台湾の近代史について、何となく知っているつもりが理解不足を痛感、認識を新たにした。本書は2000年代初頭、まだ日本語を話し理解する世代が存命の時代に、そうした10人ほどの老人たちに現地に赴き直接インタビュー、自由に話してもらった生声そのままの記録である。
日清戦争後、下関条約により台湾は清国から日本に割譲され、1895年から太平洋戦争終戦の1945年まで日本統治下にあった。列強に追いつきたい、対抗意識が強かった明治政府は、台湾のインフラ整備、教育普及、治安維持に力を注いだ。同時に日本語教育を徹底、この間に教育を受けた世代は「日本語世代」と呼ばれる。太平洋戦争中は徴用、志願兵、そして末期には徴兵も行われた。未開な時代から文明化が始まる段階で日本統治が始まり、近代化が進められ、旧来の悪習と非効率な生活習慣を断ち切り、日本による教育で文明と近代的生活を学んだ世代が日本語世代である。日清戦争後の日本統治では人種差別もあり、日本人との軋轢も多かったが、日本語世代の台湾人の中には、この時代を懐かしむ人が多い。その後の大陸との関係悪化、国民軍による台湾人抑圧の経験のほうがより深い傷を受けたと感じる人がい多いためである。
日本敗戦を受けて連合軍からの委託を受けた蒋介石が中華民国国民軍を進駐、台湾統治を始めた。中華民国の成立は1911年の辛亥革命後で、1945年以降の国共内戦を経て、1949年の中華人民共和国成立と同時に国民軍は大陸から台湾に追われ、台北を首都とする中華民国が台湾に移った。1951年のサンフランシスコ講和条約後に締結された日華平和条約では日本が台湾に対するすべての権利を放棄したが、帰属先は明記されていない。日本の最高裁はこの時点で台湾人の日本国籍は失われたと判断している。中華民国は1971年までは国連に於いても5つの安全保障理事国の一つだったが、1972年にアメリカが中華人民共和国を承認、日本も中華民国とは国交を絶ち、以降日本では台湾と呼び、国家とは認めない立場。
1950年には蒋介石が総統となり、戒厳令を施行、旧来からの台湾人(本省人)を狙い撃ちにした白色テロと呼ばれる激しい弾圧が続いた。特に、日本語を話す人はインテリだとみなされ、多くの知識人が狙われ1987年の美麗島事件による民主化まで弾圧は続いたため、本省人と、戦後大陸から来た中国人(外省人)との間には深い溝ができた。台湾には古くからそこに暮らす原住民たちが16部族おり、現在でも54万人、全人口の2.3%存在するという。本省人、外省人、原住民、そして大陸の中国人との間には大きな心理的壁が存在する。1988年、李登輝が総統に選ばれ民主化を進めた。1996年以降、総統は民主的選挙で選ばれ、2000年には民進党の陳水扁が総統となる。しかし大陸との一体化を目指す国民党も2008年の選挙で勝利、馬英九総統が誕生、その後2016年以降は独立派の民進党蔡英文が総統を務める。
日本統治時代、初等教育は主に日本人が通う小学校、漢民族系の台湾人のための公学校、台湾原住民のための蕃童教育所があった。台湾原住民は特に蕃人と呼ばれ、特に差別された。中学校では文語体、和歌など小学校でしか教えていない内容が入試であるため、公学校とは別に勉強できる環境がある台湾人のみが中学生になれた。それでも日本人教師の中には優秀な台湾人の生徒に無償で補習をする人がいて尊敬された。終戦後、台湾が日本から開放された(光復と呼ぶ)後は中国人教師が赴任してきたが、補習を頼むと必ず金銭を要求したので、日本人との違いが際立った。
日本人の子供とは一緒には遊ばなかった。日本人と台湾人の先生とは給与が5割ほど違っていた。卒業後は給金が多い軍属になる台湾人の子供が多かった。日本人への反抗心はあったが、光復後の国民軍の酷さで、日本人のほうが余程良かったと思った人が多い。「うるさい犬の後には貪欲な豚どもが来た」という大人がいた。戦争中、自分は日本人だと信じて軍隊にも行った人が多いが、軍隊では差別があった。1930年には霧社で、台湾原住民による日本人134人殺害事件が起きた。日本統治下での原住民の住まい付近の山林開発、原住民に対する日常的な差別や警察官による強制労働などが原因。その他の地方では霧社におけるような悪い統治は行われていなかったというが、日本統治時代に深い禍根を残した。本書内容は以上。
インタビューの内容から感じることはは、日本への反抗心はあったが、恨んではいないという人が多いということ。しかし「ご苦労さん、大変な時代だったね、戦後は見捨てることになって御免なさい」と一言謝ってもらえばそれで気が済む、という人も多い。国家としての賠償や大陸中国との関係、貿易、ビジネス、関わってきた個人としての思い、生声にはさまざまな歴史や戦後の環境が交差している。知らない、認識不足だったでは済まされないと感じる。