本書のジャンルはファンタジー小説と考えたい。記憶が確かなものなのか、自分の妄想や嫌な記憶を書き換えてしまったものなのかが不確かになる、というエピソードは誰にもあると思うが、本書の主人公、小説家の姫野の場合にはそれが大掛かりになっていて、本人さえも何が事実だったのかが分からなくなっている。それだけではなくて、姫野は自分の体の一部や自分に関わったズボンや家でさえもプラスチックのように透明な樹脂のようなものに置き換わり、体の場合には一定時間経過とともにもとに戻る、という荒唐無稽なもの。馬鹿らしい、と思いながらも読み進んでしまい止まらないのは書き手の筆の力だと思う。
姫野は流行作家として功成り名を遂げた存在として世間からも知られているが、9年前に最愛の妻であった小雪を失った。大切な存在でお互い愛し合っていたはずだが、死んだときの状況をよく思い出せない。飼っていた猫のルミンも4年前に死んでしまい、一人でいくつもの仕事場としての部屋を借りて執筆活動を続けていて結構多忙である。付き合いがあるのは編集担当者や出版関係の人間、できるだけ付き合いは広げないし、作家につきもののサイン会などもお断りしているが、一部の講演会は引き受けることもあった。
ルミンが死んだ頃から体の一部がプラスチック化するようになり、人には言えず病院にもいけないので一人でその理由を考えるが、そんな荒唐無稽な話は自分でも理解できない。数少ない知り合いの女性藤谷の子供のお守りを引き受ける。その子供は5歳の女の子だがこまっしゃくれていて、姫野は面白がっていた。その子にプラスチック化した体の一部を見せて、それが自分の妄想ではないことを確かめたりする。作家になる前に勤めていた出版社時代に担当していた作家の海老沢との思い出も、自分はいじめられたと考えていたが、同僚は大変仲が良くて可愛がってもらっていたという。記憶が少しずつずれているような気がするのだ。
神戸の講演会で話を聞いたファンという若い女性響子と知り合い、自分の悩みも打ち明けるようになる。響子は姫野の作品は全て読んでいて、姫野の記憶のズレは、死んだという姫野の妻、小雪との関係にあるのではないかと一緒に悩んでくれたりもする。ある日、ふと思いついて、自分があるものを公園に埋めたことを思い出し、掘り返してみると、そこには介護施設のマネージャー女性の名刺、そしてルミンの首輪が入っていた。響子はそれが姫野の記憶につながりがあるはずと推測し、一緒にその女性マネージャーのいる成城学園にある施設を訪れると、そこには姫野の母がいたが、その顔は、姫野の記憶では小雪の母の顔だった。姫野は混乱する。ルミンの首輪を売っている店を調べると、それはTORARINGという名前、川添という女性が店を経営していて、川添は姫野の高校時代の親友で行方不明になっていたのでは、と思い当たる。
この記憶のズレを解明するには、長く帰っていなかった福岡の和白にある実家を見に行くしかないと考えた姫野は、実家が更地になっているのを知る。高校時代の美術部の同級生や後輩たちと楽しいミニ同窓会をして昔話に花が咲くが、これも少しずつ自分の記憶とは違う。
成城学園には自宅があり、そこに小雪と住んでいたのではないかと考えた姫野は長く住んでいなかった自宅を見つける。中に入ると内部はプラスチック化していた。だんだん記憶が蘇り、小雪は死んだのではなく、自分の前から姿を消したこと、子供が宿って2ヶ月になる頃小雪と別れたこと、その後、小雪の不存在に耐えきれなくなり、記憶がなくなったことを思い出していく。そして気になっていた海老沢の小説「呪術の密林」を読んでみると、その内容は自分姫野の歴史が実名で書かれたものであり、自分が記憶していた記憶と一致するものだった。一体自分の人生は何だったのか。
荒唐無稽なこのストーリーであるが、不思議と読んでいてページをめくる手は止まらない。主人公は有名作家であり、妻はいないが生活に不自由はないので、読んでいてイライラしたり心配になることはない。それでいて、後半は姫野の記憶と実際とのズレを解明していくので、ちょっとしたサスペンスにもなっていて、ドキドキもする。作者は2010年直木賞受賞者、ちょっと面白い作家に出会った気がする。