二人目の快男児は東善作。羽咋郡南大海村字中沼(現、かほく市中沼・現在石川県立看護大学がある」辺りです)の出身です。小学校に上がる頃に、お母さんの実家がある一宮村(先日お話した野村直吉の出身地と同じですね)に移ります。
尋常小学校4年の頃、母の実家を継ぐ筈だった従兄弟が折からの探検ブームに乗って海軍軍人に志願。寺の跡目にと期待され、伯父の家に預けられるようになります。
しかし、広い世界へ憧れる気持ちは、彼も同じでした。高等小学校卒業後、村役場の給仕になるのですが、どうしても韓国に行きたいと言い出します。16歳の少年は、事業主の夢を胸に海を渡ります。韓国に着いた後、酒屋の小僧などをして小金を貯め、小さいながら自分の店を持つようになりますが、大損をして失敗。懸命に働くだけでは成功しない、やはり学問が必要だと感じるようになった善作は帰郷し中学を受験します。ある意味、『ドラゴ○桜』の先行版な人生です(笑)。
ちなみに、このUターンをして帰ってきたのが17歳。実に切り替えが早く、フットワークが軽いのが、この人の特徴のようです。
おおらかで面倒見が良い一方、「人の厄介にはならない」がモットーの東善作は、中学の学費も自分で工面しました。当時苦学生のお約束アルバイトの一つだったらしい俥屋(くるまや・人力車夫。あの竹久夢二も車夫バイトをしていたってンだから、信じられない)をしながら学校に通います。そうやって勉学勤労両道に励むある日、花町の売れっ子芸者さんに紹介されて地元新聞に載り学費の援助をしてくれる後援者がみつかります。芸者の姐さんが口を利いてくれたというのが、如何にもこの時代らしい。
中学卒業後、金沢で新聞記者の採用に合格しますが、そこで人生最大の転機を迎えます。金沢の野村練兵場で行われたアート・スミスの曲芸飛行に心奪われ、夢多い青年は、ついにこれぞという道を選びます。記者生活は半年足らずでした。
飛行技術を学ぶ為に渡米。授業料は1分1ドル。卒業には最低10時間の飛行、すなわち約600ドルの学費が必要です。当時50ドルで約一ヶ月の生活ができました。持ち前のガッツでお馴染みのアルバイト作戦、農場での労働で学費を稼ぎます。第一次世界大戦中は民間の航空学校が閉鎖されたこともあり、アメリカ陸軍航空隊に在籍してまで飛行技術を学びます。その後より高い飛行技術を求めて、オークランド飛行学校に入学。更に国際ライセンスを取得する為、ロサンゼルスのクーパー高等飛行学校へ入学。
大正12年、関東大震災のニュースを知ったときは、仲間たちと共に、日本救援を呼びかけるビラを曲芸飛行をしながらまき続けました。
大正末期から昭和初期にかけて、日本でも航空技術の必要性が認識され始めました。しかし、現状はお粗末の一言。祖国に飛行技術の必要性をアピールする為、飛行機仲間たちと共に母国訪問飛行を決行します。最初に名乗りをあげたのは大分出身の後藤正志。しかし、悪天候により帰らぬ人となります。その9ヵ月後、2番手として東善作が名乗りをあげます。「三大陸横断」を「自費」で決行。飛行帽には「同行八千萬人」日本人全員と飛ぶんだと、眼鏡のベルトには「同行二人」死んだ後藤と共に飛ぶんだと、墨書された帽子が展示されています。
1930年8月31日、彼が中学の青春を過ごした岡山の町に着陸。大阪でも着陸した後、東京立川にて終着点を踏みます。三大陸横断成功の瞬間でした。
この後、東善作は飛行学校の設立に奔走しますが、実を結びませんでした。また、記録的5ヶ月天下の(爆・しかも石川出身で更に爆)林銑十郎内閣の下衆議院に立候補しますが落選。その後信州に移り住み、戦前戦中が飛行機や自動車の部品を扱う仕事、戦後は進駐軍出入りの商人、ウラン鉱脈の探索等を行います。
展示品の中には、選挙のビラに使ったらしい、風刺漫画の版木がありました。飛行機に乗ったらしい東善作の後ろに林銑十郎が「東君、お手柄お手柄」と手を振っている図です。アメリカ在住時代、排日感情の壁にぶつかり嫌な思いをしたこともあったでしょうが、じかし、当時のそれこそ「ナントカ」の一つ覚えのような米英排斥運動に違和感を感じなかった筈は無いと思うのですが…。おそらく、どの時代、どの国でも、善良で真面目な人ほど疑問なく素直に自分の力を国の役に立てようとするように、東善作という人も大変純朴な国民感情を持った人だったのでしょう。
彼の遺骨の一部は、故人の意志により日本海に撒かれました。空の男に相応しい、ロマンチックな後の始末です。
このほかにも、蛙が北陸ゆかりの人で格好良い男だと思っている人に、八田与一(ダム建設の技師)、中谷宇吉郎(雪の研究者)、藤野巖九郎(魯迅の恩師)等の人がいます。いずれも誰もが知る偉人として名を残すには至りませんでしたが、だからこそ市井の人として自分が決めた道に専心した、人生の輝きを感じます。やっぱり、知る人しか知らないマイナーな一代男を発掘するのって、楽しいわ(笑)。これらの人々については、機会があればお話するかも知れません。
あ、ついでに格好良い北陸男に、田中耕一さんも入れておいてください♪
尋常小学校4年の頃、母の実家を継ぐ筈だった従兄弟が折からの探検ブームに乗って海軍軍人に志願。寺の跡目にと期待され、伯父の家に預けられるようになります。
しかし、広い世界へ憧れる気持ちは、彼も同じでした。高等小学校卒業後、村役場の給仕になるのですが、どうしても韓国に行きたいと言い出します。16歳の少年は、事業主の夢を胸に海を渡ります。韓国に着いた後、酒屋の小僧などをして小金を貯め、小さいながら自分の店を持つようになりますが、大損をして失敗。懸命に働くだけでは成功しない、やはり学問が必要だと感じるようになった善作は帰郷し中学を受験します。ある意味、『ドラゴ○桜』の先行版な人生です(笑)。
ちなみに、このUターンをして帰ってきたのが17歳。実に切り替えが早く、フットワークが軽いのが、この人の特徴のようです。
おおらかで面倒見が良い一方、「人の厄介にはならない」がモットーの東善作は、中学の学費も自分で工面しました。当時苦学生のお約束アルバイトの一つだったらしい俥屋(くるまや・人力車夫。あの竹久夢二も車夫バイトをしていたってンだから、信じられない)をしながら学校に通います。そうやって勉学勤労両道に励むある日、花町の売れっ子芸者さんに紹介されて地元新聞に載り学費の援助をしてくれる後援者がみつかります。芸者の姐さんが口を利いてくれたというのが、如何にもこの時代らしい。
中学卒業後、金沢で新聞記者の採用に合格しますが、そこで人生最大の転機を迎えます。金沢の野村練兵場で行われたアート・スミスの曲芸飛行に心奪われ、夢多い青年は、ついにこれぞという道を選びます。記者生活は半年足らずでした。
飛行技術を学ぶ為に渡米。授業料は1分1ドル。卒業には最低10時間の飛行、すなわち約600ドルの学費が必要です。当時50ドルで約一ヶ月の生活ができました。持ち前のガッツでお馴染みのアルバイト作戦、農場での労働で学費を稼ぎます。第一次世界大戦中は民間の航空学校が閉鎖されたこともあり、アメリカ陸軍航空隊に在籍してまで飛行技術を学びます。その後より高い飛行技術を求めて、オークランド飛行学校に入学。更に国際ライセンスを取得する為、ロサンゼルスのクーパー高等飛行学校へ入学。
大正12年、関東大震災のニュースを知ったときは、仲間たちと共に、日本救援を呼びかけるビラを曲芸飛行をしながらまき続けました。
大正末期から昭和初期にかけて、日本でも航空技術の必要性が認識され始めました。しかし、現状はお粗末の一言。祖国に飛行技術の必要性をアピールする為、飛行機仲間たちと共に母国訪問飛行を決行します。最初に名乗りをあげたのは大分出身の後藤正志。しかし、悪天候により帰らぬ人となります。その9ヵ月後、2番手として東善作が名乗りをあげます。「三大陸横断」を「自費」で決行。飛行帽には「同行八千萬人」日本人全員と飛ぶんだと、眼鏡のベルトには「同行二人」死んだ後藤と共に飛ぶんだと、墨書された帽子が展示されています。
1930年8月31日、彼が中学の青春を過ごした岡山の町に着陸。大阪でも着陸した後、東京立川にて終着点を踏みます。三大陸横断成功の瞬間でした。
この後、東善作は飛行学校の設立に奔走しますが、実を結びませんでした。また、記録的5ヶ月天下の(爆・しかも石川出身で更に爆)林銑十郎内閣の下衆議院に立候補しますが落選。その後信州に移り住み、戦前戦中が飛行機や自動車の部品を扱う仕事、戦後は進駐軍出入りの商人、ウラン鉱脈の探索等を行います。
展示品の中には、選挙のビラに使ったらしい、風刺漫画の版木がありました。飛行機に乗ったらしい東善作の後ろに林銑十郎が「東君、お手柄お手柄」と手を振っている図です。アメリカ在住時代、排日感情の壁にぶつかり嫌な思いをしたこともあったでしょうが、じかし、当時のそれこそ「ナントカ」の一つ覚えのような米英排斥運動に違和感を感じなかった筈は無いと思うのですが…。おそらく、どの時代、どの国でも、善良で真面目な人ほど疑問なく素直に自分の力を国の役に立てようとするように、東善作という人も大変純朴な国民感情を持った人だったのでしょう。
彼の遺骨の一部は、故人の意志により日本海に撒かれました。空の男に相応しい、ロマンチックな後の始末です。
このほかにも、蛙が北陸ゆかりの人で格好良い男だと思っている人に、八田与一(ダム建設の技師)、中谷宇吉郎(雪の研究者)、藤野巖九郎(魯迅の恩師)等の人がいます。いずれも誰もが知る偉人として名を残すには至りませんでしたが、だからこそ市井の人として自分が決めた道に専心した、人生の輝きを感じます。やっぱり、知る人しか知らないマイナーな一代男を発掘するのって、楽しいわ(笑)。これらの人々については、機会があればお話するかも知れません。
あ、ついでに格好良い北陸男に、田中耕一さんも入れておいてください♪