で、夢二最愛の恋人といわれているのが、笠井彦乃(戸籍名:ヒコノ)です。元は山梨県南巨摩郡西島村(現・身延町、旧・中富町)の出身でしたが、一家を挙げて上京。とうとう宮内庁ご用達にまでなる紙問屋となった。故郷から転居して成功を収めた家……という点では、たまきと似ているかもしれません。
絵が好きで、女子美術学校に通っていました。彦乃の父が、どれだけ、そしてどのようにして娘を可愛がっていたのか見えてくるような気がします。女子美は当時男子校だった東京美術学校に対抗してつくられたものです。明治・大正の少女たちにとっては「男子と対等である」という夢と自尊心、憧れを、知的に満たしてくれる貴重な場所であったことでしょう。但し、芸術という男性に対して利害関係の比較的薄い分野ではありますが。
彦乃が女子美で製作した「御殿女中」という絵は、手に扇を持った女中が笑みを浮かべて立ち上がっている図になっています。舞っているようにも見えますが、何かに気づいたような表情が、文鳥か何かでも見つけたところを連想させます。左下には小さく「優」の成績評価が。父親ご自慢の娘さんだったことでしょう。

彦乃は当時の絵や可愛いものに気を使う少女たちのご多聞に漏れず、夢二のファンでした。夢二は絵葉書や封筒、千代紙、ポチ袋、半襟といったアイテムをデザインし、それをたまきに「港屋」という店で売らせていました。「港屋」へ行けば、夢二先生に会えるかもしれない、絵を教えてもらえるかもしれない。今も昔も変わらぬ乙女のミーハー心で、彦乃はこの店に出入りするようになります。
心に描いていた優しげな風貌をした彦乃の登場。夢二も彦乃に心を寄せるようになり、聖ニコライ堂で初めて恋の言葉を交わしたと言われています。

しかし。
彦乃の父から見れば、夢二は当然、信頼のおけない男でした。前妻のたまきとも、別れたのか別れていないのかハッキリしない関係が続いていたのですから。自棄か、自分が格上であることを言外に主張しようとしたのか、貞女のイメージに酔っていたのか、それとも二人の仲を壊してくれることを期待したのか、たまきが彦乃の父に「お嬢さんを竹久にください」と直談判しにいく騒ぎがあってから、父の彦乃に対する監視は厳しくなっていき、とうとう学校にさえ通わせてもらえなくなります。
そこで彦乃がとった作戦は、かなり大胆なものでした。彼女は京都に絵の勉強に行きたいと父に頼みます。また、友人に頼んで、それとなく京都が彦乃の絵の勉強に相応しい場所であるよう父に吹き込んでもらいます。勿論、女子美で優をとる彼女のことですから、「絵の勉強~」は本心には違いなかったでしょう。しかし、それよりも大きいのは、当時夢二が京都にいたと言うことです。

二人はたまきとの間の次男・不二彦と一緒に、二年坂で暮らしました。
その後に新婚旅行のようにしてやってきたのが、北陸への旅行でした。

「夢二の妻」にしかなれなかった女~岸たまき(3)

2005-09-19 22:41:01 | れとろ・とりっぷ
夢二が富士見高原療養所にて息を引き取った後、一人の50を過ぎた女がお礼奉公にやってきました。竹久夢二がお世話になったそうでと言いやってきた彼女は、よく働く、親しみやすい「オバチャン」だったそうです。そうして、準看護師たちにこう言うのでした。

「画家さんとは、結婚しまさんなや」

それは、ずっと以前に別れたたまきでした。

妻としても、母としても、たまきは決して信頼できる女性ではありませんでした。だからでしょうか。所長の正木不如丘博士は緘口令でも敷いたのか、準看護師さんたちはずっと後になるまで夢二の妻だったとは知らなかったそうです。(この辺りのいきさつは、金沢湯涌夢二館のビデオコーナーに詳しくあります)

何故たまきはお礼奉公にやってきたのか?
夢二と別れた後は、中上流家庭の女中をするなど流転が続いた彼女の人生。数少ない成功した士族の家に生まれ、そこそこの聡明さと人目を惹く美貌を持ち、気性は激しく、意思は強く、誇りは高い。そんな出発点に立っていた筈の彼女は、気がつけば「あの」夢二を育て支えた妻、という称号のほかは、自分の女性としての価値を証明するものが無かったのではないでしょうか。
しかし。死別した彦乃は別にしても、夢二と関わった多くの女性が彼のことを過去にしていったのに対し、たまきだけがお礼奉公にやってきました。

彼女から、夢二と完全に訣別することができていたら。彼女はここまで苦労はしなかったでしょう。しかし、もっと平凡な女として終わっていたことでしょう。彼女は強烈な個性を持ちながらも、「新しい女」として勝ち残るには何かが足りなかった。日本近代史に名を残した女性たちの足元には、たまきのような人々が大勢いたことでしょう。

仮令、自分の価値を確認するためであれ。
打算であれ。
執着であれ。
高慢であれ。
自己瞞着であれ。
愛は愛。

たまきとはそういう生き方をした女性だというのが、蛙の見方です。

「夢二の妻」にしかなれなかった女~岸たまき(2)

2005-09-18 00:17:46 | れとろ・とりっぷ
好きあってした恋愛結婚。しかし、二人の結婚生活は長く続きませんでした。気性の激しいたまきと、繊細な感受性を持つ夢二。しかも揃って我が強い。二人の間には喧嘩が絶えず、2年で協議離婚。
たまきは後に夢二との関係を振り返った手記で、偽造された印により騙されるようにして夢二の父・菊蔵により別れさせられたと言っています。あくまでたまきの言い分ですので、果たしてそこまでエゲツナイ手段がとられたのかは不明です。しかし、菊蔵が夢二たち夫婦の生活ぶりに呆れ怒ったこと、たまきに主婦失格の判を押したこと、二人に別れるように言ったことは考えられます。八幡で父を手伝う仕事を辞めて、家出同然に上京した夢二。そもそも、郷里にいられなくなったのは、父の女性問題が原因。そのせいで姉も離縁され。彼の父に対する気持ちは決して穏やかではなかったと思います。しかし、この時ばかりは父に従ったところを見ると、夢二自身、この結婚に疲れていたようです。
また、たまきにしても、夢二に正統派の絵画の勉強をさせようとしますが、あるいは個性を殺すことになると窘められ、あるいは展覧会に落選しと、夫としても画家としても、頼りないものを感じていたと言えるでしょう。
菊蔵が促すまでもなく、互いに疲れはてていたのです。

しかし、二人の縁は離婚のみで切れることは無く、この後も次男、三男が生まれています。有体に言えば、腐れ縁というやつです。

この二人の関係に止めを刺したのは、父・菊蔵ではなく、「第二の女性」彦乃の登場でした。彼女の登場で夢二の心は少しずつ離れていき、とうとう破局へと転がり落ちていきます。
当時、夢二がたまきにやらせていた夢二デザインの小物を売る店「港屋」。そこは一種の美術サロンとなっていました。ここに出入りしていた若い才能の一人に、東郷青児がいました(よろしかったら、こちらもどうぞ)。東郷は夢二不在の「港屋」で、たまきの為に「夢二ふう」絵葉書を描くなどしていました。そして、彼らの間が「怪しい」という噂がたつようになったのです。林えり子氏は『愛せしこの身なれど 竹久夢二と妻他万喜』で、二人があたかも不倫関係にあるように密告したのは彦乃ではないかとしています。有り得ないことではないですが、夢二自身、大正3年12月17日の日記で、次のように記しています。
男はその愛する児の口から「かあちゃんと東さんとパヽさんのゐないときねたよ」と聞いて「さうかえ」とばかり言ってだまつてしまつた。
それをきいてゐたばあやは
「そんなこといふのぢやありません」
とたしなめたが子供は何故いけないのだか知らない。
(中略)
近所でも「あのおくさんは旦那様のるすに若い男と歩いて金でもしぼつてゐるんだろ」とばあやに言つたさうだ。

既に噂は広がり、夢二の耳に届かないわけにはいかなくなっていたのでしょう。
サロンの女王が取り巻きのうちの一人を寵愛していただけなのか、実際に取沙汰されたような関係だったのか。真相は藪の中です。
しかし嫉妬に心とらわれた夢二は、自分が既に彦乃と付き合っていることは棚に上げ、富山の宮崎海岸で刺した刺さないの喧嘩となります。このとき、夢二のたまきに対する執着は消えいきました。しかし、たまきからは消えませんでした。

夢二の絵に「SAYONARA」という作品があります。袴をはいた女先生が、青い洋服の女の子を外まで送っている絵です。これは、離婚後自活の為に保母の見習いをしていたたまきをモデルにしたものだと言われています。確かに、パッチリと開いた先生の目は、たまきに似ているかもしれません。
このとき夢二は、ここで出会ったのも神のお導きだと言って(二人はキリスト教に傾倒していました)、たまきによりを戻すよう持ちかけました。彼女は躊躇いながらもその言葉に従います。
後から振り返れば、それがたまきの方から夢二と縁を切る、最大のチャンスだったかもしれません。

追記:
夢二日記の内容を修正。引用追加。(2005年9月22日)

「夢二の妻」にしかなれなかった女~岸たまき(1)

2005-09-17 23:09:11 | れとろ・とりっぷ
夢二に最も大きな影響を与えた「三人の女性」。気が強い姉さん女房、たまき。芸術に対する感性を持った、彦乃。少女のような無邪気さと、年齢以上の強かさが同居するお葉。個性がそれぞれ異なれば、夢二に対する愛のあり方もそれぞれ異なりました。
先ずは、たまきから。

岸たまき(戸籍名:他万喜)は加賀金沢出身で、代々儒学者として藩に仕えた家柄でした。明治維新により武士から士族になった人々の大多数は、「武士の商法」という言葉のとおり、新時代に馴染めず転落の一途を辿りました。しかし、たまきの父・岸六郎という人は先見の明があったようで、裁判所の判事としての道を選び成功します。武家の伝統と父の成功。この二つがたまきにお嬢さんとして育つことを許し、彼女の奔放な性格を助長していったと言えるでしょう。
父は高岡で判事を勤め、たまきもこちらで縁付きます。が、その相手は夢二ではありません。県立高岡工業学校で図画を教えていた日本画家・堀内喜一。彼がたまきの最初の夫です。しかし33歳の若さで病死。たまきは所謂「未亡人」となりました。

良くも悪くも行動力が有り余っている彼女は堀内喜一との間に出来た子を養子に出し、兄を頼って上京。早稲田鶴巻町に「つるや」という絵葉書屋を始め、名物女将となります。彼女の美貌に惹かれてやってくる人々の中に、当時まだ学生だった夢二がいました。
出会った当初の夢二に対する印象は、決して芳しいものではなかったようです。早稲田実業の学生だと言うが、髪はモサモサの長髪で、役者の絵葉書は無いかと訊かれ無いと答えると、それじゃあ売れないと文句をつけてくる。しかも、

「それなら僕が、早慶戦の絵を描いてあげよう」

などと言ってくる。
しかし、既に雑誌の小間(こま)絵(=カット)等を描いていた夢二の着眼点は確かでした。彼の絵を葉書にしたところ人気となり、夢二は絵葉書作家としての名声とたまきの心両方を手に入れたのでした。

追記:
堀内喜一のプロフィールを、一部修正。(2005年9月22日)

大正浪漫にもがき続けた男の物語~私的夢二フェア

2005-09-16 23:28:02 | れとろ・とりっぷ
9月は、竹久夢二が生まれた月であり、また死んだ月でもあります。1884年9月16日……すなわち今日、現在の岡山県瀬戸内市(旧邑久町)に生まれ、1934年9月1日富士見高原療養所にて看護の人々に「ありがとう」の一言を残し世を去りました。
竹久夢二の本名は茂次郎。「もじろう」と読みます。モッサリしているでしょう?夢二自身この名前にコンプレックスを持っていたのか、「花のお江戸ぢや夢二と呼ばれ 郷里(くに)にかへればへのへの茂次郎」と暗いユーモアの篭った戯れ歌を詠んでいます久世光彦さんの小説『へのへの夢二』がいかに鋭く面白いタイトルかわかっていただけるかと。
「次郎」という名前のとおり、次男でした。しかし、長男・兄は幼くして死んだので、事実上竹久家の跡取り息子。大のお姉さんっ子……現在のミもフタも無い言い方をすればシスコンで、彼の生家には姉が嫁いだときの寂しさに彼女の名前を鏡文字に刻んだ柱が残されています。
もともと竹久家は素封家だったのですが、父の女癖が悪かったことで故郷にいられなくなり、一家そろって九州・八幡へ。おそらく、家運が傾いたところへ止めを刺したのが女性問題だったのではないだろうかと、勝手に想像しています。しかし、夢二は詩人になる夢が捨てられず、東京へ。早稲田実業で商業の勉強をするならと、父からも許可が下ります。

東京へ出た夢二を待ち構えていたものは?
偶然と必然が与えた、画家への道。
苦学生として生活をしながら、社会的弱者への関心を高めた青春時代。
そして、彼に最も大きな影響を与えた、「三人の女性」
最初の夢二式美人モデルになったと言われ、唯一戸籍上の妻である岸たまき。
その関係がこじれてきたところに、最愛の恋人と言われる笠井彦乃と出会い。
肺結核と彦乃の父により引き裂かれた後に出会った、空前絶後のモデル・佐々木お葉。

この3人だけでも「夢二って奴は、羨ましいご身分で」といった感想を述べられる人がいるかもしれない。実は、この三人だけではないのです。ここまで言うと「怪しからん!」と言う人も、出てくるでしょう。
……しかし、彼の壮絶な恋愛の葛藤は、決して羨ましいといえるものではありません。それは生活においても、芸術においても、漂泊の旅においてもです。
また、彼が女性たちに対して取った態度は、決して褒められたものではありません。
たまきに対する「夢二式美人の人形でいてくれ」という言葉も、
彦乃を決して戸籍上の妻にしなかったことも、
お葉が自殺未遂の静養から戻ったすぐ後に、別の女性と旅行に出かけてしまったことも。

しかし。欧州旅行中に、ナチスによるユダヤ人迫害に対して、ドイツ人牧師たちによる救済活動が行われていたのを密かに手伝ったのも、この夢二という男なのです。かつて社会主義の取り締まり強化に恐れ、内部のセクト主義に嫌気がさし逃げ出した男は、生半可な勇気では関われないことに参加しました。
大正浪漫の代名詞である彼の人生は、その儚く優しげな女性たちが与える印象とは違って、もがき続けるものでした。彼を人生の模範にしたいという人が周囲にいたら、蛙は止めます。しかし、自分の人生を生き抜く態度は、賞賛すべきものがあるという、複雑な人物です。

彼が生まれ、死んだこの月。
蛙の目からみた夢二について少しばかり書き散らし、欠点だらけでありながら人をひきつける詩人画家について、彼を取り巻いた人々と時代について、少し整理できたらな、と思います。

日本各地の夢二関連美術館はこちら。
夢二郷土美術館…夢二の出身地・岡山の美術館。ブログがある辺り、面白い。
弥生美術館・竹久夢二美術館…弥生では、夢二のみならず高畠華宵、蕗谷虹児、岩田専太郎、伊藤彦造といった、大正ロマン・昭和モダンな作家が目白押し。
竹久夢二伊香保記念館…夢二が愛した土地の一つ。商業美術研究所を計画した。『黒船屋』を持っている。
日光竹久夢二美術館…夢二ファンである旅館の女将さんが、「好き」の一念で作ったファン魂の結晶。
金沢湯涌夢二館…夢二にとって思い出深い土地の一つ。彦乃、次男・不二彦と滞在した。