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意思による楽観のための読書日記

日本語と西欧語 主語の由来を探る 金谷武洋 ***

学校時代の英語の時間に英文和訳、和文英訳があった。違和感を感じたのは、中1の最初の英語の時間。”This is Japan. That is America.”だった。「これは日本です、あれはアメリカです」 そんなこと言うか、と思った。どのような場面に遭遇したら、こういう事を話すかと考えると、地図を見ながら説明するときだと想像した。「日本がこれで、アメリカはあれ」これならわかる。本書はこんな素朴な疑問に答えてくれる本であった。

筆者によれば、日本語は「ある」、英語は「する」言葉だという。「する」のは誰か、それは人間である、という。「ある」のは、自然にそうなる、という表現型だと。そのためには英語には主語が必需品となり、日本語には主語は必ずしも必要ではない。

アメリカ人で日本語を勉強している人たちが難しいのが、こういうポイントらしい。電車に乗っていると車掌さんが「ドアが閉まりますのでご注意ください」というが、英米人からみるとなぜ「ドアを閉めますのでご注意ください」と言わないのかという。日本人としては、どちらでも良い気もするが、もっと考えてみると、同じ土俵に乗ってくれている表現だという。「精が出ますね」「お風呂が沸いていますよ」という場合も、主客間の分断を避ける表現である。明確な行為者を表に出さない、これが日本語の特徴だという。

似たような表現はたくさんある。お金がある=I have money 富士山が見える=I can see Mt.Fuji タバコは嫌いだ=I hate cigarettes 英語はすべて、所有、知覚、嫌悪を行為として表現するが、日本語では格助詞「が」で表現するので、話している相手との距離感が近くなり対決姿勢が弱まるという。

川端康成の「雪国」冒頭部分の原文と英文翻訳文は次の通り。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
"The train came out of the long tunnel into the snow country"
この原文を読むと頭の中に、車窓に写る雪国の景色が思い浮かぶだろう。この主人公と同じ視線でトンネルを抜けてぱっと明るい景色を目にしている時間経過までを感じることができる。一方の英語文は空の上から列車が走っているのが見えて、トンネルを抜けて、雪の線路の上を走っている状況が見て取れる。客観的な描写であり、原文の時間経過やぱっと明るい景色は思い浮かばない。原文には主語はないが、それでは英語文にはできないので、列車を主語にしている。これでは、原文の意味の半分も英訳できてはいない。

もう一つの例は幸田文の「流れる」冒頭。
「このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった」
主人公は入口を探しているのだが、家の周りを歩いて見て回っても入り口がわからない、という出来事を表現している。日本語翻訳を手掛け始めたアルゼンチン人の日本語研究家が最初に手こずった事例だという。「日本人の発想 日本語の表現」の著者である森田良行によれば、「日本語の発想は高みから外界を見下ろすのではなく、地面を這って進む爬虫類のように前に進みながら進行方向を変えていく恣意性の高い言語である」この高みから外界を見下ろすのが英語的発想である。筆者はこれを「神の視点」と「虫の視点」と表現する。

虫の視点を持つ言語は日本語、韓国語。虫の視点で考えると、小津安二郎の低いアングルのゆったりとしたリズムが日本的だというのが実感できる。虫の視点から見ると、自然の色、音、匂いが豊かに迫ってきて、それをオノマトペで表現するのが得意になる。「ぬるぬる、べとべと、ざらざら、つるつる、ねっとり。。。」例文は二葉亭四迷の「浮雲」である。「傍の座敷の障子がスラリ開いて、年頃十八九の婦人の首、チョンボリとした摘っ鼻と、日の丸の紋を染め抜いたムックリとした頬とで、その持ち主の身分が知れるといふ奴が、ぬっと出る」こうした文章を英語にするのは困難を極めるだろう。

オノマトペは動詞と連動する。転がる→ころころ、ごろごろ 凹む→ぺこぺこ、粘る→ねばねば 揺れる→ゆらゆら 震える→ぶるぶる 騒ぐ→ザワザワ 急ぐ→いそいそ などなど枚挙にいとまがない。

もう一つ、英語人が理解しにくい日本語は「亀が子どもたちにいじめられているのを助けた」 なぜ難しいのかといえば、亀が子どもたちにいじめられている、という状態/場面を助けたという、そいう表現型が英語にはないからである。「浦島太郎は、子どもたちにいじめられている亀を助けた」コレならわかる、関係代名詞による名詞修飾節で、英語の先生は「~ところの亀を助けた」などと僕たち生徒には説明していた。できごとが起きた順序に従って時間軸に沿って進んでいくのが虫の視点というわけである。「国境の長い。。。」と同じである。

日本語には、敬語表現があり、謙譲語と尊敬語がある。「田中さんがお座りになった」「田中さんが座った」この2つに英語での違いはないが、日本語では視点間の関係は明確になる。これも視点をどこに持つかという表現である。神の視点からみれば、上下(かみしも)の関係はよくわからないであろう。もう一つの違いが、「やりもらい」の表現で、「教える」と「教えてあげる」の違いである恩恵の授受。これに尊敬語を加えると「お教えする、教えて差し上げる、教えていただく、教えてくださる」などとなる。

やりもらい表現のもう一つの例。「花子が来た」と「花子が来てくれた」の違いは明確だが、英語にすると”Hanako came”。 「彼に本をあげた」と「彼は本をくれた」は英語にすれば”I gave him a book”、”He gave me a book"。このように、高みから表現する英語では「やりもらい表現」が難しい。

歴史を紐解くと、英語がラテン語属であるフランス語やイタリア語に従属した期間があった。それは1066年から300年のノルマンの征服である。この期間は英民族が言葉を維持するには結構長過ぎる時間であり、その間英語には多くの苦難が生じたという。一つはフランス語の英語化、もうひとつの大きな変化が主語の必須化。英語もそれ以前には主語は必ずしも必要としなかった。動詞が一人称、二人称、三人称と活用するので、主語が誰であるかを明確にしなくとも通じたし、SVOという語順さえOSVでもVSOでも通じたのである。しかし英語の従属期間にクレオール化、つまり単純化が起きた。そのなかでも定冠詞の一本化ですべてtheとなり、活用の単純化が起きて、SVOの順序を守ること、主語は必ず動詞の前にある、これらの変化が定着したという。現在でもスペイン語、イタリア語、ポルトガル語は動詞の前を主語の指定席とはしていない。 It rainsは気候を表す時にどうしても必要な主語をitとしている。I don't knowはI know notを表現するときの否定形の単純化のプロセスで生まれたdo動詞。「ノルマンの征服」は多くの爪痕を英語に残したという。本書内容は以上。

日本に暮らす外国人が増えて、日本の良さが客観的な視点から見直されるのは良いこと。この際、主語を明確に表現しないという日本語の良さも再認識したい。

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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